─KAREN ENJOU─
三、奮花の章
もし、自分があの場にいることができたなら。柊二の右腕として、作品制作に携わることができたなら。絢ののぼせた頭はそんな夢の光景を思い描いたが、すぐに厳しい現実に上書きされた。
作品制作とは無縁の場所で、傍観者として眺めているだけの自分。しかも柊二は、絢が“ここ”にいることすら気付いていない。
───柊二さん、僕はここにいます。あなたのすぐ傍にいます。
切実な訴えは声にならず、喉の奥でしぼんで消えた。代わりに溜め息を漏らし、柊二から視線を外した。食い入るようにじっと見つめる自分が、どこか浅ましく思えたからだ。その時、
「あ、あれは……」
制作の場から離れた場所で、小柄な女性スタッフが桜の枝にライトを当てていた。散り際を表現するため、わざと白熱灯を当てて花を開かせる手法がある。ライトを固定したら同じ場所にばかり光が当たってしまうので、人の手で均等に当てる必要があるのだ。
あれなら僕にもできる、そう思った時にはすでに、絢は立ち上がっていた。彼女の元に駆け寄り、
「あの、散り桜を作っているんですよね。僕が代わりにやります！」
「え、えっ？ でも……」
彼女は眼球を左右にきょときょとと動かして、困惑を露わにした。
「生け込みの方も佳境に入っているようですし、人手が足りないのでしょう？ どうぞ、現場のサポートに行ってください」
「……いいんですか？」
おそるおそる窺う彼女に、絢は笑顔を返し、
「いいというより、僕がしたいんです。仕事をさせてください。お願いします」
ようやく本意が伝わったようだ。絢に照明器具を手渡すと、「よろしくお願いします」と頭を下げて制作現場に走っていった。
もちろん、絢だって柊二の手伝いがしたい。彼女が羨ましくないと言えば嘘になる。けれど、何もできずお人形のように座っているよりずっといい。
「…………」
ただ黙々と花に照明を当て続ける地味な仕事だったが、楽な仕事では決してなかった。ライトの重さと熱さは身体にこたえるし、花弁が焼けないよう細心の注意を払わねばならない。
それでも、そんな努力が報われる時は必ず訪れる。七分咲き程度だった花枝が満開を迎え、白い花びらが淡雪のようにひらり、ひらりと舞い始めた。
「ああ、そのくらいでちょうどいいです。ありがとうございます」
絢に照明当てを任せたスタッフは何度もお礼を言って、満開をわずかに超えた枝を揺らさないようそおっと運んでいった。
自分にもできる仕事があると分かった絢は奮起し、それから積極的に雑用を引き受けた。主にごみ出しと掃除だったが、これがなかなかの重労働なのだ。燃えるごみ、燃えないごみ、資源ごみと分別し、枝などは自治体で決められた長さに切り揃えなければならない。
「あ、絢さん。これを裏に運んでください」
「客席に木くずが飛んでしまったので、掃除お願いします」
最初は躊躇していたスタッフたちも、絢のやる気を感じたのか人手が足りなくて遠慮してられなくなったのか、次々と雑用を頼んでくる。絢はフル稼働でぱたぱた走り回り、全て着実にこなした。
初めは柊二に何とか接触できないかとちらちら窺っていた絢だったが、文字通り目の回るような忙しさから、今やるべき仕事以外の雑念は次第に消えていった。
そうして気付けば、桜を使った柊二の大作は完成し、本堂で開かれるチャリティーコンサートの開場時間となっていた。
疲労のせいでうまく頭の回らない絢は、次々と埋まってゆく客席の後ろに突っ立って、金色に輝く御宮殿（ごくうでん）の内部に安置された御本尊、如意輪観世音菩薩像と、それと向かい合うようにして生けられた柊二の大作をぼぅっと眺めていた。
「絢さん、お疲れさまでした。これ、どうぞ」
労いの言葉とともに温かいコーヒーを差し出してくれたのは、最初絢に応対した女性スタッフだった。絢はお礼を言って受け取り、
「何だかふわふわしてしまって……。この空間、まるで夢の中にいるようです」
言ってから、何て稚拙な感想だろうと語彙の貧弱さを噛み締める。しかし彼女は大きく頷いて同意を示してくれた。
観音像はもちろん、レース編みのように細かな意匠の光背も、上部を飾る荘厳な天蓋も、全てが金色なのにけばけばしく感じられないのは、極楽浄土を表現しようという確固たる目的があるからだろう。装飾のための装飾に堕していないからこそ、訪れる者は絢爛さに溺れることなく厳粛な精神を保つことができるのだ。
そして、螺鈿のように神秘的な光彩を湛えたこの空間で、柊二の“華”は圧倒的な存在感を放っていた。
向かって左側には、まだ蕾の桜。それが徐々に花開き、中央には満開の桜が繚乱と咲き乱れる。そして右へ移ると、絢が照明を当てた桜がはらりはらりと雪華のごとく花弁を散らしていた。
蕾から散る瞬間まで、時間の経過が流れるように見事に表現されていたのだ。
「狩野師範はあの作品を、『生成流転』と名づけました。全てのものは生まれた瞬間から死へ向かって流されてゆく。まさに諸行無常ですけれど、これは東洋に特有の観念ではないそうです。西洋にも、ヴァニタスという思想がある。ゆえに、東洋と西洋の混交という芸術祭のテーマにも反していない」
「ヴァニタス、ですか？」
「ええ。空虚という意味です。この世のものは全て、いずれ空しく朽ち果てる。西洋の静物画でよく用いられたテーマだそうで、例えば花瓶に生けた花を描いた絵でも、よく見ると茶色く枯れた花や虫に食われた葉っぱが、満開の美しい花の中にちゃんと描かれているんです。ただ、散り際の花にも虫食いの葉にも、今この瞬間にしかない命の美しさを感じ、それを表現しようとする美意識が和の生け花にはあります。それが、西洋との違いですね」
ひたすら感心しつつ耳を傾ける絢に、女性スタッフは一転して悪戯っぽい口調で、
「……なぁんて。全部狩野師範からの受け売りなんですけど」
そう言って、ちらっと舌を出してみせた。その瞬間、絢の心を支配したのは、彼女への羨望だった。自分も柊二と一緒に仕事ができたら、そういうことを教えてもらえるのに。
「ああ、客席も埋まってきましたね。桜の花びらを浴びながらチェロ演奏を聴けるなんて、何て贅沢なのかしら。夢のようなひとときですね」
彼女の言葉通り、着席した観客らはみな夢見心地の顔つきで桜舞う舞台を眺めている。演奏はまだなのに、まるで“音楽”に聞き入っているかのようだ。
綻ぶ桜、咲（わら）う桜、散る桜。流転する命が魅せる美。絢はそれを心と網膜に灼きつけて、ゆっくりと本堂を後にした。
───あんな凄いの作っちゃうんだ、柊二さん……。
本堂を出た絢は、暗い境内をとぼとぼと歩いていた。そろそろ演奏が始まる時間とあって、周囲に人の気配は全くない。チェロの柔らかな響きとバッハの端正な旋律に、柊二の桜は凄絶にして絢爛な美をまとわせるだろう。
───遠い、なあ……。
あらためて、柊二との距離を感じてしまう。総師範という地位から漠然と想像していた観念的な距離感を、現実的なものとして目の前に突きつけられた感じだ。
結局、今日一度も足を踏み入れることのできなかった制作の現場や、完成した大作、そしてそれを作り上げた柊二自身。何かもが絢にとって遠かった。
はふぅと溜め息をつきつき玉じゃりの上を歩いていると、背後からざっざっとじゃりを蹴る激しい音が近づいてきた。何事かと絢が振り向くより早く、鋭い声で名前を呼ばれた。
「絢！」
「はっ、はい！」
思わずびくんと飛び上がって返事をしたが、駆け寄ってきた人影の主を見て絢はぽかんと口を開けた。
「柊二……さん？ どうしたんですか？ 演奏会は？」
ふわふわした質問を立て続けに発した絢を前にして、柊二はがっくりと項垂れた。全速力で走ってきたのかまだ呼吸は荒く、逞しい肩が大きく上下している。
「それはこっちの台詞だ。いきなり姿が見えなくなったからアシスタントに聞いたら、帰ったって言うじゃないか」
「え、えっと……」
絢は何と答えてよいか分からずおろおろしたが、取り敢えず一番の疑問を口にした。
「あの、柊二さん。僕がいたの知ってたんですか？」
すると柊二はさらに脱力して、
「当たり前だ。あんなにちょこまか動いていて、目に入らないはずがない」
「ごめんなさい……」
しゅんとしおれる絢に、柊二は眉根を寄せて、
「なんで謝るんだ」
「だって、目ざわりだったでしょう？ ろくにサポートもできないくせに……」
すると柊二は「バカなことを言うな」と怒ったように返して、絢の頭をぐしゃぐしゃっと撫でてくれた。これは、目ざわりではなかったと受け取っていいのだろうかと絢が思案していると、柊二は「ところで」と話を変えた。その声も呼吸も、すでに正常に戻っていた。
「絢は、これからどうするつもりなんだ」
「これから、って……家に帰ります」
当然の答えを返す絢に、柊二はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、
「今から真っ直ぐ駅に戻っても、東京行きの最終列車には間に合わんぞ」
「えっ……そ、それじゃあ、どこか宿を……」
「無理だ。国際芸術祭の開催期間中この周辺は、高級旅館から駅前のビジネスホテルまでどこも予約でいっぱいになる。飛び込みで宿泊できるところはまずない」
絢は、血の気がさーっと引いてゆくのを感じた。柊二は「やっぱりな」と呟いて、
「そういうことを何も考えずに来たのか。まったく……」
久々に聞く柊二の呆れ口調。しかし懐かしいと頬を緩める余裕など今の絢にはない。
「ど、どうしよう……野宿、とか？」
柊二はふーっと豪快に溜め息をつくと、絢の手を引いてすたすた歩き出した。絢も歩調を合わせつつ、柊二を窺う。
「あの、どこに行くんですか？」
「宿に帰る。今夜は俺の部屋に泊まるしかないだろう」
憮然と返す柊二に、絢は本堂を顧みて、
「でも、あの、演奏会は？ 柊二さんの作品の前で弾くんでしょう？ 見届けなくていいんですか？」
「その必要はない。俺たちはあくまで裏方だからな。主役は演者と花、そして仏殿だ。スタッフも今ごろ、どこかの居酒屋で打ち上げの真っ最中だろう」
柊二はそう言って口元を緩めると、掴んでいた絢の手をいったん離し、指と指を絡めて優しく握り直した。
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