六話＜明月＞
スタジオ脇の控え室に駆け込んだ瞬間、目に入ってきた光景に思わず息を呑む。蒼白くやつれた顔でぐったりと横たわり、苦しそうに胸を上下させて呼吸する晢夜の姿は、透麻が不安とともに想像していたものそのままだったから。
しかし驚きを押し込めて近付き、その枕元に寄り添う。晢夜は撮影中の衣裳のままで、首には革製のぴったりしたチョーカーをはめていた。自然と怒りが込み上げる。
「こんなものを付けたまま寝かすなんて。何を考えているのです」
透麻はぴしゃりと言い放つと、おろおろした表情で傍に付いているスタッフを鋭く睨みつけ、手早く外してやった。
首にうっすら残る拘束の痕が痛々しく、胸が締めつけられる。一体何があったのか監督に質そうとしたが、部屋の奥で男優と激しく言い合っていて取り付く島もない。仕方なくスタッフを追及する。
「晢夜くんに何があったのです。なぜこんなことに」
これまで見たことのない透麻の険しさにスタッフは怯えきった様子で、肩をすぼめて釈明する。
「それが……撮影中に薬を使われたらしくて」
「薬っ？ 何でそんなものを」
透麻はすっくと立ち上がり、監督に詰め寄った。が、ようやく到着した真人に押さえられる。
「違うのよ。その男が勝手に使ったの」
しかし倉岡はへらへら笑って、
「ちょっとした遊び心ですよ。そんな目くじらたてることもないでしょう。途中まではけっこう気持ち良さそうに――」
ふざけた弁明は断ち切られた。透麻の拳によって。反対側の壁まで吹っ飛ばされた倉岡は、目を剥いて血の付いた唇をぱくぱくと動かした。しかし言葉は出ず、「ひぃっ」という悲鳴を上げて部屋から逃げ出した。
「あいつもアングラ行きね」
真人は面白くもなさそうに言い放つと、透麻の盛り上がった肩をぽんぽんと叩いた。そして、
「さっき中和剤を飲ませたから、じきに落ち着いてくると思うわ。トーマくんは今日は上がりよね？ 悪いけど、晢夜くんを家まで送ってもらえるかしら」
「……分かりました」
一発殴ったぐらいで収まるような怒りではなかったが、持ち前の自制心でどうにか抑えた。スタッフに晢夜の荷物を運ばせて、毛布にくるんだ晢夜の身体を抱き上げる。
「では、送ってきますので。後で連絡を入れた方がいいですか？」
「必要ないわ。それより、頼んだわよ、トーマくん」
このチャンスを上手く利用しろという含みを持たせた真人の言葉に、透麻は倉岡に対するのとはまた別種の怒りを覚えた。しかし、これで久しぶりに二人きりになれるのもまた事実。透麻は複雑な思いを抱えたまま、晢夜を抱えて部屋を出ていった。
「はあ……。驚いたな、あの拳の威力。一発で吹っ飛んだぞ」
監督は深く息をついて、素直な驚きを口にする。真人は「あったりまえじゃない」と胸を張り、
「トーマくん、昔は凄かったのよ〜。喧嘩じゃ負けたことないって」
「そうなんですか。いや、確かに身体を見れば納得できますが、いつも一歩引いて争いごとを避けているような印象があったので」
「そりゃそうよ。本当に強い人間は、自分の強さを恐れるものよ。拳で人を殺せることを知っているから。だから頭を低くして、争いを避けるの」
監督は感じ入ったようにうんうんと頷いて、
「なるほどねぇ。逆鱗に触れるとは、まさにああいうことなのだろうな」
監督の言葉に、真人は眉をひそめた。確かにそうかもしれない。さっきの透麻の怒りようは尋常じゃなかった。
――まさか、トーマくん……。
これまで気にも留めなかった不人の“予言”が頭の中に浮上してきて、真人を不安にさせた。
「んん………」
中和剤が効いているのか、マンションに戻る頃には、晢夜の呼吸はかなり平静に近い状態まで回復していた。眉間に刻まれた痛々しい皺も消え、穏やかな寝顔が透麻を僅かながら安心させた。
晢夜を抱えたまま器用に鍵を開け、部屋に入る。真っ暗な部屋、物悲しい静寂の中をそろそろと進むと、どこからかかさこそと可愛らしい音が聞こえてきた。名前のないハムスターは、今夜も元気に活動を開始したらしい。
「寝室は……奥ですよね」
誰にともなく訊ねて、奥へ進もうとする。すると自室に戻ってきたのを気配で察したのか、晢夜が「ふ…ぅん」とあどけない吐息をこぼしつつ目を覚ました。
薄く目を開け、ぼんやりした表情でゆっくり周囲を見回す。どうやら、まだ意識が混濁しているらしい。驚かさないよう小さな声で「あなたの部屋ですよ。ゆっくり休みましょうね」と囁くと、晢夜は何かを思いついたようにはっと息を呑んだ。そして、覚束ない呂律で、
「トーマ、トーマにごはんあげなくちゃ……」
「え？ 私に、ですか？」
意味が分からず透麻は困惑したが、晢夜の視線を追ってようやく分かった。その先にはハムスターのゲージが。晢夜は震える指を必死に伸ばして、
「トーマ、おなかすいて……」
「晢夜くん……」
鳩尾から喉を伝って、熱い塊が込み上げてくる。透麻は、自分が泣くのをこらえていることに気付いた。
愛しいとか切ないとか、そんな在り来たりな言葉では表現しきれない想いが湧き上がって、普段は冷たく凪いで波立つことのない感情を、ほとんど暴力的な激しさで揺さぶってくる。透麻はもう、目を逸らすことはしなかった。
始まりは、罪深い嘘だった。しかし嘘の種に注がれた水は甘く、日差しは温かで、殻の内で育まれた感情が芽吹くのに時間はかからなかった。
嘘の種から咲いた花は、本物の、みずみずしい質感と柔らかな香気を伴って、透麻の心を満たしたのだ。
「大丈夫。トーマには後でちゃんとごはんをあげますから。心配しないで」
「ん……」
晢夜は安心したのか、ふっと緊張を解いて再び目を閉じた。透麻はベッドの上にそっと横たえて毛布を掛け、額にかかった髪を優しく梳いた。
「とうま、さん……」
眠りの淵に落ち込む寸前、晢夜はほとんど無意識のうちに透麻の名を呼んだ。
「今度は私の方ですね。ここにいますよ、晢夜……」
鼻の頭に綿毛のようなキスをふわりと落として、透麻は枕元に跪いた。
――月が……きれい……。
目を覚まして最初に見たものは、窓の向こうにぽっかり浮かんだ白銀の満月。暈もなく、夜空を切り取ったかのようにくっきりと冴え渡る月輪は美しすぎて、晢夜の目には痛かった。ゆっくりと顔を背けて横を向く。するとそこには……。
「透麻さん……」
枕元のすぐ傍で突っ伏して、安らかな寝息をたてている透麻。月明かりに浸された無防備な寝顔に込み上げる愛しさを抑え切れず、晢夜は月下の興趣を乱さぬようそっと身を乗り出して、精悍な額にキスをした。
――わ、けっこうまつ毛長いんだあ。
そんな小さな発見も嬉しくて、思わずじっと見入ってしまう。凛々しい眉、すっと通った鼻筋。今は閉じられている瞼の向こうには、理智的で優しい輝きに潤った瞳が――
「晢夜、くん……起きていたのですか？」
「はい。少し前に。透麻さん、ご迷惑をお掛けしました」
透麻はゆっくり身体を起こすと、哀しげに眉をたわめ、
「迷惑を掛けたなどと思われることが何よりつらいです。こんな私でも、あなたのために何かできるのだと夢を見させてください。晢夜くん、お腹は空いてないですか？」
「あ、少し……」
透麻は心底嬉しそうに破顔して、大袈裟に頷いた。
「では、長年培った自炊の腕をご披露いたしましょう。苦手な食べ物は？」
「ないです、けど……材料の買い置きとかないですよ。行きつけはローソンですから」
「さっき晢夜くんが寝ている間に、買出しに行ってきたのです。ぬかりはありません」
得意気にそう言うと、透麻はさっと腕まくりをしてキッチンに向かった。
「わ、パスタだ。美味しそう……それにとってもきれい」
赤いトマトソースに、空豆の緑がよく映える、目にも美味しいパスタ。カリカリに焼いたパンとほうれん草のサラダ、そしてデザートには真っ赤ないちご。
晢夜は暫し目を輝かせて見入っていたが、やがて両手を合わせて「いただきます」とお辞儀した。そしてパンをちぎってパスタのソースをつけ、口に運ぶ。
「ん、このソースおいしい」
透麻はにこにこしながら眺めていたが、
「前から思っていたのですが、晢夜くんは必ず食べ物に向かって“いただきます”とお辞儀しますよね」
晢夜は少し恥ずかしそうに頷いて、
「昔……父によく言われたんです。“いただきます”というのは、料理を作ってくれた人への感謝の言葉というよりも、肉、魚、野菜といった命をいただきます、という意味が込められているんだよ、って」
そして肩をすくめて笑い、
「その教えがずっと頭から離れなくて。だからそういう癖が付いてしまったのかもしれませんね」
「なるほど。子供にそういうことを教えるとは、素晴らしいお父さんですね。私の父など、口を開けば仕事の愚痴や上司の悪口ばかりでしたから」
初めて透麻が自分の家族について話すのを聞いて、晢夜は嬉しくなった。もっともっと透麻のことを知りたい、近い存在になりたいという欲求が膨れ上がるが、晢夜は敢えてそれを押し留めた。パスタをくるくるとフォークに巻きつけて口に運び、
「でも、今は作ってくれた透麻さんへの感謝の方がずっと大きいです。ああ、おいし」
そしてあっという間に平らげていちごに手を伸ばし、ぱくりとかじった。
「ああ、春の味だ……」
「そう。春はもうそこまで来ていますよ」
ふわりと微笑う透麻。
透麻こそ、温かく優しい春そのものだと晢夜は思った。
「そうだ、大事なことお伝えするのを忘れていました」
和やかな食事が済んで、寛いだ姿勢でソファに腰を下ろした晢夜に、透麻は真剣な顔つきで呼びかけた。
「トーマのご飯も、ちゃんとあげておきましたからね」
「あっ、あの……」
晢夜は戸惑いも露わに、小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言った。そしてほんのり頬を染めて、
「ごめんなさい、勝手に名前を……」
透麻は隣に座ると、恐がらせない程度にそっと間を詰めた。
「謝らないで。すごく嬉しいのです。でも、ちょっと悔しくもあります。このトーマはずっとあなたの傍にいれる」
透麻は少し淋しそうに目を細めて、
「はは、まさかハムスターに嫉妬することになろうとは、思ってもいませんでした」
「透麻さん、僕っ……」
晢夜は自ら透麻に詰め寄り、身体を密着させた。ほとんど無意識のうちに透麻の膝に手を突いて、目を大きく見開いて訴えかける。
「もうひとつ、あなたに謝らなければならないことがあります。この前、めちゃくちゃなことを言って困らせてしまってごめんなさい。与えられた仕事に真面目に取り組んでいるあなたに向かって、あんなひどい、子供じみたことを……」
「晢夜くん、もういいのですよ。なぜなら私も――」
「よくないですっ。だって僕は、僕は……嫉妬したのですから。相手の女優に。僕には嫉妬する資格なんてないのに。僕だって……同じようにカメラの前で男と交わって、それでお金をもらっているのに！」
透麻は細い腰をぐいと抱き寄せて、露骨な言葉を窘めるように軽く唇を合わせた。そして、
「そんな風に自分を責め、卑しめるのはおやめなさい。あなたが一方的に謝る必要はない。なぜなら私も、同じように嫉妬していたからです。あなたと組んで、あなたを堂々と抱いている男に」
「透麻さん……」
「前にも言ったでしょう？ 私はあなたが思っているほど大人ではない。仕事だと分かっていても、あなたが他の男に貫かれ、喘いでいるのを見るのは……苦しい」
透麻は肩を落とし、腕の中の晢夜を解放して繰り返し呟いた。苦しい、と。そして立ち上がり、
「そろそろ、終電の時間です。変な言い方かもしれませんが、今夜は楽しかった。あなたと一緒に過ごせて。ありがとう。……では、おやすみなさい」
挨拶とともにくるりと背中を向け、早足で玄関に向かう。まるで、この空間から一刻も早く抜け出そうとするかのように。
「い、いやだ……」
戦慄とともに、晢夜の脳裏に雨の夜の記憶が浮かび上がる。挨拶を残して背中を向けてしまった透麻。ぴったり閉じられてしまった後の扉に向かって、待って、行かないでと必死に呼びかけた時の、砂を噛むような虚しさ――
「行かないで、透麻さんっ」
靴を履こうとした透麻は、突然の呼びかけに動きを止めた。しかし振り向こうとはしない。いや、できないのだ。今振り向いたら、抑えられなくなると分かっているに違いない。
晢夜は足音を忍ばせてゆっくり近付き、
「あの夜、あなたが帰ってしまった後、どれほど後悔したか……。なぜ、あんな無神経なことを言ってしまったのか。なぜ、傍にいて下さいと言えなかったのか」
「晢夜くん、やめてください。もうそれ以上は――」
「嫌です。僕はもう、後悔はしたくない。この大事な一瞬を、無駄にはしたくない。だから透麻さん」
晢夜は手を伸ばした。そして、透麻の寛い背中に触れる。
「僕を、抱いてください。恋人として」
「本気、なのですか……？」
「はい」
晢夜の揺るぎない答えが耳に届くとほぼ同時に、透麻は身を翻してその身体を乱暴に抱き上げた。そして愛情と欲望に翻弄された掠れ声で宣告を下す。
「もう後戻りはできませんよ」
普段は神々の棲まう森のような静寂を湛えている瞳に、生々しい揺らぎが灯った。ねっとりと舐めるように見つめられて、晢夜は身体の芯に熱がともるのを感じた。
「晢夜、これからひと晩かけてあなたを愛します。途中で泣いてもやめませんからね」
晢夜は答える代わりに、腕の中で誘うように腰をよじった。するとほんの微かだが、クチュ、という水音が漏れ聞こえた。
「おや、もう濡れ始めているのですね。いやらしい人だ」
そう言う透麻も、すでに息が上がっていた。獲物を前にした猛禽のようにちろと唇を舐めると、大股で寝室へ向かっていった。
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