ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
6話＜神の手＞
闇の粒子を乱さぬよう、息を潜めて泳ぐように移動する。扉を開けて身体を滑り込ませ、そおっと閉めた。扉はコホ、と貴婦人の咳のような音をたててぴったり閉まった。
伶はそのまま室内を進む。窓から射し込む月明かりに頼らずとも、蓮が寝ているベッドに近付くのは容易だった。
ベッドの傍らに跪き、愛しい弟の愛しい寝息に耳を傾ける。自分よりずっと大人びて、妙に老成したところのある蓮だったが、寝顔はやはりあどけない。自分が守ってやらねばと、切実に思う。
―――この足さえ動けば………
先刻、蓮が喉奥から絞り出すように呟いた言葉が頭から離れない。下肢が不自由なことに対する苦悩を、蓮がここまでストレートに口にすることは滅多にない。いつも明るく朗らかで、動かない足を冗談の種にして自ら笑い飛ばすこともあった。
しかもほとんど人の手を借りず日常の動作をこなしてしまうのだから、伶は時折、蓮が障害者であることを忘れてしまうほどだった。
だからこそ、伶は罪悪感に押し潰されずに済んでいたともいえる。蓮を自分の傍に縛り付け、自分なしでは生きられないようにするため、機能損傷した部分に癒しを与えることなく放置しているという罪深い行いを、強く意識せずにいられたのだ。
「れん………」
伶は手を伸ばして布団の上にそっと翳した。もう遅いのかもしれない。しかしやってみなければ分からない。あとは念じるだけでいいのだ。そうすれば、この特殊な能力によって蓮の足は動くようになるかもしれない。
特殊な能力―――即ち、他人の苦痛に同調してその傷を癒す能力によって。
伶自身、その能力の由来を知らなかった。調べてみた限りでは、彼の肉親、縁者の中に同様の能力を持つ者はいなかった。記憶を辿ってみても、能力を開花させるきっかけとなったような事件、事故に遭遇した痕跡は見出せない。
いわゆる物心ついた年頃には既にこの能力は伶の一部で、目が見える、足が二本あることを改めて意識することはないのと同じく、人の痛みを吸い取る（と、当時の伶は理解していた）ことができるのは何故だろうと考えることはなかったのだ。
しかしだからと言って、能力を自在に発揮して奇蹟を振りまいていたわけではない。伶は当時の彼が信頼と好意を寄せていた人物、父方の祖父母だけにしか自分の“秘密”を打ち明けなかったし、手を翳すこともなかった。
もちろん、祖父母が口止めしたからでもある。二人とも、伶の能力が喧伝され、悪用されることを非常に恐れた。
いや、たとえ悪用されずとも、この治癒術は人の苦痛を僅かでも引き受けることによって成り立つものなのだから、可愛い伶にそんな惨い真似はさせられぬ。彼らは厳しい箝口令を布いて、それを伶にも厳守させた。
伶は子供らしい意固地さで約束を守り抜いた。だいいち、自分が痛い思いをしてまで治してしてあげたいと思うのはおじいちゃん、おばあちゃん以外にはいなかった。
伶だって痛いのは嫌だったし、恐かった。それに、安易な施術は大きなリスクを伴うことも徐々に学んでいった。
小学校に上がって間もない頃、祖父母の家の庭に迷い込んできた猫の傷を気紛れで治してやったことがあった。
その猫は後ろ脚に大きく抉れたような傷を負っていたものの、既に血は止まっており、庭の隅で丸まって微睡んでいたのだ。ミーミー鳴いて痛みを訴えることもしない。寧ろ安らかな寝姿だった。
だから伶は反動を大して恐れず手を翳したのだが、次の瞬間、下肢が燃え上がるような激痛に襲われて、声をあげることもできずその場に頽れた。
痛みはやがて退き、気が付けば猫も姿を消していたが、その時感じた恐怖、いや、より深く神聖な畏怖は、今でも滅えることなく伶の心に鉤爪をたてている。
あの猫は何故、どうやって痛みに耐えながら安らぐことができたのだろうか、と。
こうして反動の経験を積んだ伶は、ますます自分の能力を隠すようになった。隠すということはより強く意識するということでもある。その頃から伶は、能力の特殊性を意識するようになった。
この治癒術は誰にでもできるものではない、いや、誰にもできないことなのだ、と。しかし、何故誰にもできないことが自分だけはできるのかと、自問の泥沼にはまることはなかった。答えは既に出ていたから。
「この子は神さまの子なの」と、若く美しい母親は周囲の反応を憚ることなく平然と触れ回った。
確かに伶は見る者を慄然と竦ませるほど美しい子供で、頭脳の方も“神童”というセピア色の称号が相応しいほど秀逸。小学校、中学校の成績は常に他を圧倒して独り頂点に安座していた。
つまり、“神さまの子”という母親の妄言を思わず許容してしまうような、どこか超然とした空気を纏っていたのだ。
ともかく明らさまに異を唱える者も、伶の母を気違い扱いする者も出なかった。彼女は息子にもはっきりと「あなたは神さまの子供なのよ」と言い聞かせていたから、伶が自分に特殊な能力が備わっているのは当然だと、躊躇なく信じ込んだのも無理はないだろう。
もちろん今は、そんな妄言を信じてはいない。だいいち本当に神様の子供だったら、こんな痛い思いをせずさっと治してあげられるはずだ。痛みに耐え、冷や汗を垂らしながら奇蹟を行う神様なんて聞いたことがない。
それに、全き善である神は、最愛の弟の障害を放っておくなんてことは決して許さないはずだ。
伶はこれまで幾度となく蓮に手を翳し、念じる前に引っ込めた。本当に弟を愛しているのなら、治癒にためらうはずがない。お前の愛情は偽物だ、自己愛の醜い偽装だ―――斯様な断罪の声が頭の中で反響したが、その声が勝利を収めることはついぞなかった。
施設の一室で初めて蓮に対面した時、自分とは正反対の容姿を持った、それでも何故か血の繋がりが濃厚に感じられたたった一人の弟、これまで凄絶な孤独を強いられてきた弟に心奪われ、それ以来、蓮を独占したいという欲望に振り回され続けてきたのだ。
今でも鮮明に覚えている。薄暗く殺風景な部屋で一人、機械的な動作で本のページをめくる蓮にゆっくりと近付き、「お兄ちゃんと一緒に暮らそう」と告げた時の反応。
ページを繰る手をぴたりと止め、おそるおそる顔を上げてこちらを見た。今の蓮からは想像もできないほど小さく華奢な身体。ただ瞳だけは大きく、薄闇を跳ね返して炯々と輝く。真直ぐ向けられた眼差しの強さに、伶は慄然と立ち竦んだ。
伶はこくんと喉を鳴らし、もう一度「お兄ちゃんと一緒に暮らそう」と言って手を差し伸べた。
すぐに受け入れてくれるとは思っていなかった。どんなに時間がかかっても構わないから、これまでの失われた時間を少しずつ取り戻す。その強い想いを胸にここを訪れたのだ。
すると蓮は膝の上の本を払い落とし、自ら手を伸ばしてきた。伶のよりずっと小さな手は、驚くほどの強い力で握り返してきた。その小さな手には、彼がこれまで背負ってきた孤独、寂しさ、不安が詰まっていたのだ。
何があっても絶対にこの手を離さない―――その誓いが灼け付くような独占欲に変わるのに、時間は掛からなかった。弟は僕のものだ、誰にも渡さない、と。
その想いが蓮の足を癒す妨げとなってしまうとは、何と皮肉なことだろう。愛とは際限なき執着で、決して美しいものでも善なるものでもない。その真理を、伶は身をもって思い知ることになったのだ。
「蓮……僕はっ………」
このままではいけないと分かっている。自分たちはこれまで他人の存在を排除し、互いに足枷を嵌め合って現実から隔絶された象牙の塔に引き蘢っていた。
愛している、あなた以外は何もいらないと囁き合って、理性を麻痺させる蠱惑の白昼夢に微睡む。しかし象牙の塔は脆く、ちょっとした現実の干渉で揺らいでしまう。故にいつも不安に苛まれ、様々な刺激に必要以上に敏感になってしまうのだ。
先刻の蓮がまさにそうだ。心に灯った小さな黒点は、あっという間に膨張して蓮の心を侵蝕してゆく。やがて心の全てが不安の闇に染められた時、蓮はどんな行動を起こすだろうか。
その先に待ち受けるものが何であるか、伶には分かるような気がする。愛する者を完全に所有する方法。それは愛する者を自らの手で―――
「………兄さん」
甘い戸惑いに掠れた声で突然呼びかけられ、闇に溶け出していた伶の意識が引き戻された。慌ててベッドの上の蓮を見ると、月明かりを浴びた瞳がきらきらと輝いてじっとこちらを見据えていた。
「蓮……起きてたのか」
「少し前にね。兄さんの匂いがしたから」
蓮はよく“兄さんの匂い”と言うが、それがどんなものであるのか当の伶には分からない。蓮に言わせれば、それは“頭の芯が痺れるような甘美な匂い”らしいが。
「足を……さすってくれてたんだね」
「ん………ああ。そんなことをしてもどうにもならないとは分かっているけれど………」
罪深い嘘に唇が灼ける。“どうにもならない”だなんてよく言えたものだと、自嘲すら込み上げてくる。
「ありがとう。それから……さっきはごめん」
苦しげな謝罪が蓮の唇からこぼれ、伶はそっと眉をひそめた。何を謝ることがあるのだ。謝らねばならないのは自分の方なのに。
しかしそんな伶の困惑をよそに、蓮は謝罪を重ねた。
「あんなこと……言うつもりじゃなかった。ただ、不安が膨れ上がってどうしていいか分からなくなることがあるんだ。兄さんはとても優しくて、僕のことを誰よりも愛してくれている。それは分かってるのに………」
「蓮………」
何と答えてよいか分からず俯く伶の頬を、温かな指先が撫でた。
「兄さんが俯くことはないんだよ。これは僕の心の問題なんだから。それにさっきは不安の余りあんなこと言っちゃったけど、僕はこの足に誇りを持っている。これは大事な僕の一部。そしてこれまで一緒に闘ってきた仲間だ。これからもずっと、こいつに付き合っていくよ」
伶は微笑みと共に頷き、頬を撫でる指を取って唇を押し当てた。するといきなり手を掴まれ、すごい力で引き寄せられる。
「ぅわっ」
そのままぐいぐいと腕を引かれ、ついに布団の中に拘束された。伶はやんわり抵抗しつつ、
「こら。僕はもう自分の部屋に戻るぞ」
「戻れるものならどうぞ」
楽しげにそう言って、片方の腕でがっしりと伶の腰を抱く。そして空いた手をシャツの下に滑り込ませ、平らな胸を熱い手のひらで愛撫した。
「ああ……兄さんの肌は本当に気持ちいい。すべすべしてて、しっとりしてて………」
自分の言葉に酔うようにうっとりと目を細め、吸い付くような素肌の感触を愉しむ。その頃にはもう伶の抵抗もなく、蓮は腰に回した手を易々と下着の中に差し入れて、谷間の浅い部分をなぞっていた。
「れ……んっ………」
「ほら、そんな声出して。兄さんが悪いんだよ」
楽しげに非難しつつ、ツンと勃ち上がった胸の突起を指で挟んで捏ね回した。コリッコリッと固い感触が指に伝わり、蓮は思わず口許を緩めた。
「これ、食べたいなあ………」
口調は無邪気だが、声に潜む欲望は重く濃厚だった。今度は乳輪ごとつまんで強く揉み上げる。するとそれに連動するように腰がビクッと跳ねた。
「嫌らしい動きだね、兄さん」
蓮はねっとりと囁いて、谷間をなぞっていた指を奥へ滑らせた。まだ固く閉じたままの蕾を弄りながら、
「僕は今のままで十分幸せだけど、もし足が動いたらしてみたいことはあるよ」
「そうか……。何がしたいと聞いてもいいか……？」
蓮は悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「兄さんと、正常位で交わりたいな。そのあとは、兄さんを四つん這いにして後ろから貫く」
「…………」
伶はどうやら、呆れて物が言えないという状態のようだ。しかし蓮は気付かず、にこにこ笑って、
「僕が動けないから、いっつも騎乗位だもんな。もちろんそれも最高なんだけど、やっぱり色んな体位を試したいっていう男のロマンがあるんだよなあ。ね、そう思わない？」
「………いいからさっさと寝ろ」
いつもより低い声でぼそっと言い置く伶を面白そうに見つめて、
「冗談だろ、このまま寝るなんて。楽しい夜はこれからだよ」
蓮はそう言って、本格的な前戯に取り掛かり始めたのだった。
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