五話＜孤月＞
「大丈夫かい？ もう少し横になっていた方が……」
心配そうに様子を窺う監督に、晢夜は目だけで微笑んで頷きを返した。
「大丈夫です。僕はこれで上がりなので、監督は現場に戻ってください」
「分かったよ。余り無理しないようにね」
監督が部屋を出るのを見送って、晢夜はゆっくり立ち上がった。壁の鏡に顔を映して、涙の痕をこすり落とす。そして荷物の置いてある楽屋へ向かうため、廊下に出た。
「まだ撮ってるんだ……」
第3スタジオの明かりがまだ点いている。かなり遅い時間だったが、撮影が延びているのだろうか。晢夜は入口からそっと顔を出して覗き込んだ。
「あ、透麻さん」
和風のセット。恐らく温泉旅館の類いだろう。真っ白な布団の上で、浴衣の前を肌蹴た透麻が腰を動かしている。透麻の影になって女優の顔はよく見えないが、甘ったるい声で気持ちよさそうに喘いでいるのはよく分かる。
「あっ、ああ………あなた、愛しております……」
細い腕を透麻の首に巻き付けて、艶のある声で愛を囁く。すると、透麻はいったん腰の動きを止めて彼の身体を抱き上げ、耳許に口を寄せた。
「私も愛しているよ、お前だけを……」
重厚な光沢を帯びたバリトンで囁かれた女優は、感極まった声を上げ、自ら腰を振って注挿をねだった。それに応えて透麻は再び組み敷き、上からがつがつと打ち込む。
女優は腰をくねらせよがっていたが、ほどなくして勢いよく射精した。それを見届けた透麻は「愛しているよ」と優しく呟いて、自らも絶頂に向かう。
その全てを見届けた晢夜は、ふらふらと覚束ない歩みで廊下に出た。耳が熱くて痛くてたまらない。自分以外の人間に向かって囁かれた透麻の愛に、鼓膜が灼かれてしまったのだ、きっと―――
「お疲れさまでした」
透麻は着替えを済ませると、いつものようにスタッフ全員に挨拶をしてスタジオを出た。
「透麻さぁ〜ん」
名前を呼ばれて振り返ると、ついさっきまで一緒に仕事をしていた女優がぱたぱたと駆け寄ってきた。そして笑顔全開で透麻の腕にぎゅっとしがみつく。
「ね、一緒に帰りません？ 遅くなっちゃったし、軽く食事して帰りましょうよ」
「いえ、私は専ら自炊ですので」
「ええ〜、ずるーい」
口を尖らせて抗議すると、ふふっと笑って、
「誰かさんとはしょっちゅう食事して帰ってたくせに。僕知ってるんだから。ねえ、たまにはいいでしょ？」
透麻は溜め息をついた。きっと、食事をしている間ずっとこのテンションで自分のことを喋りまくり、帰り際はあからさまにホテルに誘ってくるのだろう。そして断っても誘いに応じても、翌日には恋人になったという噂がばら撒かれているに違いない。
さてどうしようかと頭を巡らせかけた時、背後から控え目に名前を呼ぶ声が。
「あ、晢夜くん」
彼の撮影は疾うに終わっているはず。ということはつまり、自分を待っていてくれたということなのか。
「透麻さんは今僕と組んでるんだよっ。それで、これから二人で食事しに行くとこなんだから！」
分が悪くなったことを敏感に察したのか、女優は威嚇するように晢夜を睨みつけ強引に透麻の腕を引く。しかし透麻はその腕をほどくと、口調は穏やかながらも確固たる声で、
「すみませんが、帰っていただけますか？ 私は晢夜くんと約束があるので」
呆気なく振られた女優は、荒んだ内面が垣間見える険しい眼差しを投げつけると、ぷいと横を向いて帰っていった。透麻はその背中を見送ることもなく、晢夜に近付いてにっこりと笑う。
「ね、久しぶりに串揚げでも食べに行きましょうか。今日は寒いから、鍋の方がいいかな。それとも――」
透麻は思わず言葉を呑み込んだ。晢夜の双眸から堰を切ったように涙が溢れて頬を濡らす。しかも、涙の向こうから咎めるような眼差しで射抜かれて、明確な理由が分からないながらも、心の奥の柔らかい部分がひりひり痛んだ。
「晢夜くん……どうしたのですか？ 何か――」
「嘘、なんでしょう？」
「え？」
「嘘なんでしょっ、僕のことが好きだなんてっ」
その時、なぜか透麻は社長との密約がバレたのだとは思わなかった。もっと別の、自分に対する感情的な不信感が晢夜を悩ませ、苦しめているに違いないと思った。
その透麻の直感は正しかった。晢夜は、わなわなと震える唇から、理屈を超えた哀しみの呪詛を吐き出す。
「あ、あんな風に愛してるって囁いて……。誰でもいいんだ、あなたはっ」
透麻は驚きの余り絶句した。無理もない。しかし晢夜は不条理な非難を続ける。
「なのに、僕が好きだなんて言って、そんなの信じられるはずがないっ」
「ちょ、ちょっと待ってください、晢夜くん。もしかして、あなたが言っているのはさっきの撮影の……」
ようやく驚きから解放された透麻は、慌てて弁明しようとする。だが晢夜は激しく首を振って何も聞き入れず、「もう嫌ぁ……」と弱々しい叫びを漏らして逃げ出した。
「晢夜くん、待ちなさいっ、晢夜っ」
透麻は追いかけてその腕を掴み、自分の方へ引き寄せる。しかし晢夜は空いた方の手を必死に突っぱねて、拘束から逃れようともがく。
「私の話を聞きなさい。いいですか、あれは撮影で、あの台詞も台本そのままに言っているだけで――」
「そんなの分かってるッ。透麻さんは少しも悪くない、何もかも全て僕が間違っていると。あれは仕事で、透麻さんはプロとして真面目に取り組んでいるだけ。でも、でも……」
晢夜は苦しそうな呼吸の奥から、理性ではどうにもならない切ない本音を漏らした。
「頭では分かっていても、心が付いていかないんだ」
「晢夜……」
呆然とする透麻の腕を振り払って、晢夜は弱々しい声で告げた。
「ごめんなさい、透麻さん。もう、迎えに来ないでください。今までありがとうございました」
そして恥じ入るように背中を丸めて去ってゆく後ろ姿を、透麻は唇を噛み締めて見送ることしかできなかった。
「よう、晢夜ちゃん、待ってたんだ。送っていくよ」
晢夜が外に出ると、疲れ切った心身をさらに傷めつけるような誘いが待っていた。倉岡が、停めている車の助手席から身を乗り出して声を掛けてきたのだ。
晢夜は声を出す気力もなく、力なく首を振って何とか拒絶を表した。その覇気のない様子に何を感じたのか、倉岡は作り物めいた笑みを貼り付けて素早く車から降り、晢夜の許に駆け寄った。
「送っていくだけだよ。ね？ ほら乗って乗って」
親切ごかした誘いとは対照的に、晢夜の肩を掴んで車に乗せようとする態度は強引で荒っぽい。それに抗うだけの強い意志力は、今の晢夜にはなかった。
ずるずると引きずられるように連れて行かれ、車に押し込められる。倉岡は上機嫌で運転席に乗り込むと、車を走らせた。
「今日は悪かったね、無理をさせてしまって。気をつけようとはしているんだけど、つい」
倉岡は、自分のモノやテクニックが凄いせいで晢夜が失神したと思い込んでいるらしく、訊ねてもいないのにこれまでの武勇伝をひけらかして、卑しい笑いを車内に響かせた。
晢夜は激しく後悔していた。どんなに疲れていても、きちんと拒絶するべきだった。信号待ちの間に車から飛び降りようと、何度思ったか分からない。
しかし晢夜が教えた通りの道を行っていることもあり、大人しく乗っていた。もし変な横道へそれたりしたら、その時は多少危険だろうが車道に飛び降りてやると身構えつつ。
「それからもうひとつ謝らなくちゃいけないなあ。台本にない変なことを言ってしまって、悪かったね」
晢夜はふいと横を向いた。その話はしたくない。しかしそんな晢夜の思いに気付いているのかいないのか、倉岡は声を低めて、
「君の恋人に嫉妬してしまってね。それでつい、あんな酷いことを言って君を傷つけてしまった」
「傷ついてなんかいません。高が撮影中の台詞に……」
「なるほど。ではあの涙も芝居だったわけだ。こりゃ一本とられたな」
そう言ってくつくつと笑う。しかしすぐに元の口調に戻り、
「では、今泣いていたのも芝居だと？」
「な、泣いてなどいません」
そう言いつつも、晢夜は慌てて目尻を拭った。涙の痕が残っていたままだったのかもしれない。倉岡はそれ以上は追究せず、黙って車を走らせた。
「あ、この辺りでけっこうです。ありがとうございました」
広い公園に面した人通りの少ない道。晢夜のマンションまであと少しだったが、住んでいる所を知られたくなかったからこの辺で降りることにした。倉岡は言われた通り車を停めたが、晢夜がドアに手を掛けると、上から手を重ねてきた。
初めて透麻に送ってもらった時と状況が似ていたが、重ねられた手の心地よさには天と地ほどの差があった。透麻の手には存在全てを包み込むような温かさがあったが、倉岡の手は冷たく湿っていた。
「手を、離していただけませんか」
晢夜は正面から睨みつけて、落ち着いた声で言った。悲鳴を上げたり怯えたりすると、このテの男は調子づく。飽くまで冷静に対応することが必要なのだ。
「まだ、俺の話は終わってないよ。せっかく送ってあげたんだからさ、もう少し付き合ってよ」
「僕が頼んだわけではありません。そういう押しつけがましい態度は、スマートな大人のすることではありませんね」
倉岡の顔付きが怪しくなってきた。にやけた笑いの名残りは一掃され、その下から生々しい淀みがじわじわと滲み出してくる。怒り、苛立ち、嫉妬。あらゆる負の感情の煮凝りが、顔を醜く覆う。
「可愛くねえな。だから男に捨てられるんだよ。そんなことも分からねえのか」
晢夜は反論はせず、しかし目を逸らすこともなく堂々と見返した。こんな男に何が分かる。言いたいことを言っていればいい。
「せっかく一緒に組むことになったんだからよ、仲良くしようとこっちから歩み寄ってやってるっつうのに」
倉岡は運転席から身を乗り出してきた。しかし晢夜は逃げる素振りも見せず、そのまま助手席に収まっている。この体勢だと、倉岡はきっと自分の上に覆いかぶさってくるだろう。その瞬間を待っていた。
「急に大人しくなったな。さっきまでの勢いはどうしたんだ、え？」
案の定、晢夜の無抵抗に気をよくした倉岡は、シートを倒して晢夜の上に跨った。と同時に、晢夜の膝が倉岡の股間を直撃した。
「ぐッ、ぅ……ぅぅ……」
股間を押さえたみっともない姿勢で呻く倉岡を横目に、晢夜はあっさりと外に出た。そして怒りと軽蔑を込めて、ドアを蹴り閉めた。
次の撮影日。晢夜は久しぶりに地下鉄でスタジオへ向かった。ドア付近に立ってふと目を上げると、窓ガラスに映った自分と目線が合った。
思わずじっと見つめる。やつれた顔、険しい眼差し、不貞腐れたように閉じられた唇。いつから自分は、こんな強張って愛嬌のかけらもない表情しかできなくなってしまったのか。昔はもっと……。
「な、何を今さら」
昔のことを回想しそうになって、晢夜は慌てて思考回路を閉じた。もし思い出したら、場所も構わず叫び出してしまうに違いない。ふるふると頭を振って、ガラスに映った自分から目を逸らした。
今日、透麻は来てくれなかった。自分からもう迎えに来ないでと突っぱねたにもかかわらず、来てくれないことに対して淋しさや虚しさを感じてしまう。
余りに不条理で勝手な感情に自己嫌悪を覚えつつ、しかし淋しさを消し去ることはどうしてもできなかった。そんなもやもやしたものを抱えつつスタジオに着くと、すでに倉岡は来ていた。
晢夜はもちろん、倉岡もあの夜のことについては一切触れず、これまで通りお決まりの挨拶を交わして各々の楽屋へ入った。
倉岡の愛撫を受けるのは鳥肌が立つほど嫌だったが、仕事なのだから仕方がない。このスタジオにいる自分は生身の感情を持った人間ではなく、虚構の世界で痴態を演じる『晢夜』という仮想人格（キャラクター）に過ぎない。そう思うことであらゆる苦悩やジレンマを乗り越えてきたのだ。
晢夜は楽屋でひと息つくと、薄い台本をぺらぺらとめくった。相変わらずの監禁、拘束、陵辱でうんざりする。行間から倉岡の知性に欠けたにやけ面が浮かび上がってくるように思えて、台本を乱暴に閉じて投げ捨てた。
「どうしちゃったのよ、二人とも」
カウンターの向こうで忙しく動きながらも、不人は追及をやめようとはしない。
「一緒に帰ってもいないんでしょ？」
「迎えにも来ないでと言われました」
透麻の言葉に、不人は眉を吊り上げて、
「それで、透麻くんは馬鹿正直に迎えに行かなかったってわけ？ ああ、信じらんない」
自分で自分の身体を抱いて、くねくねと腰を振る。そしてカウンターに身を乗り出して透麻を睨みつけ、
「もう来ないでください、私のことは忘れてください、そう言われてはい、分かりましたって頷いてたら、恋愛小説の九割は成立しないわよ」
「私は人間です。小説の登場人物ではありません」
透麻の冷静な答えを、不人は鼻で笑った。
「ばかね、フィクションの要素がない恋愛なんて恋愛じゃないわ。確かに透麻くんも晢夜ちゃんも現実の人間よ。でも、その現実から僅かに浮き上がった半虚構の世界に否応なく引きずり込まれ、そこで惹かれ合い、結ばれるからこそ恋愛は美しく、切ないものなんじゃない。来ないでと言われたからはい分かりましたと引き下がる。それを合理的な振る舞いだと言うのなら、合理性なんて犬にでも食わせちゃいなさい」
黙り込んでしまった透麻に向かって、幾分口調を和らげて続ける。
「使い古された台詞だけど、恋愛は頭でするものじゃないわ。心でするもの。そして心ってのは時に、不条理に揺れ動くものなのよ」
「頭では分かっていても、心が付いていかない……」
透麻の呟きに、不人は熱烈に同意した。
「そう、その通り。それが分かっているのなら、大丈夫よ」
撮影中の台詞に怒りを露わにした晢夜。それに対して、あれは芝居だからと弁明した自分の間抜けさが、今になって骨身に沁みてきた。
何も言わず、多少乱暴になってもいいからきつく抱き締めて離さない、ただそれだけでよかったのに。
「透麻くん？ どうしたの？」
「いえ、何と言いますか、自分の愚かさに呆然としてしまって……」
不人は朗らかに笑って、
「まあ、恋をすればソクラテスだって馬鹿になるものよ。肝心なのはこれから。で、どうするの？」
「そうですね、とにかく今夜は何としても連れ出します。それで――」
透麻の計画がそれ以上語られることはなかった。入口のドアが派手に開き、息を切らせた真人が飛び込んできたからだ。
「よかった、トーマくん早く来てっ。晢夜くんが倒れたのッ」
透麻はほとんど条件反射的に椅子を蹴り倒し、カフェを飛び出した。やつれた面差しで力なく倒れる晢夜の苦しげな呼吸が今にも聞こえてきそうで、ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら非常階段を駆け上がった。
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