─KAREN ENJOU─
十七、結花の章
今日はお昼過ぎぐらいに会場入りすればいいと言われていたから、焦る必要はないはずだった。しかし入り口で仁王立ちしている幹を目にした絢は、彼から放出される不穏なオーラを察し思わず足を速めて近づいた。
「幹？ そんなところでどうし──」
「昨夜はどこで何してた」
絢の言葉を遮って飛んできた尖った問いは、絢ではなくその後ろにいる柊二に向けられたものだった。その喧嘩上等な態度を、柊二は鼻先で笑い飛ばし、
「ゆうべ、ちゃんと連絡を入れたはずだが」
「絢は今夜は帰らない。俺と一緒にいるから心配はいらない、そう言って一方的に電話切っただけだろっ。どこがちゃんとした連絡なんだよ！」
どうやら柊二は、絢の知らないうちに家へ連絡をしてくれていたようだ。なのになぜ幹がこんなに怒っているのか、絢には分からない。
「相変わらずのブラコンだな。そこまで兄の行動に干渉しなくてもいいだろう」
「うるさい！ あんたみたいな危険人物がいるから、干渉せざるを得ないんだよっ」
「まったく、よく吼える番犬だ。しかし吼える相手を間違えているぞ」
「なんだとッ」
長身の美形二人の睨み合いというのは、なかなか迫力がある。絢は圧倒されつつも、ここは自分が収めねばと奮い立ち、二人の間に割って入った。
「待って、幹。ゆうべはね、柊二さんの部屋に泊まったんだ。だから何も心配いらないよ」
「部屋に泊まった？！ こいつの部屋にかっ？ そ、それで何もされなかったんだろうな！」
幹のブラコン魂にうっかり油を注いでしまった絢は、隣で柊二が額を押さえ天を仰いでいるのにも気づかず、首を傾げて「何もって何？」と無邪気に問い返す。幹は半ばヤケになったのか、「エロいことに決まってんだろ！」と怒鳴った。
やだな幹ってば何言ってんだよ、とさらりととぼけるような芸当が絢にできるはずもなく、ぼぉっと音がしそうなほど赤くなってうろたえた挙げ句、しっとりと潤んだ目で幹を見上げ、「どうして分かったの？」と小声で聞き返した。
すっかり逆上した幹が「警察に通報してやる！」とわめいていると、会場の中から苑山の付き人である本嶋が飛び出してきた。
「ああ、お着きになったのですね、よかった。さっきからみなさんがお待ちですよ。狩野師範に早くお会いしたいと」
「あ、いや、私は一度資格を失った身です。だからもう師範では……」
そう言って半歩下がった柊二を、本嶋は笑顔で強引に引っ張り、
「それについては問題ありません。ついさきほど、免許状の失効取り消しが役員会で承認されました」
それには、さすがの柊二も驚きを隠せなかった。
「えっ？ そんな昨日の今日で……」
「まあ、鶴の一声ってやつですよ。柊二さんが戻ってくれたことがよほど嬉しかったのか、苑山先生もすっかり快復されて。病室からあちこちに電話をかけて緊急の役員会を今朝開かせて、そこで決めさせてしまったようです。もう元気になったから退院して、自分が自ら役員会を招集すると言ってきかなかったのですが、それは何とか阻止しました」
本嶋は笑っていたが、その顔には疲労の色が濃かった。苑山を宥めるのに相当苦労したのだろうなと、絢は他人事のように思った。
本嶋に背中を押される形で柊二が会場入りすると、わあっと歓声が上がった。そして誰もが我さきにと駆け寄ってくる。
柊二のことを知らないはずの若い師範補などは、古参の会員から聞いたのだろう。生き伝説となっている天才華道家をその目に灼きつけようと、瞳を輝かせて取り囲む。
「いやはや、大した人気だ」
本嶋は満足そうに頷いて、同意を求めようとしたのか絢の方に顔を向けた。しかし、
「はい、そうですね……」
絢の声は、どうしても沈んでしまう。柊二の周りには紫月流の関係者だけでなく、一般客として来場した女性たちも群がっていたのだ。彼女らはのぼせた顔つきで、柊二のことをうっとりと見上げている。
───みんな綺麗で、大人っぽいな……。
すると、絢の心理などお見通しとばかりに幹はにやりと笑い、さも感心しているかのような声で呟いた。
「特に女性の人気がすごいなあ。いやあ、羨ましい。あれならきっと、よりどりみどりだろうな。彼にはしっとりと落ち着いた、大人の和風美人がお似合いだ」
そして自分の言葉にうんうんと頷いてから、絢の方にちらと不敵な視線を送ってきた。しかし絢はそれをはね付けることができず、弱々しい笑みを浮かべ、
「ん、そう、だね……。僕みたいなお子様より、ああいう綺麗で大人っぽいひとの方が、柊二さんにはお似合いなんだろうね。でも、」
でも彼は誰にも渡さない───絢は決意を込めて続けようとしたが、それに先んじて幹が険しい声で叫んだ。
「ああ？ ったく何言ってんだよ！ あんな女連中より兄さんの方が何百倍も綺麗じゃないか！」
「か、幹？」
「兄さんは自己評価が低すぎるんだっ。だからああいう男に付け込まれるんだよ！」
「付け……込まれる？」
幹の厳しい物言いには慣れている絢だったが、彼が何を言っているのか今ひとつよく分からない。しかしそんな絢には構わず、幹は一人でヒートアップする。
「くっそ、何だよ。俺が今までどんだけ苦労して、うるさい蝿を追っ払ってきたと思ってるんだ。誰彼構わずにこにこ笑って愛想振りまくから、周りにいる男どもがおかしくなるんだ。大体兄さんは───」
「はいはい、幹ぼっちゃんも落ち着いて。その辺でいいでしょう」
見かねた本嶋が間に割って入り、幹を宥める。そして幹にだけ聞こえるように声を潜め、
「柊二さんなら大丈夫ですよ。華道の才はもちろん、人間としても立派な方です」
「……そういう問題じゃない」
ふてくされたように返す幹に、本嶋はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「ああ、なるほど。大好きなお兄ちゃんを取られたのが悔しいのですね」
そして今度は二人に聞こえるように、
「そうそう、柊二さんですが、ご自宅の離れにお住まいいただくことになりそうですよ」
「えっ？！」
同時に声を上げた絢と幹だが、当然ながら含まれる感情は異なる。絢は嬉しさを隠せず、前のめりで本嶋に質す。
「それって、一緒に住むってことですか？」
「そうですね。お二人の部屋がある母屋ではありませんが、敷地内にある離れに住んでもらうようにと、苑山先生から言付かっております」
「うわああっ、やったぁ！！」
手放しで喜ぶ絢を尻目に、幹は声を嗄らして異議を唱えたが、法より重い家元の指示を覆せるはずもない。必死の抗議は、会場内に虚しくこだまするばかりだった。
「ええと……柊二さん、教本はここでいいでしょうか」
「ん？ ああ、いいから。本は重いから俺が運ぶ」
「このくらい大丈夫ですっ」
重ねて紐で括られた本の束をえいっと持ち上げると、予想以上の重さに身体がついていかず、絢はよろよろとよろめいて本を落としてしまった。しかし、
「おおっと」
すぐさま柊二が手を差し伸べ、身体を支えてくれた。
「ほら、無理するなと言ったろう」
甘く優しい咎めの言葉と、腰に回された逞しい腕の感触に鼓動が速まるのを意識しつつ、絢は「ごめんなさい」と小さく詫びた。そして柊二の胸元にそろりと手を伸ばし、シャツをきゅっと掴む。
引越し作業でずっと身体を動かしていたせいだろう、指先に汗の湿りが伝わる。それが何だか愛しくて、絢はさらに顔を押しつけた。
「こら離れなさい。汗くさいだろう？」
柊二は少し困ったようにそう言って、絢の肩を軽く叩いた。もちろん絢は首を振り、
「柊二さんの匂い、大好きです」
きっぱり言い返すと、柊二は「参ったな」と言いつつも抱き締めてくれた。
「……なんだか、夢みたいです。柊二さんと一緒に、ここで暮らせるなんて」
その呟き通り、柊二の引越し当日になってもまだ絢は、この幸せを現実として受け入れられないでいた。足元がふわふわして雲の上を歩いているような感覚のままこの日を迎え、引越しの手伝いをしていたのだ。
もっとも、力仕事にとことん向いてない絢には、大した手伝いもできなかったが。
「しょうのない子だ。頬をつねってやろうか」
柊二はそう言って絢の頬をつまみ、軽くひねった。そして「やっぱりムチムチしてるな」と笑う。柊二のからかいに膨れた絢だったが、すぐ笑顔になった。
「痛かったから夢じゃないんですね」
「ああ。でもそんな悠長なこと言ってられるのも今日までだぞ、絢。苑山先生からは、厳しく指導してやってくれと頼まれているからな」
柊二は紫月流の総師範であると同時に、絢と幹の師匠として、次代家元に相応しい技術と心を教える。そのために苑山は、柊二を紫月家に呼び寄せたのだ。
「はっ、はい！ 分かってます。柊二さん、厳しく教えてください」
悲壮な決意を瞳に乗せて告げる絢は、その健気さが男性の不埒な部分を刺激してしまうことを、さらに言えば自分の言葉に淫らな含蓄があることを分かっていない。
柊二は微苦笑を浮かべ、
「絢には、教えることがたくさんあるな」
「えっ？ たくさん？」
「ああ。絢の師匠として、恋人として」
ここまで言われてようやく絢は気づいた。首までかぁっと赤くなり、もじもじと腰を揺らした挙げ句、
「一生懸命がんばります。だから……全部教えてください」
柊二にも負けぬほどの艶めく含蓄を持たせて答えれば、腰を抱く腕に力がこもった。
「俺が、全て教えてやる。絢……」
低くかすれたその声には、絢でもすぐに分かるほどあからさまな所有の欲望が漲っていた。嬉しくて、でも少し怖くて、絢は顔を胸に押しつけたまま小さく頷く。すると、顎をくいっと持ち上げられた。
「柊二さ……ん……」
これも“指導”の成果なのか、絢の唇は口づけを誘うようにふわんと開く。そこに、柊二の端整な唇が重なろうとした時、
「……通報するぞ、おっさん」
背後から、物騒なオーラをまとった物騒な声が届いた。
「ひゃっ……か、幹？！」
慌てて振り向くと、鉛色の影を背負った幹が、いつでも飛びかかれるぞと言わんばかりの攻撃的な前傾姿勢で立っていた。絢はあたふたと体裁を取り繕って、
「柊二さんの引越しを手伝いにきてくれたんだね？」
「だぁれが！ 兄さんが手伝ってるって聞いて、急いで飛んできたんだ。二人きりなのをいいことに、兄さんによからぬことをするんじゃないかって思って来てみれば、案の定だ。ったく、真っ昼間から何やってんだよ！」
予想外の剣幕に絢はびくりと首をすくめたが、柊二は平然と受け流す。
「兄の濡れ場にまで首を突っ込む気か、君は」
「ぬっ、濡れ場なんて単語を兄さんの前で使うな！」
「うるさいぞ。ブラコン童貞は引っ込んでいろ」
「援交ギリギリのおっさんこそ引っ込んでいろ」
柊二のこめかみに、うっすらとだが血管が浮き上がった。
「師匠に向かってその口のきき方はなんだ」
「それとこれとは別だ！」
二人の言い合いを、初めはおろおろしつつ見守っていた絢だったが、慣れてきたのか段々と微笑ましく感じられてきた。
───ケンカするほど仲がいいんだよね、きっと。
そして目を細めてうんうんと頷き、徐々にエスカレートする二人の罵り合いを温かく見守ったのだった。
＜終＞
※最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました！
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