ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
2話＜狂愛＞
伶が帰宅した後の二人の時間は、ほぼ一定のリズムを保って緩やかに流れてゆく。夕食の時間まで蓮に勉強を教え、通いの家政婦が拵えた食事をゆっくり時間をかけて楽しみ、風呂に入って寝る。
こうして羅列すると素っ気なく潤いのない毎日のように見えるかもしれないが、二人にとってこの何気ない日常こそが豊饒の海だった。
「兄さん、風呂が空いたよ」
「ああ、ありがとう」
蓮が濡れた頭をわしわし拭きながら、リビングに入ってきた。
蓮はトイレや入浴など、日常の雑事はほとんど介助の手を必要とせず、自分一人でこなした。車椅子からベッド、床などへのトランス（移乗）も、自分の上肢だけで楽々行った。
伶は時折思う。自分が蓮のためにしてやれることなど、実はほとんどないに等しいのだと。これからもずっと傍にいて蓮を助ける―――そう思い込んでいるだけで、実際のところその必要性はないのだ。
蓮は強い。身体は頑健で、身体能力も高い。メンタルな部分でも、前向きで楽観的だ。
下肢が動かないということで社会的には＜障害者＞と呼ばれるのかもしれないが、人間としての完成度は自分よりずっと高いことは疑いようがなかった。
今は蓮が学校へ行くのを拒んでいるから、勉強を教えることで彼のサポートが辛うじてできている。
しかし蓮が学校へ行くようになったら、自分の存在意義は失われてしまう。恐らく蓮はすぐにクラスメートと打ち解けて、輪の中心となって仲間を引っ張る存在になるだろう。
もちろん、そうなるべきだと分かってはいる。いつまでも、今のように家の中に引き蘢っているわけにもいくまい。
でも、そうなった時自分は、笑顔で彼の背中を押してやることができるだろうか。輪の中心にいる蓮を、目を細めて祝福してやることができるだろうか―――
「ああ……またこんなことを………」
ぬるいシャワーを頭からかぶりながら、伶は強く首を振った。この醜い独占欲を意識しないでいられる日はなかったが、普段は努めて頭の隅へ押しやっていた。そうしないと、罪悪感と自責の念で発狂しそうになってしまう。
「蓮……僕を、赦してくれ………」
伶は力ない声で呟いて、鏡に映った己れに懺悔するかのように項垂れた。
風呂から上がった伶は、努めて頭を切り替えた。
蓮の前ではできる限り昏い情念は隠しておきたい。勘のいい蓮のことだ、ちょっとでも沈んだ表情を見せたら、また兄さん余計なこと考えてるだろと突っ込まれかねない。
「蓮、上がったよ」
蓮は頷いて読んでいた本から顔を上げ、
「兄さん、明日の予定は？」
「そうだな。明日は講義が２コマだけなんだ。午前中はないから、朝はゆっくりできる。帰りは京橋に寄って、高遠（たかとう）さんに会ってくるよ」
「高遠さんて……ああ、あの画商の……」
憐れむような蓮の視線を受け、伶は微苦笑とともに頷いた。
「ああ。でも安心しろ。付き合い易い方の画商だから」
ちなみに、蓮の匣を“神の謎かけのように美しい”と賞したシュルレアリスト画商は、“付き合いにくい”部類に入る。しかし明日会う予定の高遠氏は、伶と歳が近いことやその磊落な人柄から、友人のように気楽に話せる数少ない人物だった。
多分に偏見も含まれているだろうが、アートを生業にしている人間はクセがあって付き合いにくいという認識が、彼によって覆された。だから会いに行くのもさして苦痛ではなかった。
「今日完成した『不在のオデット』を見せてくるよ。今度新しい作品が完成したらすぐ連絡をくれと、しつこく言われてたからな」
「へえ、律儀だね」
「まあ、一応約束したし。筋は通さないと」
蓮は「ふぅん」と気のない返事をすると、無言のままベッドに移った。伶は毛布を掛けてやろうと手を伸ばす。が、その手が毛布を掴むことはなかった。いきなり伸びてきた蓮の手にがっしり掴まれ、そのままぐいと引き寄せられる。
「ぅわっ」
伶の身体はそのままベッドに倒れ込み、あっという間に上半身を拘束された。一応抵抗を試みるが、蓮の両腕はびくともしない。
「妬けるな」
耳許で、蓮がぽつりと呟いた。何気ない風を装ってはいるが、だからこそ余計に、その短い一言に込められた燻朱の感情が際立って感じられた。耳が灼けるように熱い。
「何を言って―――」
「兄さんが親切にする人間は、みんな妬ましいよ」
尚も耳許で囁きながら、蓮の手は着実に伶の衣服を剥いでいった。パジャマの前ボタンを外し、ズボンを下着ごとずり下ろそうとする。
伶はその手を掴んで阻止しようとしたが、蓮の力には到底敵わなかった。蓮はククッとこもった笑いをこぼして、
「僕の筋力に勝てるはずないだろ」
確かにその通りだった。車椅子からの、また車椅子へのトランスは大変な重労働で、上肢の筋力を必要とする。それを幼い頃からこなしている蓮に、腕力で敵うはずがなかった。
結局簡単に脱がされ、下半身を生まれたままの状態にされた。もちろんこれでお終いのはずはない。熱い手のひらで下腹部を撫でられ、伶は思わず眉根を寄せる。
「そそる表情だね、兄さん」
蓮は欲望に撓む声でそっと言い置くと、さらに声を低めて続けた。
「兄さんは分かってない。自分がどれだけ人を惹き付け、そして……狂わせるかを」
「馬鹿なことを……」
「ほら、やっぱり。僕がどれだけ心配しているか、不安に苛まれているかちっとも分かってない」
伶は深く息を吐くと平静さを繕った声で、
「蓮は僕を買い被り過ぎだ。人を惹き付けるどころか、大学では友人と呼べる人間すらいない。誰とも言葉を交わさない日もある」
「気安く言葉を掛けられないだけさ。遠巻きに眺めては、いつかチャンスがあったら親しくなりたいと思いつつ、やはり容易には近付けない。軽い気持ちで付き合えるような人間ではないって、みんな何となく分かっているんだ」
「考え過ぎだ。僕はこれまで、どちらかと言えば他人から敬遠されてきた。暗くて何を考えているか分からないヤツ。その程度の認識だと思う」
蓮は手を股間へ滑らせ、そこでやんわりと存在を主張しているものに指を絡めた。そしてうねうねと動かしつつ、
「……なら、高校の時付きまとってたあいつは？」
「湊（みなと）か？」
「ふ…ん、そんな名前だったっけ？ 兄さんも彼のことをずいぶん気にしてたようだけど」
淡々と指摘しながら、手の中のものをぎゅっと握り込む。すると抱き込んだ腰がびくんと跳ねて、手のひらに伝わる鼓動が激しさを増した。
股間からざわざわと這い上がるむず痒い電流に翻弄されつつも、伶は何とか我を保って蓮の問いに答えた。
「湊はファヴェーラの住人だ。恐らくもう二度と……会うことはないだろう………」
「ファヴェーラの？」
「ああ……。彼は高校の頃からずっと、ファヴェーラに“憧れて”いたんだ」
蓮は眉をひそめて不審を露わにした。と同時に手を伶の性器から離し、柔らかな茂みの奥にそっと息づく蕾を探る。
「変わり者だな。何であんな犯罪と薬物とゴミだらけのスラム街に」
「湊は……ファヴェーラのストリートチルドレンのために何かしたいと………んっ……ずっ…と………ぁぁッ………」
「ふぅん、ボランティアに燃える青年か。一番苦手なタイプだ」
蓮は兄の中に埋め込んだ指をぐにゅぐにゅと動かしながら、何食わぬ顔で問いを続ける。もちろん、湊のことなどどうでもよかった。ただ、与えられる刺激に耐えながら必死に答えようとする兄の悩ましく歪んだ顔が見たかっただけだ。
「で、その彼は高校を卒業してようやく夢を果たせたというわけか」
「そう…だ……彼は今………『新生の家』の一員として……子供たちのために………ぅぁッ、蓮、やめっ………」
蓮はちらと唇を舐めて「そろそろかな？」と呟き、潔く指を抜いた。そして伶を拘束していた腕もほどき、耳許で要求を囁く。
「ね、兄さん。顔の上を跨いで。舐めたいんだ、兄さんの嫌らしい花びら」
伶が蓮の要求を拒むはずがなかった。どんな無茶な要求も辱めも、嬉々として受け入れる。そうすることでしか、蓮への愛情を示すことができないのだから。
「蓮も……脱ぐだろう？」
「もちろん」
伶はまず蓮の下穿きを脱がせた。動かぬ下肢の付け根に隆々と勃つ陰茎は、自分のものよりずっと大きくてグロテスクだった。
伶は蓮の顔に尻を向けた状態で跨ぎ、腰を突き出した。すると待ち構えていたように尻たぶをがっしり掴まれ、谷間を裂くように目一杯開かれた。
「ああ、すごい……奥までよく見える………」
恥ずかしい排泄孔を観察されているのだという灼けつくような意識は、背徳的な悦びを内包していた。もっと、もっと眺めて欲しい、辱めて欲しい。
やがて生温かい吐息が掛かったと思ったら、熱くぬめる触手めいたものが孔の周囲を這い始めた。
「ぁッ……れ…んっ………」
尾てい骨から背骨の上を、無数の蟲が列をなして這い上がるかのようなおぞましい快感に襲われる。次の瞬間、ぐちゅっと音を立てて孔の内部にまで触手が侵入してきた。
伶は四肢をぶるぶると震わせ、蓮の舌に掻き回される悦びを反芻した。しかしふと視線を落とした先に放置された蓮自身を見つけ、ゆっくり身体を倒し顔を近付けた。
「れ…ん………」
先端から溢れる先走りに塗れた蓮の逸物は、欲望の炎で融ける蝋燭のようだった。伶はその大きく張り出した部分をまず口に含み、窪んだ部分を唇でぎゅっと締め付ける。
途端に腹筋が波打って、口の中が生温かい液体でいっぱいになった。さらに伶は深く咥え込み、やわやわと歯を立てる。そして喉の奥をすぼめて吸い上げると、背後から「降参」という弱々しい声が聞こえてきた。
「そんなことされたら我慢できない。挿れるからこっち向いて。貫かれる時の嫌らしい顔が見たい」
伶は言われた通り身体の向きを変え、蓮に向かい合った。蓮はごくりと喉を鳴らし、
「今のままでも十分嫌らしい顔してる。たまんないよ」
そう言いながら、伶の唇を指でなぞる。そこは唾液や蓮の先走りがこびり付いて、淫猥な光沢を放っていた。
慈しむように撫で回す蓮の指を、伶は舌先でちろちろ舐めた。さらに指全体を咥えて口内に含み、舌を絡めて吸い上げる。そうしながらも、勃ち上がった自身を蓮のモノに押し付けて、そのまま腰を上下に振った。
たっぷりの愛液でコーティングされた双つの性器は滑りもよく、くちゅくちゅとねばっこい音を弾かせて擦れ合った。
「に…いさ……だめだっ………出るっ………」
伶は尚も腰を揺らしながら、「出せよ」と誘う。しかし蓮は首を振り、
「兄さんの中に出したい。僕の熱い精を、じかに感じて欲しい」
伶は淡く笑って頷き、腰を持ち上げて前方へ僅かにずらした。そして蓮の逞しい肩に両手を付く。蓮もすぐさま応じ、伶の双丘を掴んで左右に割り広げた。
「潤滑油は必要なさそうだね」
蓮はそう言いながら、兄の秘部に己れの先端を宛がう。そして天然の潤滑油を直接塗り付けた。蓮はクッと喉を鳴らして、
「これだけでイキそうだ……」
「僕の中に出したいんだろ？ 我慢しろ」
蓮は素直に頷いて腹筋を締め、わし掴みにした伶の尻をゆっくり落としていった。伶もその動きに合わせて腰を下ろす。
ぬちゅ、と秘めやかな音がして濡れた花唇が裂け、蓮の赤黒い亀頭がすっぽり呑み込まれた。
「ぁ……ぁぁ……ン………すご…い………」
「うん……すごい、ね……兄さん………」
ほんの数センチ繋がっているだけなのに、眩暈がするほど気持ちがいい。慣れるまでは苦痛だった挿入時の引き攣る感覚も、いつの間にか快感のひとつとして享受するようになっていた。
蓮はいったん手を離し、伶の腰を掴んだ。両手で囲い込めてしまいそうなほど細い腰は肌触りも滑らかで、食欲の赴くまま何度ここに歯を立てたか分からない。
人工の照明を受けて暈然と輝く腰のライン、その繊細な造形は愛しさと同量の嗜虐慾をも煽る。蓮はちらと唇を舐めてから、何の前触れもなくいきなり掴んだ腰を落とした。
蓮の竿はぐじゅぐじゅと濡れた淫音を立てて肉を掻き分け、根元まですっぽり伶の中に埋まった。
「ぁぁぁッ」
喉を反らして悲鳴を上げる伶を、蓮は不穏にぎらつく双眸で見据える。あの、愛に燃える熾天使の目で。
「兄さん、綺麗だ……とても綺麗だよ………」
綺麗だ、綺麗だ、と繰り返すその言葉は睦言の枠を超え、狂気の片鱗すら感じられる。突然の衝撃に涙を滲ませてのけぞりながらも、無意識のうちに腰をぬめぬめと振って自ら奥を掘り進める伶に、蓮は狂おしいほどの愛情を覚えて激しく悶えた。
このまま死んでしまえたらと、浅薄な願いだと分かっていながら思わずにはいられない。
「にい…さ………ぅ、くっ………」
自分の腰を動かすことはできないから、代わりに伶の腰を掴んで上下に揺さぶる。濡れた肌と肌が激しくぶつかる音に二人の呼吸が重なり、やがて互いの名を呼び合う切実な叫びに収斂され、そして―――
「ぅぁッ、ぁっ、ぁぁっ………ン………イ…クっ………」
濃厚な喘ぎと共に、深く繋がったまま熱い精を捧げ合う。伶は蓮の胸に放ち、蓮は伶の陰部奥深くへ注ぎ込む。
「はっ……ァ、ァァ………れ…ん……蓮っ………」
蓮の肩に爪を立て、美しくしなる腰を小刻みに揺らして射精する伶は、神々しくさえあった。蓮自身もまだ射精途中にもかかわらず、我を忘れて兄の身体を掻き抱く。
「兄さんっ、兄さんッ………」
蓮の胸にすっぽりと包まれた伶は、余韻に悶えつつも手を伸ばして抱き返した。
「蓮、どうした？ 子供みたいだぞ」
そう言いながらあやすように背中を撫でる伶に、蓮は闇色の所有欲を滲ませて囁いた。
「兄さんは僕のものだ……誰にも渡さない………」
神に見放され、愛に飢えた熾天使の如く。
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