─KAREN ENJOU─
十九、笑花の章＜最終話＞
いよいよか。自分は今、大きな十字架を背負わされたのだ。恐怖がないと言えば嘘になる。本当は、今にも投げ出してしまいたい。しかし───
「柊二よ。お前がどれほどの覚悟と決意をもって儂の要請を受け入れてくれたか、よく分かっている。今一度、感謝したい。ありがとう」
苑山はそう言って、柊二の前に両手をついて頭を下げた。柊二は深く息をつき、
「顔をお上げください。私は、苑山先生の個人的な頼みを引き受けたわけではありません。紫月流の未来と、そしてそれを担う絢と幹のために受け入れたのです。ですが、もし私の覚悟を汲んでくださるのなら、ひとつだけお願いしたい。今すぐは無理でも、尭さんを認めてほしいのです」
苑山は、たった今頭を下げていたとは思えぬほど傲然と胸を張り、柊二を真っ直ぐ見返す。
「儂に、尭と和解しろと言うのか」
「私はあの騒動で、都筑乙耶というかけがえのない人間を喪いました。しかしあれから十年の歳月を経て、私はここに戻ってきた」
「だから儂にも、過去のことは水に流せと？」
「水に流せとは言いません。何年何十年経とうとも、乙耶が紫月流に“殺された”事実は消えないように、尭さんが先生を裏切った事実は消えない。けれど、未来のために乗り越えることはできる」
苑山は「未来、か…」と呟き、陰鬱な笑みを浮かべた。
「未来に希望を持つには、儂もいささか年をとりすぎた」
「しかし、絢と幹は違います。そして彼らにはやはり、父親が必要ではないでしょうか」
目覚める寸前、『お父さん！』と叫んで涙をこぼした絢の哀しげな表情が、脳裏に灼き付いている。尭もかなり癖のある人物だから、すぐに肉親の情愛が復活するとは柊二も思わないが、時間をかけて少しずつ修復することはできるはずだ。
柊二の訴えに、苑山は無言の渋面で応えた。やがて口を開き、
「お前が父親代わりになればいいではないか」
「それは無理です」
即答を返す柊二を、苑山は面白そうに見返し、
「なぜ無理なのだ」
「それは……無理なものは無理なのです」
師匠でもあり恋人でもある、それだけでも対応に苦慮しているのに、その上父親なんて役割を背負うなんてできるはずがない。自分は絢の保護者にはなれない。あくまで恋人、恋愛対象でありたい。
もちろん、そんな本心を苑山に打ち明けるわけにはいかない。しかし、神妙な面持ちで頑固に拒絶し続ける柊二に、苑山はにやりと笑いかけ、
「正直な男だ。しかし、お前もずいぶん変わったな。以前は、あまり感情を面に出すことがなかった。己を律しただ花に向かう姿は磨き抜かれた白刃のように清く美しかったが、どこか人間味に欠ける嫌いもあった。それが今では……」
「今では、何でしょうか」
そんなに自分は変わっただろうか。苑山の目に今の自分がどう映っているかさすがに気になり、柊二は勢い込んで訊ねた。苑山は、ちらと揶揄めかした視線を投げかけ、
「絢の前では鼻の下を伸ばしおって。全く、見てられん」
「なっ……！ そ、そんなことはっ……」
何と反論してよいか分からず、柊二は口をぱくぱくさせる。額にじんわりにじみ始めた汗を、内心の焦りを悟られぬようゆったりとした仕草で拭った。
しかし上辺を取り繕ったところで、苑山の目をごまかせるはずもない。案の定、「儂が気づいていないとでも思っていたか」と一蹴される。柊二はさらにどっと汗が吹き出るのを感じながら、言い逃れはできぬと観念して、苑山に向かって深く頭を下げた。
「申し訳ありません。仰る通り、私は絢さんを───」
しかし苑山は最後まで聞かず、顔の前で手をひらひらと振って、
「ああ、いい、いい。こういったことに爺いが口を挟むのは野暮というものだ。それに、この件に関しては儂などよりずっと手厳しい小姑がおる」
もちろん、幹のことだ。この人はどうやら、何もかも把握しているようだ。柊二は思わず、とんだ狸爺だなと呟いた。もちろん声には出さず。
「絢は何も知らぬねんねだが、心の奥には熱く激しいものを秘めている。お前と出会ったことで、本人もその存在に気づき始めた。今後、それを華として昇華させるか、怪物と化した情念に呑み込まれ我を見失うか……柊二よ、頼んだぞ」
十二代目への就任要請を受けた時に勝るとも劣らぬ責任感が、ずしりと両肩にかかるのを柊二は感じた。しかしそれは、心地よい重みだった。
「お任せください。命に換えても全う致します」
畳に両手をついて平伏する柊二の上に、続けて言葉が降ってきた。
「……儂の頼みばかりでは不公平だな。尭のことも、まあ考えてみよう」
柊二は畳に手をついたまま、「ありがとうございます」と震える声で答えた。
「十二代目家元、紫月柊山かあ。かっこいい……」
絢は熱を帯びた口調で呟くと、恍惚と濡れた視線を中空に彷徨わせた。屋敷の広い中庭。隣には、家元就任が正式に決定したことを真っ先に教えに来てくれた柊二が立っている。柊二はふわふわ夢見心地の絢の頭を撫でて、
「来年は多忙な年になりそうだ。気を引き締めてかからねばならないな」
「は、はい。そうですね……」
それまで絢の心を占めていた浮かれ気分が、柊二の言葉で一気にぺしょっと潰れてしまった。確かに、家元になれば今以上に多忙になるだろう。今でも忙しすぎるほどなのに、これ以上仕事が増えたら一体どうなってしまうのか。
そんな絢の不安に気づいているのかいないのか、柊二は晴れやかな声で、
「俺は家元としてまだまだ未熟者だ。絢と幹の支えがなければ、重責を全うすることはできないだろう。頼んだぞ」
「ぼ、僕の……支え？」
「そうだ」
「僕なんかが、柊二さんの役に立てるのですか？」
「当たり前だ。これまでだって、俺は絢の笑顔に支えられてきたんだぞ」
寄りかかっているのは自分の方ばかりだと思っていた。柊二はいつだって毅然と前を向いて、周囲の思惑にも踊らされず、独立不羈の信念を堂々と貫いていたのだから。けれど、
「絢のお陰で、俺は過去に向き合い、乗り越えることができたんだ。これからも、その素直さ、純粋な心で、俺を光ある方へ導いてほしい」
「そ、そんな、導くだなんて。僕ができるのは、ただ傍にいてにこにこしてることだけで……」
思いもよらぬ過大評価におろおろする絢。その飾らぬ言葉に、柊二は百花も色褪せるほどの美しい笑みで応える。
「それでいい。俺の傍で、ずっとにこにこしていてくれ」
絢は上気した顔でぽーっと見上げていたが、やがて蜜花が綻ぶようにふわぁっと破顔し、
「はいっ。もちろんです。ずっとずっと柊二さん、いえ、柊山さんの傍にいます！」
元気いっぱい答えてから、絢はくすっと笑い、
「しゅうざんさん、てちょっと言いにくいですね」
「うん？ ああ、プライベートや二人きりの時はこれまでのように柊二で構わないぞ」
もしかして、これから彼を“柊二さん”と呼べるのは自分だけなのだろうか。そう思うと何だか嬉しくてくすぐったくて、絢は秘めやかな歓喜に潤んだ瞳で見上げ、
「はい。あの……嬉しいです」
すると柊二は絢に正面から向かい合い、顎にそっと指を掛けて上を向かせた。ゆうべ散々吸われたせいで、まだかすかに腫れていつもよりふっくら肉感的な唇が、自然とキスをねだるように開く。
「またこんな色っぽい顔をして。しょうのない子だ」
身体の芯に響く低音にぞくりとしていると、柊二の顔がゆっくり近づいてきた。そして、今にも吐息が混ざりそうになったその時、
「次期家元なんだからエロいことは控えろよ、おっさん」
聞き慣れた険しい声が届き、柊二は顔をぴたりと止めて流麗な眉を吊り上げた。絢はぱたぱたと二度瞬きしてから、柊二の肩越しに呼びかけた。
「か、幹！ そこにいたんだ」
「ええ、おりましたよ。さっきから」
わざとらしい敬語で答える幹に、柊二は幾分尖った声で、
「盗み聞きとは、なかなか上品な趣味だな」
「いえいえ、とんでもない。ただ、二人きりになると必ずエロいことしようとする不届き者が身近にいるもので」
「なるほど。ブラコン童貞にとっては、あの程度の触れ合いも“エロいこと”になるのか」
「そりゃあ、相手によるだろ。世間知らずなお子様を言葉巧みに誘惑した変態中年だったら───」
「俺はまだ三十四だ！」
ほとんど紫月家の恒例となりつつある二人の罵り合いだったが、これまでとは決定的に違う展開となった。それは、
「幹さん、いくら兄とはいえ、人様の恋愛に口出しするのは野暮ってものですよ。ブラコンも大概になさい」
凛とした声で叱責しつつ姿を現したのは、
「あ、沓沢さん！ いらしてたんですね」
絢はぴょんぴょん跳ねて雪人に近づき、屈託ない笑みを向けた。雪人も応えてふんわり笑い、
「はい。昨日はお世話になりました。あれから色々と考えたのですが、尭さんの家を出ることに決めました。もう一度、自分なりの生き方を探してみようと思います」
そう言う雪人の顔に迷いはなかった。澄み切った面に真っ直ぐ背筋を伸ばしたその姿は、谷間に咲く清廉な白百合を想わせた。
そしてもうひとつ、絢にとって嬉しいことがあった。
「あの、それで……初心者のための生け花教室が終わった後も、できれば紫月流でお稽古を続けたいなって……」
「ほ、ほんとですか？！ うわぁぁぁい、やったあ！」
万歳しながらくるくる回る絢に、幹は溜め息混じりで突っ込む。
「ったく、その喜び方。幼稚園児か」
いつもなら“子供扱いするな！”と怒るところなのだが、喜びで舞い上がっているせいか気にならなかった。絢は上気した顔を幹に真っ直ぐ向けて、
「幹が、お稽古を続けるよう沓沢さんに言ってくれたんだね。ありがとう」
真正面からお礼を言われた幹は、気まずげにふいと横を向いてしまう。柊二は笑いを噛み殺しつつ絢の頭を撫でた。
「よかったな、絢」
「はい！」
勢いに任せて腕にじゃれつく絢を、柊二は優しく抱きとめた。そんな二人を、雪人は微笑ましげに目を細めて見つめる。
「本当に、お二人は仲がいいんですね」
「絢は単純だから、ちょっと優しくされるとすぐ懐く。その辺の犬の方がまだ警戒心があるぞ。だいたい、これまで俺がどれだけ苦労して───」
いかにも忌々しげに不満を述べ立てる幹だったが、雪人はその言葉を鮮やかにすぱっと切り捨てた。
「幹さん、そろそろ二人のことを認めてあげたらどうですか」
「ああ？ 二人の何を認めるんだよ」
「二人が恋人同士だということです」
案の定、幹は目を剥いて反論する。
「絢とあのおっさんが恋人同士だって？！ 冗談じゃないぞっ、誰が認めるか！ だいたいなあ、部外者のあんたが口出しするようなことじゃない。放っとけよ」
幹の容赦ない物言いに、矛先を向けられているわけではないのに絢の胸はしくんと痛んだ。心根は優しいのに、言葉がきついせいで周りの人間を必要以上に傷つけてしまう、それが幹の欠点だった。しかし、
「部外者だからこそ、こうしてはっきり言えるんです。いいですか？ そもそも人の恋路を邪魔するのは人間として未成熟な証で───」
言葉の刃をさながら真剣白刃取り。さらにぽきっと真っ二つに折って投げ捨て、雪人は堂々と反論する。
───す、すごい、沓沢さん。あの幹に負けてない。
ひたすら感心する絢の耳元で、柊二がそっと囁いた。
「あれは、尻に敷かれるぞ」
「ふふっ、そうですね」
いかにもふてくされた顔でぼそぼそと反論する弟が、何だか可愛く見えてしまう。こんなのは初めてのことだ。
「でも、お似合いかも」
「ああ、確かに」
絢と柊二は肩を寄せ合い、言い合う二人を温かく見守り続けたのだった。
＜完＞
※最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました！ 続く、幹と雪人のその後を描いた短編をもって、華恋炎情はひとまず完結になります。引き続き、よろしくお願いします。
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