他人の絆
＜2＞
身体に付着したあらゆるぬめりを拭い、服装を整えて再びこたつへイン。もちろん隣同士で腰と腰をぴったり密着させた恋人モードだが、二人を包むのは先刻の危うい艶を帯びた熱ではなく、ほんわかほのぼのした温もりだった。
「ああ〜、バレンタイン連休、楽しみだなぁ。一日中こたつん中で喬兄といちゃついてられる」
その浮かれた口調から、貴重な連休をずっとこたつの中で過ごすことに心底喜びを感じていることは分かるのだが、やはり喬允は確認せずにはいられなかった。
「なあ、本当にいいのか？ せめて温泉とか……」
今年のバレンタインデーは月曜日。しかし重要なのはそこではなくて、バレンタイン直前が三連休ということだ。
建国記念日を含めた金、土、日をバレンタイン連休と世間が呼んでいるのか分からないが、ともかく二人の間ではそういう位置付けだった。
ハート形のチョコレートにも負けないくらい甘くて有意義な連休にしようと、去年のうちから高級温泉宿やリゾートホテルの資料を取り寄せてプランを練っていたのだが、その練っていた場所が悪かったのかもしれない。
こたつに入ってワインやら焼酎やらを舐めつつ、この宿の部屋付き露天は風情があるだとか、このワイナリーに寄ってみたいとか、ここのB級グルメは制覇したいだとか話しているうちにすっかり満足してしまい、結果、どこにも行かないでこたつの中でイチャイチャしてるのが一番楽しくて有意義で、バレンタインに相応しい甘い過ごし方ではないか、という結論に及んでしまったのだ。
喬允に異議はなかったけれど、『釣った魚に餌はやらない』という畏れ多い言葉が頭をよぎり、本当にそれでいいのかと何度も念押しした。せっかくの休みなんだから、たまには日常を離れてはしゃぎたいんじゃないのか、と。
それに対する奏の答えを聞いた喬允は、咄嗟に負けた、と思った。釣った魚云々などと愚にもつかぬ考えに囚われていた自分。奏の迷いのない豊かな愛情を受けるには、あまりに底が浅すぎる。
『喬兄の食べるものを作って、着たものを洗って、帰りを待つ。そして同じ空間で食事をして同じ空間で寛いで、同じ空間で眠る。その全てが俺にとってどれだけ奇跡的なことか、喬兄には分からないだろうな。日常を何のドラマもない在り来たりな毎日と定義するなら、今のこの日々こそ、俺には非日常そのものなんだよ』
だから何かを求めてわざわざ外に出る必要はないんだ、そう言って幸せそうに微笑む奏は、思い出すだけで喉の奥がざわつくほど美しくて、奏と出会ってから収納量が格段に増えた記憶の宝箱の最上部でいつも輝いていた。
そんな奏の想いはもちろん十分理解していたけれど、自分みたいな面白味のない人間とダラダラ過ごして本当にいいのだろうか、とこの期に及んでマイナス思考を引きずってしまうのも、喬允らしいと言えた。
こわごわ念押しする喬允を、奏はしょうがないなあと言わんばかりに見上げて、
「ほんとに、何度言ったら信じてくれるんだか、この人は。いい？ もう一回言うよ。俺は今、死ぬほど幸せなんだ。温泉とかリゾートホテルは、普段せわなしくてつまんない日常を送ってる奴らが逃避する場所だ。少なくとも、俺には必要ない。まあ、喬兄がこの日常から抜け出したいって考えてるなら話は別だけど」
「そっ、そんなこと考えてない！」
「じゃあ、幸せ？」
畳み掛けるように問う奏に、喬允はひと呼吸置いてからゆったりと頷いた。勢いで答えてると思われないように。
「ああ、幸せだよ」
口にしてから喬允は、『しあわせ』という言葉の響きにくすぐったいものを感じた。『幸福』や『豊か』にはない舌足らずな甘さが、媚薬めいて鼓膜をじんわり痺れさすのだ。
奏は「よかった」と言って微笑んで、喬允の肩にちょんと頭を預けた。それを手のひらで撫でながら、
「旅行はともかく、バレンタインのプレゼントは何がいい？」
「んん〜、いらない。こたつ買ってもらったし」
「こたつは二人のものだろう？ そうじゃなくて―――」
「バレンタイン連休とか浮かれといて言うのもナンだけどさ、ああいうのって若い女の子がキャピキャピはしゃぐものだろ？ いいとこ高校生までだよな。いい大人が義理だの本命だの喚いて売り場に殺到する姿って、なんか見てて浅ましい」
ばっさり切り捨てる奏に、喬允は苦笑いしか返せない。会社の女の子らが聞いたら一斉に反論を仕掛けてくるだろうなと思いつつ、「まあお祭りだから」と穏当な答えを返した。祭りには便乗が付きものだろ？ と。奏は「まあね」と応じ、
「とにかく俺は、こうしてべったりしてられればもう十分だから。休日出勤、なんてことにならないよう祈ってるよ」
「縁起でもないこと言うな」
喬允は思わず顔をしかめた。絶対にないとは言いきれないからだ。万が一そんな気配を見せられたら全力で抵抗してやる、と密かに鼻息を荒くしたのだが、ある意味休日出勤より対処の難しい方面から甘いバレンタイン連休を阻まれる事態になろうとは、この時は知る由もなかった。
その電話がかかってきたのは、連休の前日。ちょうど訪問先の病院を出て、車に乗り込もうとしたところだった。
着信画面に表示された番号と名前を見て、思わず口許を綻ばせる。そろそろかかってくる頃ではないかなと思っていたのだ。
「もしもし。パパだよ」
定期的にかかってくる、娘の宙美からの電話。幼稚園で流行っている歌やダンス、好きなお菓子、仲のいい萌絵ちゃんのことなどを話す天真爛漫な声は、喬允の中にわずかながら残っている父性を思い出させてくれた。しかし、
『宙美じゃなくてごめんなさいねぇ、パパ』
喬允は携帯を耳に押し当てたまま固まり、ややあってようやくかすれた声で応じた。
「由紀恵……か？」
『ええ、久しぶり。そんなに驚くことないでしょ？』
「あ、ああ……いや……」
確かに、宙美の誕生日にはプレゼントを贈ったし、頻繁に連絡を取り合っているのだから、由紀恵に知られても不思議ではなかった。
しかし喬允は漠然とながら、自分たちが連絡し合っていることをもし由紀恵が知ったら、黙殺するか或いは二度と電話をするなと宙美を言い含めるか、どちらかだと思っていた。
プライドの高い彼女のことだから、自分の頭越しに結ばれた絆に対し何とも思っていない振りをするかいっそ断ち切るかで、こうして割り込んでくるような真似はしないだろうと。
「君が直接電話してくるなんて、思ってもいなかった」
『まあね。あなたが宙美とこそこそ連絡を取り合ってたのは疾うに知ってたけど』
「こそこそしてたわけじゃない。それに、宙美は俺の娘でもある。面会が禁止されてるわけでもない。連絡して何がいけないんだ」
つい声が険しくなってしまう。しかし由紀恵は『頼みがあるんだけど』といきなり話を変える。分が悪くなるとそれまでの会話を勝手に断ち切るのは、昔からだった。
逆に、相手が劣勢にあると分かると徹底的に叩きのめす。彼女との口論で喬允は一度も勝ったことがなかったが、それはある意味当然だった。
『宙美を預ってほしいの。そんな長い期間じゃないわ。三日程度』
「宙美を？」
『ええ。今付き合ってる彼と旅行に行くんだけど、予約してくれたホテルが小学生未満の子供がダメなところで』
相手の女性に幼い子供がいることを知っていて、そんなホテルを選ぶ男はどうなんだと喉元まで出かかったが、呑み込んだ。どうせ『あなたには関係ない』とはね返されるのがオチだろうから。
「俺は構わないが……」
彼女は宙美の中から『父親・三島喬允』の存在を消し去って、自分だけの子供にしたいはずだ。だから離婚後は完全に連絡を断って、居場所を隠すような真似をしたのではないか。なのにこの豹変ぶりはどういうことだろう。
『よかった。それじゃあ明日、そっちまで連れてくから』
由紀恵の浮かれた声に、喬允の思考は切断された。
「あ、明日？！ ちょっと待て、それって今度の三連休のことか？」
『ええ、そうよ。日曜の夜には迎えに行くから』
「それは急すぎる。悪いが今回は実家に頼んでくれ」
『だから！ それができるなら最初からそうしてるって。パパとママは今週いっぱいモルジブなのっ。萌絵ちゃんちも家族旅行だし、颯太くんの家も―――』
ようやく合点がいった。当てにしていたところ全部に振られて焦った挙げ句、仕方なく喬允に頼むことにしたのだろう。
『何？ 都合悪いの？ どっか行くの？』
「い、いや、そういうわけじゃないが……」
正直に答えてしまってから、はっとする。電話の向こうで、由紀恵が馬鹿にしたように鼻を鳴らすのが分かったからだ。
『やっぱりね。あなたって昔から、休みの日はどこも行かず家でゴロゴロするばかりだったものね』
確かに休日は家にいることも多かったが、自分の記憶が確かならゴロゴロしていたことは一度もない。
臨床データとにらめっこしつつ資料を作成していたのだが、彼女の目には休日に家にいる、イコール無趣味でだらしない亭主、としか映らなかったのだろう。或いは、喬允の行動自体に興味も関心もなかったか。もちろん、今さら反論するつもりもないが。
『だったらたまには宙美の相手してやってよ。それにね、宙美もすっかりパパのところへ行くつもりで、バレンタインのチョコレートを作るんだって張り切っているのよ』
「バレンタイン……」
『そう。あなた去年、宙美にケーキ屋さんセット、みたいなのあげたでしょ？ あれのお陰ですっかりお菓子作りにハマっちゃって』
言外に余計なもの贈ってと非難してくる元妻に、喬允は溜め息しか返せなかった。彼女の言葉に対してではない。これはもう、宙美を預るより他ないと思ったからだ。
パパのためにチョコを作ると言ってくれている娘を突き放せるほど、“オス”に徹することはできなかった。
―――奏、ごめん……
喬允は胸の奥で謝罪を繰り返しながら、自宅の場所をファックスで送る約束を由紀恵と交わして、電話を切った。
「―――というわけなんだ。ごめん、本当にごめん」
「あ、う、うん……」
「この埋め合わせは必ずするから」
何度も頭を下げる喬允に奏は面喰らった様子で、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、
「喬兄、そんなに謝んなくていいから」
今度は喬允が戸惑う番だった。せっかくの休みなのにと憤慨するか、楽しみにしてたのにと哀しむか、ともかく何を言われてもどんな感情をぶつけられても、こちらが悪いのだからひたすら謝り続けようとの悲壮な意気込みで帰宅したというのに。
何とも淡白な反応を返されて、喬允は複雑な思いに囚われた。もしかして、自分が考えていたほど奏は連休を楽しみにしていたわけではないのかもしれない。
「い、や、だって……その……」
『なんでだよっ、二人きりでこたつでいちゃいちゃして過ごすって約束したじゃないか！』―――そんな反応を怖れると同時に密かに期待していた自分に気付かされ、喬允は身の置きどころもないほどの気まずさを覚えた。
「お前……楽しみにしてたみたいだったから……」
そう指摘する声も、自然と小さくなってしまう。すると奏はうっすら目を細めて微笑み、
「そりゃあ、楽しみにしてたよ。でも仕方ないだろ？ 相手が宙美ちゃんじゃ、敵わないよ」
そう言って俯くと、微笑に淋しげな陰翳が重なった。一瞬、奏の存在がふっと遠のいたように感じられて、喬允の心は不安にざわついた。
「奏っ……」
咄嗟に手を伸ばしてその肩を掴むと、奏は驚いて顔を上げた。お前が遠くへ行ってしまいそうだったから、とはさすがに言えず、喬允は「ごめん」と謝って素早く手を離した。
形容しがたい淀んだ空気が、二人の周囲でどろりと対流しているような気がして、喬允はさっさとこの話題を打ち切ろうとした。
「そういうわけだから、ともかく頼むよ」
不自然なほど明晰な声でそう言うと、奏は分かったよと頷いて、
「早速、泊めてもらえるとこ探すよ。でも今日の明日だからなあ。最悪ビジネスホテルでも……」
「は？ 何を言ってんだお前」
「何、って。宙美ちゃんが来るのに、俺がいたらまずいだろ。だから誰かんとこに泊めてもらうよ」
奏の行き過ぎた遠慮に対する驚きより、『誰かのところに泊めてもらう』という言葉への嫌悪の方が勝った。喬允は尖った声で、
「何でそういう話になるんだ。お前がいたって全然構わないだろ。もちろん、その、恋人だとは紹介できないが、友人でも後輩でも、何とでも……」
「よほど注意しないとバレると思うよ。女の直観力を侮っちゃいけない」
さらりととんでもないことを言い出す奏に、
「お、女って！ 宙美はまだ四つだぞっ」
「男は成長の過程で男に“なる”けど、女は生まれた時から“女”だよ。宙美ちゃんだって例外じゃない」
「バッ、バカなこと言うな！！」
自分でもちょっと感情的だと思わざるを得ない剣幕で叫ぶと、奏はくすりと微笑って、
「喬兄も父親なんだねえ」
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