十一話＜氷月＞
目論見通り、いやそれ以上の成果と言えるのかもしれない。真人は、先刻の二人の演技を思い出し、熱い溜め息をついた。色気、情熱、そして官能。どれも以前の晢夜とは比べ物にならないほど見事に、生々しく表現されていた。
なのに、このもやもやした不安は何だろう。晢夜の成長を手放しで喜べない何かが、胸の奥につかえている。いや、その正体はすでに分かっていた。だからこそ、確かめるためこうして透麻を待っているのだ。
やがて、身支度を整えた透麻と晢夜が楽屋から出てきた。これから何を食べに行こうか相談しながら、エレベーターを待っている。
「トーマくん、ちょっといいかしら」
呼び止めると、透麻は片方の眉をかすかに吊り上げた。そして顔だけ真人の方を向いて、
「何でしょうか、社長」
「ちょっとね、この次の仕事についてトーマくんの意見を聞きたいの。いいかしら」
「すぐ済みますか？」
「もっちろんよお。残業代は出せないもの」
透麻は游月に車の鍵を渡して、「車の中で待っててくださいね」と笑いかけた。游月は頷いて、一人でエレベーターに乗った。透麻はそれを見送ると、真人の方に向き直り、
「で、改めて何でしょうか」
あらゆる詮索を跳ね返してしまう氷の微笑を浮かべて、穏やかな声で訊ねる。真人は一瞬、背筋に冷たいものを感じたが面には出さず、感情を排した声で訊いた。
「単刀直入に訊くわ。あなたたち付き合ってるの？」
「ええ。付き合っていますよ」
少しのためらいも迷いも見せず、透麻は即答した。真人は「そうなの」と頷いてから、
「トーマくんも本気のようね」
「そう見えますか？」
「ええ、見えるわ」
「それはそれは」
透麻はちらと肩を竦めて愉しそうに唇を歪め、
「では、あなたの人選は間違っていたことになりますねえ」
慌てて否定するでもなく、うろたえるそぶりも見せない。真人は少し考えを改めた。もしかしたら、あたしの考え過ぎだったかも――
「では、違うのね？」
「真人さん、私は、この業界にいる人間を本気で愛してしまうほど愚かな男ではありません。余り見くびらないでいただきたいですね。それに……私にとってあなたの命令は絶対なのです。それはお分かりでしょう？」
真人は一瞬、表情を曇らせて目を逸らしたが、すぐにいつもの軽薄を装った表情に戻って、
「そうね。君はあたしのものだもんね。それが分かってるなら問題ないか。ま、ちょっと心配だったから訊いてみただけなの。さっきの現場があんまり……すごかったから」
「あなたの望み通りの展開になったでしょう？ 何の不満が、心配があるというのですか」
透麻の声に苛立ちが灯った。それはごくかすかなもので、付き合いの長い真人にしか察知できないような小さな棘だった。感情を抑えようとしているせいか、いつもよりさらに低音の重厚な声で、
「さきほどの晢夜くんをご覧になったでしょう？ 私も思わず惹き込まれそうになるほどの色気と媚態。とろけるような身体。あなたが彼から引き出したいと願っていたものが全て、実現されたのです。なのに今度は、それが行き過ぎだと言って非難するのですか？」
「ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃっただけなの。今の話は忘れてね」
真人は笑って透麻を宥めた。透麻も「言い過ぎました」と軽く詫びて、エレベーターに乗り込んだ。逞しい背中が見えなくなると、真人はふっと息を吐いて、
「すごかったのは晢夜くんだけじゃないわ。トーマくん、あなたもよ。あんな情熱的に行為に没頭する君、初めて見たわ」
ぴったりと閉じてしまったエレベーターの扉にぽつりと囁きかけると、確かめる必要がありそうね、と胸の内で呟いた。
「やはり、ばれてしまったか……」
透麻は駐車場へ向かうエレベーターの中で、苦い呟きを漏らした。そして、これからは気をつけねばならないと自分を戒めた。
真人の口癖は、『役者同士の恋愛は会社を潰す』だった。恐らく、これまで何度も痛い経験をしているのだろう。恋人が他の男と交わって喘いでいるのが耐えられないと言って、看板役者が辞めてゆく。
そんな経験からか、真人は役者同士の恋愛に厳しかった。発覚した途端、全力で潰しにかかる。どんな手を使ってでも。
普段は笑顔を絶やさず、スタッフの失敗にも寛容に対処することが多い真人だったが、その時だけは冷徹且つ強権的な経営者になった。数人の男にマワされる輪姦ビデオに強制出演させたり、例のアングラレーベルに強制送還することもあったのだ。
仕事を辞めて欲しい――游月にはっきりとではないが、遠回しに言ってみたこともあった。
しかし二年先まで専属契約を交わしており、今辞めたらかなりの額の違約金を払わねばならないんだ、とつらそうに眉をしかめて答える游月に、それ以上何も言うことはできなかった。
気をつけねばならない、改めて強く自分に言い聞かせる。しかし自信はなかった。日を追うごとに游月への想いは募り、それと比例して游月を独占したいという欲望も膨らんでいった。他の男には……触らせたくない。
もちろんその欲望をストレートに伝えるのは、游月を苦しめることになると解っている。しかし抑えて抑えて抑え込んだ挙げ句、自分がどうなってしまうのか想像もつかない。こんなに強く、たった一人のひとを愛したのは初めてだったから。
透麻は、自分の性格をよく理解していた。激しやすく、執着心が強くて、嫉妬深い。だから用心深く、誰とでも距離を置いて付き合うようにしてきたのだ。そうしないと、暴走して相手を傷付けてしまう危険性もあったから。
そして今、游月を愛するようになってその兆候が現れ始めていた。このままではまずい、何か取り返しのつかないことが起こってしまうかもしれない。
言い様のない不安を何とか押し隠して、透麻は游月の待っている車へ急いだ。
透麻の不安をよそに、仕事においてもプライベートにおいても、二人の関係は順調そのものだった。
あれから二度ほど二人で組む仕事をこなしたが、いずれも評判はすこぶる良く、監督からは「晢夜くんは見るたびに色っぽく、綺麗になっていくねえ」と溜め息混じりの賛辞を頂戴するほど。
そのたびに游月は頬を染めて「そんなことないです…」と答えては、恥ずかしそうに透麻の顔を見上げるのだった。
透麻が警戒していた真人の動向であるが、予想に反して静かなものだった。あれ以来現場を覗きに来ることもなく、透麻や游月への接し方にも変化はなかった。
そうして、透麻が油断し始めた頃だった。その事件が起きたのは。
「なるほど、私がヤクザの組長で、游月がその愛人ですか。全く、色んなシチュエーションを考えるものですねえ」
「しかも、僕はもともと他の人の恋人で、透麻さんが横恋慕して奪ってしまう、って流れらしいよ」
「でも結局、游月は私の方を愛するようになるのでしょう？」
ついさっきまで腕の中で熱くとろけていた身体を再び強く抱き締めて、耳許で甘く囁く。游月はくすぐったそうに腰をよじって、甘く笑み含んだ声で、
「透麻さんて案外自信家。それより、台本覚えなくていいの？ 撮影は明日だよ」
「大体の流れは頭の中にあります。これから游月とリハーサルをやれば完璧です」
游月はころん、と背中を向けて、
「やっ、もうできません。明日撮影があるのに、あんなに何度も鳴かせて……透麻さんのえっち」
透麻は苦笑を浮かべつつ、露わになった游月の項に唇を這わせて、
「仕方ないでしょう？ あなたが際限なく煽るから」
「あ……ん、煽ってなんかな……ぃ………」
「嘘おっしゃい。今だってほら、そんな可愛い声を上げて」
脇腹を指ですっとなぞり、そのまま太ももに滑らせる。そしてまだ微かに濡れている股間に侵入させた。
「ぁ……ん、んっ」
鼻にかかった蜜状の吐息を堪能して、透麻は潔く手を引き抜いた。
「今夜はこれで我慢します。明日がありますからね。游月の身体を休めてあげなくては――」
透麻の殊勝な言葉は途中で途切れた。游月がお尻を突き出して、柔らかな双丘を透麻の股間にふにふにとこすりつけたからだ。
「……っ、游月……！」
弱々しくかすれた声で呻く透麻。游月は寝返りをうって再び向き直り、
「やっぱりもう一回だけ。ね？」
透麻の内なる天使と悪魔の葛藤は、呆気なく決着がついた。もう休ませてあげるべきですという天使の声は儚いエコーと共に遥か彼方へ遠のき、ふと気付いた時には息を荒げて游月の上にのしかかっていた。
そして翌日。これから撮影でスタジオへ向かおうという時、編集室の中から声を掛けられた。室内には数人のスタッフが肩を寄せ合って、モニターに見入っている。
「あっ、透麻さん、ちょっとちょっと。すごいもの見つけちゃったんですよ」
「どうしました？」
「これ、偶然資料室で見つけたんだけど、晢夜くんの昔のビデオ。誰も現場に立ち会った覚えがないっていうから、かなり古いものだと思うんですよね。たぶん、晢夜くんがうちに来てすぐの頃じゃないかなあ」
透麻は断ろうとした。游月が他の男に組み敷かれている場面など見たくはない。しかし、
「すごいなこれ……。真に迫ってるというか。昔からこんな演技ができたんだ、晢夜くん」
「色っぽいよな。これならソッチに興味のない男でもヌケるんじゃないの？」
スタッフ達の感想を無視できず、ついモニターを覗き込んでしまった。そこに映っていたのは、間違いなく愛しい游月。簡素なベッドの上で男と激しく交わっている。
それだけならまだ良かったかもしれない。もちろんいい気持ちはしないが、仕事だから仕方がないと自身を宥めることができる。しかし――
「游月……」
市販の安物カメラで撮影したかのように、画面は暗く荒い。しかもカメラが固定されているのかアングルが全く変わらない。わざと稚拙に撮って、素人ビデオを装っているのだろう。そういうジャンルを好む物好きも多いのだ。
確かに画面の中で繰り広げられている痴態は、安っぽい画面とは対照的に、見る者を引き込んで離さない濃厚な磁力を持っていた。
游月は男の腰に白い脚をぎゅっと巻きつけ、腰をひくひくと跳ね上げている。これは、交わりをもっと深くしたい、離れたくないという游月の本物の愛情表現だと思っていた。実際、恋人としてセックスするまでは、これをされたことはなかったのだ。さらに――
『あっ、あっ、ん、ねえ……もっと、もっとして……』
甘えた声でおねだりする游月。つい昨夜聞いたばかりの睦言と重なる。
「うわ、可愛い声。たまんね」
スタッフの呟きに他の人間も頷く。透麻はこれ以上耐えられなかった。自分だけのものだと思っていた游月が、かつてのビデオの中に、しかも女優として存在していただなんて。
その時、画面の中の男優は游月の耳に口を寄せて何かを囁いた。すると游月はくすぐったそうに腰をよじって喘ぐと、とろけそうな表情で『僕も愛してる』と返した。
透麻は、自分の中で凶暴な何かが弾けるのを感じた。
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