Chained Angel

＜3＞

夏の朝は気怠くて、かすかに汗ばんだ肌と肌が融け合う悦びにずっと浸っていたくなる。目覚めた純は、尭村の逞しい腕の中でもぞもぞしつつ、そろそろ起きなきゃ、でももう少しだけこうしていたいと、甘い煩悶を反芻していた。

「……起きたか？」
「あ……はい」

いつもなら「まだですぅ…」と甘えてみせるのだが、今朝はそういうわけにもいかなかった。貴仁から、朝食は母屋で一緒に、と誘われていたのだ。

せっかく貴志が来ているのだから、なるべく家族で一緒に過ごす時間を作ろうと考えているのだろう。その想いを無視して、自分たちさえよければという態度をとることは到底できなかった。

「悪いな、純。親父がうるせえから」
「ううん、そんな。いいんです。というか、僕の方こそ久しぶりの家族団らんに割り込むことになってしまって……」

純の言葉に対する尭村の答えは明解だった。

「お前も家族じゃねえか」

純はお礼を言おうとしたが言葉にならず、黙ってこくんと頷いて起き上がろうとした。しかし尭村の腕に優しく背中を押し戻され、

「そんな急がなくていい。まだ時間がある。もう少しお前とこうしていたい」

尭村のストレートな言葉にほんのり頬を染め、純は再び腕の中に戻った。そして硬い胸筋を覆う滑らかな素肌に、ぺたぺたと顔を押し付ける。

「こら、くすぐったいぞ」

寝起きのせいか、あやすように叱る声は艶っぽくかすれていた。純は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、この温もりや幸福感を細胞のひとつひとつにまで浸透させた。

「もうすぐ……夏休みですね……」

純は誰にともなく呟くと、続けて溜め息とともに本音の言葉を漏らした。

「ヤだなあ……」

夏休みなんか来なければいいのに、と切実に思う。受験生の尭村はこれからどんどん忙しくなるけれど、学校に行けば毎日逢うことができる。しかし休暇中はそうはいかない。短期だけど予備校の夏季講習も受けると言っていたし、それがない時でもふらふら遊びに行けるわけではない。

いや、尭村は遠慮せず家に来いよと言ってくれているが、純は自分の厄介な性格から、勉強の邪魔ではないか、本当は迷惑に思っているのではないかとぐるぐる考え込んで結局は尻込みしてしまうに違いないと分かっていた。逢いたいという気持ちをストレートにぶつけることは難しいだろうと。

そういえば、去年の夏はどうしていただろうとふと思いを巡らせ、その瞬間に思考が凍り付いた。色々なことがあり過ぎた夏。その全てを消化しきれていない自分に気付いたからだ。

「関係ねえよ。夏休みだろうが何だろうが。どうせ、親父はしょっちゅうお前を呼びつけるだろうし」

尭村はそう言って、純の頭をふわふわと撫でた。この言葉に、尭村のさりげない気遣いが込められていることが分からない純ではない。貴仁に呼ばれて来るんだから、気後れを感じる必要はないんだぞと、暗に言ってくれているのだ。

こういうあからさまではない優しさを見せられるたび、純はつい泣きそうになってしまう。ぶっきらぼうな言葉の奥で確かな鼓動を刻む、深い愛情が嬉しくて。

「ん、そうですね。呼び出しに応じなかったら怖いから」

純は明るい声で応えると、胸の奥で“尭村さん、ありがと…”と呟いた。






「いいかあ？　純。こいつが受験生だからとか何だとか、気に掛ける必要はぜんっぜんないんだぞ。この家はお前の第二のふるさと、実家も同然なんだからな。いつだってウェルカムだ。せっかくの夏休みなんだ。こいつがせこせこ何の役にも立たねえ勉強をしている間、俺と楽しいことしようぜ」

先刻の尭村の言葉を裏付けるような貴仁の申し出に、純は笑顔で頷きを返した。対して尭村はフンと鼻を鳴らし、

「中年男とつるんで楽しいわけねえだろ」
「おお、そりゃこっちの台詞だ。性欲オンリー、全身海綿体の若造とつるんで楽しいわけねえな」
「人を化け物みたいに言うな！　てめえの息子だろ」
「は？　俺のムスコはもっとデカくて色艶もよくて―――」
「朝から下ネタはやめろ」
「なんだ？　いきなり紳士ぶりやがって。ほら、純も言ってやれよ。この全身海綿体、って」

エンドレスの様相を見せる親子喧嘩をものともせず、額賀はてきぱきと朝食の配膳を進め、各々のカップにコーヒーを注いでゆく。

「秋原様は、固めの目玉焼きがお好きでしたね？」
「あ、はい」
「こちらは、この前美味しいと仰っていたジャムです。さっそく取り寄せたので、どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます」

純はぺこりと頭を下げ、こけもものジャムをたっぷり乗せたパンを頬張る。すると、純の向かいに座っていた貴志はぷっと吹き出し、

「すごいな。秋原さんはもう、この家の一員なんですね」

貴志の揶揄めいた指摘に、純は慌てて首を振り、

「い、いえっ、そんな。僕は……」
「いやいや。僕なんかよりずっと、この家に馴染んでますよ。羨ましいくらいだ」

そう言う貴志は、にこにこと邪気のない笑みを浮かべている。けれど純はなぜかいたたまれなくて、できるだけ自分の存在を小さく見せようと肩をすぼめた。

「そう、こいつは家族みたいなもんだ」

貴仁がそう言った瞬間だけ、貴志の笑みが不自然に強張った、ような気がした。






その二日後、終業式を終えた生徒たちが、明日から夏休みという高揚感を抱えて次々と正門から出てきた。

もちろん、浮き立っているのは一年生と二年生だけで、長い休みを予備校通いに費やすことになる三年生は足取り重く、とぼとぼと家路に着いたのだが。

「なあなあ、純。休み中は何か予定とか立ててる？　尭村さんは受験生だから、あんまり一緒にいれないだろ？　あ、でもあの人見かけによらず成績優秀だから、せこせこ予備校通いなんてしないのかあ」

たぶん無意識なのだろうが、微妙に失礼な文言を混ぜつつ直が訊ねてきた。純は苦笑を浮かべ、

「短期集中の夏季講習みたいなのは受けるって言ってたよ。あとは、家で自分のやり方で進めた方が効率がいいって。だからといって、しょっちゅう遊びに行ってベタベタするつもりはないよ。勉強の邪魔したくないし」
「あの人は別に、お前の存在を邪魔だなんて思わないんじゃないのか？」

さりげない秀のフォローに、純は素直に頷いた。

「うん、そうだね……それは分かってるんだけど、でも自信がなくて……」

秀はふわりと笑い、

「まあ、そういうところがお前らしいんだけどな」

そう言って純の頭をぽんぽんと撫でた。

「じゃあさ、どっか行こうぜ！　俺たちも来年は灰色の受験生なんだし。ぱーっと旅行でも。な？」
「でも、今から予定立てて予約取って……間に合うかな？」

遊ぶ気満々の直に冷静な指摘をする純。すると直はぽん、と手を叩いて、

「そしたらさ、うちの別荘に行こう！　海はないけど、近くにキレーな川はあるし。魚釣りしてさ、川原でバーベキューとか……」

言葉の途中で、直は自分の失言に気付いた。純と秀を取り巻く空気が、さあっと変化したのだ。触れてはいけない澱みたいなものが滞留し、明るく爽やかな夏色の景色を淀ませる。

「ごめん、直。別荘には……」

言いにくそうに口ごもりつつ断ろうとする純に、直は笑顔を崩すことなく、

「うん、分かった。ま、別荘は逃げないから。いつの日か、三人で行こうな」

こういう時、気まずそうにせずあっけらかんと対応してくれるのが直の長所だった。純は救われたような気持ちで「うん」と返したが、秀の顔を見ることはできなかった。

去年の夏。秀との短い逃避行。尭村を忘れるため秀の手に全てを委ね、沖家の別荘に隠れたのだ。

その間、何度秀と身体を重ねただろう。熱い精を捧げ合っただろう。わずかな時間を共に過ごしただけで、秀は純の心と身体に決して消えぬ痕跡を残した。二人は確かに愛し合ったのだという証を。

「そんじゃ、純。また近いうちに連絡するから。旅行は無理でも、映画とかならいいだろ？　俺、観たいのがあるんだ」
「うん、もちろん。あ、うちにも遊びに来て。環お姉ちゃんが逢いたがってるから」
「おお、女子大生♪　少しは女らしくなったのかなあ」
「いや、無理だろ」

すかさず秀が割り込む。純は笑って「今の二人の言葉伝えとくよ」と言うと、ぴたりと足を止めた。そして自分を鼓舞するようにふっと息を吐いてから顔を上げ、二人の顔をじっと見つめた。

「じゃ、またね。直、秀……」

別れの挨拶に、直も秀も屈託ない笑顔を返してくれた。

「おう、じゃな！」
「またな、純」

最後にちゃんと秀の目を見ることができてよかったと安堵しつつ、純はこれから始まる夏に思いを馳せる。そして自宅に向かって少し歩き出したところで、背後から呼び止められた。振り向いたその先にいたのは―――

「あ……えと、神原…さん……」

貴志は眼鏡の奥で切れ長の瞳をさらに細め、

「貴志、でけっこうですよ。いきなり呼び止めて失礼しました。驚かれたでしょう？」

純は淡い笑みを浮かべて首を振りながら、神妙な感慨に耽る。本当にこのひとは、尭村家の遺伝子を受け継いでいるのだろうか。

絵画の才能はともかく、性格や立ち居振る舞いには尭村家特有の攻撃性も直情性も、冷ややかさと激しさという相反する性質の相剋も、容易に近寄り難いカリスマ性も見当たらない。

もちろんだからといって、彼、神原貴志に魅力がないわけではない。すらりとした長身に、額にかかる艶やかな黒髪、闇を凝結したようなオニキスの瞳、形のよい鼻梁。これらは全て、尭村家の男性に見られる麗しき形質だった。

そういった黒い結晶ともいうべき外見の特徴を、穏やかな性格というベールに包み込むことによって、尭村や貴仁よりも話し易い雰囲気を周囲に与えている。純はそんな風に分析していた。

「あの……貴志さんはなぜここに？」
「はい、成仁が通っている学校を一度見てみたいと思いまして」
「そうなんですか。あ、それじゃ門番さんに中に入れるよう頼んでみましょうか？」

純の申し出に、貴志は笑顔で首を振り、

「いえ、どんな所かちょっと見たかっただけなので。それより……もしご迷惑でなかったら、この街を少し案内してもらえませんか？」
「あ…えと……」

もちろん嫌ではないのだが、あの男には近づくなという尭村の命令を無視することはできない。困惑して口ごもる純に、貴志は淋しそうに微笑み、

「すみません、いきなり図々しかったですね。いや、ここには四年前にほんの半年ほど住んでいただけなので知り合いもいなくて。先生は出版者の人間と打ち合わせをしてるし、成仁は……いきなり帰ってきた僕に不信感を抱いているようだし」
「そ、そんな！　尭村さんはただ、お互いのことを余り知らないからどうしていいか分からないだけでっ……」

必死に言い募る純に、貴志は「ありがとう」と返して、

「秋原さんは優しい方ですね。でも分かってるんです。今さら何をしたって、僕は尭村家の一員にはなれない。家族として認めてはもらえないと」

貴志の言葉は、純の心の柔らかく脆い部分を抉った。家族になれない、疎外された者―――イギリスの家で、ずっと独りぼっちだった自分の姿と重なる。

「愚痴めいたことを聞かせてしまいました。僕はその辺をぶらついてきますので。それでは」
「ま、待ってください！」

背中を向けて立ち去ろうとする貴志を、純は慌てて追い掛けた。

「あの、僕でよかったら案内します」

『あいつには近づくな』―――尭村の言葉が脳裏で瞬いたが、それを貴志の疎外感に対する共感で上書きし、隣に並んで歩き出した。

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