ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
18話＜永遠の別れ、そして帰還＞
―――手のひらにじわじわと浮かび上がる赤いしるし。やがてそこから鮮血が溢れ出し、視界を紅に染める。
ああ、これはまさに＜聖痕＞。僕には勿体ないような贈り物だ。溢れる血が身体を覆い、とても、とても温かい。このまま死ぬことができたなら、どれほど幸せだろうか。でも僕の罪はそれを許してくれない。
弟殺しの罪は僕を執拗に責め立てて、もっと苦しまねばならないと宣告するのだ………
「ん………」
心地よい温もりは、溢れる血のせいではなかった。ゆっくりと目を開けた伶は、身体を包み込む温かな腕に気付いた。
「起きたか？ 伶」
寝起きの声は掠れて、微かに甘かった。ああ、彼にもこんな声を出す器官が備わっていたのかと、無意味で感傷的な感慨に耽る。
「うん、今……。何時？ まだ暗いみたいだけど」
「五時前だ。悪いがそろそろ起きてくれ。もう……余り時間がない」
湊の言葉には、皮肉も脅しも憂いもなかった。あと少しで非番が明けるという、厳然たる事実があるのみ。伶は「分かった」と答えて起き上がろうとする。がそれをやんわり制して、
「待て。そんなに急がなくていい。それより昨夜、お前に聞き損ねたことがある」
伶は再び自分だけの温かな空間に戻り、黙って続きを促す。
「あれほど隠していた能力でファヴェーラの子供たちの傷を治して回っているのは、癒せなかった弟の代わりということなのか？」
伶はふっと笑って、
「やっぱりそこが気になるんだな。普通なら君が今言った通り、そのままで納得するはずだ。弟を見殺しにしてしまったから、その罪滅ぼしとして子供たちを救う。それで何の問題もないはずだ」
「確かにな。でも巧く言えないが……お前はそんな単純なヤツじゃないような気がする。一筋縄でいかねえっつうか……」
「お褒めの言葉、ありがとう。でも残念ながら、複雑な事情も深遠な哲学もないんだ。僕は蓮が死んだ後、何度も後を追おうとした。でもやはり、僕の罪が許してくれない。全てを一瞬のうちに綺麗さっぱり捨て去って蓮の許へ行ければ幸せだけど、どうしてもできなかった」
伶はいったん口を閉じ、ふっと息を吐く。そんなことをしている自分が何だか可笑しかった。決意を要するような重大な告白でもないのに。
「そう、僕には、子供たちの痛みを取り除いて我が身に引き受けることで、一歩一歩奈落へ近付く方法しかなかったんだ」
「奇蹟を行うことで……死へ向かうと？」
「そうだ。すでに知っているかもしれないが、僕の癒しは相手の苦痛を引き受けることで成立する。だから僕にとって施術は奇蹟でも何でもなく、純然たる肉体労働なんだ。
僕の中に蓄積された生命力、エネルギー、呼び方はどうでもいいが、ともかくそれを削り取って分け与えていると考えられる。つまり、続けていればいずれ使い果たす。そして残るのは、干涸びた残骸だけ」
施術の際の痛みは疾うに滅えて久しかったが、伶は敢えて言わなかった。いずれ復活するに違いないと自分を誤魔化して。
突然、頭上からこもった嗚咽のようなものが聞こえてきた。顔を上げて見ると、湊が肩を震わせて笑っていた。
「は、は……とんでもねえヤツだな。つまりお前は、自分が救われるために子供らの痛みを利用しているというわけか。救い主じゃなくて救われ主だな」
伶は悪びれることなく鷹揚に頷いて、
「君は核心を衝く表現が巧い。気持ちいいぐらいだ。そう、君の言う通り。自分が救われるために子供たちの苦痛を利用しているんだ」
「メシアの衝撃告白だな。お前の信奉者どもに聞かせてやりたいぜ。ま、俺が告げ口したところで一笑に付されるのがオチだろうけど」
「善意の思い込みってのはなかなか強固だからな。言うまでもないことだけど、僕はこれまでメシアだ超能力者だと僭称したことは一度もない。勝手に騒いで勝手に担ぎ上げて、その挙句ちょっとでも意に反することをしたら貴方はそれでもメシアなのか、と義憤をひけらかす。
冗談じゃない。大体、怪我が治せるくらいのことでメシアだなんて笑止千万。当の子供たちは僕のことを、気前のいい町医者くらいに思って接していると思う」
湊は荒んだ笑いで口許を汚して、
「あんまり素直に、あっけらかんと答えられると、逆に真意なのかと疑いたくなる」
「僕は君に対して誠実であるべき義務を負っているんだ。君は特別なんだよ、色々な意味で。だから信じて欲しい」
「ふ…ん、分かったよ。ところでそういうお前の真意を、あの高潔なお弟子さんは知っているのか？」
湊の問いに、伶は珍しく口ごもる。やがて曖昧な口調ながらも答えた。
「はっきり伝えたことはない。けれど気付いているのではないかな。でも……そうだな、いずれ話さねばならない時が来るだろう」
「奴はそれを受け入れると思うか？ お前の……緩慢な自殺を」
「正直言って……分からない。君はどう思う？」
湊は呆れたように唇を歪めて、
「お前のお弟子さんのことなんか、俺に分かるはずねえだろ。でも、もし俺がヤツの立場なら―――」
湊は抱擁を解いてのっそりと起き上がり、薄闇の中で禍々しい笑みを浮かべた。
「―――お前の思い通りにはさせない、絶対に」
「それじゃ、湊」
玄関口で靴を履いた伶は湊に向き直り、短い挨拶の言葉を口にした。
「ああ。送って行ってやりたいが、途中で非番が明けたら台無しだからな。呉々も気を付けろよ。昨夜みたいな能無しの阿呆スイーパーなんかに殺られんじゃねえぞ。お前は俺が殺すんだからな」
「僕にも、聖痕を贈ってくれるのか？」
「もちろんだ」
伶は心底嬉しそうに微笑むと、湊にふわりと口付けた。そして甘い余韻を振り払うようにくるりと背中を向けると、扉を開けた。
「……またな、伶」
この次逢った時は必ず殺す、その揺るぎない意志を込めて湊は言った。伶は振り向くことなく、黙って部屋を後にした。
背後でコツンと音がして、伶は慌てて振り返った。が、誰もいない。暫く立ち止まって耳を澄ませていたが、追い掛けてくる足音も野卑な忍び笑いも聞こえてこない。恐らく風の悪戯だったのだろう。
「一人が……こんなに不安だったとは」
伶はぽつりと呟いて、口許を自嘲の形に歪めた。使命感と揺るぎない愛情をもって、いつも黙って傍にいてくれる久遠の存在にどれほど支えられているか。いなくなって初めて存在の大きさ、重要性に気付くだなんて余りに安易だったが、実際その通りなのだから仕方ない。
伶は自然と速まる歩みを抑えようともせず、アジトへ向かう非常階段を駆け上がった。一応周囲を見回して安全を確認してから、扉を開ける。遮光カーテンに朝日を奪われた室内は薄暗く、ひんやりした空気が肌を突き刺す。
伶は薄闇を掻き分けるようにして奥へ進み、部屋の入口でぴたりと止まった。
「久遠、ただいま」
ソファの上で、空気の重みに耐えるかのようにうずくまる久遠。広く逞しい背中は小さく丸まって、置き去りにされ途方に暮れる子供のようだった。
「久遠、ただいま」
もう一度、声を掛ける。伶のいない世界を拒絶しようとあらゆる感覚を閉ざしていたのか、久遠の反応は鈍かった。
しかしようやくのろのろと顔を上げ、入口に立つ伶の姿を認識した。ただの暗い虚（うろ）だった眼窩に輝きが蘇り、きりきり音を立てて焦点を結んでゆく。久遠は言葉を返す間もなくがばと立ち上がり、長い足をもつれさせて伶に駆け寄った。
が、手前でぴたりと足を止め、おそるおそる手を伸ばす。伶はその手を取って祝福の口付けを贈ると、自分の手のひらを眼前にかざして、
「ほら、大丈夫だろう？ 聖痕なんて影も形もない。もちろんこめかみを撃ち抜かれてもいない」
そう言ってふわりと笑った。しかし久遠は笑みを返すどころか、額に剣呑な翳を落として伶の腕を力任せに引き寄せ、
「あなたはッ………俺がどんな気持ちで夜を耐え過ごしたか分かっているのかっ」
「一睡も……できなかったみたいだな」
「当たり前だッ。俺は、俺はっ………」
渦巻く感情の激しさに言葉が付いてゆかず、わなわなと震える唇からこぼれるのは荒く湿った呼吸だけ。伶は拘束されていない方の腕を久遠の背中に回して、あやすように撫でさすった。
「悪かった。もう二度とこんなことはしない。約束する」
「くッ………ぅ、ぅ………」
久遠は答えようとするがやはり言葉が出ず、代わりに安堵と不安と喜びと怒りと、複雑な感情が濃縮された嗚咽を漏らした。
「久遠、悪かった。久遠………」
背中を撫でる手の温かさと、鼓膜を撫でる囁きの優しさに、久遠を襲った感情の波涛もようやく凪ぎ始めた。
「本…当に無事なんだな？ 何もされていないんだな？」
「ああ。君の目で確かめてみるといい」
伶の言葉を受けて久遠は掴んでいた腕を離し、伶の目許から頬、顎までを、繊細なアンティークを扱うかのようになぞってゆく。
久遠が時折見せるこうしたたどたどしい愛撫が、伶はとても好きだった。そっと目を閉じて、されるがまま身体を預ける。
しかし、そんな甘やかなひとときは長続きしなかった。久遠の指先は首の付け根、鎖骨の上辺りでぴたりと止まった。次の瞬間、有無を言わさず伶の身体を抱き上げ、無言のまま寝室へ。
「久遠？ どうしたんだ、一体……」
戸惑う伶を措いて、その身体をベッドの上へ座らせた。そして感情を押し殺した低音で、
「服を脱げ」
くすぐったいし面映いから僕に敬語は使わないでくれ。伶は嘗て久遠にそう言って、久遠も渋々ながらその通りにしてきたが、だからと言ってこんな風に頭から命令することなどなかった。
しかし久遠の声に暴発寸前の不穏な熱を感じた伶は、黙って言われた通り服を脱いだ。セーターやシャツはもちろん、下着も含めて全て脱ぎ捨て、生まれたままの白い裸身を晒した。
それを目にした久遠は拳を震わせ、奥歯をぎりぎり噛み締めて禍々しい衝動を何とか抑えた。伶の身体に散る情交の痕を咬み千切りたいという衝動を。
「あいつと……堕天使と寝たのか？」
「ああ」
久遠はがくりと膝を折り、伶の前に跪いた。そして細い朝日がもたらす薄明の中で暈然と輝く伶の身体を見上げる。
散々揉まれ吸われたのか、普段は奥床しい桜色に震える胸の突起は、生やかな紅に染まって膨れていた。
最初に久遠が見つけた首筋の痕以外にも、同じような紅い花が脇腹や臍の下、太ももにも散っている。顔をちょっと近付けただけで、湊が染み込ませた雄の匂いが立ちのぼってきそうだった。
久遠はたまらず顔を背け、震える拳を見つめながら必死に冷静な言葉を探す。
「あなたは誰のものでもない、それは分かっているっ………」
いや、違う。言ったそばから久遠は自らの言葉を否定した。伶は今も昔も、そしてこれからも、ずっと弟のものなのだ。
弟のことだけを想い、弟との思い出に生きる。誰に抱かれようが気にするはずもない。弟でなければ、誰に抱かれても同じこと。
「師よ、俺をっ―――」
弟の代わりでもいい、俺を見てくれ、俺だけを見てくれ。本当にそう言おうとしたのか分からない。しかし久遠が言葉を続けるより早く、伶は両手を伸ばしてその頬を包み込んだ。
「久遠、約束する。もうしない。二度としない」
さらに腕を伸ばして久遠の首に巻き付け、そのままとろりと流れるように抱き着く。
「僕の身体は君だけのものだ。だから久遠、僕が全てを使い果たし、干涸びて朽ちるその時まで傍にいて見守ってくれ……」
ああ、久遠に何が言えただろうか。ただ委ねられた身体を夢中で抱き締め、壊れた自動人形のように何度も何度も頷くばかり。
そうして暫く抱き合っていた二人だったが、伶が小さく身震いするのに気付いた久遠はようやく我に返り、あたふたと抱き上げてベッドに寝かせた。
「師よ、このままでは風邪をひく。服を着るんだ」
伶は婀娜っぽい眼差しを投げ掛けて、
「君が脱げと言ったんだ」
「いや……だからもういい。もう分かったから早く着てくれ」
伶はゆっくりと脚を開いて、
「本当に分かったのか？ もういいのか？」
久遠の精悍な喉が上下に動いた。言葉より雄弁な返答。伶は嫣然と笑って手を差し伸べ、
「路上に出るのは午後からでいい。それまでは君の好きにしていいから。お仕置きでも何でも受けよう」
久遠は伶の膝に手を掛けてさらに大きく開かせた。
「では、確かめさせてもらう。いいな？」
「ああ。御心のままに……」
自分の言葉が可笑しかったのか、伶はくくっと笑った。そして久遠の口付けを誘うように、嫌らしく舌を動かして唇を舐めたのだった。
BACK TOP NEXT