三話＜淡月＞
『お仕事シリーズ』は無事完結し、特に最終話の華道家バージョンはかなりの好評を得たということだった。凛とした和服姿の二人が徐々に乱れ、獣じみた交合にのめり込んでゆくさまは暴力的で且つ美しく、同業者たちからの称賛も集めた。
しかし当の二人、透麻と晢夜の関係にはその後大した進展も見られなかった。
とはいえ、それは肉体的な関係に発展していないというだけで、互いの撮影が終わってから待ち合わせて食事をするという清い交際は続いていた。そして帰りは必ず、マンションの前まで透麻が送っていった。
二人でレストランガイドを眺めてあれこれ物色し、色んな店を開拓してゆくのは楽しく、食べることに余り興味のなかった晢夜も積極的に店探しに付き合うようになった。
そうして一緒に過ごす時間が増えていくにつれて、当然ながら親密度も増していった。しかし透麻は決して、気安い態度で肌に触れたり、プライベートに踏み込むような質問をすることはなかった。
真人からはゆっくり時間をかけていいと言われていたし、何より晢夜を怯えさせるようなことはしたくなかったのだ。
そして今夜も、晢夜と待ち合わせして食事へ行く約束をしていた。美味しいベルギービールを出す店があるという晢夜からの情報で、二人で行ってみることにしたのだ。
透麻は撮影が早めに終わったため、スタジオが入っている自社ビルの地下にあるカフェバーで、晢夜が来るのを待っていた。
「あら透麻くん、今日は早いのね」
「はい。あ、コーヒーでけっこうです」
カウンターの向こうにいる店のマスターは、英国屋のスーツにカイゼル髭の粋な紳士。但し、ベタなオネエ言葉。名前は村岡不人（むらおか・ふひと）。Ｍ２レーベル社長、真人の双子の兄である。
「もしかして、晢夜ちゃんと待ち合わせ？」
「はい、そうです」
「んふふっ」
ひと昔前のアイドルみたいに小首を傾げて笑う不人に、透麻は「どうしましたか？」と訊ねる。
「いえね、なぁんか順調だなあって思って。この調子ならきっと、あたしの勝ちね」
透麻はすぐにピンときた。わざとらしくはあ、と溜め息をついて、
「どうせ、賭けの対象にしているのでしょう？ 社長の目論見通りにいくかどうか」
「うーん、半分正解、半分外れ」
「どういうことです？」
透麻はほんの少しだけ興味を引かれ、カウンターに身を乗り出して問いを重ねた。
「賭けの対象にしているのは正解、その通り。ただ、真人の目論見なんてあたしはキョーミないの。あたしはね、透麻くんが本気になる方に賭けてるんだあ」
グラスをキュッキュッと磨いて棚にしまい、無言のままの透麻に不敵な笑みを向け、
「透麻くんは絶対、晢夜ちゃんのことを本気で好きになるわ。賭けはあたしの勝ちね」
「……社長は、本気にならないでビジネスの一環としてやり遂げることができるのは私だけだと言っていましたが」
「あの子はね、人間の上面しか見ないの。だから透麻くんは理性的で冷徹で、感情を面に出さない完璧な大人にしか見えない」
「本当は違う、と仰るのですか？」
不人はそれには答えず、粋に肩をすくめて笑うばかり。
「私は……自己の保身を優先させるつまらない大人ですよ。社長の命令には従います」
透麻は硬い声でそう言い置くと、カップに残ったコーヒーを飲み干した。不人は黙ってカップに注ぎ足して、
「そういえば、ねえ。透麻くんの本業について、晢夜ちゃんは知ってるの？」
「いえ、知りません」
「ええー、教えてあげればいいのに」
「そういう親しさの押しつけみたいなことはしたくないんです。そこまで親密ではありませんし」
不人は不満げに眉根を寄せて、何か言おうとした。その時扉が開いて、晢夜が姿を見せた。透麻はすかさず立ち上がり、
「お疲れさまです。お腹空いてるでしょう？」
「はい。もうぺこぺこ」
お腹を押さえて、少し恥ずかしそうに告げる晢夜に優しく笑いかける。そして遠慮がちに肩を抱いて「さっそく行きましょう」と促した。
そんな二人を見つめる不人の眼差しは、ほんの少し痛々しげに曇っていた。
「あ、雨……」
ベルギービールを堪能した二人が店の外に出てみると、ぽつぽつと雨が降っていた。
「ああ、こういう時に限って……」
今夜はお酒を飲むからと、透麻は車を置いてきたのだ。暦の上では春とはいえ、まだまだ夜気は冷たく、アルコールで火照った肌に夜の雨は特に冷たく感じられた。
「この時間では、流しのタクシーを拾うのは難しそうですね」
「大丈夫です。マンションはこの近くだし。走っていけばそんなに濡れなくて済みます」
晢夜はそう言って、安心させるように笑いかける。
「えっ？ 透麻さん？」
透麻は自分の上着を晢夜の頭からかぶせて、肩を抱いた。そして、
「お酒を飲んだ後に走るのは、身体によくありません。こうすれば余り濡れなくて済むでしょうから、早足で急ぎましょう」
「で、でもこれでは透麻さんがびしょ濡れに――」
「私は大丈夫。少なくとも晢夜くんよりは頑丈にできていますから。さあ、行きましょう」
雨だけではなく、闇の侵蝕からも守るように身体を抱いて、夜の道を急いだ。
マンションのエントランスに着くと、透麻はかぶせていた上着をそおっと外して確かめるように髪を撫でた。
「よかった。どうやら濡れずに済んだようですね」
そう言う透麻の髪も服もしっとり濡れて、ぽたぽたと水滴が垂れている。しかし無造作に前髪をかき上げただけで、「それじゃあ、お休みなさい」といつもの挨拶を残して帰ろうとした。しかし、
「あっ、透麻さん、待って」
呼び止めた晢夜はそっと腕を掴み、
「身体を…拭かなくちゃ。このままでは風邪をひいてしまいます。それに、傘も必要でしょう？」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。この程度の雨なら――」
「だめですっ。あの、とにかく上がってください。タオルをお貸しします。それから服を乾燥機にかけて……。まだ終電には間に合う時間ですから」
必死に引き留める晢夜に、透麻は素直に頷いた。確かに、まだ終電には時間がある。
「分かりました。では、お言葉に甘えて」
晢夜はこくんと頷いて、透麻の腕を掴んだままエレベーターホールへ向かった。
「すごい……晢夜くんは綺麗好きなんですね」
初めて部屋に通された透麻は、その綺麗さに目を丸くして驚いていた。
「いえ、物が少ないだけです。だから散らかしようがないっていうか……」
綺麗好きといえば聞こえはいいが、その実体は生活感のない無機質な部屋だ。室内に漂う虚ろな物悲しさに透麻は気づいているのかいないのか、「余計なものを置かないのが整理整頓への早道ですよ」とだけ言った。晢夜は淡く微笑んで、真っ白なタオルを差し出した。
「これで頭を拭いてください。それからシャツを脱いでもらえますか。すぐに乾燥機にかけますから。それで、と……」
晢夜は奥の部屋へ入ると、バスローブを持ってきた。
「ごめんなさい、こんなものしかなくて。透麻さんの身体では、僕の服は無理だし。取り敢えず羽織っていてもらえますか？」
「ありがとう。迷惑かけますね」
晢夜は小さく首を振ったが、すぐに頬を染めて俯いてしまった。言われた通り服を脱いだ透麻の、均整のとれた逞しい胸を目の当たりにしたからだ。
そういえば最近透麻とした仕事では、服を脱ぐことがなかった。お仕事シリーズだから制服や衣裳も重要で、裸で絡み合うことがほとんどなかったのだ。
久しぶりに見た透麻の裸、間接照明の仄かな明かりを受けて妖しくも美しい陰翳を帯びた身体が、目に灼きついて離れない。ふんわりと漂ってくる温かみのある体臭にも雄の色気が感じられて、晢夜はそんな自分に戸惑いを覚えた。
顔を上げることができず、俯いたまま服を受け取って洗面所へ駆け込み、乾燥機の中に押し込んだ。部屋へ戻ってみると透麻はバスローブを羽織って、ハムスターのゲージを覗き込んでいた。
「可愛いですね。ちょこまかとまあ元気に動くこと」
「夜行性だから……今が一番活発な時間なんです」
透麻は「なるほど」と言って興味深そうに目で追っている。晢夜は戸惑っていた。こういう場合、何かお茶でも出すべきなのだろうか。人を家に招いたことがないため、もてなしの仕方が分からないのだ。
「晢夜くん、気を使わないでくださいね。服が乾いたらすぐに帰りますから」
はっとして透麻を見つめると、ゲージの前に座り込んでにこにこ笑っている。晢夜は一瞬、本気で泣きそうになった。こういうさりげない気遣いが嬉しくて。
「この子の名前は何ていうのですか？」
透麻はよほどハムスターが気に入ったのか、飽きることなくその動きを追っている。そしてごく当たり前の質問をしたのだが、それは再び晢夜を戸惑わせることとなった。
「名前は……ないです」
「ああ、飼い始めたばかりでまだ付けてないのですね」
「違います。名前を付けると情が湧くでしょう？ だから……付けないんです」
透麻は無言のままゆっくり立ち上がった。そして晢夜の傍へ。
「別れが来るのが怖いのですか？」
「透麻、さん……」
そおっと透麻を見上げると、澄んだ黒瞳に自分の顔が映っていた。そこに揺らめく濃厚な怯えと哀しみを直視できず、つい目を逸らしてしまう。すると透麻は頭を下げて詫びた。
「申し訳ありません。あなたの心理に勝手に踏み込むような真似を」
「あ……そんなことは……」
晢夜は思わず手を伸ばした。するとその手をぎゅっと掴まれて、引き寄せられた。
「あっ、透麻さん……」
バスローブの前合わせが肌蹴け、嫌味でない筋肉に覆われた逞しい胸が露わになる。そこに顔をうずめると、肌の温もりが火照った頬に伝わった。抱き締められたまま、晢夜はその温もりに憩う。と、頭上から少し哀しげな声が降ってきた。
「ただひとつだけ言いたいのです。名前ももらえず、ただのハムスターとして死んでゆくこの子は、可哀想ではないでしょうか」
「はい、僕も……そう思います」
「出会いがあれば必ず別れがあるのです。だからこそ、この一瞬一瞬を大事にしなければなりません。恐がらないで、手を伸ばしてご覧なさい」
「はい」
晢夜は素直に従ってゆるゆると手を伸ばし、透麻の頬、唇に触れた。温かくて柔らかくて――
「あっ」
突然強く抱き締められ、透麻の顔が近付いてきた。が、晢夜は戸惑いながらも顔を背けることはしない。
「……なぜ、逃げないのです。私はあなたにキスしようとしているのですよ」
「恐がるなと言ったのは透麻さんです」
透麻は一瞬、苦しそうに顔を歪めた。しかしそのまま顔を近付け、期待と不安に震える唇を塞いだ。
「んんっ………んぅ………ふ、ぅ………」
晢夜は自ら唇を開き、熱い舌の侵入を許す。間髪いれず挿入された舌は、口腔を舐め回してから愛しい獲物を絡め取り、こすりつけて、互いの熱情を交換する。
重ねた唇の隙間から唾液がこぼれるのも構わず、二人はクチュクチュと音をたてて貪るような深い口づけに没頭した。
「ぁ………ふ……ん、んふっ………」
晢夜はほとんど無意識のうちにバスローブの内側から透麻の背中に腕を回して、ごつごつした骨の感触を確かめるように背筋に指を這わせていた。
「晢夜」
唾液の弾ける音とともに唇を離し、感極まったかのように耳許で名前を呼ぶ透麻に、晢夜は初めて明確な愛情を抱いた。これまで感じていた輪郭のぼんやりした感情が、この時初めて確かなものとして浮かび上がってきたのだ。
いや、もっと前からそれは存在していたのかもしれない。ただ認めるのが恐かっただけで。
「ああ……透麻さん、僕……」
耳許から広がる甘い疼きを反芻しながら、晢夜はゆっくりと顔を上げた。しかし下から覗き込んだ透麻の表情は、激しい感情に耐えるかのように歪んでいた。
「晢夜くん、私は……あなたが思っているほど大人ではありません。これ以上こうしていたら、抑えがきかなくなる……」
そして晢夜の肩に手を置いて、ぐいと力を入れて身体を離した。奪われた温もりを取り戻したくて、晢夜は慌てて手を伸ばそうとする。
──行かないで、もう一人にしないで……。
しかし透麻に背中を向けられて、想いのこもった指先は行き場を失った。哀しくて淋しくて、思わず非難めいた言葉を口にしてしまう。
「どうして？ いつも……平気で抱いているではないですか」
透麻の肩がぴくりと震えた。そしてこちらを向いたその顔に、明らさまな表情の変化はなかった。
しかし僅かに吊り上がった切れ長の目と、一段低くなった声により、透麻の心情を推し量ることは難しくはなかった。彼がこんなに容易く感情の変化を覚らせてしまうのは、珍しいことだった。
「あれは、ただの仕事です。しかし私が今問題にしているのは、本物の愛情に裏打ちされた行為についてなのです。解っていただけなくて……残念です」
その瞬間、晢夜の身体からさっと血の気が引き、頭の中が真っ白になった。
――透麻さんを……怒らせてしまった……。
何か言わねばならない、ちゃんと誤解を解かねばならないと焦れば焦るほど、舌はもつれ喉は震える。二人はそのまま黙って対峙していたが、やがて透麻が口を開いた。先刻より幾分和らいだ口調で、
「押しつけがましいことを言ってしまいました。忘れてください。もう服は乾いていますね？ すみませんが持ってきていただけますか？」
晢夜はぎこちない歩みで洗面所へ行き、乾いた服を取り出してきた。
「ありがとうございます。では、私はこれで。おやすみなさい」
素早く服を着て一礼すると、玄関に向かう。晢夜はただ呆然と立ち尽くしていたが、
「ま、待って、透麻さん待って！」
声を上げて必死に呼びかけた時にはすでに、透麻は扉の向こうだった。それでもなお、晢夜は透麻の名を呼び続けた。ぴったり閉じられた無機質な扉に向かって。
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