十二話＜傷月＞
「ああ、いたいた。透麻くん、どこへ行ってたんだ。始めるよ」
「……申し訳ありません」
額にうっすら翳を落とし、低い声で詫びる透麻を、スタッフは怯えた目付きで見上げた。謝罪の口調はいつもの彼らしく丁寧だが、その存在自体が放つ禍々しい何かに本能が反応したようだ。
それはもしかしたら、透麻の役柄のせいかもしれない。派手なダブルのスーツを着て、髪を後ろへ撫でつけてひとつに結んだ精悍な立ち姿は、誰が見ても、暴力と金と情欲に塗れた闇の世界の住人だった。そしてその冷ややかな表情には、獲物を付け狙う冷酷な獣を思わせる静寂があった。
監督の合図とともに、カメラが回る。撮影が始まった。
「ここは……どこ……？」
ホテルの一室に監禁された游月は、ベッドの上で目を覚ましたところだった。心中の怯えを必死に隠しながら、勝気な視線で透麻を射抜く。
対して透麻は上着を脱いで無造作に投げ、「どこだと思う？」と薄く笑った。その瞬間、現場のスタッフ達に緊張が走った。きっとこの撮影は凄いものになる。年に数回しかないが、そういう直感が下りてくることがあった。
しかしただ一人游月は、言いようのない違和感に襲われた。透麻の目は自分を見ていない。いや、游月を見ずに『晢夜』だけを見ているのではないかと、根拠のない疑念に囚われたのだ。
仕事中だからそれで当然だという考え方もある。事実、以前の游月だったらそう考えたに違いない。しかし今になって、こんな目で見られるとは思っていなかった。
なぜ？ 何があったの？ とすぐにでも問い質したかったが、今は演技を続けるより他ない。
「あの人は……ねえ、あの人はどこ？ まさか、あの人に何か……」
「さあな。今ごろうちの連中の楽しい接待を受けてるんじゃねえのか。ひいひい言いながらのたうち回ってるぜ、きっと」
透麻は静かな凶暴性を秘めた声で言い置くと、ベッドの上にどさりと腰を下ろして游月の身体を抱き寄せた。
「離せっ」
腕を突っぱねて抵抗するが、もちろん透麻はびくともしない。それどころか、シャツの中に手を滑り込ませて、
「お前が素直に応じていれば、あの男も五体満足のままでいられたんだ。可哀想に」
「うそっ、離せ、離せぇ……あの人に会わせて、あの人に――」
腕の中で暴れる游月を面白そうに見下ろしながら、透麻はズボンのポケットから手錠を取り出した。その片方を游月の手首に嵌めると、
「俺がどれだけお前を愛しているか分からせてやろう。たっぷり時間をかけて仕込んで、俺なしでは生きられない身体にしてやるからな」
「嫌だっ」
手錠をぶら下げたままベッドを飛び降りて逃げようとする游月を、背後から乱暴に抱き上げてベッドの上に投げる。そして上からのしかかって衣服を全て剥ぎ取ると、足を掴んで持ち上げ、手錠のもう片方を足首にカチャリと嵌めた。
「や、やめて……どうして……？」
台詞ではない問いが思わず出てきたのも無理はない。台本では、片方の輪はベッドの柱に繋ぐとあった。こんな恥ずかしい格好を晒すはずではなかった。
しかし游月の戸惑いを冷たく無視して、透麻は演技を続ける。いや、それは果たして演技なのか。それとも、嫉妬に喰い荒らされた哀れな男の、必死の足掻きだったのか。透麻本人もすでに分からなくなっていたのかもしれない。
ただひとつ明らかなのは、透麻には台本通りに進める気はないということだった。
「い、嫌だ……これ外してよぉ……」
右手首と右足首を繋がれて、後孔を剥き出しにした状態で寝かされた游月。涙混じりの声で訴えるが、透麻はもちろん、監督からも何も反応がない。どうやら監督は、このまま推移を見守ることにしたらしい。
「外してやるよ、いずれな……」
酷薄な笑みを浮かべてねっとり囁くと、露わになった後孔に指を這わせ、そのまま突き入れた。
「い、痛っ、痛い……」
濡らすこともせずいきなり挿し込んだのだから、たとえ指一本でも痛みは生じる。そんなことが分からぬ透麻ではないはず。しかし粘膜のまとわりつく指をグリグリと回しながら、ついに根元まで押し込んだ。
「さすがだな、慣れたもんだ」
嗤いを含んだ声で吐き捨てて、指を曲げて肉壁を引っ掻く。
「痛い、ホントに痛いよ……お願い……」
甘えた声、甘えた表情で游月は哀願したが、それが余計に透麻を苛立たせてしまったようだ。指が増やされ、硬くすぼまったままの内部をめちゃくちゃに掻き回された。
「ああッ！ やっ、やめて！」
左手でシーツにしがみつき、疼痛に耐える游月を透麻は冷たく見下ろした。そして、
「やめて、だと？ 今までもこうやって男に嬲られてきたんだろうが。何を今さら」
游月ははっと目を見開いて透麻を凝視した。心をぎゅっと握り潰されたような衝撃。游月はこの言葉が台詞ではなく、透麻の本心から出たものだと分かってしまったのだ。
「ああ……僕、僕はっ……」
瞬きを忘れた双眸から、熱い涙がとめどなく溢れ出る。それを見た透麻の顔が、苦しげに歪んだ。ようやく、自分のしたこと、言ったことの重大さを認識したようだ。
透麻はゆっくりと指を抜いて、足首の手錠を外した。しかし游月の涙は止まらない。当然だ。それは『晢夜』ではなく游月が流している涙なのだから。
游月はシーツを掴んでいた左手を伸ばし、透麻の冷たい頬に触れる。そして込み上げる嗚咽を呑み込んで、自分の想いを、游月の想いを伝える。
「僕はそれでも……あなたを愛してる……」
「ゆづ…き……」
透麻は腕を広げて、たった今傷付けてしまった身体を抱き締めようとした。その時、
「ストップ！ そこまでよ。二人とも何やってんのよ」
真人の険しく尖った声が、スタジオ内に響き渡った。
撮影は一旦中断された。透麻はともかく、游月はまだ不安定な様子で、暫し休息が必要だと判断されたからだ。
本当はすぐにでも游月の眼前にひざまずいて、あの非道な振る舞いを心から詫びたかった。傷付けてしまった心身をわずかでも癒してあげたかった。
しかし真人から「少し頭を冷やしなさい」ときつく言われ、仕方なくスタジオの隅に座り込んで、ひたすら自分を責めることに没頭した。
「游月……」
游月の甘えた声、甘えた表情も、昨日までなら信じることができた。しかしあのビデオを見てしまったことで、何が真実で何が演技なのか、ここにいるのは游月なのか晢夜なのか分からなくなってしまったのだ。
今、目の前にいる游月を信じればいい、それは正論だろう。しかしアダルトビデオという特殊な世界に身を置いている人間の性（さが）なのか、もっと確かな、強固な絆にすがりたいという欲求を抑えることができない。
誰のものでもない、自分だけの游月が欲しいと願うことは、過分な欲望なのだろうか。
「トーマくん、ちょっと」
のろのろと顔を上げると、目の前に真人が立っていた。表情の険しさは薄らいで、いつもの真人に戻っていた。
「資料室に来て。いいわね」
何を問い質されるか見当はついていたが、透麻は頷いて大人しく従った。資料室に着くと、真人ははあ、と大仰な溜め息をついて、
「まったく、どうしちゃったのよ。あんなめちゃくちゃな芝居ったらないわ」
「申し訳ありません」
「他に言うことはないの？」
しかし透麻は黙って俯いたまま。痺れを切らした真人は、
「じゃあこちらから訊くわね。改めて、あなたたちは付き合ってるの？」
「はい」
「で、トーマくんも本気なのね？」
「……この前お答えした通りです」
「この前、ねえ……」
真人は記憶を辿るように目を細めて宙を見据えたが、すぐに透麻へ向き直って、
「あたし後から気付いたんだけど、この前質問した時、トーマくんははっきり否定はしてないのよねえ。そう見えますか？ なんて言ってはぐらかしちゃって」
「はぐらかしたつもりはありませんが」
真人は「ふーん」と気のない返事をして、
「それならあたしの納得のいくように答えてよ。トーマくんは、晢夜くんのことを本気で好きなわけではないのね？」
「当然でしょう。私は、晢夜くんを誘惑して恋人同士になれという社長の命令に従って動いたのです。そして全てうまくいった。なのに今になってあれこれ文句を――」
カタン、と奥の棚から物音がした。そして、そこからよろめきつつ人影が現れた。その時、透麻の中で全ての時間が止まり、凍りつき……崩壊した。
「うそ、だったんだ……」
「ゆ…づき……」
「毎日送ってくれたのも、ご飯食べに行ったのも、星空の下で抱いてくれたのも――」
感情が、哀しみが言葉に追いつかないのか、游月は言葉を切って苦しげに喘いだ。そして胸を押さえながら続ける。
「游月愛してるって……言ってくれたのも……」
大きく見開いた瞳からは涙が……出てこない。虚ろな瞳から溢れるのは、絶望の澱。
「違う！ 游月ッ」
「ぜんぶうそ……だったんだね………」
游月はふわふわと雲の上を渡るような歩みで出口に向かった。
「游月、待ちなさいっ。私の話を――」
もちろん透麻は後を追おうとした。その時、
「あ……ああああああ…………………やあああああーーーーーッ！！」
耳を覆いたくなるような絶叫。聞いた人間の精神をも蝕むかのような。その悲愴な叫びをまともに浴びて、透麻の身体は凍りついた。そして、游月が走り去るのを呆然と見送った。
ふと我に返った時には、游月の姿はどこにもなかった。
「游月……」
失ってしまったものが大きすぎて、喪失感すら湧かない。何もない荒野に独り置き去りにされたかのように、透麻はただ途方に暮れた。しかし、
「トーマくん、追ってはだめよ」
何という皮肉だろうか。真人の言葉が透麻に行動の指針を与えた。今こそ、命令に背く時。
「だめ、追ってはだめ！」
真人の甲高い声を背後に聞きながら、透麻は廊下を駆け抜けて非常階段に飛び込んだ。
「ああ……雨、だ………」
游月は無人の闇に向かって両手を差し伸べ、冷たくなよやかな春の雨に身体を浸した。突然の雨に降られて、透麻と二人で濡れながら帰ったのはいつのことだったろう。
もうずっと昔のことのように思える。あの時初めて、透麻と恋人同士のキスをした……と思っていた。今までは。でもあれも嘘だったのだ。
「ぜーんぶうそ。なのに……」
なのに、なぜだろう、怒りが湧かないのだ。悲しみで心が飽和状態だから、怒りが生じる余裕がないだけなのだろうか。もう少し時間が経てば、悲しみで荒廃した土壌から怒りの茨が芽吹いてあっという間に心を覆い尽くし、自分を騙した透麻へ向かって呪詛を吐きかけるのだろうか──
「ちがう……」
游月には分かっていた。決して、透麻を恨むことはできないと。社長に頼まれて、仕方なくやったのだろう。当の真人もそう言っていた。
さっき、透麻を資料室に呼ぶ前に、真人は游月を呼んで全ての事情を打ち明けていたのだ。まだ硬さの残る晢夜の魅力を引き出すため、自分が透麻に頼んで恋人になってもらったのだと。
そして真人は頭を下げて謝った。ごめんね晢夜くん、あたしのやり方は間違っていたわ。役者だって人間だという当たり前の、基本中の基本を忘れていた。だから暫く休んでいいから、彼とは別れて、彼のことは忘れて、ね……？
游月は信じなかった、いや、信じたくなかった。頑なに首を振って、真人の言葉を否定し続けた。それは透麻の愛情を信じていたからでもあるし、そうして否定し続けることでしか自分を保てなかったからでもある。
そんな游月を哀れんだのか、真人は痛ましげな眼差しを送った。しかし情を排して決然と言い置いた。なら、証拠を見せるわね、と。そして透麻を呼びに行ったのだ。
「きっと、透麻さんもつらかったんだ……」
透麻が、人の心を悦んで弄ぶような人間ではないことだけは、信じられる。きっとつらかったに違いない。だから透麻を恨むことはできなかったし、頭を下げて詫びてきた真人を恨むこともできなかった。游月を支配する感情、それは、
「哀しい……」
誰かを恨むことができれば楽だったのかもしれない。哀しみを怒りに転換してぶちまければ、早く昇華させることができる。
しかし游月にはそれができなかった。ならば一体どうすればいい？ どうすればこの、身体中を巡る負の感情を吐き出すことができる？
「ね、君、いくら？」
背後から声を掛けられてふと我に返ると、あのホテルの前にいた。そう、透麻が連れてきてくれた、星空の部屋のあるホテル。思い出に吸い寄せられるように、ここへ来てしまったのか。
「ねえ、君。そういう相手を探してるんだろ？」
ゆっくり振り向くと、ビニール傘を差したサラリーマンらしき男が媚笑を浮かべて立っていた。游月は機械的に答える。
「いくら…くれる……？」
游月の反応に気をよくした男は、慌てて財布の中身を確認した。そして満足げに頷くと、
「とにかくさ、中に入ろうよ。君も濡れちゃってるし。ね？」
せかせかと近付いて、游月の肩に手を置く。その細さに欲望を刺激されたのか、いやらしく目を細めて唇を舐めた。しかし游月は気にせず、ふらふらと男の誘導に従う。その時、
「おい、人のイロに手ぇ出そうってえことは、それなりの覚悟はあるんだろうな」
男は文字通り飛び上がって振り向くと、「な、なんだ君はっ」とむやみに甲高い声で威嚇した。
「とうま…さん……」
派手なダブルのスーツ、雨も避けるほどの凶暴なオーラ。どこから見ても、立派なアンダーグラウンドの人間だ。パシャ、パシャ、と水音を弾かせて近寄り、游月の肩に乗った手を掴んでねじ上げる。
「ひッ、いああああ………すみませんすみませんッ。し、知らなかったんですぅ」
「何だと？ 聞こえねえな」
「い、いくらお支払いすれば……」
透麻は眉間に険しい皺を刻むと、
「てめえ、なめた真似すんじゃねえぞ。その辺のチンピラと一緒にするな。さっさと行け」
男はかくかくと頷くと、猛ダッシュで走り去った。ビニール傘を投げ出して。透麻はそれを拾い、游月の上に差した。
「今さら遅いですね。こんなに濡れてしまって」
「透麻さんこそ」
二人は無言で見つめ合った。やがて透麻が先に口を開いた。
「游月、私は――」
しかし、游月は指で唇を押さえた。言葉は要らない。今欲しいのは──
「透麻さん、抱いて……星の下で」
游月は透麻の手を取って、ホテルの中へ入っていった。
星の海に浮かぶ、蒼い方舟。その上でひとつになる透麻と游月。透麻は耳許で何度も「游月、愛してる」と囁く。初めてここに来た時と、何も、何も変わらない。
たったひとつ違うのは、自分が知ってしまったこと。全てが嘘、偽物だということを。それでも。
「透麻さん、愛してる……」
游月は本物の愛を囁いた。偽物の星空、偽りの愛。全てが嘘の世界に紛れ込んだ“本物”は、滑稽なのかもしれない、哀れなのかもしれない。それでも游月は幸せだった。
――短い間だったけど、夢を見ることができました。透麻さん、ありがとう……。
二人は同時に果て、そして抱き合いながら眠りについた。夢から醒めてしまったら、また違う夢を見ればいい、そう言ったのは透麻だった。しかしもう、幸せな夢を見ることはできない。全て終わってしまったのだから。
透麻が目覚めた時、そこに游月の姿はなかった。傷付いた月は何処へか去り、もう透麻の視界を照らすことはなかった。
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