ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
3話＜無能な神＞
「い…いたい……いたいよぅ………」
人気の失せた地下街の片隅。一人の少年が横たわって、間断なく襲う激痛に悶えている。汗、涙、鼻水、涎、あらゆる体液を垂れ流し痛みを訴えるその姿を、少年と面差しのよく似た別の少年が悲壮な顔付きで見守る。
「しにたい……しにたい……ころして……ころしてぇぇ………」
分かっている、君の望みは分かっている。そしてそれが、最善の解決法であることも。
それでも僕にはこれしかできない。傷を癒し、再びこのファヴェーラという苛酷な現実に放り込むことしかできない。
たとえこの傷を癒しても、遅かれ早かれ君はまたスイーパーの餌食になるだろう。そしてその小さな身体で、大きな苦痛に立ち向かわねばならない。この残酷な輪廻を、僕は君に強いるだけなのだ―――
「許して……くれ………」
伶は喉の奥から声を絞り出して許しを乞い、微かに震える右手を患部にかざした。患部と言ってもそれは四肢全体に及び、どこに焦点を合わせてよいか分からない。
恐らく四肢に油を掛けられ、火を放たれたのだろう。即死しない程度に、なるべく苦痛を長引かせようという意図が見え隠れする。
しかし迷っている暇はない。ともかく最も損傷の酷い左腕に集中することにした。腕全体の皮膚がずるりと剥がれ、着物の袖のようになっていた。
典型的なスイーパーによる拷問のやり方だったが、これは常軌を逸している。狂気じみていると言ってもいい。伶は気付いていた。これはスイーパーからのメッセージなのだ。
ファヴェーラの救い主さん、あんたにこの傷が治せるかな？
―――望むところだ。治してみせる
伶は意図的に呼吸を浅くして、額の中心に意識を集中させる。すると温かな息吹きが延髄を通り、肩から右手に下りてゆく。
もちろん、そんな“感じ”がするだけだ。実際にそういった現象が起きているのかは伶にも分からない。しかし少年の傷に変化が起き始めているのは確かだった。
それは、伶の身体に生じた（移った？）微かな痛みからも察知できた。共感による癒しが、今まさに成就せんとしているのだ。
伶の傍らでは、久遠が痛みに耐えるかのように拳を握り締めている。しかし実際は痛みに耐えるのではなく、痛みがないことに耐えているのだ。
命を捧げたいほどに敬愛している師が、少年の痛みを引き受けて苦しんでいるというのに、自分の身体は何も、何も感じることができない。こうして木偶のように突っ立っているだけ。
たとえ僅かでもその苦痛が分け与えられるというのなら、自分は何でもするだろう。悪魔とも契約するだろう。
「くっ………」
低い呻きと共に、伶の身体がぐらりとよろめいた。久遠は素早く動いてその身体を支える。伶は荒い呼吸の下から「大丈夫だ」と答え、再び少年に向き直った。
伶の消耗とは対照的に少年の呼吸は穏やかになり、苦悶の表情を浮かべていた顔に安らぎが戻り始めていた。そして爛れていた皮膚は剥落し、その下では血色のいい肌がみずみずしい光沢を放っていた。癒しの奇蹟が成就したのだ。
「洋平、目を開けなさい。そして、起き上がりなさい」
伶の優しさと威厳に満ちた命令に促され、少年、洋平はゆるゆると目を開けた。そしておそるおそる起き上がる。
「せ、せんせい……」
わなわなと震える唇から、それ以上の言葉は出ない。何と言ってよいか分からないのだ。
その気持ちは伶にも分かる。伶はそっと手を伸ばして涙を拭うと、まだ湿っている目尻に祝福の口付けを贈った。
すると洋平は弾かれたように伶に飛びついて腰にがっしり腕を回し、わあわあ泣いた。伶はその頭を撫でながら、「洋平、よくがんばったな」と言った。
伶の癒しを受けた子供たちが口を揃えて言うのは、“先生に名前を呼んでもらえた時の嬉しさ”だ。
あの美しい唇が動き、心地よい深みを帯びた声で自分の名が呼ばれた瞬間の悦び、陶酔。まるで自分の名前が高価な宝石になったみたいだと彼らは言った。
そう、これまで彼らは誰からも、こんな風に想いを込めて名を呼ばれたことがないのだ。尊厳ある個人として扱われたことがないのだ。
暫し伶の胸で泣いていた洋平だったが、ぐずぐずと鼻をすすり上げると身体を反転させ、傍でずっと見守っていたもう一人の少年に飛びついた。
少年はまだ信じられないのかぽかんと口を開けていたが、すぐに我に返って洋平の身体をぎゅっと抱き返した。
洋平は胸に顔を押し付けて、「にいちゃん、にいちゃぁん……」と泣きじゃくる。その呼びかけに応えるように少年はいちいち頷いて、「よかった、よかった……」と掠れた声で繰り返した。やがて顔を上げて伶を見据え、
「先生、ありがとうございました。あのままでは、弟は苦しみながら死を待つだけだったでしょう」
年齢の割に大人びた声だった。ファヴェーラの苛酷さに加え、弟を守らねばという気概が彼を老成させたのだろう。さらに少年は声を低めて、
「そして、申し訳ありませんでした。僕はこれまで先生のことを疑い、無能だと蔑んでいました。許してください……」
伶は黙って首を振り、少年の顔を正面から見つめる。そして哀しげに目を細め、
「僕は無能だ。こうして傷を治すことしかできない。なのに救い主だの何だの大袈裟に持ち上げられて、疑念を持つのも当然だ」
「先生……」
「君は間違っていない。だから自分を責める必要もない。分かったね？」
冷静且つ穏当な伶の諭しに、少年は黙って頷いた。その表情には深い共感が刻まれている。
少年には、伶の苦悩が伝わったのだ。この現実を覆すだけの力がないと自覚している、伶の苦悩が。
「………そろそろここを離れた方がいい」
久遠の言葉に異を唱える者はいなかった。同じ場所に長居するのは危険だ。特に夜のファヴェーラで同じ場所に留まっていれば、獲物の匂いを嗅ぎ付けた猟犬どもにあっという間に掴まってしまう。通勤者や買い物客のいない夜の空気は、彼らの感覚を研ぎ澄ませるのだ。
しかし、すでに遅かった。
背後でカツン、と革靴が鳴った。
「スイーパーだ！！」
少年の押し殺した叫びに弾かれ、全員が素早く動いた。久遠は伶の腕を取り、頭の中に叩き込んである逃走経路に沿って走る。二人の少年もその後について走った。
八重洲地下街はもともと複雑な構造をしている上、スイーパーの追撃をかわすためSCたちが勝手に築いたバリケードのせいで、容易に抜けられない迷路と化していた。
もちろん久遠はその全てを知り尽くしている。どの出口から地上に出るのが最も安全か、どの通路が障害物が少なくて危険か。
「あそこから上がるぞ！」
久遠が指示した出口に飛び込み階段を駆け上がろうとしたが、洋平がいないことに気付いた。見れば彼らからずいぶん遅れて、後方を必死に走っている。
無理もないだろう。つい先刻まで火傷の苦痛と闘い、生死の境を彷徨っていたのだから。
「洋平っ、早く来い！」
「うんっ、にいちゃ……」
その時、バリケードの隙間から男がぬっと現れた。と同時に銃声が響き、洋平の身体が後ろにのけぞる。
「洋平っ！」
叫びながら戻ろうとする少年を、久遠はぐいと引き戻して階段に投げ飛ばし、次の瞬間視覚に捉えられないほどのスピードで男に飛びかかった。
完全に虚を衝かれた男は手にしていた短銃を落としたが、それでより一層冷静になったのか、素早くナイフを取り出して久遠に襲い掛かった。
「久遠っ」
ガツッ、と重厚な金属同士がぶつかる音が響き、「ギャアッ」と潰れた悲鳴が聞こえた。悲鳴の主はスイーパーだった。肩を押さえる手から大量の血を滴らせ、上半身を激しく上下させている。
久遠の左手には篭手のような装甲が嵌められており、その先には厚みのある三叉の刃が伸びていた。
これが久遠の武器。彼のもうひとつの故郷であるペルシアの地に嘗て栄えた一族が、他民族を制圧するのに使用したと伝えられる古（いにしえ）の武器だ。
殺傷能力は非常に高いが、手首の自由を奪われるため扱いが難しく、身体への負担も大きいという。しかしその伝説の武器を久遠は難なく使いこなし、幾度となく伶の命を救ってきたのだ。
「……救世主の名を僭称する悪魔がッ。俺たちこそが正義だ！」
スイーパーは久遠ではなく、その背後に立つ伶に向かって叫んだ。久遠はその言葉からも伶を守るように腕を広げる。伶は冷ややかに、そして厳かに宣告する。
「ファヴェーラの存在そのものが悪だ。ここには如何なる正義もない」
スイーパーは血走った眼に憎悪を漲らせて伶を睨むと、「悪魔め…」と弱々しく吐き捨て、血痕を散らしながら逃げ去った。
「洋平、洋平っ！」
すぐさま少年が飛び出して、倒れている弟の許へ駆け寄る。伶もその後に続いて駆け寄り、傍らに跪いて素早く手を翳した。しかし……
「洋平っ、洋平っ」
頭からは血だけでなく、薄桃色の脳漿も流れ出ていた。スイーパーが撃った弾は、確実に洋平の頭を貫通していたのだ。
即死は明らかだった。それでも伶は手を翳し続ける。もしかしたら、もしかしたらまだ間に合うかも―――
「師よ、無駄だ」
「…………」
「もう死んでいる。死んだ者は生き返らない」
「……分かっている！」
伶は鋭く叫んだが、手を下ろそうとはしなかった。しかしいくら念じても、痛みの共感は起こらない。やがてがくりと腰を落として座り込み、
「僕は………無力だ…………」
自らを鞭打つ言葉を繰り返したのだった。
遺体をこのままにしておくわけにはいかない。況して警察に通報などしたら、どんな惨い処置をされるか分かったものではない。
伶はすぐに『新生の家』へ連絡して、簡単に事情を伝えた。それから数分で二名のスタッフが現われ、遺体を担架に乗せた。
二人とも久遠には簡単な挨拶をし、洋平の兄には励ましの言葉を掛けたが、伶のことは豪快に無視した。新生の家の若いスタッフ達は、日ごろから伶を胡散臭い香具師と看做して信を置いていなかった。
ファヴェーラで最も有名な人権保護団体としての矜持もあっただろう。多分に嫉妬も含まれていたかもしれない。
それも無理はなかろう。これまで地道な活動で子供たちの信頼と友情を得てきたというのに、伶はその頭上を易々と飛び越えて、あっという間に子供たちの心を、否、魂を掴んでしまったのだから。
「君の弟は、寧らかに眠れるよう僕たちがちゃんと弔うからね」
少年は涙を拭って、気丈に頷いた。スタッフはその頭を撫でながら、
「本当に……いつになったらファヴェーラは救われることやら。そろそろ本物の奇蹟を見せてもらいたいものだ」
伶に対する明らさまな当てこすりを呟いて、作為の溜息をつく。もちろんそれに対し、伶は反論するつもりもなかった。
しかし意外なことに、その言葉に最も厳しい反応を示したのは洋平の兄だった。二人のスタッフをキッと見上げて、
「先生はただ、自分のできることを懸命に実行しているだけだ。それを馬鹿にする権利は誰にもない」
ぴしゃりと言い置いた。が、すぐに深々と頭を下げて「弟をよろしくお願いします」と頼むと、伶と久遠には軽く一礼して夜のファヴェーラに消えていった。
スタッフ達は暫し呆然としていたが、やがて小さく鼻を鳴らすと二人に挨拶もせず、担架を運び出したのだった。
「……師よ、我々も帰ろう」
久遠の言葉に頷きかけた伶は、そっと手を伸ばして久遠の腕に触れ、
「その前に、傷の手当てが先だ」
「……気付いていたのか」
伶は淡く笑って、
「血の匂いや傷口が放出する熱気には敏感でね」
上着で巧みに隠していたが、肩から脇にかけて血が滲んでいた。しかし上から翳そうとした手を久遠は掴んで首を振り、
「この程度なら、あなたの癒しを受けるまでもない。それに、さっきの火傷の治療でかなり消耗しているはずだ」
「大丈夫だ。それほど消耗はしていない」
久遠を宥めるための強がりではなかった。事実、施術時の痛みの共感が最近は加速度的に薄れ始めていたのだ。体内のエネルギーを吸い取られるような感覚も、確実に減少していた。
かといって、治癒の力が弱まったわけではない。いや、寧ろ能力はますます高まり、軽く念じただけで大抵の傷は治せるようになっていた。まるで、神の奇蹟のように。
「さあ、久遠。大人しく治療を受けるんだ」
「……分かった」
久遠はほんの少し不貞腐れたように答えて、伶の手を離した。伶は再び傷口に手を翳し、意識を集中させる。
「………っ」
久遠は声に出さず悦びに悶える。伶の治癒を受ける、それは素晴らしく甘美な瞬間だった。伶の体内にある光が我が身に注がれるような、魂の奥深くで繋がり合うような。
そしてそれは、性的な高揚にも似ていた。
「……さあ、久遠。僕らの家へ帰ろう」
いつの間にか施術は終わっていた。久遠はほぅっと息を吐いて甘い余韻を払い、いつもの用心深い獣に戻る。
しかし下腹部に凝集した熱は散ることなく、ずくずくと疼いて存在を主張し続けていた。
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