─KAREN ENJOU─

七、教花の章

「初心者のための生け花教室、ですか？　僕が？！」

絢は驚きを隠せぬ様子で、頭のてっぺんから声を出した。柊二は苦笑を浮かべ、

「ああ。もともと俺が講師を務めるはずだった教室だが、正直日程的に厳しくてな。無理をすればできんこともないが、そんなギリギリの状態で教えるのは、相手がいくら初心者とはいえ礼を失する」
「で、でも……僕みたいな経験に乏しい若造が講師なんて、それこそ失礼じゃ……」

小声でぼそぼそと反論する絢の顔には、自信のなさや不安が如実に表れていた。柊二はそれを笑い飛ばし、

「難しい技術や、華道とは何かなんて哲学を教えるわけではない。花に触れ花を生けることの楽しさを伝えるための教室だ」
「生けることの楽しさ……」
「そう。あまり構えず、一緒に楽しみましょう、くらいのスタンスで臨んだ方がきっとうまくいく。教える本人が楽しんでいないのに、楽しさが伝わるはずないからな」

柊二の言葉に、絢ははっと息を呑んだ。おそらく、絢も自分で分かっているのだろう。ここ最近、稽古に傾注するあまり、花を愛で花を慈しみ、生け花そのものを楽しむ心の余裕が失われつつあることを。

「やってみたいです、けど……僕一人ではやっぱり……」
「ああ、心配はいらん。幹がいる。アシスタントとしてサポートしてもらえばいい」

柊二は決定事項としてさらりと返した。が、予想通りというか案の定というか、それまで傍観者然として耳を傾けていた幹は冗談じゃないと噛みついてきた。

「ちょっ、勝手に決めんなよ！　なんで俺まで……」
「人に教えることで、自分が学べることも多い。これも家元修業の重要なプロセスだ」
「相手は初心者だろ。何を学べっていうんだよ」

挑戦的な口調で問う幹に、柊二は正面から向き直り、

「例えば、交差する二本の枝のどちらかを切り落とす場合、自分の作品なら感覚だけで切って差し支えない。しかし他人に教える場合、なぜこちらの枝を切り落としたのかを、言葉で伝える必要がある。なんとなくこっち、では、たとえ相手が初心者でも納得してもらえないだろう。いや初心者だからこそ、分かりやすく噛み砕いて説明する必要がある」

粛々と諭した。すると幹はふいとそっぽを向いて柊二にだけ聞こえる小声で、

「なんだよ、絢には難しく考えず楽しめ、って言ったくせに」

思わず言葉に詰まる柊二。対して幹は、してやったりと言わんばかりの含蓄に富んだ流し目をくれ、

「結局、あんたも絢には甘いんだよな」

揶揄めかした口調で指摘する。柊二はこめかみにうっすら血管が浮かぶのを意識しつつ、低い声で最後通告を発動した。

「師匠命令だ」

これには幹も逆らえず、「分かったよっ」と半ばやけっぱちで受諾したのだった。

───『初心者のための生け花教室』講師・紫月絢先生


この貼り紙を目にした瞬間、絢の胃はキリキリッと悲鳴を上げた。この胃痛は今に始まったことではなく、もう数日前から慢性的に続いているいわば馴染みの痛さだった。

「か、幹……やっぱり僕には講師なんてムリ……」

絢は悲愴な声で訴えて、傍らに立つ幹に手を伸ばしてシャツの裾をきゅっと掴んだ。

「ああ？　今さら何言ってんだ」
「でも……」

幹はふうっと溜め息をついて、

「狩野師範も、構えずに生け花を楽しむ感覚でやればいいって言ってただろ。大丈夫だよ。万が一、うるさいこと言ってくる生徒がいたら、俺が何とかするから」

絢は掴んでいたシャツを離し、幹に正面から向かい合った。そして、

「幹、ありがとう。頼りにしてる。僕も頑張るよ」

すると、幹の端整な顔がすぅっと色づいた。と思ったらくるっと背中を向けて、

「ほら、行くぞ。初日から遅刻するわけにはいかないだろ」
「うん！」

幹の力強い言葉を支えに、絢は一歩踏み出した。教室の扉を開けて、中に入る。幹はアシスタントのため、後方の扉からそっと入室した。

生徒数は二十人。募集を開始してから二日で、定員に達したらしい。絢はぺこりと頭を下げ、

「初めまして。講師を務めさせていただきます、紫月絢です。よろしくお願いします」

あら、こんな若い人が講師？　ちゃんと教えられるのかしら───なんて不満の声が上がるのではないかと、絢の心臓は口から飛び出そうなほどばくばく鳴った。が、

「あらまあ、綺麗な男の子ね～。お人形さんみたい」
「ほんっと。見惚れちゃう。でもちょっと細すぎるわねえ」
「そうそう、最近の子はみんな痩せすぎよぉ。もっとたくさん食べなくちゃ！」
「そうなのよ。だからうちの娘にもよく───」

予想外の展開に、絢は呆然と立ち尽くす。弾雨のごとく降り注ぐ言葉の威力に思わず白旗を上げそうになったが、後方に立つ幹からの視線に力を得て、声を張り上げた。

「あ、あのっ、みなさん！　今日の花材について説明させていただいてもよろしいでしょうか。えと、今日は夏を先取りということで、向日葵を選びましたっ」

ようやく私語が収まってくれた、と思いきや、

「初夏らしく、カキツバタとか生けたかったわ～」
「ああ、いいわねえ。紫と緑のコントラストがきれいよねえ」

幹にちらと目を向けると、これだから初心者は、と言わんばかりに肩をすくめている。絢は一度すーはーと深呼吸してから、

「季節の花に目を向け、こんな花を生けてみたいと考えるのはとても素晴らしいことだと思います。ただ、花によって生けるのが難しいものと、比較的形にしやすいものがあるんです。今仰ったカキツバタは凛とした美しさのある花ですが、生けるのがとても難しい。生け花は、花の命をいただいている以上、自然に咲いている時よりわずかでも美しく見せねばなりません。ですからまずは生けやすいものを楽しく生ける、ここから始めてみませんか？　いかがでしょうか」

笑顔を添えて語りかけるように話す絢に、みな好感を持ってくれたようだ。うんうんと頷いて、耳を傾けてくれた。絢はほっと胸を撫で下ろし、鋏や剣山の使い方など基本を簡単に説明した。そして花材を全員に配る。

「向日葵とスモークグラス、そしてこのピンクのがクルクマです。スモークグラスのように細いものは、他の花材の太い茎に挿して補強してから剣山に挿します。では、とにかく自由に生けてみてください。分からないことがあったら、遠慮せず僕か後ろにいる彼に聞いてください」

絢の言葉でようやく、後方にいる幹の存在に気付いたようだ。みな一斉に振り向き、

「まああ、すごいイケメンねえ」
「ほんと、俳優さんみたい」

ここまで直球な表現で容姿を褒められた経験がないのだろう、幹は珍しくうろたえている。絢は込み上げる笑いの衝動を呑み込んで、積極的に室内を回って声を掛けた。

「剣山の挿し口はなるべく隠すように。ただし、器の縁に葉などが掛かるとだらしなく見えてしまうので気をつけて」
「もう少し、葉っぱを整理してみたらどうでしょうか」

不思議なもので、普段は人見知りして初対面だとうまく話せないのに、花を媒介にすると言葉がするする出てくる。

「先生、できましたー。見てください」
「私もできました。あ、でもなんか倒れそう～」

あちこちから声が掛かり、絢は狭い教室内をぱたぱた走り回った。追いつかない分は、幹がちゃんとフォローしてくれた。ほんとに二人で一人前だなあと絢はしみじみしつつも、この初心者向け教室に手応えを感じ始めていた。

しかし、その中で一人、気になる生徒がいた。

「ええっと、お名前は？」

男性の生徒は三人で、そのうち二人は明らかに高齢だった。残る一人、唯一の若い男性は沓沢と名乗った。繊細な感じの美青年だったが、絢が気になったのはそういった容姿が理由ではない。

「沓沢さん、花をただ剣山に挿すだけではつまらないでしょう？　長さを変えて、動きをつけてみたらどうでしょうか」

沓沢青年は、目の前の花材を手に取って機械的に剣山に挿すだけだった。いや、それなら初心者にありがちな行為かもしれないが、花を生ける彼の無表情が、絢には何よりショックだったのだ。

「……分かりました」

絢のアドバイスに従って、向日葵の茎を短くして生け直す。その手際はなかなかのものだった。

「ああ、とてもいいですね。花に表情が出てきました」

それはお世辞ではなかった。しかし、生けた当の本人は表情を失くしたままだ。もっと楽しんでほしい、表現する喜びを感じてほしい。そんな切実な想いが絢の中でぐるぐる巡っていたが、言葉に出したら押しつけがましいものになってしまうと分かっていたから抑えた。

「おい、絢。あっちで呼んでるぞ」

幹の耳打ちではっと我に返り、絢は力なく頷いて呼ばれた方へ向かった。別の生徒にアドバイスしながら青年の方をちらと窺うと、彼は自分が生けた花の前で身じろぎせず、表情も変えずじっと座ったままだった。

普通、作品を褒められれば嬉しいものだ。絢だって未だに褒められれば舞い上がってしまう。なのに沓沢青年は、わずかな感情の揺らぎも見せずただそこにぽつんと座っている。まるで、喜びという感情そのものが欠落しているかのようだ。

「もう少し高さに差をつけて、重心を下に───」

絢は最後まで、彼のことが頭から離れなかった。






「はああ～、終わったぁ」

生徒たちが帰った教室で、絢はへなへなと座り込んだ。幹は呆れた様子で肩をすくめ、

「まだ初回が終わっただけじゃないか。あと八回あるんだぞ」
「分かってるよ。でもほら、最初が肝心て───」

途中で言葉を呑み込んだのは、入り口から沓沢がそっと顔を覗かせたからだ。絢は慌てて体裁を取り繕い、

「あ、忘れ物ですか？」
「いえ……あの、この生け花教室ですが、今後もずっと紫月先生が講師をなさるのですか？」

予想外の質問に、絢は両目を瞬かせた。が、すぐにしゅんとしおれ、

「は、はい、そうです。あの……僕の教え方、よくなかったですか？」

彼が楽しそうじゃなかったのは、自分に責任があるのかもしれない。いや、きっとそうだ。持ち前のネガティブ思考が久々に頭をもたげ、絢はずぅんと落ち込んでしまった。しかし、

「すみません、そういうつもりで聞いたんじゃないです。気を悪くされたのなら、謝ります」

沓沢は楚々たる仕草で頭を下げ、「では失礼します」と言って帰ろうとした。絢は考えるより先に、その背中に声を掛けていた。

「あのっ、沓沢さん。また次回もいらしてくださいね。僕たち待ってますから！」

青年はぴたりと立ち止まる。そしてわずかな逡巡ののち、小さく頷いて足早に去っていった。

「暗いヤツだな」

幹の容赦ない指摘に、絢は苦笑を返し、

「でも、すごく綺麗なひとだよ」

絢の無邪気な言葉を、幹は否定も肯定もしない。ということは、少なからず肯定しているということだろう。

「また来てくれるかなあ」
「なんだ、すいぶんあいつのこと気にするんだな」
「うん。なんかとっても詰まらなさそうだったから。それとも、初めての生け花で緊張してたのかなあ……」

ぶつぶつと自問を繰り返す絢をちらと横目で見て、幹は低い声で呟いた。

「いや、あいつは生け花初めてじゃない」
「え？　幹、何か言った？」
「……別に」

幹は素っ気なく返し、青年の残像を追うように出口をじっと見つめた。






「先生、ただいま戻りました」

扉越しに声を掛けると、中から「入れ」と命令が届いた。雪人は室内に入り、さらにその奥の書斎へ足を進めた。尭はデスクチェアをゆっくりと回転させて雪人に向かい合うと、「生け花教室は楽しかったか？」と揶揄めかして訊ねた。

雪人はその問いを無視し、淡々と事実を報告する。

「講師は狩野柊二ではありませんでした」

尭の顔つきが変わった。目を細めて視線を尖らせ、

「どういうことだ？」
「申し上げた通りです。講師は狩野柊二ではなく紫月絢。そしてアシスタントは紫月幹が務めておりました」
「紫月絢と幹、だと？」
「はい。この二人はもしや……」
「私の息子だ」

やはり、と雪人は思った。絢の方はともかく、幹は尭によく似ていた。もっとも、容姿が似ているというだけで、尭の個性の大半を占める虚無と頽廃の濁りは感じられなかった。

その代わり幹には、青年らしい清々しい自尊心と生け花に対する敬意があった。どちらも、尭には無縁のものだ。

尭は目つきは険しいまま、口だけ嗤笑の形に歪めて吐き捨てた。

「なるほど、初心者相手の教室なら、家元候補のお坊ちゃんたちが遊び半分でやっても問題ないとうことか。紫月流も堕ちたものだな」

いや、それは違う。絢の方は初心者が気負わず生け花を楽しめるよう、常に気を配っていた。きっと、相当神経をすり減らしただろう。

そして幹は、そんな絢をさりげなくサポートしつつ、生徒からの些細な質問にも全力で応対した。思考し言葉を選択し、初心者にも分かるよう噛み砕いて説明する。

二人とも決して遊び半分ではなかった。甘やかされたお坊ちゃんたちではなかった。けれど、

「……そうですね」

雪人は感情が消えて久しいいつもの声で肯定した。言ったところで尭には通じないと分かっていたからだ。

「そういうことならば仕方がない。別の手を考える」

尭はあっさり言い放って、椅子をくるりと回し雪人に背を向けた。そして、

「無駄足を踏ませたな。そんなくだらん教室にはもう行かなくていい。時間の無駄だ」

分かりました、と答えようとした雪人の脳裏を、また次回もいらしてくださいね、という絢の澄んだ声が駆け抜けた。

「…………」

雪人は返事をせぬまま軽く一礼し、尭の元を辞したのだった。

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