─KAREN ENJOU─

十一、謀花の章

「……僕に何をしろと？」

訊きながら雪人は、思わず耳を塞ごうとした。もう何も聞きたくない、早くここから立ち去りたいという初めての衝動に駆られたが、飼い馴らされた者としての習慣の方がまさってしまった。

「今月末、紫月苑山の親友でもある高名な陶芸家の個展が開かれる。その初日、オープニングイベントで狩野柊二が客前装花を行うらしい」

もし耳を閉じることができたなら、雪人はそうしただろう。しかし目を閉じることはできても、耳は無理だ。雪人は仕方なく聞いた。

「最近は絢と幹も、柊二のアシスタントとして働いているらしい。おそらく、その客前装花でも手伝うはずだ。作品の構想や使用する花材を、彼らから聞き出してこい」
「そんなことを聞き出して、どうするのですか」
「全く同じ花材を使って、柊二より先に生ける。そうだな、ホテルか百貨店のエントランスが効果的だろう」
「狩野柊二はそれを知らず、高名な陶芸家の個展会場で同じものを生けてしまう。彼は“模倣者”のレッテルを貼られ、陶芸家の個展にも泥を塗ることになる、と……」

意識せずとも、自分の声がどんどん沈んでゆくのが分かる。まったく、よくもまあ色々と思いつくものだと半ば呆れてしまう。しかし尭は、そんな雪人に構わず、

「幹より絢の方が御しやすいだろう。あれは小さい頃から人を疑うことを知らない、典型的なお坊ちゃん育ちだからな」
「さすが、父親ですね。よくご存知で」

皮肉など彼には通じないと分かってはいたが、雪人は言わずにはいられなかった。案の定、尭はフンと鼻を鳴らし、

「息子の気質ぐらい、把握している。それより雪人、今回はあまり時間がない。短時間でうまく聞き出すんだぞ」
「…………」

白百合を前に躊躇し、黒に染まり切った人間はいないのかという雪人の問いに、力強く頷いてくれた幹の姿が脳裏に浮かぶ。しかし、

「……分かりました」

その姿から目を逸らし、雪人は承諾した。

展示会は真紫月流で何度も経験しているから勝手は分かっているが、やはり“敵対陣営”の意識があるからだろうか、少し緊張する。しかしそれも、会場内で絢の笑顔に迎えられるまでのことだった。

「ああっ、沓沢さん！　来てくださったんですね、やったあ！」

不純物の全くない純度百パーセントの喜びが雪人には眩しすぎて、つい目を細めてしまう。

「絢先生、お招きありがとうございます」

秋の生け花シーズンの到来を告げる『紫月流生け花展』。有名百貨店の最上階で五日間にわたって開かれる大きな催しだが、その招待券が生け花教室の生徒全員に贈られたのだ。

雪人がお礼を述べると、絢はなぜか顔の前でブンブン手を振った。そして、

「お教室の外では、先生なんて呼ばなくていいですからっ」
「え？　どうしてですか？」
「どうしてって……は、恥ずかしいですし、それに、僕自身まだまだ修業中の身ですから」

そう言って肩をすぼめる絢の顔は赤くなっていた。恥ずかしいというのは本心のようだ。

「すみません、本当はもっと堂々としてなくちゃいけないんでしょうけど……」
「いいえ、なんていうか……先生らしいです。じゃあ、外では絢さんとお呼びしますね」
「はいっ、お願いします！」

絢はぴょこんとお辞儀すると、数多の作品群も色褪せるような美しい笑みを咲かせた。

「せっかくですから、少し一緒に回りませんか？」

絢の申し出を、雪人は遠慮がちに受け入れた。

「はい。でも、よろしいのですか？　お忙しいのでは……」
「いいえ、ぜんぜん！　むしろ終わってからが忙しいので、今のうちに充電しておかなくちゃ」

絢はそう言って、雪人を会場内に招き入れた。

「あ、一階正面玄関のお迎え花も紫月流の作品ですよね。素晴らしかったです」

雪人の言葉に、絢は意外な反応を示した。ぼっと火がついたように赤面したのだ。

「は、はい。あの作品は、次期家元となる狩野師範が生けたものなんです」
「そうなんですか、どうりで。かなりの大作ですよね。絢さんも手伝われたのですか？」
「て、手伝ったなんてそんな大層なことしてません。ただちょっと、その、アシスタント的なことをさせてもらっただけで……」
「それが“手伝った”ということではないのですか？」

雪人が苦笑しつつ突っ込むと、絢も照れ臭そうに笑って、

「僕なんてまだまだです。狩野師範の足元にも及びません」

やたら嬉しそうにそう言った。そんな話をしているうちに、絢と幹の展示作品の前へ。

「あ、絢さんの作品ですね。ああ、素敵です。なんだか心が和みます」
「ありがとうございます」

素人丸出しの拙い感想にも、絢は律儀に頭を下げてお礼を言った。雪人はもちろんお世辞を言ったわけではないが、ここまで真摯に応じられると困惑してしまう。

「え、えと、この小さな赤い実は何というのですか？」
「これはかんぼくの実です。実ものは苦手なのですが、これは愛らしくて好きなんです。この白い花は秋明菊。名前に菊が付くけれど、アネモネの仲間なんですよ」
「かんぼくの実が、遠くから見ると線香花火みたいに見えますね。まるで、去り行く夏を惜しむかのよう。どこか懐かしくて、でも遊び心もあって、とても好きです」

さらに言葉を尽くして感想を述べると、絢は子供みたいに跳び上がって喜んだ。

「それにしても、兄弟なのに対照的な個性をお持ちなんですねえ」

雪人がしみじみしてしまうのも当然だった。隣に展示された幹の作品は、絢にはない力強さと尖った個性でひときわ目立っていたのだ。

「この大きな葉っぱは、蓮の葉、ですよね。少ししわしわで茶色になってますが……」
「あ、はい。それは、わざとそうしているんです。蓮の葉は夏によく使う花材ですが、こうすることで季節感を出すことができます。これに、鮮やかなオレンジの柘榴の実を合わせるなんて、僕の頭では思いつきません」

絢の率直な言葉は、そのまま彼の人柄を表していた。雪人は自然と綻ぶ口元を意識しつつ、少し距離をとって二つの作品を視界に入れてみた。

確かに個性は異なるが、こうして同時に眺めると、互いに共鳴してさらなる魅力を引き出し合っているように見える。さすがは兄弟ということだろう。

「お二人とも素晴らしいです。やっぱり血筋なのでしょうか」
「と、とんでもありません！　生け花への愛情と日々の努力、これに尽きます。ただ僕たちは、小さい頃から花に触れる機会が多かった。それは幸運だったと思います」
「確かに。僕の場合、花なんて眺める余裕もありませんでした。毎日生きるだけで精いっぱいで……」

大層なことを言ったつもりはなかったが、絢の反応はなぜか大きかった。大きく目を見開いて、

「あの、それはどういうことでしょうか」

問いかける声の真剣さに呑まれ、雪人は思わず答えていた。

「子供の頃の話ですよ。僕は両親を事故で早くに亡くしているので、成人するまで人よりはちょっと苦労しているし、大人の嫌なところも見ている。でもまあ、よくあることです」
「ご両親を亡くされて、子供の時はどこで生活していたのですか？」
「親戚や知り合いの家をたらい回しです。これもよくあることですが。……絢さん？」

これまで天衣無縫の笑顔で周囲の空気まで明るく輝かせていた絢が、なぜか憂いに沈んでしまった。雪人は訳が分からず、その顔を覗き込む。

「絢さん、あの、どうかされましたか？」

すると絢は淋しげに微笑んで、

「いえ。ただ……沓沢さんと似た境遇の人を知っているので、つい重ね合わせてしまって……」

雪人ははっとした。もしかしてそれは、かつて狩野柊二の恋人だったという都筑乙耶のことではないだろうか。

「そうですか。絢さんは、その人と親しいのですか？」
「いいえ。その人はもうずいぶん前に亡くなってしまいました。ですから、僕は人から聞いたことしかないのです」

間違いない。絢が言っているのは都筑乙耶のことだ。けれど、なぜ絢は乙耶のことをここまで気にするのか。もしかして……。

「次期家元に内定している狩野師範というのは、どんな方なのですか？」

雪人の問いに、絢は表情を一変させた。ぱあっと音が聞こえそうなほどの笑みを咲かせ、彼について説明できるのが嬉しくて仕方ないと言わんばかりの口調で、

「華道家として、芸術家として、そして一人の人間としても素晴らしい方です！　現家元からの信頼も篤く、お弟子さんたちにもとても慕われています」
「絢さんも指導を受けているのですか？」
「はい。お稽古の時や生け込みの時は厳しいですが、それ以外はとても……優しい人です」
「絢さんは、狩野師範のことが大好きなのですね」

茶化すのでもなく、かといって重くなりすぎぬようさらりと訊ねると、絢は俯いたまま真っ赤になり、

「は、はい……大好き、です」

たったひとつの言葉にこれほどの想いが込められるのかと、雪人は感動すらした。しかしすぐに、暗澹とした気持ちに上書きされる。

絢の反応から、二人が恋仲なのは間違いないと思われる。ということは自分は、絢の大事な人を陥れ苦境に立たせる企みに手を貸そうとしているのだ。

いや、手を貸すどころではない。主犯格ではないか。

「絢さんがそこまで仰るのだから、本当に素晴らしい方なのでしょうね。僕ももっと、狩野師範の作品を拝見したいです」
「あ、でしたら来週ぜひ渓樂園にお越しください。敷地内に、大正時代に建てられたお屋敷があるのですが、そこで開かれる陶芸家の個展で、狩野師範が客前装花をします」

こちらが話を振る前に、絢の方から喋ってくれた。なのに雪人の心はますます暗くなる。自分はもうレールの上にいて、抗うことはできないという現実を突きつけられたようで。

「客前装花って何ですか？」
「あ、えっと……そう、ライブです。生け花ライブ。作品が完成する過程も見られて、楽しいですよ」
「へえ、ライブですか。そういう場合、使う花材は予め決めてあるのですか？」

答えないでほしいと願いつつ、雪人は訊ねた。しかし、

「その時々によりますが、今回は決まっています。白い胡蝶蘭と紅い紐鶏頭を、細い竹を組んだ大ぶりの花器に生けるんです」
「そう、ですか……」

雪人は暗い声で相槌を打ち、力なく項垂れた。

BACK　　　　　　TOP　　　　　　華恋炎情INDEX　　　　　　NEXT