四話＜寒月＞
雨の中を一人、透麻は歩いていた。せっかく服を乾かしてもらったのに、傘を借りるのを忘れたせいで結局びしょ濡れになってしまった。
「っく、くくくく……」
鳩尾の奥から発作的に笑いの衝動が込み上げる。傘を忘れた間抜けさが可笑しいからではない。それは、晢夜に対して麗しい台詞を恥ずかしげもなく吐いた自分に対する嘲笑だった。
――何が本物の愛情に裏打ちされた行為、だ。
晢夜を巧く騙してやろうという意思のもと、吐いた嘘ならまだましだった。しかしこの言葉は本心からのものだった。自分は本気で、仕事上の関係の延長としか見なさない晢夜に憤りと切なさを感じたのだ。
社長の命令で動いているに過ぎないのに、その汚い動機を忘れて嘘に酔ってしまった自分の醜さ、愚かさに反吐が出る。
――私は少し、のめり込み過ぎたようだ。暫く距離を置いた方がいい。
透麻は自分に言い聞かせるように呟いた。そして暫し立ち止まり、晢夜と過ごした楽しい時間、抱き合った瞬間の高揚、甘く熱い舌の蠢きを記憶から洗い流そうと、冷たい雨を浴び続けた。
「おはようございます」
その瞬間、晢夜は安堵の余りその場に座り込みそうになった。誤解を解けぬまま切ない別れを余儀なくされた雨の日の翌日。透麻はいつも通りちゃんと迎えに来てくれたのだ。
常に最悪の事態を予測するのが習い性となってしまった晢夜は、きっと透麻は自分に愛想を尽かしてしまったに違いない、だから迎えになんか来てくれるはずがないと思いつつ、その予測が現実のものとなることに激しい怯えを抱いていた。
期待は必ず裏切られる、喜びは持続しない、愛する人はいずれ去ってゆく――経験から得た哀しい人生訓は晢夜を守る楯にもなったが、光の差す方へ手を伸ばすことを妨げる枷ともなった。
しかしそれを自ら引き千切ってみたいという願望の存在も無視できず、特に透麻と親しくなってからは、日増しにそれが膨らんでゆくのを実感していた。
切れ長の目、その奥で揺蕩う優しい輝きが、静寂のうちに晢夜を促す。手を伸ばしてご覧、と。そして、この一瞬一瞬を大事にしなさい、と。
晢夜は決意を込めて顔を上げた。そして隣の透麻に向かって自分の気持ちを打ち明けようとする。
ゆうべはごめんなさい、僕もあなたのことが――
「晢夜くん、昨夜は申し訳ありませんでした」
「え……？」
突然の謝罪に驚いた晢夜は、そのまま言葉を呑み込んでしまった。タイミングを奪われた言葉たちが、胸の奥でもやもやと渦巻いている。しかし透麻が言葉を続けたため、それらが晢夜の口から出ることはなかった。
「あなたからまだ何の許しも得ていないというのに、自分の気持ちを押しつけるような真似をしてしまった。あなたの、あの非難は尤もです。あなたにとって私は、仕事上のパートナーに過ぎないのですから」
晢夜は、膝の上に乗せた手をぎゅっと握り締め、違う、違うと喉の奥で繰り返した。しかし声なき声が届くことはなく、透麻は淡々と言葉を続ける。
「私はこの仕事を恥だとは思っていませんが、これまであなたとしてきたことを思い返してみれば、今さら本物の愛情がどうだなんて言えるはずがないと気付いたのです。本当に、申し訳ありませんでした」
「ちが…う……」
喉の奥から必死に絞り出した本心は、道行く車の騒音に呆気なく掻き消され、透麻には届かなかった。
結局その後は二人ともだんまりで、車がスタジオに着いた時には、車内を重苦しい空気が支配するばかりだった。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「透麻さんは、今日は撮影は？」
晢夜だけを降ろして自分はそのままの透麻に訊ねる。透麻は小さく首を振って、
「私は、今日はオフなんです。いったん家に帰って、また迎えに来ますから」
今度は晢夜が首を振った。
「いえ、今日はけっこうです。わざわざ来ていただくわけには……」
晢夜にそんなつもりはなかったのだが、口にした途端それは揺るぎない拒絶の響きをまとってしまった。もちろん透麻の耳にもそう聞こえただろう。
あっさり「分かりました」と答えると、彼特有の笑うでもなく泣くでもない、感情の表現そのものを拒むかのような微笑みを浮かべた。そして短い挨拶を残して去っていった。
だぶだぶの白いシャツを着て、足首に枷をはめられた晢夜は、ベッドの上に座って打ち合わせをする監督と男優をぼうっと眺めていた。
今日から撮影が始まる『ペットシリーズ』は、拉致、監禁されて陵辱されたり調教を受けたりといった趣向のものだった。しかしＭ２レーベルはあくまで正統派のレーベルなので、猟奇的な行為が強要されることはないはずだった。
それでも晢夜には不安があった。今日初めて組む男優、名前は倉岡（くらおか）と言うらしいが、まだこの世界での経験が浅いらしく、スタジオに入る前から明らかに興奮状態で、晢夜を紹介されてからはさらにテンション上昇で危なっかしいことこの上なかった。
監督と打ち合わせをしている間も落ち着かない様子でちらちらと晢夜の方を盗み見ては、だらりと口許を緩めてへらへら笑った。晢夜は敢えて気付かないふりをして無視していたが、頭の中では警報が鳴っていた。
「では、シーン５から始めます。晢夜くんの方は大丈夫ですね？」
「はい」
監督の言葉を合図に、スタッフたちが慌ただしく動く。そして倉岡も晢夜の傍にやって来て、「よろしく」とねっとり囁いた。
一瞬鳥肌が立ったが何とか表情には出さず、小さく頷く。カメラが回ったら僕は『晢夜』なんだと自分に言い聞かせて、そっと目を閉じた。
「はあっ、あっ、ああっ……」
手錠でベッドに繋がれ、脚を大きく開いた晢夜は、いきり立つ倉岡の剛直を何度も突き刺されて喘いでいた。
倉岡は自分の快楽を優先させているようで、晢夜のポイントを探ることもせずただ闇雲に腰を振っている。しかし設定自体が恋人同士の甘い交わりではなく、性の玩具とされた美青年とその飼い主であったから、特に問題もなく撮影は順調に進んでいた。
そして終盤に差し掛かったころ、倉岡は何を思ったか身体を前に倒し、貫きながら晢夜の唇に吸いついた。台本にはない行為だったが、監督の制止がかかることはなかった。
「んぅ………ぅ、ぐっ……ぅぅ………」
ぐいぐいと舌を挿し込まれ、上顎を舐められる。縮こまった舌を巻き取られた時、晢夜の嫌悪感は頂点に達した。
「ぁ、やッ！」
透麻から受けた口づけ、その名残りが消えてしまう。ここだけは、唇だけはゆうべ愛されたままでいたかったのに――
「ぅ………や…め………ぅぅ……」
次々と送り込まれる唾液を押し戻そうとしたけれど、呼吸が苦しくて耐え切れず、ついに飲み込んでしまった。と同時に晢夜の双眸から涙が溢れ、シーツに歪んだ染みを作る。
「はッ、いいぜお前、最高だ……」
晢夜の涙に隠し持っていた獣性が煽られたのか、倉岡は狂ったように腰を打ちつけて真っ赤に熟れた秘孔を犯す。そしてぐるぐると喉を鳴らしながら、煮え立つ欲望の汁を叩きつけた。
撮影が終わり、シャワーを浴びた晢夜は、狭い控え室の床に座り込んでぼうっと宙を眺めていた。
これまでにない疲労感、倦怠感に押さえつけられて、立ち上がる気力もない。倉岡の攻めは濃厚且つ執拗で、場慣れしているはずの晢夜の身体も思わず悲鳴を上げるほどだった。
しかし強姦と陵辱が主体のこのシリーズでは、そういった強引さ、相手を顧みない激しさが求められている部分もあった。だから倉岡も、もう少し女優の身体のことを考えてくれとやんわり諭されただけで、それ以上の注意を受けることはなかったのだ。
これからのシリーズ続編のことを考えると、胃がきゅうっとねじれて痛む。しかし頭を振って追い払い、帰り仕度を始めようとした。その時、扉が開いて倉岡が入ってきた。
「や、晢夜ちゃん。今日は悪かったね。まだ慣れてないもんで、加減が分からなくて」
そんな馴れ馴れしい態度を取られる覚えはない、との抗議を込めて晢夜は冷たく見返した。
「大丈夫です。慣れてますから」
そして立ち上がり、着替えを取りに行こうとすると、突然腕を掴まれた。
「痛っ、離してください」
「そんな恐がらないで。身体、つらいんだろ？ 送っていくよ」
「いえ、けっこうです。身体を動かした方が、回復も早いので」
倉岡はいやらしく相好を崩して、
「へえ、そりゃ初耳だ。ということは、これから帰ってまた恋人とひと運動するのかな？」
晢夜は正面から睨みつけて、
「ええ、そうです。では、恋人が待っていますので」
叩きつけるようにそう言って、着替えを抱え部屋から出た。倉岡の前では何とか気丈に振る舞っていたが、部屋を出た途端再び疲労感がのしかかってきた。
――やっぱり、透麻さんに迎えに来てもらった方がよかったかな……。
一瞬、弱気の虫が頭をもたげてきたが、すぐに思い直した。今彼に会ったらきっと泣き出してしまう。そんなプロ意識のかけらもない、駄々っ子のような振る舞いを、あの人に見せたくはない。ますます愛想を尽かされてしまうのが目に見えている。
「がんばら…なくちゃ」
晢夜は脱力した四肢を叱咤して何とか着替えを済ませ、スタジオを後にした。
次の撮影日の朝も、透麻はちゃんと迎えに来た。挨拶を交わした後はやはり暫くだんまりだったが、長い信号待ちに差し掛かるとそっと顔を覗き込んで、心配そうに訊ねてきた。
「晢夜くん、ちゃんと食事してますか？ 朝ご飯は？」
「えっ？ あ、はい……。ちゃんと食べました」
咄嗟に吐いた嘘だったが、微かにやつれて蒼い陰翳を帯びた顔が真実を暴露していた。しかし透麻はそれ以上は追究せず、ただ「そうですか」と答えて車を走らせた。
「今日の夜は、どうしましょうか」
自社ビルの駐車場からエレベーターに乗って、スタジオに向かう。その中でも俯き加減の晢夜に、透麻は穏やかに声を掛けた。しかし晢夜は顔を上げることなく、小さく首を振って、
「透麻さんは今日は三本撮りで夜まででしょう？ 僕はもっと早く上がれるので、今日は先に帰ります」
「……分かりました」
自分の撮影が終わるまで待たせるわけにはいかないと思ったのだろう、透麻はしぶしぶながら了承した。
晢夜は思わず溜め息をつく。本心では、透麻の撮影が終わるまで待っていたかったのだ。けれどそれを自分からは言い出せず、淋しさで疼く胸を宥めた。
「では僕は第２スタジオですので……」
「ああ、そこまでお送りしますよ」
透麻は言いながら、肩に触れてきた。大きな手。温かい手。この手がもう一度抱き締めてくれることはあるのだろうか。そんな思いをくゆらせながらそろそろと見上げると、心配そうに眉をたわめた透麻と目が合った。
「晢夜、くん。もう一度……」
肩に置かれた手に力がこもるのが分かる。それだけで、晢夜の心臓は激しい鼓動を刻んでしまう。
「もう一度、私の気持ちを──」
透麻の手が背中に下り、晢夜を抱き寄せようとした。その時、
「晢夜ちゃん、俺らの撮影はあっちのスタジオだよ。ほらほら、行こう」
相変わらず馴れ馴れしい態度を振りまいて、倉岡が近付いてきた。そして透麻の存在を派手に無視して晢夜の腰に腕を回し、連れて行こうとする。
晢夜は、この男を突き飛ばして透麻の許へ戻りたい欲求に駆られたが、必死に抑え込んで倉岡の腕に身を任せた。
仕方のないことだ。自分は透麻の恋人でも何でもないのだし、今のパートナーは好むと好まざるとにかかわらず、この男なのだから。透麻だってそれは分かっているはずだ。
しかしもしこの時晢夜が振り向いていたら、状況は少し変わっていたかもしれない。晢夜を奪われその場に佇む透麻の顔は、普段の彼からは想像もつかない激しい感情に沸いていたから。
自らをも燃え尽くさんばかりに猛く熱い、燻朱の嫉妬に。
その後も透麻は、晢夜をスタジオまで送る役目を全うした。しかし撮影のスケジュールが全く噛み合わず、終了時間が一緒になることはなかった。二人とも互いに遠慮し合ったせいで、どちらかが終わるまで待つということもなく、帰りは別々のままだった。
透麻も晢夜も、そんな状況にもどかしさを感じていた。本当は、一緒に帰りたかった。そのために待つのなんて全然苦じゃなかった。けれどそれを自分からは言い出せず、本心を隠したまま二人のすれ違いは続いた。
そして、先に限界が訪れたのは晢夜の方だった――
「あっ、ああっ………ァ………ゆる…して、もう、ゆるしてぇ………」
両手を背中に回してぎりぎりに縛られ、うつ伏せのまま腰だけ高く持ち上げられた状態で、晢夜はがつがつと貪られていた。
倉岡は相変わらず自らの快楽を優先させていたが、時折思い出したように晢夜の性器をクチュクチュと扱いてやった。
しかしそれも、そうすれば内壁のうねりが激しくなって自分の快感が増すからであって、結局自分本位の行為に変わりはなかった。
「ははっ、だいぶ男の悦ばせ方が分かってきたみたいだな……しかしまだまだだ」
快感に舌が麻痺しているのか、怪しい呂律で何とか台詞を言って再び動き始める。
「愛しい恋人にもこうしてケツを振っているんだろ？ え？」
これは台本にはない台詞だった。しかしある程度のアドリブは許されていたから、止められることなくそのままカメラは回された。
「はッ、笑えるぜ。好きだ、愛してる？ 誰がお前なんかに本気になるものか」
「ぅっ、ぅぁ………ぁぁ…………」
嗚咽と共に、晢夜の双眸からは熱い涙が溢れた。それを目にした倉岡は狂喜した。耳障りな哄笑を上げながら暴力的な突き上げに没頭し、熱く熟した奥処に何度も熱い精をぶちまけた。
「ちが…う……」
反論を呼ぶには余りにも力ない呟きを漏らして、晢夜はそのまま気を失った。
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