Chained Angel
＜15＞・最終話
「ね、尭村さん……やっぱり外して、これ……」
上目使いで囁くように懇願する純を、尭村はちらと一瞥して、
「何でだよ。そもそも、これを俺に無理やり嵌めたのはお前だろ」
“無理やり”をさりげなく強調して言い返すと、スプーンに盛ったエビピラフを純の口許に運んだ。純は従順に口を開けてぱく、とかぶりつき、
「喜んでたくせに……」
「まさか。俺はそういうキャラじゃねえし。お前に酷いことしたお詫びに、大人しく繋がれてやったんじゃねえか」
そう言う尭村の顔は、愉しげにニヤついていた。純の耳元に口を寄せ、
「トイレの時だって、ちゃんと外で待ってただろ？ ん？」
「あ、当たり前ですっ、そんなの！」
「俺は別に一緒でも構わなかったけどな。だいたい、出てくるものの色が違うだけで―――」
「バカッ！ 下品！ 最低！」
「何のひねりもない罵倒三連発だな」
尭村はさらりと返して、再びエビピラフを純の口許へ。なぜ純が食べさせてもらっているかと言うと、右手が繋がれているから。
何だかプレイの延長みたいで恥ずかしくて、純は再三外してくれるよう頼んでいるのだが、あっさりはね付けられ仕方なく従っていたのだ。
ちなみに、食事を部屋まで運んできた額賀は当然ながら二人の手を繋ぐ鎖を目にしたが、さすがは使用人の鑑、わずかに眉を動かしただけで普段通りの応対に徹していた。
「ほら、膨れてないで口開けろ」
純は不貞腐れた表情のまま、半ば投げ遺りに口を開けた。すると、唇に温かくて柔らかなものが触れ、その感触を反芻する間もなく山盛りのピラフが運ばれた。純はちらっと見上げ、
「キスするのか食事するのか、どちらかにしてください」
「お前はどっちがいいんだ？」
「………キス」
答えるやいなや唇を吸われ、純は恍惚と目を閉じて熱い舌の支配に心身を委ねた。
その夜、尭村の腕の中で純は夢を見た。自分の両手が別々の鎖に繋がれている。それぞれの鎖の先は、闇に沈んで見えない。
純は思わず首を傾げる。なんで二本なんだろう。自分を繋ぎ留めている鎖は一本のはずなのに。
すると、鎖がまるで意志を持った生物のようにざわり、ざわりと動き出した。もちろんそう見えるだけで、鎖が自分で動いているわけではない。闇の中に潜む何ものかが、ゆっくりと、鎖を手繰り寄せているのだ。
純は全身総毛立った。このままでは腕は左右に引っ張られ、やがて身体は裂かれてしまう。
―――た、たすけて……
助けを呼ぼうとしたが舌は固まって動かず、ただ焦りと恐怖ばかりが募る。そうするうちにも鎖は引かれ、ついに両腕が持ち上がった。
恐慌状態に陥った純は再び助けを求めようとしたが、ふと口を閉ざした。気付いてしまったのだ。この状況の原因は、自分にあるということを。これは自分の弱さが招いた禍いなのだ。
―――ごめん……ごめんね……
純は覚悟を決めてそっと目を閉じた。腕の付け根がみしっと鳴り、言葉にできぬ激痛が走り、そして―――
「―――純、大丈夫か？」
唇を悲鳴の形に開けたまま、純は目を開けた。柔らかなベッドの上で、自分の身体が痛いほど強張っているのが分かる。
「あ……あきむらさん………」
声を出して初めて、呼吸が酷く荒れていることに気付いた。まるで全力疾走したみたいに、はあはあと熱い吐息が喉の奥から押し出される。室内はほどよい温度と湿度が保たれているにもかかわらず、身体はじっとり汗ばんでいた。
「ずいぶんうなされてたぞ」
尭村はそう言って、労るように純の額を撫でた。その乾いた手のひらが心地よく、純は柔らかな溜め息をつく。呼吸もかなり落ち着いてきた。
「怖い……夢を見たんです」
尭村は、『どんな夢だ？』とは訊かなかった。まるで、夢の内容を知っているかのように。ただ「そうか…」と神妙に返すと、手首の枷に触れ、
「こんな物したまま寝たから、変な夢を見たんだろう。悪かった」
純はくすっと笑って首を振り、
「尭村さんのせいじゃありません。僕が頼んだのだから」
「ああ、そうだったな」
尭村も笑みを返し、純の手首から枷を外した。純は軽くなった手を眼前にかざし、
「もう……繋がってない……」
解放感と淋しさが織り混ざった複雑な感慨を呟いた。
朝食は母屋で一緒に、と貴仁に誘われた時点で、だいたい予想はしていた。その正しさを裏付けるように、光溢れるダイニングには貴志の姿があった。傍らには貴仁もいる。
純はすっと息を吸い込んで姿勢を正し、貴志を見据えたまま歩みを進めた。すぐ背後では尭村が、沈黙を保ったまま成り行きを見守っている。貴志に対する怒りを抑えて、全ての対処を純に任せてくれているのだ。
それを思うと、力が湧いてくる。そのお陰なのか、貴志がいきなり立ち上がっても怯えることなく堂々と見返すことができた。
「秋原さん、昨日は申し訳ありませんでした。こんな謝罪で簡単に赦してもらえるとは思っていませんが、償いの第一歩だと思って受け取ってください」
純はすとんと肩を落として小さく首を振り、
「僕はあなたを恨んではいません。だから僕に対する謝罪も償いも要らない。僕の願いはただひとつ。尭村先生から逃げないでください。息子として、家族の一員として、そして同じ芸術の道を行く者として、正面からぶつかって欲しい。きっと先生は受け止めてくださるはずです」
純の真摯な言葉に、貴志は哀しげに目を伏せ、
「僕はこれまで、先生と同じ絵を描くことで辛うじて繋がりを感じることができていた。あれが僕に残された唯一の絆だったのです。けれど、それを否定されてしまった僕には、もう何も―――」
「違う。絵を描くとか描かないとか、一緒に住んでるとか住んでないとか関係ない。何があったってあなたは先生の息子で、尭村さんのお兄さんなんです。家族の絆は絶対に壊れない」
強い口調で遮った純だったが、その勢いとは裏腹に、表情は儚く崩れてゆく。紫の瞳はあっという間に、涙で飽和状態となった。
「ずるい。あなたはずるいです。何よりも確かな繋がりを持っているくせに。僕が羨ましい？ 笑わせないでください。僕なんて、尭村さんが他の人を好きになって僕のことを見てくれなくなったら、そこで全てが切れてしまうんです、終わってしまうんです」
視界を覆う涙を邪魔だと言わんばかりにぐいと拭うと、その下から生々しい羨望を含んだ強い眼差しが現れた。
「僕の方こそ羨ましい。この先何年何十年と、尭村家の人たちと繋がっていられるあなたが。僕は……家族にはなれない。どんなに努力したって、確かなものは何もっ……」
純は言葉を詰まらせ、激しくしゃくり上げた。すると、大きな手のひらが後ろから背中を優しくさすってくれた。
それを見ていた貴仁は、小さな溜め息をついてがりがりと頭を掻き、
「まぁったくなあ。お前ら、何が不満なんだよ。成仁はこんだけ純に愛されているのに、なんでちょっとしたことでキレるんだ。純もそうだぞ。過去には色々つらいこともあっただろうが、今はたくさんの人間に愛されているじゃねえか。そして貴志、お前、あんだけ凄え作品バカスカ描いといて、これ以上何を望むんだ。お前のその才能こそ、俺との間にある何より確かな絆じゃねえか」
呆れたような物言いには、三人への深い愛情が通っていた。貴仁はひとりひとりの目を見て、今度は少し厳しい声で続けた。
「お前らの手はちゃんと確かなものを掴んでいるのに、それが見えていない。いや、見ようとしていない。いい加減にしろよ、ガキども」
そしてこの話は終わりだと言わんばかりに手を振り、
「おおい、額賀、飯だ飯！ 腹へった！」
「……お前の方こそガキみたいじゃねえか」
尭村の呟きに純は思わずくすっと笑う。そして自分の手をじっと見た。
―――ちゃんと確かなものを掴んでいるのに……
貴仁の言葉を反芻しながら、尭村の手にそっと触れる。すると、すぐに強く握り返してくれた。
「尭村さん……」
「いつか……家族同然じゃなくて本物の家族になろう」
「えっ？ それって……」
ぱたぱたと瞬きして言葉の意味を質そうとする純を、尭村は少し乱暴に遮って、
「ほら、座るぞ。とにかく今は飯だ」
「で、でも、あの……さっきの言葉の意味は……」
「うるさい。それはまた今度だ」
ふいと顔を背けてぐいぐい手を引く尭村の耳は、なぜか紅く染まっていた。
「本当に、送っていかなくて大丈夫なのか？」
「はい、平気です」
尭村家の玄関で、純はふわりと笑った。家まで送ると言われたのだが、丁重に断った。
「それじゃ、また……」
背中を向けようとした時、奥から貴志が駆け寄ってくるのが見えた。途端に尭村の表情は険しくなったが、貴志は臆せず純に近づいて丸めた紙をそっと差し出した。
「入院している間に描きました。受け取ってください」
純は一瞬躊躇したものの、取り敢えず受け取って広げた。描かれていたのは―――
「これは……僕？」
「そうです。自由に、思うがまま描きました。何ものにも囚われず……」
貴志が言わんとすることはすぐに分かった。白い画用紙の上に広がる世界は、貴仁を模倣したものでも、貴仁を拒絶したものでもない。貴志独自の、伸びやかな線描が躍動していた。
鉛筆による陰翳だけで、純の澄み切った瞳や柔らかな髪がまとう光の煌めき、唇からこぼれる薔薇色の微笑が表現されている。そこには間違いなく、色彩の豊饒があった。
「これが……僕が見たあなたです。自分を傷つけ辱めようとした愚かな人間に、慈悲の眼差しを送る光の天使……」
貴志の言葉通り、純の背中には光に融けそうなほど淡いタッチで羽が描かれていた。
「おそらくこの絵が、僕の新たな歩みの嚆矢となるでしょう。またドイツに戻って研鑽を積み、自分の作品世界を追究するつもりです」
純は贈られた絵をきゅっと胸に抱いて微笑み、
「楽しみにしてます。これからの貴志さんの歩みを……」
「あ、あれ？ 純はもう帰っちまったのか」
尭村が部屋に戻ろうとすると、ひょいと貴仁が顔を出した。
「ああ、帰ったぞ」
「なんだ、せっかくこれ直したのに。まあいいか。今度来た時に見せてやってくれ」
そう言いながら貴仁が差し出したのは、濡れて滲んでしまった母親の絵だった。さすがと言うべきか、見事に直されていた。しかし、
「……なあ、これ何か元の絵と違わねえか？ 表情が……」
尭村の疑問に、貴仁は「お、気付いたか」と明るく答え、窓の外の青空を指差して、
「あそこにいるあいつの心境を忠実に表現してみた。恋人泣かせちゃ駄目じゃないの、成仁。しっかりなさい、てな」
貴仁の言う通り、元は優しく微笑んでいた母の顔は、困ったような笑みに変わっていた。かすかに緩んだ口許からは、今にもたしなめる言葉が出てきそうだ。
「今度からは、ブチ切れそうになったらこの絵を見ろよ」
「……うるせえよ」
不貞腐れた返答とともに顔を背ける尭村。貴仁はその耳元に口を寄せて、
「うかうかしてるとあの男に取られるぞ」
尭村はじろりと睨み返すと、無言のまま部屋に戻った。そして、ベッドの上にどかりと腰を下ろす。傍らには、純を拘束していた金属の鎖が。それにそっと触れたが、当然ながら純の温もりは疾うに失われていた。
今朝、夢にうなされていた純を起こそうとした時、その唇からこぼれた言葉が思い出される。
『ごめん、ごめんね、秀……』
どんな夢を見ていたのかは、質さなくても分かる。助けに来た秀をそのまま追い返すというのがどれほど残酷な行為であるか、もちろん純は分かっていただろう。
しかし去年の夏と同じ過ちを繰り返さないためにその残酷さを押し通し、そして秀も純の意志を尊重し受け入れた。そんな二人の間に強い絆を感じてしまうのは、ただの嫉妬なのだろうか。それとも―――
「こんなもので縛り付けたって何にもならねえ」
尭村は苛立たしげに呟いて、鎖を投げ捨てた。
尭村の家を出た純は、心の中では迷いながらも真直ぐ向かっていた。秀の家へ。尭村とやり合ったのだから、秀も相応の傷を負っているはずだ。それに、自分が無事に解放されたことも伝える必要があるだろう。
しかしそんな正当な理由がありながら、なぜか逢ってはいけないような気がして、近づくにつれて歩みも重くなっていった。
程なくして着いたが、呼び鈴を鳴らすのがためらわれてしまう。そうして門前をうろうろしていると、見覚えのある車が傍らに止まった。
「何か御用ですか？」
「あ、我聞（がもん）さん。あの……」
沖家当主の秘書で、嘗ては直や秀の家庭教師も務めていた青年、我聞が、車の中から顔を出した。外出からちょうど戻ってきたところなのだろう。
「あの、秀に……逢いに来たのですが……」
去年の夏以来、彼が自分のことをよく思っていないのは知っていたから、つい声が小さくなってしまう。案の定、我聞の眉は不快げに吊り上がった。純はかくんと肩を落とし、
「いえ、やっぱりけっこうです。秀に、僕は元気だということを伝えてください。では」
純はぺこっと頭を下げると、逃げるようにその場を去った。下を向いて、家までの道を早足で歩いているうちに、逢えなかった淋しさがじわじわ込み上げてきたけれど、その危険な感情から何とか意識を引き剥がした。
が、あと少しで家に着くというところで―――
「純っ！」
いきなり背後から名前を呼ばれ、純はぴたりと足を止めた。そして振り向くと、荒い呼吸とともに肩を上下させ、額の汗を拭う秀が。走って追い掛けてきたのだろう。
「秀……あ、あの、さっき……」
「ああ、我聞から聞いた。なんで帰っちまうんだよ」
「ご、ごめん……」
純が力なく項垂れると、秀はゆっくり近づいてきた。
「ちゃんと解放されたんだな」
「うん。ごめんね、心配かけて。でももう大丈夫」
純はそろそろと顔を上げ、秀の顔を覗き込んだ。やはり、目や口の周りにうっすらとだが青い痣が残っている。指先でそっとなぞり、
「秀、尭村さんと喧嘩したの？」
しかし秀は答えず、純の腕を掴んだ。そして白い包帯の巻かれた手首をじっと見つめ、
「ここに、手錠が嵌められてたんだな？」
「そ、そうだよ……」
答えながら純は、小さくふるえた。何だろう、この灼けるような威圧感は。いつも秀から感じていた、微睡みを誘う春の空気のような温かさや柔らかさとは対極にある無言の激しさに、純は少なからず圧倒された。そう、まるで尭村の傍にいる時みたいに、肌がひりひりする。
そんな純の困惑に構わず、秀は掴んでいた手を離してもう一方の手を取った。そしてポケットから銀色の輪を取り出して、素早く純の手首に嵌める。それは夏の日射しをはね付けて、冴え冴えと輝いた。
「きれい……」
戸惑いながらも、その凛とした輝きに魅せられた純はうっとりと眺めた。純の手首が細いのか、輪はかなり緩かった。手を少し振れば、簡単に外れてしまう。しかし、
「あっ、秀……」
秀は力任せに輪を締め付けた。するとそれはまるで優雅な枷のように、純の手首にぴったり巻き付いた。純は驚いて輪を引っ張ったが、びくともしない。
「お前の力じゃ無理だ。外せない」
淡々と告げる秀を、純はこわごわ見上げて、
「秀……これ外して」
しかし秀は唇に薄い笑みを浮かべ、
「あの人に外してもらえ。俺に無理やり嵌められたと言って構わない」
そして純の答えも待たずその場を後にした。装飾品から拘束具へと変じた銀色の輪と、白い包帯を交互に眺めながら、純はぽつりと呟いた。
「夢と同じ……」
いつか身体も心も、二つに引き裂かれてしまうのだろうか―――
（Fin）
※最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
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