花火の如く
＜3＞
夏草の間を流れる風はほのかに甘く、柔らかで、静かに抱き合う二人の恋人を祝福するように包み込んだ。
奏はさらに身体をすり寄せると、喬允の胸元に顔を近づけた。火照った素肌からたちのぼる熱気とかすかな汗の匂いに劣情をそそられ、奏はたまらず唇を押し当てようとした。その時、夜空に爆音が轟いた。
「うわっ」
気の抜けた悲鳴とともにびくっと飛び上がる奏を、喬允は笑いながら宥め、
「ああ、打ち上げが始まったみたいだな」
その言葉通り、黒い木々の彼方に極彩色の華が繚乱と咲いた。二人は暫し無言で見上げていたが、やがて喬允が済まなそうに声を低め、
「ごめんな。せっかく来たのに、もっと会場の近くで見たかっただろ？」
奏ははんなりと口許を緩めて、視線を花火から喬允に移した。
「ん……ここでいい。ていうか、今さらこんなこと言うのも何だけど、俺……あんまり花火好きじゃないんだ」
「え？ そう、なのか？」
「うん。喬兄と一緒に無邪気に楽しんでた頃は好きだったけど、大人になってからは、なんだか自分の人生を見てるみたいでさ。一見派手で華々しくて、闇を明るく照らすけれど、それも束の間。結局は、網膜に刻まれた虚しい残像以外何も残らないんだ。何も」
苦しげに歪んだ喬允の顔を見つめながら、奏は自嘲とともに言葉を続ける。
「ずいぶん感傷的なこと言うなあと思うだろ？ まあ俺だって、いつもいつもそんなこと考えて、悶々と悩んでいるわけじゃない。でもこうして刹那的なものを見ていると、どうしても自身と重ね合わせてしまう。何も残せず何も生み出せず、滅えていくだけの自分と」
奏は喬允からゆっくりと視線を外したが、夜空を見上げることができなかった。自身の映し絵としての花火を見ることができなかった。
「そんなの自業自得。俺はこういう生き方しかできないんだから仕方ない。独りの時はそう思えたけど、今はそこまで割り切ることはできないな。
さっき……迷子の女の子と三人で歩いてて思ったんだ。道行く人たちには若い夫婦とその子供に見えるだろうけど、実際は違う。俺はどんなに頑張っても、こういう普通の家族や普通の幸せを喬兄にあげることはできない……」
鼓膜を震わす打ち上げ音が、二人の間に停滞する沈黙を埋め尽くす。天を彩る徒花が、滅えては咲き、咲いては滅える。
「……お前、そんなこと考えてたのか」
「うん……」
「ほんとに馬鹿だな。さっきのことといい、俺に迷惑かけるとか幸せをあげられないとか。全部一方通行じゃないか。だいたいな、幸せなんてもらうものじゃないぞ。一緒に築いてゆくものだ。その相手としてお前は俺を選び、俺はお前を選んだ。違うか？」
奏は潤んだ瞳で一途に喬允を見つめつつ、「違わない…」とかすれた声で漸う答えた。
「だったら、そんな後ろ向きなことはもう考えるな。幸せのかたちは人それぞれだ。俺たちには俺たちの幸せがある。他人と比べて勝ってるとか劣ってるとか、普通じゃないとか言うのはおかしいだろ？」
「喬兄は今……幸せ？」
こわごわ問いかける奏に、喬允は絢爛と夜空を飾る天の華も色褪せるほどの美しい笑顔を見せて、
「ああ、幸せだ。変な言い方だけど、お前と一緒になって初めて、自分の人生を生きているという実感を得ることができた、そんな気がする。ありがとう」
「喬兄……」
迷いのない真直ぐな喬允の言葉は、奏にとってはこれまで少なからず脅威だった。ずっと光に背を向けて濁った闇の世界に棲んでいた者には、眩しすぎて直視できない。しかしようやく、少しずつだが受け入れることができるようになってきた。
奏も笑みを返し、「俺も幸せだよ」と照れつつもはっきり告げた。すると喬允は夜空を指差して、
「それにな、奏。花火は滅えるんじゃない。見た人の心に吸い込まれていくんだ」
「心に……」
「そう。そして各々の心の中で永遠なものになる。刹那と永遠は背中合わせだ。だから決して虚しくなんかない。ほら、」
喬允に促され、奏はそろそろと夜空見上げた。ドン、とひと際重厚な打ち上げ音が鳴り、金色の尾を引いて天頂を目指す。そして一秒にも満たぬ静寂ののち、空いっぱいに金の帳が広がるかのように菊華が咲いた。
「すご…い……」
満開の盛りを謳歌するかのごとく花弁が瞬き、やがてゆっくりと形が崩れ、金色の粒子となって闇に融け込むように滅えてゆく。しかし、奏の胸奥に灼き付いた光の華が滅えることはなかった。奏は喬允の言葉の正しさを実感した。
「喬兄、俺……花火好きになったかも」
「そうか。それなら来年もまた一緒に来よう。今度は打ち上げ会場近くで見られるよう、早めに場所取りでもして―――」
「ううん。ここでいい。ここの方が……二人きりになれるし」
恥ずかしさもあって、喬允の衿元に両手を置いて俯いたままぽつりと本音を告げる奏。二人の周囲を流れる風の匂いが、ほんの少し変わったような気がした。
喬允は片手を奏の腰に回し、もう片方の手は顎に添えて上を向かせた。そして誘うように甘えるように柔らかく綻んだ唇を、上から優しく塞ぐ。
すると、これまで感じたことのない、外国のキャンディのような甘い香気がふと喬允の鼻孔をかすめた。奏の唇を彩る口紅に含まれた香料だと気付くのに、時間はかからなかった。
「ちょっと……不思議な感じがするな。化粧してるお前とキスするのは」
唇を離した喬允はそう言って、照れくさそうに微笑う。すると奏もくすっと笑って、
「喬兄、唇が赤い」
「は？ 何だ？」
「今のキスで、口紅が付いちゃったみたいだね。喬兄、可愛い」
火がついたように赤くなって、慌てて手の甲で拭おうとする喬允を、奏はそっと制した。
「だめだめ。そんなことしたら、余計に広がっちゃうよ。はい、じっとしてて」
そして喬允の首に両腕を巻き付けてぴったり密着し、顔を近付けると、舌先を唇に這わせて薔薇色の名残りを丁寧に舐め取った。
「…………っ、」
奏の柔らかくぬめった舌の蠢きや温かい吐息の感触に、喬允は全身が痺れるような心地よさを感じつつ、直立不動のままそのささやかにして淫らな奉仕を受けた。やがて、
「はい、取れたよ。うん、さっきの紅い唇も可愛かったけど、やっぱこっちの方が格好よくていいな」
奏は自分で自分の言葉に頷いてふわりと笑った。喬允はその腰に腕を回し、
「奏……どうしてくれるんだよ」
そう言ってさらに抱き寄せ、腰と腰を密着させて、先刻と全く異なる輪郭を見せる股間を押し付けた。
「これ、どうしてくれるんだよ」
奏はその部分に浴衣の上から手のひらを這わせ、
「勃っちゃった？」
「見ての通りだ」
「喬兄、若いね」
「うるさい、他人事みたいに言うな。だいたいな、お前があ、あんなことするから―――」
言葉の途中にもかかわらず、奏は喬允の腕を引いて歩き出した。
「おい、どこ行くんだよ」
「ソレ、そのままじゃ帰れないだろ？ 俺のせいなんだから、責任とるよ」
「責任とるって……」
戸惑う喬允には構わず、奏は公園の奥へ進んでゆく。やがて、小さな建物らしきシルエットが見えてきた。どうやらトイレのようだったが……
「か、奏っ、そっちは女子トイレっ……」
「女子トイレの方が個室が多くて綺麗だから。大丈夫。この時間だから誰もいないさ」
奏の言う通り、内部に人の気配はない。そして施設自体が新しいらしく、とても綺麗で清潔だった。
奏は一番奥の個室に喬允を連れ込み、しっかり鍵を掛ける。そしてまだ混乱している喬允の身体を壁に押し付けて、浴衣の前合わせを左右にめくった。
「ほんとだ。こんなに勃ってる。これじゃ、帰るまで我慢するのはつらいね」
奏は誰にともなく呟くとその場にしゃがみ込み、浴衣の裂け目からにょきっとそそり立つ喬允の分身に唇を押し当てた。
「ぅ……く…っ………」
『やめろ』と言うつもりが、実際に口から出てきたのは欲情にくぐもった呻き声だった。それほどに、しっとりと滑らかな奏の唇がもたらす快感は鮮烈だった。
奏はまるで、雄々しく天を衝く喬允の輪郭を唇に刻み込むように、何度も何度も口づける。やがてとろりと口を開けると、大きく張り出した尖端をやんわりと含み、熱い精漿を吹き出す小さな孔に舌の先をねじ込んだ。
「ぅぁっ……」
独特の艶を帯びた喬允の淫声にうっとりと耳を傾けながら、奏は亀頭下部の窪みに歯を立てて甘咬みする。すると口内の肉塊がビクビクッと揺れて、絶頂の先触れを告げる生暖かい液体が口の中いっぱいに広がった。
奏はいったん口内のものを引き抜いて溜まった液体を嚥下し、今度は指先で尖端を愛撫しつつ舌を竿に這わせる。原始的な文様のようにむきむきと浮き上がった血管を舌でなぞり、ふんわり突き出した唇を押し当ててちゅっちゅっと吸う。そのたびに先触れ液がどっと溢れて竿を伝い、甘露のごとく奏の唇を潤した。
すでに抵抗の意志を放棄していた喬允は、息を荒らげつつ視線を下方へ滑らせた。そして、呆れるほどの勢いで勃起した己の性器にうっとりと口づける奏を凝視する。
やがて奏は嫋やかな指を根元に巻き付けて扱きつつ、紅く濡れた舌を伸ばしてぬるぬるとこすり付けた。
その時、喬允の熱い視線を感じたのか奏がふと目を上げた。二人の眼差しが一瞬重なる。奏のことだから、挑発するように見返してくるに違いないと思いきや、恥ずかしそうに目を伏せてしまった。ただ長い睫毛が、官能的なふるえを見せる。
この意外性、娼婦の行為と処女の仕草の目眩く落差を平然と受け流せる男がいるだろうか。喬允はごくりと生々しい音を響かせて喉を鳴らし、陥落の時が近いことを悟った。
「かな…で……だめだ、出るっ……」
切羽詰まった申告に、奏は睫毛を伏せたままこくんと頷きを返した。そして喬允の予想に反して、暴発寸前の男柱をくわえ込んだ。先刻より深く。明確な目的をもって。
「かっ、奏っ……やめろ、口を……離せっ……」
喬允は激しい狼狽を見せながらも、決定的な拒絶の態度をとることができない。奏の熱くぬめる粘膜と舌による愛撫がもたらす快感は凄まじく、すでに四肢は意志の統制から外れていた。
それでも、口だけは未練がましく制止の命令を繰り返す。しかし喬允は自覚していた。本当にやめてほしいわけではなく、口淫で快楽を感じていることの後ろめたさを薄めるための方便であると同時に、背徳感を高める媚薬的な効果もあるということを。そして奏も、それを分かっているということを。
奏は舌のざらざらした表面を竿にこすり付けながら、少しずつ奥へ誘導してゆく。そして喉の入口に尖端が触れるほど深くくわえると、きゅぅっと口腔全体をすぼめた。
「く…ぁっ……」
その瞬間、股間に凝結した熱が一気に弾け、欲望の奔流となって溢れ出た。喬允は低く呻きつつ、奏の口内に射精する。
「んっ、ふ……」
奏は鼻で息をしながら、次から次へと注がれる淫水を飲み下す。激しく上下する喉の蠢きが、その量と勢いを示していた。
圧迫感からくる生理的な苦しさは避けられないのか、その顔は悩ましげに歪んでいたが、それが喬允の男としての、支配する性としての征服欲を満たした。
やがて長い吐精を終えた喬允は、大きく息をついて胸奥に溜まった熱を吐き出すと、分かり切ったことをおそるおそる訊ねた。
「全部……飲んだのか？」
奏はゆるりと顔を上げ、微笑みとともに頷く。その顔は、どこか誇らしげだった。射精直後で、おまけに初めて口内射精をした喬允の頭の中は真っ白で、どんな反応をしてよいか分からない。混乱した挙げ句、
「……腹、壊しても知らないぞ」
後になって喬允は、なんであんな間抜けなことを言ってしまったのかと後悔したが、ともかくこの時はこれ以外の言葉が見つからなかった。奏はゆっくり立ち上がってくすっと笑い、
「大丈夫。好きな人のはちゃんと栄養になるって、ナントカ大学のナントカ博士が言ってた」
「嘘言うな」
「ほんとだって」
奏は楽しげに言い返すと、喬允にふわりと抱き着いた。そして唇に付着した白い残滓をちろと舐め取り、
「喬兄の美味しかった。これはほんとだよ」
「これは、って、やっぱりさっきのナントカ博士は嘘じゃないか」
「あ、ばれちゃった」
奏は肩を震わせてくすくす笑うと、ちょっと背伸びして喬允の耳元に口を寄せ、
「ね、喬兄。これからどうする？ もっと花火見る？ それとも……」
濁した語末に滲む淫らな含みに、喬允の理性は呆気なく陥落した。
「花火はもういい。別の花が見たい。例えばお前の……とか」
「見るだけじゃないだろ？ いつもめちゃくちゃに咲かすくせに」
そう言って妖艶に笑む奏に、喬允は今宵幾度目かの白旗を挙げた。
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