ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
23話＜喜劇への幕開け＞
霧夜に掴まれた腕が熱い。背後の男たちが吐く息も、熱く湿って獣の臭いがした。伶を取り囲む情慾の温度が急上昇を始める。しかしそれとは対照的に、伶自身の温度は冷めていった。いささか投げ遺りな口調で、
「代わりに僕を抱きたいと？」
霧夜はその問いには答えず、ただ「杏樹には飽きたんすよ」と繰り返すばかり。交換条件を提示したという言質を取られまいと用心しているのだろう。万が一“上の人間”にバレた時、伶の方から持ちかけられたと言い逃れるつもりなのだ。
伶は侮蔑も露わに霧夜を見返して、
「そんな条件を僕が呑むと思っているのか？」
「思ってますよ。だって先生、あの男前なお弟子さんと毎晩ヤッてるんでしょう？ 俺らの方がもっと愉しませて差し上げますよ」
霧夜はしゃあしゃあとしてそう言うと、伶の腕をぐいと引き寄せた。伶は倒れ込みそうになった反動で霧夜の胸を突き飛ばし、部屋を出ようとした。
しかし残る二人に掴まり、乱れたソファベッドの上に押し倒された。すぐさま起き上がろうとしたが一人に両手を、一人に両脚を押さえ込まれて、あらゆる抵抗を封じられた。
自由なのは口だけだったが、今さら何を言っても彼らの脳に届かないであろうことは、男たちの表情と呼吸で分かった。荒れた生臭い息と、欲望で爛れた赤黒い顔。
ベッドに縫い付けられた伶に霧夜はゆっくり近付いて、シャツの襟元を掴んだ。そして力任せに引き裂いて、伶の首筋から胸までを外気にさらした。
自堕落な生活そのままの汚れた部屋に、突然現れた神聖なる領域。それを見た霧夜の顔は生々しい喜色に沸き、夢中で顔を寄せて舐め回した。
「ぅっ………く、」
生温かくぬめったものが素肌を這い回るおぞましい感触に、伶は眉根を寄せて不快を露わにする。
顔を歪めているにもかかわらず美しさが損なわれることはなく、辱めを受ける処女の如き悩ましくも可憐な風情に身体を押さえ付けている男たちは釘付けになり、高まる欲望で股間をさらに膨らませた。
そうするうちに霧夜は顔を胸まで滑らせて、薄桃色のささやかな突起に歯を立てた。伶は四肢に力を入れて抵抗しようとしたが、もちろんびくともしない。霧夜が愉しんだ後のおこぼれに期待しているのか、二人の男は文句も言わず霧夜のため忠実に伶を拘束していた。
歯による刺激で紅く膨れた乳首を舌で転がしながら、霧夜は片手で器用に伶のベルトを外し、ジッパーを下ろした。そして下着の中に手を突っ込んで、熱い手のひらで下腹部を撫でる。そのままさらに奥へ進んで、伶の分身に指を絡めた。
「ありゃ、全然感じてねえ。先生、気持ちよくないっすか？」
霧夜はとぼけた口調でそう言うと、下着をずり下げて伶の柔らかな性器を外に出した。淡い鴇色にのぼせた竿を目を細めて眺め、「俺に付いてんのと同じとは思えねえ」と素直な感想を漏らす。そして根元をぎゅっと握り込んで、鈴口を丁寧に舐め始めた。
「んっ………や、め………」
哀願や喘ぎは相手を悦ばせ、焚き付けるだけだと分かっていたから、絶対に声を上げまいとこらえていた。しかし突然の直接的な刺激に、思わず反応してしまう。案の定、霧夜は顔中の筋肉を弛めてニタニタと笑った。
「色っぽいっすねえ、先生」
そして手の中でひくひく揺れる伶のモノに音を立てて吸い付きながら、「神様を犯すってどういう気持ちなんだろうな」と嘯く。さらに空いた手を谷間の奥へ滑らせて、いずれ裂くことになる蕾をクチュクチュといたぶった。
こうした執拗な辱めに、伶は唇を噛んで耐えた。今暴れたところでどうにもならないことは分かっている。
ずっと足を押さえ付けたままでは最終的な行為に及ぶのは無理なのだから、いずれは姿勢を変えざるを得ない。逃げるのはその時しかないだろう。伶は諦めた風を装って、取り敢えず好きにさせた。
そうするうちに、蕾を嬲るのに飽きた霧夜は、潤滑油で濡らした指をゆっくりと後孔に押し込んで、肉壁に馴染ませるようにグリグリと捩った。
異物を受け入れるのには慣れているし、ここから途轍もない快楽が生じることも疾うに知ってはいたが、この状況下で快感を覚えるほど淫乱ではない。伶は込み上げる嘔吐感に耐えながら、抵抗のタイミングを計った。
「そろそろ……挿れてもいいっすかねえ、先生」
霧夜はみっともなく上ずった声で卑屈な伺いを立てると、答えを聞く前に足を押さえている男に目配せした。すると男は素早く伶の下穿きを脱がせて下半身を生まれたままの姿にし、脇にどいて霧夜のために場所を空けた。
そして霧夜が伶の足を抱えようとした瞬間だった。皙く嫋やかな足は優雅な曲線を描いて、霧夜の首に振り下ろされた。霧夜は「ぐぇッ」と潰れた悲鳴を上げてその場に昏倒する。男たちは突然の反撃に恐慌をきたし、伶の身体を拘束する手が疎かになった。
もちろん伶はすぐさま起き上がり、近くにあったガラス製の重厚な灰皿を男の顔目掛けて投げ付けた。ゴツッという鈍い音と共に、伶の手を拘束していた男は額を押さえてうずくまった。
しかし、反撃もここまでだった。最後の一人はようやく自分の為すべきことを思い出したのか、低く唸って伶に飛びついた。そのまま床に倒れ込み、伶の上に馬乗りになってぎりぎりと肩を押さえ付ける。
痛みに呻く伶を見た瞬間、男の双眸に残忍且つ淫蕩な輝きが点った。指をもつれさせながら自身の前を寛げて熱り立つ逸物を取り出し、鼻息も荒く伶の足を掴んで大きく開かせた。
次の瞬間、男は挿入もせず昇天した。伶の上にどさりと倒れ込み、そのまま床にずるずると昏倒する。伶は驚きを隠さず、突然失神した男の顔を呆然と見つめた。そしてようやく顔を上げ、目の前に立つ彼を見上げた。
「氷魚……」
氷魚はたった今自分が殴り倒した男を無雑作に足で蹴り転がし、残る二人の部下を睨め付けた。
「てめえら……覚悟はできてるんだろうな………」
氷魚が発したたった一言によって、室内の温度は急降下した。空気の粒子が凍結するのが肌で分かる。おどけた猿の仮面の下から現れた、冷酷な猛禽の本性に恐れ戦いて。
「霧夜、お前には失望させられた」
氷魚のこの言葉は恐らく、死刑宣告にも等しいのだろう。霧夜の顔がさっと蒼冷めたと思ったら、土気色に変わっていった。
「ま、まま待ってください。これは、その、そんなつもりでは―――」
「この方が、俺らにとって、ファヴェーラにとってどれほど大事な存在か、侵すべからざる聖域か分かっているのか？」
「わ、分かってますっ！ もちろんです！ ですから―――」
「そうか。分かっているなら話は早い。てめえの後始末はてめえで付けろ」
霧夜は眼球が落ちそうなほど大きく目を見開いて、氷魚に切実な眼差しを送った。が情状酌量の可能性はないと覚ると、震える膝を叱咤して立ち上がり、部屋から逃げ去った。
「き、霧夜さんっ」
残された男は情けない声で叫ぶと、慌てて後を追って行った。
伶の傍らで伸びている男も含め、今後ファヴェーラで彼らの姿を目にすることはないだろう。
「……先生、本当に申し訳ない」
氷魚は伶の前に膝をつき、額を床にこすりつけて謝った。冷酷な猛禽は、すでに卑屈な猿の仮面を被り直していたようだ。
「本当は俺が来てご案内するはずだったんですが、新生の家での最後のお勤めに時間を取られちまいまして。奴らに任せた俺の判断ミスです」
伶は何も言わず、黙って頷くに留めた。氷魚はゆっくり顔を上げて伶を見据え、
「二度と同じ過ちは犯しません。本当に、申し訳ありませんでした」
再び伶が黙って頷くのを確かめると、氷魚はすっと目を逸らして立ち上がり、放り出された伶の服を拾い上げた。そして目を逸らしたまま差し出し、
「すいませんが、先生。とにかく服を着てもらえますか？ 俺も男なんで。その格好は正直……ヤバいです。たまんねえ」
言われて伶は、改めて自分の格好に目を向けた。破かれたシャツだけをまとって、剥き出しの生足を投げ出してぺたんと座り込んでいる。もちろん、股間を隠すものなど何もない。
「あ、ああ。分かった」
伶は下着とズボンに素早く足を通したが、ボタンの弾け飛んだシャツはどうしようもない。
「着ましたか？」
「ああ、一応着たけれど……シャツが肌蹴てしまう」
すると氷魚は自分が着ていた薄手のジャケットを脱いで、伶に手渡した。
「これを着てください」
「済まない」
「いいえ、とんでもねえ」
氷魚のジャケットは、伶には少し大きかった。前ボタンをきっちり留めて、袖を捲り上げて何とか誤魔化した。
「そんじゃ、お送りしますぜ」
先に立って部屋を出ようとする氷魚に、伶は「ちょっと待ってくれ」と声を掛けた。そして杏樹が監禁されている部屋の前へ。ガラス窓から中を覗くと、杏樹は先刻と同じ姿勢で同じ雑誌を眺めていた。
「……あと少しですから。あと少しで楽園の礎が出来上がり、全てが軌道に乗る。そうすりゃ杏樹は先生のもの。それまでの辛抱ですよ」
宥めるような、労るような言葉の裏で下手なことは考えるなと釘をさす。氷魚という男の持つ底知れぬ二面性を改めて見せられた伶は、従順に頷くより他なかった。
今さらどう足掻いても遅い。賽は投げられたのだ。彼らの描くシナリオに沿って、救世主の真似事をしてみせるしかないだろう。彼らの茶番からどうやって抜け出すかは、杏樹を保護してから考えればいい。
伶は“必ず助けるからな”と扉越しに誓いを立てて、背中を向けた。
それから二週間、氷魚からの連絡は途絶えた。『児童のための自立教育プログラム実施特区』、通称“楽園”の設立に向けた準備がどの程度進捗しているのか、伶の耳にはほとんど情報が入ってこなかった。
もちろんそれは想定内のことで、初めから自分は蚊帳の外。何の実質的な権限も発言権もない、神輿に乗せられた御神体のようなものだと分かってはいた。
だから伶は気に留めることなく、これまで同様ファヴェーラを歩き回って傷付いた子供たちに手を翳し続けた。
相変わらず伶をメシア扱いして手を合わせ、涙を浮かべて追い掛ける輩は後を絶たなかったが、ともかく平穏な毎日が続いた。
そうするうちに、駅構内などで楽園に関するパンフレットを目にするようになった。鮮やかな虹をバックに、子供たちが笑顔で手を繋いでいるイラストが描かれた表紙には、確かに明るい未来が詰め込まれているように見えた。
伶は何度か立ち止まり、パンフレットを眺めたが、手に取って中に目を通そうという気はついぞ起こらなかった。
理念や運営方針、仕組みなどを知ったところで何の意味もない。氷魚が言っていた通り、自分はただ笑顔を浮かべて傷口に手を翳していればいいだけなのだから。
そして終に、幕開けが宣言された―――
「ようやく呼び出しがかかりました」
伶は電話を置いて、力なく笑った。
「これから行ってきます」
「これから？ ずいぶん急な呼び出しですね」
「予め日時を教えていたら、彼らの目論みを打ち砕く突飛な計画でも立てると思ったのかな。そんな気力も才覚も持ち合わせていないのに。僕にできるのは傷を治すことだけ」
同意を求めるように渉子の目を見つめたが、返ってきたのは無機質な沈黙だった。思わず苦笑い。
「本当に、こちらにはご迷惑をおかけしました。ほんの二、三日のつもりだったのに、結局二週間近くお世話になってしまった」
ハイエナと呼ぶに相応しい低俗マスコミに追い掛けられ、疲労困憊していた伶たちに救いの手を差し伸べたのは、渉子率いる『未来学園』だった。静かで安全な寝床と食事を提供し、押し掛けるマスコミを毅然と追い払ってくれた。
「迷惑を蒙ったのは先生の方でしょう。愚かな妹が仕出かした過ちの、せめてもの償いです」
「貴女の忠告を聞き流した僕の過ちでもある。貴女の言葉はいつもシンプルで且つ正しかったのに」
渉子の口許が僅かに弛んだ。滅多に見ることのない、彼女の微笑。
「私は自分でも嫌になるほど実務的な女なの。感傷で何かを言ったり言わなかったり、思い込みや女の勘を振り翳したりしません。できません。でも……」
「でも？」
「ひとつ例外ができました。あの＜楽園＞です。配布されたパンフレットを何度読み返しても、実態が掴めない。不安は募るばかりです。先生、あれは新たな収容所ではないのですか？」
伶はただ黙って首を振った。
「そのパンフレットに書かれている程度のことしか僕も知らされていないのです。あとは憶測、噂の域を出ない」
「私の疑念も根拠に乏しい憶測なのですが。あの連中に対する偏見があるのかもしれないし、子供たちが感じている不安が伝播したのかもしれない。それにしても……先生は楽園を支配するカリスマ的指導者として迎えられると聞いていますが」
「世間様へ向けたプロモーションですよ。典型的な“君臨すれども統治せず”。僕は光輪を被せられた道化なのです」
「先生にぴったりだわ」
渉子は口許に手を翳して、その下でそっと笑った。少女めいた仕草が嫌味に見えないのは、少女っぽく見せようと意識していないからであろう。
「そう、僕の本質ですよ」
伶もつられて微笑う。その時、隣室で幼い喚声が沸いた。午後の授業が今終わったようだ。机をガタガタ揺らし、友人の名前を叫び、教科書を乱暴に揃えてカバンに放り込む懐かしい噪音に混じって、久遠の声が聞こえる。
「…おい、宿題のプリントだ。ちゃんと持って帰って……」
照れ臭さを俄か作りの威厳で誤魔化そうとしているのがよく分かる。胸の奥が温かく、くすぐったくなるような声だ。
数人の生徒から「久遠さんの宿題はあ？」とからかわれ、囃されて、うるせえぞお前らと怒鳴り返す。やがてどかどかと雷鳴の如き足音が響き渡り、堪えきれずに教師が「いいかげんになさい！」と金切り声をあげるのだ。
「ああ……やっぱり同じレベルだわ。いつまでたっても進歩しないんだから」
渉子が呆れたと言わんばかりに呟く。無償での宿泊は双方にとって気詰まりだろうということで、久遠が授業の補助などを手伝っていたのだ。
スライドを準備したりプリントを配ったり、落ち着きのない問題児に睨みをきかせたり。“ガキどものお守はうざってえ”といつもの不貞腐れ声で愚痴をこぼしていたものの、必ず授業開始十分前には教室へ行って教材を整え、黒板周辺を掃除し、授業中は熱心さを隠そうともせず時折頷きながら教師の言葉に聞き入っていたことを伶は知っている。
「久遠はここにいた方がいいのかもしれない…。これから僕が立たされる悪趣味な舞台に彼を引き込むよりは―――」
「先生、ご冗談を。あんな厄介な生徒、うちでは面倒見きれません」
冷たく突き放した言葉とは裏腹に、渉子は伶に近付いた。そしてその肩を優しく押した。
「感傷的になってはいけません。あの人は三年前先生に出遭って生まれ変わったばかり。つまり、まだまだ子供なのです。こっちの方が感傷的に聞こえるかもしれませんが、それは違う。紛れもない事実です。子供には自分の親が神様だろうが悪魔だろうが金メッキの道化だろうが、関係ないでしょ？」
「僕は久遠の親だったっけ…？」
渉子はもう一度、今度は強く肩を押した。
「ぐだぐだ言わないのっ。さあ」
伶は突き飛ばされた勢いで隣室の扉に手を掛け、それを開けた。
「久遠、いよいよ呼び出しがかかった。ゲームの始まりだ。力を貸してくれ―――」
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