十三話＜春月＞
「それで……晢夜ちゃんの居場所に心当たりは？」
不人の問いに、透麻は力なく首を振って答えた。しかし、不人がきちんとした言葉を待っているようだと覚り、順を追って答えた。
「彼のマンションへすぐ行ってみたのですが、必要なものを持ち出した跡がありました。ハムスターのゲージもありませんでした」
「管理人には？」
「訊いてみました。家賃は半年先まで支払われているとのことです。游月の行き先は全く分からないと」
「そう……」
不人はいったん納得しかけたが、すぐにカウンターに身を乗り出して、
「で、これでおしまい、なの？ 透麻くん」
真っ直ぐな問いかけが心の脆く柔らかい部分に突き刺さり、透麻は低く呻いた。しかし、游月が受けた痛みはこれを遥かに凌ぐのだ。そして、その痛みを味わわせたのは、他ならぬこの自分なのだ。
「もし……もしこれが、全て游月の誤解によるすれ違いであるのなら、私は何年かかっても、どんな手を使ってでも捜し出そうとするでしょう。しかし私は確かな罪を犯した。游月を傷付け、裏切った。それは事実なのです。そんな私に、今さら游月を追い駆ける資格など──」
「資格？ 何よそれ。そんなもの犬にでも喰わせちゃいなさい。どうして透麻くんは、行動する前にその理由とか正当性を見つけようとするの？ 晢夜……いいえ、游月ちゃんに会いたい、会って抱き締めたい、それだけで十分じゃないの」
透麻は黙って項垂れたまま、ぴくりとも動かない。不人はいったん外へ出て、店の扉に『準備中』の札を掛けた。そして再びカウンターの中に戻ると、
「ね、游月ちゃんがこの世界に入ることになったきっかけ、教えてあげましょうか」
透麻はゆるゆると顔を上げて、生気のない目で不人を見つめた。不人は頷いて、
「游月ちゃんはね、お母さんの再婚相手とうまくいかず、早くに家を出たの。そして、バイト先で知り合った男性と恋に落ちて一緒に暮らし始めた。年上の彼はとても優しくて、大事にしてくれて、初めて愛される悦びを知った。けれど」
不人はつらそうに口を噤んで、一度呼吸を整える。そして再び続けた。
「裏切られたの、その男に。そいつはね、部屋に仕掛けたカメラで游月ちゃんと自分のセックスを隠し撮りして、そのテープを売って荒稼ぎしてたのよ」
「なっ…ん……」
透麻は文字通り絶句した。言葉が出ない。
「初めて愛し、初めて身体を捧げた人の手酷い裏切り。それを知った時の游月ちゃんの痛みを想像できる？」
「游月……」
名前を付けると情が湧くから――そう言って、名前のないハムスターを飼っていた游月。なぜ、愛することにそこまで臆病なのか不思議だった。
しかし今なら解る。痛いほど解る。
「男と別れた游月ちゃんは、独り途方に暮れていた。そんな時、偶然例の隠し撮りビデオを手に入れた真人がレーベルに誘ったの。うちの“女優”にならないか、って」
透麻は思い出した。いつだったか真人が言っていた。以前見たビデオの游月は情熱的で、とろけるような色気があったと。つまりそれが、隠し撮りされたビデオのことだったのか。
その時透麻の頭の中に、ある映像が蘇った。
「ま、待ってください。もしかしてそのテープは、まだ会社の資料室に……」
「そう。透麻くんが見せられた、あの素人っぽいビデオがそれよ。真人はあれを透麻くんに見せて、その反応を窺おうとしたの。そして……」
「私は見事に引っかかってしまった、というわけですね」
透麻は奥歯をぎりぎりと噛み締めて、あの時のことを思い出す。あの甘えた声、甘えた仕草は演技ではなかった。あの映像は、心から愛している男との本物のセックスだったのだ。
なのにそれを演技だと思い込んで錯乱した挙げ句、鬼畜な行為と残酷な言葉で傷付けた。しかしそんな自分に游月はこう言ってくれた。
『それでも、あなたを愛してる』
游月がくれた愛情がどれほど深く尊いものだったか、今になってやっと分かった。過去の裏切り、その幻影に怯えながらも、必死で愛し、信じてくれたのだ。そして全ての嘘が暴かれた時も、怒りや恨みを表すことなく自ら黙って去っていった。
「私は……私はっ……」
透麻はゆっくり立ち上がった。次から次へと湧き上がる感情のうねりに耐えながら。そして、
「游月に会いたい。そして伝えたい。たとえ許されなくても、罵倒を浴びせられても」
「そうよ、透麻くん。頭で考える必要はないわ。心の求めるまま行けばいい。君はもう自由なのだから」
不人の言葉に引っかかりを感じた透麻は、不審を隠さず訊ねた。
「私が自由？ それはどういう意味ですか」
「どういうもこういうもないわ。君はとっくに自由なのよ。……ああ、やっぱり気付いてなかったのね」
不人が何を言わんとしているのかまだ分からない。すると不人は深い溜め息をついて「給与明細を見てご覧なさい」と言った。
透麻は訳の分からないまま、ろくろく目を通さず財布の中に突っ込んだままの明細を取り出して広げた。
「………多い。なぜこんな…………あ」
多いはずだ。給与から天引きされるはずの分が引かれずに、そのまま振り込まれているのだから。
「ホントに気付いてなかったのねえ。透麻くんて、しっかりしてそうでこういうとこ抜けてるんだから。あたしの言った意味分かった？ 透麻くんが肩代わりしてた借金、返済は去年で終わってたの。もう、真人に縛られることはないのよ」
「そ…んな……」
呆然とする透麻に向かって、不人は深く頭を下げた。
「透麻くん、あの子を、真人を許してやって。確かに君や游月ちゃんにしたことは、簡単に許されることではない。でもね、あの子も必死だったの。同じようなソフトを扱うライバル会社が次々と現れて、焦ってたのよ。今、看板である二人に辞められたら、レーベル自体の存続に関わるってね」
黙って耳を傾ける透麻に真っ直ぐ視線を向け、不人は「でも」と続ける。
「でも、給与明細を見て不審に思った透麻くんに訊かれたら、きっと正直に告げるつもりだったと思うの。あの子って昔からそうだった。冷徹になりきれないっていうか、結局情に流されちゃうところがあったから。今もね、游月ちゃんのことすごく後悔してるのよ。だから……」
透麻は口許を緩めて、頷きを返した。今すべきなのは、誰かを恨むことではない。
「色々ありがとうございました。お二人の想いに応えるためにも、私は何としても游月を捜し出します。そして、もし許してもらえるのなら……」
透麻はカウンターの奥にまで聞こえるように声を張って言った。
「今度こそ、游月を幸せにします」
そして一礼をして店を出て行く透麻を見送りながら、不人はカウンターの奥へ向かって言った。
「透麻くん、やっぱり気付いてたのね。あんたがいることに」
すると不人と同じ声、同じおネエ言葉が返ってきた。
「ホント、バカみたいに優しいんだから。あれ、将来尻に敷かれるわよ、ぜったい」
但し、少し涙声だったが。
「うわあ……桜吹雪だあ」
ようやく、この北の国にも本格的な春が来た。あっという間に満開を迎えた染井吉野は、もう散り始めている。
「東京の桜は、とっくに散っちゃったんだろうなあ……」
今も東京にいるはずの、愛しいあの人を思い出しそうになって、慌てて首を振る。でも、そんなことしても無駄だとは分かっていた。何をしたって忘れることなんてできない。この二カ月間、どんなに努力してもあの優しい微笑みの面影から逃れることはできなかったのだから。
「おーい、游月ぃ、今日はお客さん来たのかよ」
近所の悪ガキが、箒を持ってぼーっと桜を眺めていた游月に声を掛ける。口は悪いが、実は心配してくれているということを游月は知っていた。
「来たよぉ。三人も」
「お、すげえ。物好きがいるもんだなあ」
悪ガキはにぃっと笑って、走り去っていった。その背中を目を細めて見送り、時計を確かめる。
「あ、もうこんな時間だ」
そして館内に戻ろうとした。その時、
「游月」
この二カ月間、何度も何度も夢の中で聞いた声。忘れなきゃと耳を塞ぎ、胸を掻きむしったけれど決して消えることのなかった声。游月は半信半疑でおそるおそる振り向いた。
「透麻さん……」
散りゆく桜が見せる幻影なのだろうか、繚乱と舞う花びらの向こうに、ここにいるはずのない人が微笑みを浮かべて立っている。
游月は頭が判断するより先に、箒を投げ捨てその幻影に駆け寄った。
「透麻さんっ！」
飛びついても抱き締めても胸に頬を寄せても幻影は消えない。游月は震える指を伸ばしてその輪郭をなぞった。
「ほんもの……？」
透麻はその指を取って唇を寄せる。そして、
「本物ですよ。桜が見せる幻ではありません。游月……」
「うそ……うそだよ、こんなことあるはずない……」
力なく頽れそうになる游月の身体に腕を回して支え、透麻はたったひと言「会いたかった」と告げる。それだけで、想いは十分伝わってくる。游月は必死に腕を伸ばしてすがりつき、
「透麻さん……どうして……どうしてここに？」
「あなたに会いたかったから。会いたくて会いたくて、月の博物館を頼りに捜して、ようやくここに辿り着きました」
「あ……」
それでも游月は信じられなかった。透麻が今ここにいるという現実が。
「いつか話してくれましたね。月を偏愛しているお父さんは、月の博物館を造ろうとしていたと。私が頼りにできる手がかりは、これしかなかったのです。たった一本の細い糸でしたが、私には確信がありました。あなたはきっと、そこにいるに違いないと」
「捜してくれたの？ 僕を……」
透麻は重々しく頷き、
「もっと早く見つけられると思っていました。桜が咲く前には、きっとあなたに会えると。でも、ああ……月の博物館が、日本にこんなにたくさんあるとは知りませんでしたよ」
「じゃあ、月の博物館を探して、そこをひとつひとつ……」
「はい。現地へ出かけ、周囲の人々に游月らしき人物を知らないか尋ね歩きました」
大変な労苦だったろうに、そんなつらさは微塵も感じさせない穏やかな口調で語る透麻。いつの間にか、游月の瞳に涙が溢れていた。
「どう…して？ なぜそこまでして僕を……」
透麻はちょっと心外そうに眉根を寄せて、
「決まってるでしょう？ あなたに会いたかったから」
「なぜ、僕に会いたいと？」
「あなたを愛しているからです」
僅かなためらいも揺らぎもなく、静かに厳かに言い置く。この告白に込められた真実を、見抜けないような游月ではなかった。しかしやはり、困惑は拭い去れない。
「だって……だって透麻さんはっ――」
突然腕を強く引かれ、身体が大きくよろめく。次の瞬間、透麻の逞しい胸に抱きとめられて、息もできぬほどの抱擁を贈られた。
「と…うまさん……」
「游月、游月ッ……」
熱く掠れた声で何度も游月の名を叫び、その情熱を孕んだままの声で想いを告げる。
「今さら……恥ずかしげもなくよくそんなことが言えると、あなたがそう思うのは当然です。でも……でもっ――」
透麻は苦しげに絶句した。沸き立つ想いの激しさに言葉は呑み込まれ、口から出てくる気配はない。言いたいことは山ほどある、けれど言葉にできない。そんなもどかしさが、透麻の全身から伝わってきた。
言葉なんていらない、こうして捜してくれただけで十分という想いを込めて游月が抱き返そうとした時、
「游月、愛してる」
全ての想いはたったひとつの言葉に収斂される。透麻はその、たったひとつの言葉を捧げたのだ。游月はうっとりと目を閉じて、透麻の温もりとともにそれを味わった。
こんな夢なら、これまで何度も見た。目を覚ました後の幻滅にも、もう慣れてしまった。でも、
――これは夢じゃないんだ。
次に目を開けた時にはきっと、桜舞い散る中で優しく微笑む透麻を見るだろう。游月はその確信を反芻しながら、ゆっくりと目を開けた。
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