ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
6話＜聖女の予言＞
小サロン、別名謁見の間。そこは孔雀が公的な来客を迎えるための部屋である。
実は伶をここへ通すのは、彼女の本意ではなかった。孔雀はこれまで幾度となく、上階のプライベートなサロンを訪れるよう懇願した。貴方は客ではなく私の敬愛する師なのですからと説いて。
しかし伶は固辞した。たった一度だけ、孔雀が暴漢に襲われて負傷した時、その治療のために私室へ上がった。実際は伶を呼びつけるほどの重傷ではなかったのだが。
入室を拒否された久遠はこのサロンで待ち、治療を終えて下りてきた伶に怪我の具合などを質そうとした。が、滅多に見ない師の不機嫌な表情に遭って、開きかけた口を閉じた。そして上階で何があったのか決して訊ねようとはしなかった。
今二人が孔雀を待つ部屋、そこは豪華ではあるが居心地のいい空間ではなかった。
十分な広さはあるのに、装飾に溺れた華美な調度品のせいで、そういった貴族趣味に憧れを抱く鹿鳴館コンプレックスの人間以外にとっては何とも窮屈な、圧迫感すら感じられる部屋になっていた。
嘗て初めてこの部屋を訪れた久遠は、嫌悪も露わにこう吐き棄てた。
『ここはまるであの女の胎内のようだ』
もちろん、女性の胎内がどうなっているかなんて知らない。けれど久遠がそう言いたくなる気持ちも解る。
絨毯や壁紙の薄桃色やカーテンの過剰な襞、ソファカバーの大仰なフリルなどは性器や内臓の内側の粘膜を連想させる。そして生温かく湿（しとり）を帯びた空気。むせ返るカサブランカの芳香（花の匂いは性器の匂いである）と孔雀の体臭。久遠の比喩は案外的を射ているかもしれない。
伶はチッペンデール風のソファに座り、久遠を呼んだ。しかし彼は首を振った―――「ケツがべとべとしそうだ」。伶は納得するしかなかった。
それから十分くらい待たされただろうか、何の前触れもなく扉がゆっくり開いて、ファヴェーラの孔雀がその姿を現した。
焦らすような歩み、口許に漂う高踏的な笑みは、自分が今待たれているのだと充分に意識した上での登場であったことを露呈している。
しかし入室して扉を閉めるより早く、その尊大な表情は崩れた。彼女はすっと目を細めて視線を細く鋭く尖らせると、両腕を組んで壁際に佇立する久遠を射抜いた。威嚇と嫌悪と嫉妬を込めて。
だがそれも玉響（たまゆら）の攻勢。すぐに表情を艶かしく緩めて、伶の方に、伶だけの方に向き直った。
「先生、そろそろお会いしたいと思っておりましたの。私の想いが通じたのね」
伶は何も答えず、ただ座るように促した。
ファヴェーラの孔雀、今日も相変わらずの出で立ちだ。腰まで届く純黒の髪を大きくうねらせ、両サイドの頬にかかる髪を緩やかにねじって後頭部で留めている。そこには、宝石の鱗粉をちりばめた蝶の髪飾りが翅を広げていた。額にかかる後れ毛が演出する女の色香といったものまで計算済みであろう。
そして身体のラインにぴったりフィットしたニットのロングワンピースを着て、胸の膨らみを隠すように大きなストールを巻き、小粒のダイヤを編み込んで雪の結晶に仕上げたブローチで留めている。
もちろん、ヒールの高い華奢なミュールを素足に履いて、細く締まった足首を誇示することも忘れていない。リアリティに疑問符をつけたくなるほどの完璧なプロポーションである。
ピアス、指輪、ブレスレットと、存在感たっぷりの宝石で飾りたてているものの、洗練されたデザインと絶妙のバランスのお陰で下品さを免れていた。
この程度の装飾で“孔雀”と呼ばれているのか、と？ いや、これはあくまで部屋着である。外出時の彼女こそが孔雀なのだ。
長い髪を複雑に結い上げて色とりどりの羽根を挿し、金の粉を振りかける。首筋から胸にかけても光る粉を塗り、背中の大きく開いたシルクサテンのイブニングドレスを着て、オーロラのように神秘的な光沢を放つシフォンスカーフをなびかせて、たった一人でファヴェーラを練り歩くのだ。
何のためかは分からない。自分が所有する富と美を喧伝しようとしているのか、異性を惹きつけようとしているのか。
しかしその実、彼女は美貌と呼べるほどの容姿ではなかった。切れ長の目と僅かに口角が上がった薄い唇が神秘的な魅力の演出に一役買ってはいるものの、いわゆる万人受けする美人には程遠かった。
素顔で競い合えば寧ろ彼女の姉の方に軍配が上がるだろうし、況して伶には敵うべくもない。それでも、しかし、孔雀は孔雀である。
伶は、ソファの肘掛けに甘えるように身体を崩して座った孔雀へ、乾いた声で語りかけた。
「お姉さんから伝言を預かっています。それを伝えるために今日はここへ来ました」
嫣然と笑う孔雀。
「姉の浅知恵にも困ったものですわ。先生の口から言ってもらえれば、幾らか効き目があるとでも考えたのでしょ。わざわざお越し頂いたのに心苦しいのですが、姉が何と言付けたか先生に教えてもらうまでもなく、私には分かりますの。
『子供が秘めている未来への意欲を腐らせる悦びの部屋を、即刻閉鎖すべし。真の悦びは自分の手で掴み取った未来にこそある』―――なんて素敵なファンタジィでしょ！ 明るい未来、輝ける未来、決して自分のものにはならない未来！！」
孔雀は感極まったかのように素早く立ち上がると、胸に手を当てて室内をゆっくり歩き始めた。
伶はその歩みを気怠げに目で追う。やがて彼女は足を止め、伶を正面から見据えた。独演はまだ続く。
「姉のやっていることは慈善の皮を被った詐欺ですわ。実体も確証もない未来なんてものを言葉巧みに拵えて、子供たちに押し付ける。彼らが私の許へ通うようになったのも当然のこと。賢い子は早々に気付いてしまったのです。あやふやな未来より、今の悦び、今の快楽の方がずっと価値あるものなのだと。
ファヴェーラのストリートチルドレンに生き抜くための力を与えるのは何年、何十年先の観念的な未来ではなく、一週間後に訪れる『悦びの部屋』である。これが私の信念です。先生、私は間違っておりますでしょうか？」
祈るように手を組んで、不安げな眼差しを送る孔雀。馬鹿馬鹿しい小芝居だと思いながらも、伶は首を振って丁寧に答えた。
「いいえ、間違っているとは思いません。そもそも僕と貴女は同じ行動原理に依拠しているのです。
貴女は今の快楽を与え、僕は今の苦痛を取り除く。僕の能力は、ファヴェーラやSCを生み出す母胎とも言うべき構造的な病いには無力です。たとえ折られた脚を、潰された眼を治したとしても、翌日には射殺体となっているかもしれない」
翌日どころではない。目の前で殺されたではないか。血と脳漿を溢れさせて横たわる洋平を、どうすることもできなかった。
「いつだったか、あなたのやっていることは無意味どころか苦痛の先延ばしだと、あるフォトジャーナリストに非難されたことがあります。
ファヴェーラの実態を日本内外に伝えるという自分の仕事の方が、大局的に見て子供たちを救うことになるはずだ、ファヴェーラのキリストだなんて自惚れるな、ということでしょうか。
返す言葉もありませんでしたよ。確かに僕は前線で働く軍医のようなものです。傷ついた兵士を治療して、再び戦場へ送り返すだけの―――」
「ああ先生！ 私の前でそんなこと仰らないで！」
伶の傍へ駆け寄った孔雀は、その足許に跪伏した。長い長い髪が床を払うのも構わずに。
「私は、私だけは先生の深い苦悩が解ります。ご自分の命を削って子供たちに尽くしていることも。どうか、そんな風にご自分を責めたりしないで下さいまし」
孔雀はさらに涙まで浮かべて、伶の足にすがり付いた。
「ジャーナリストなんて！ 殴打の痛みを、銃弾の熱さを知らぬ者がいったい何を言えましょうか。無垢なる子供が信じ愛するのはただ先生だけです。そして私も……」
伶は啜り泣く孔雀の肩をそっと押して、引き離した。
「貴女のお気持ちはいつもありがたく受け取っています。僕も、少し感傷的になり過ぎたかもしれない。ところでお姉さんから預かっている言葉はもうひとつあるのです」
「なん、でしょうか……」
マスカラを落とさぬよう、指先で慎重に涙を拭いながら孔雀は楚々と訊ねた。
「“貴女の虚栄と愚かな野望を棄てなさい”と」
その瞬間の孔雀の豹変は見物だった。指先の嫋やかな動きはぴたりと止まり、後れ毛のかかる皙いこめかみに血管が浮き出た。目はぬらぬらと不穏な輝きを見せ、涙など跡形もない。
しかしさすがは孔雀。愛と情熱と神秘に由来する感情以外の高ぶりを許さぬ気高き聖女は、ふっと息をひとつ吐いただけで全てを修復してみせた。
指先で、既に乾いている目許をこすりながら小さく首を振って、
「姉は、私の散財が許せないのです。節制して将来のために蓄えることもなく、実用的なことにも使わず、自分を美しく飾り立てて贅沢な暮らしを楽しむために財を注ぎ込むことを、どうしようもなく愚かな行為だと決め付けている。今の悦びを否定して、相も変わらず未来、未来、未来！」
孔雀の台詞は多分に芝居がかっていた。伶はそれに耳を傾けながら、姉が戒めた“虚栄”とは、孔雀自身が説明したように華美な装い、贅沢な暮らしそのものを指すのではなく、もっと別の何かだろうと考えた。
贅沢や散財を戒められた程度で、孔雀があれほど烈しい怒りを露わにするはずがない。そして“愚かな野望”についても頭を巡らせた。
孔雀はどんな野望を抱いているというのか。鴉は一体、何を言わんとしているのか―――
「……ともかく、お姉さんからの伝言は伝えました。二人の間の溝が少しでも埋まるよう願ってます」
伶は思ってもいない社交辞令を口にして、ゆっくり立ち上がった。孔雀は胸に手を当ててほぅっと息を吐き、
「何て温かいお言葉！ 先生は子供だけにお優しいわけではないのですね。……あら、もうお帰りになるの？ これからランチをご一緒にと思いましたのに。ねぇ、少しだけお時間宜しいでしょ？」
立ち上がった伶は、ジーンズの上から尻を拭った。
「いえ、これから『新生の家』で新しいエイド・マップの作成ミーティングがあって、顔を出す約束をしているので」
「あら、また保護適用の範囲を拡げるのね」
明らさまな皮肉に気付かぬふりをして、伶は淡々と答えた。
「一週間前には京橋駅の地下構内で、三日前には明治屋の入口脇で、口を耳まで裂かれた虐殺体が発見されました。こうなるともう、特例とは見做せない。個々のスイーパーの暴走ではなく、S・S・S自体が京橋から銀座、有楽町方面へ視野を広げ始めているのです。だから、護る側もそれに対応すべきだと……。
ただ、貴女の言いたいことも解りますよ。S・S・Sと新生の家では、組織力に差がありすぎる。力を充実させずに範囲だけ拡げても―――」
ゆっくり瞬きした孔雀は、珍しく伶の言葉を遮った。
「いいえ、先生。そうではないのです。私の記憶が確かなら、新生の家の設立目的は、子供たちを路上生活から更正させて家族の許へ返すことでした。でも今はどうですか？ より安全で快適な路上生活を送るための支援をしているだけではないですか！
嘗ての理念は忘却の彼方、もはや“新生の家”という名称は虚しいものになってしまいました。ね、先生、私は密かに恐れておりますの。この支援の行き着く先には、子供たちの完全な武装化があるのではないかと」
そうか、この女性も気付き始めているのか。伶は胸の奥で呟いた。確かに、新生の家内部に不穏な兆しがある。
しかし伶は無表情を繕って首を振り、では、と短い挨拶を残して去ろうとした。見れば、久遠ははやばやと部屋を出ている。伶も後を追おうとしたが、孔雀に突然腕を掴まれて、大きくよろめいた。
「な、何だ…？ 孔雀」
「この前のお話、もう一度考えて下さらない？」
「この前の話……ああ、ここに一緒に住まないか？ って誘いか。ちゃんと返事はしたはずだ」
早口で囁くように質す孔雀につられて、伶も自然と早口になった。
「『犯罪者しか救おうとしないアンチ・キリストを殺せ！』―――スイーパーの間で流行っているスローガンですわ。先生もご存知のはず。せめて夜だけでもここにいて下されば…」
「心配は要らない。奴らに居場所を覚られないよう、毎日寝床を転々としているから」
「いいえ！ それだけでは危険すぎます。スイーパーは決してこのツインタワーには入ってこないのですから、ファヴェーラで安全なのはここだけなのです。
お願いです、先生。私、一緒に住んでいるからといって先生の行動に干渉したり口出ししたりしません。自分が一番弟子だ、最も信頼されているんだと誇示したいがために始終傍にくっついて煩わせたりしません。ですからどうか、ご自分のことをもっと大事になさって」
「大丈夫。何かあっても久遠が護ってくれます。これまでも何度助けられたことか」
「……先生、私には分かりますの」
孔雀は、焦点の曖昧なアルカイックスマイルを漂わせてさらに顔を近付けた。そして厳粛さを演出しすぎた過剰な低音で、
「彼はいつかあなたを裏切ります。絶対に」
「どうした？ あの女と何を話していたんだ？」
エレベーターホールで待っていた久遠は、不審げに眉根を寄せて伶に訊ねた。伶はふわりと笑って、
「ん……君のことだ」
久遠は眉間の皺をさらに深めて、
「どうせまた、俺の悪口を喚いたんだろ、あの女」
「悪口……なのかな………」
神妙な顔付きで首をひねる伶に背中を向け、
「何を言ったのかは聞かない。興味もないしな」
そう言って、到着したエレベーターに乗り込んだ。途中、多くの住人が乗降を繰り返したが、好奇心剥き出しで観察する者、胡散臭げに睨め回す者、怯えて目を逸らす者、誰ひとり声を掛けてこようとはしない。ファヴェーラのキリストを知らぬ者などいないはずなのに。
しかしそれも仕方のないこと。伶には、このツインタワーを聖地とする新宗教の教祖たちが、信者に自分のことを何と吹き込んでいるか大体見当がついていた。
悪魔の王より魂と引き換えに拝受したおぞましい超能力で、幼けな子供たちを惑わし、最終的にはその生き血と精を啜るファヴェーラのジル・ド・レエ。
みみずほどの想像力しかない人間には、このくらい現実離れしたおどろおどろしい劇薬を注入しないと効果がないのだろう。ツインタワーの中なら伶の安全は確保されるという孔雀の現状認識は、些か甘いと言わざるを得ない。
「どうする？ 本当に新生の家に顔を出すのか？」
久遠が背中を向けたまま訊ねる。
「そうだな、吐いた嘘の埋め合わせを、せめて半分でもするとしようか。よし、５階で降りよう」
「エイド・マップなんて疾うに機能しなくなってるのに……」
久遠はぶつぶつ言いながら、伶に付いてエレベーターを降りた。
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