Chained Angel
あなたのお父さんは偉大な芸術家なの、それが彼女の口癖だった。それは彼女にとって唯一無比、侵すべからざる神聖な事実だった。そして僕を、その才能を受け継ぐ者として愛した。
そんな彼女は、僕にとって重すぎる枷だった―――
＜1＞
「ほ〜ら純、飲んでるか？ イチゴのドンペリ漬けだぞ〜〜」
「わわっ、先生！ これイチゴ入れ過ぎです」
「んん？ いいじゃねえか。イチゴ好きのお前のために用意したんだ。ほらほら遠慮するなって。何ならおにーさんが口移しで飲ませてやろうか？」
フルートグラスにぎっしり詰まったイチゴの実が、黄金色の液体の中で泳いでいる。そのずしりと重いグラスを片手に、貴仁は上機嫌で純の腰を抱き、唇を近づけた。が、
「親父〜〜、てめえ、いいかげんにしろよッ」
背後からぐわしと肩を掴まれ、凄い力で引き剥がされる。しかし貴仁も負けてはいない。眉間に深い皺を刻みつつ振り返り、
「邪魔すんな。つーか、何でお前がここにいるんだよ。俺は呼んだ覚えはねえぞ」
「俺だってこんな成り金パーティーに出たくねえよ。てめえが純に悪さするから、仕方なくこうして監視してるんだっ」
「なぁにが悪さだ。お前がいつも純にしてる鬼畜行為に比べれば、こんなのただの“触れ合い”だろ」
「深い愛情に基づいた俺の行為と、欲望に塗れた中年男の悪ふざけを一緒にするなっ」
「はっ、深い愛情が聞いて呆れる。寝室のクローゼットに隠してる怪しい玩具もミニスカメイド服も、深い愛情の賜物なのか？」
「てめえっ、勝手に人の寝室入んな！」
思わず脱力してしまいそうな間抜けな親子喧嘩だが、周囲にいる人間は微笑ましい光景だと言わんばかりに目を細めて、温かく見守っている。もちろん、間に入って止めようとする者などいない。
貴仁の個展のオープニングパーティー。招待された顧客たちにとって、この尭村親子の喧嘩はすでに恒例行事。パーティーの余興みたいなものだった。
「相変わらずですわね、二人とも。仲のよろしいことで羨ましいわ」
「ほんと、先生のあんな表情が見られるのは、この時くらいですものね」
「成仁さんも。クールビューティーかと思っていたら、あんな熱い面も持っていたなんて」
「それにしても、純ちゃんのお綺麗なこと。あれじゃあ、天下の尭村親子もめろめろになりますわね」
周囲の上品な囁きを掻き消す勢いで、親子喧嘩は延々と続いている。純は抜き足差し足でその場からそおっと離れ、ふかーい溜め息をついた。すると後ろから肩をぽん、と叩かれ、
「秋原さん、あちらにお食事が用意してありますよ。あの二人は放っておいて、ごゆっくりなさってくださいね」
「あ、ありがとうございます、宗像さん」
宗像一樹（むなかた・いつき）はにっこり笑って、優雅な所作で奥のテーブルまでエスコートする。そして「未成年なんですからお酒はダメですよ」と言って、グラスに冷えたジャスミンティーを注いでくれた。
彼はこのギャラリーの若きオーナー。銀座の大通りから少し外れた裏道に、洗練された外観の現代アート専門ギャラリーを、先代のオーナーから引き継いで経営していた。
ここは先代の頃から貴仁のプライマリーギャラリーとして、作品を優先的に扱ってきた。その付き合いはオーナーが代替わりしても途絶えることなく、新作を集めた華々しい個展を定期的に開催しているのだ。
これまで何度か展覧会のオープニングパーティーに出席して（させられて）きた純は、すっかり宗像と親しくなり、たまに一人でギャラリーを訪れることもあった。
宗像はすらりと背が高くて細身のスーツがよく似合う、美貌の青年。物腰は柔らかで、明らかに冷やかし目的で入ってきた客にも丁寧に接する。
美術全般はもとより、文学、哲学、美学などにも造詣が深く、話しているだけで知的好奇心が刺激される、そんな人物だった。
「秋原さんも大変ですね。毎度毎度あの騒ぎですからねえ。たまにはビシッと言ってやっていいんですよ。いい年した大人がみっともない、いいかげんにしろ、って」
宗像の言葉に、純は思わず吹き出す。貴仁相手にこんなことが言える人物は、彼くらいではなかろうか。そういえばいつだったか、この二人けっこうお似合いかも、と思ったことがあった。
「いいんです。何だか二人とも楽しそうだし。それに、理由はどうあれ尭村さんが先生の個展に足を運ぶのはいいことでしょう？ 以前は面倒臭いだの興味ないだの言って、頑なに背中を向けていたんだから」
「はあ〜〜、秋原さんは大人ですねえ。あの二人より精神年齢は上だな」
宗像はそう言って、悪戯ぽく目を細めた。その時だった。グラスを持って談笑する顧客たちの間をすり抜けて、こちらへ真直ぐ近づいてくる若い男性が目に留まった。男性は純たちの手前で足を止め、
「宗像さん、ご無沙汰しております」
声を掛けられた宗像は、彼には珍しく驚きに瞬きを忘れて固まった。やがてはっと我に返って、
「神原（かんばら）君！ いや、もう先生とお呼びすべきですかね。こちらこそ、ご無沙汰しています。いつ戻られたのですか？」
「今朝到着して、そのまま真っ直ぐこちらに来ました。もっと早く着くはずだったのですが、迷ってしまって。いや、銀座もずいぶん変わりましたね」
神原と呼ばれた男性は見たところ二十代前半だったが、宗像の態度から推測するに、そこそこ有名なアーティストなのだろう。
しかし細い黒縁の眼鏡やその奥で煌めく理智的な瞳は、芸術家というより理系の研究者を想わせる。全体的に知的な印象を受けるが、よく見れば身体は程よく締まって、嫌味でない筋肉の隆起がシャツ越しに感じられた。
純が失礼にならないよう気を付けつつ観察していると、神原はふと純に視線を向けた。
その瞬間、背中を冷たい刃先で撫でられたような悪寒が走り、純は小さく慄えた。瞳の奥で揺らめく蒼い焔に、確かな感情の表象を、憎悪の滾りを見たような気がして。しかし、
「こんにちは」
「あ、あ……はい、こ、こんにちは……」
神原はふわりと笑って純に挨拶した。もちろん、純を戦慄させた蒼い焔など欠片も見当たらない。
きっと思い過ごしか錯覚だったのだろう。だいいち、自分はこの男性とどう考えても初対面。憎しみを向けられるはずがない。そう思うと意味もなく怯えたりして、逆に申し訳なくなってきた。純は謝罪の気持ちも込めて、丁寧に挨拶を返したのだった。
「先生には、帰国することは伝えてあるのですか？」
「あ、いえ。急だったので何も」
「そうですか。では驚かれるでしょうね」
宗像と神原は微妙な距離感を保ちつつも、にこやかに会話を続ける。
「それにしても、あの二人は親子で何をあんなに熱く言い合っているのですか？」
「ああ、それはこちらの秋原さんのことで……」
宗像は言いかけて口を噤んだ。純が肩をすぼめて恐縮するのを見たからだ。苦笑でごまかし、
「まあまあ。ともかく早く先生にお会いになってください」
神原は素直に頷いて、貴仁たちのところへ真直ぐ近づいた。それに気付いた貴仁は瞠目し、普段よりワントーン高い声で、
「貴志（たかし）じゃねえか！ どうしたんだよ、いきなり」
「お久しぶりです、貴仁先生」
貴仁は思い切り顔をしかめ、
「なぁんだよ、父親に向かってその他人行儀な呼び方は。お父様、父上、パパ……いくらでもあるだろうが」
貴仁の言葉に、その場にいる誰もが固まった。もちろん、純とて例外ではない。
―――父親？ てことは……まさかあの人が……
「成仁も元気そうだな」
「……ああ」
尭村はあからさまな不興顔でぼそっと答え、すぐに顔を背けてしまう。しかしそんな態度に慣れているのかもともと気にしないたちなのか、貴志は微笑みを浮かべたまま「君は相変わらずハンサムだな」とその場の張り詰めた空気にそぐわない暢気な感慨を漏らした。
「先生の息子さん？ でもそんなはずは……ねえ？」
「でも先生が“父親に向かって”と言いましたよ」
「まさか養子とか……？」
事情を知らない顧客らは、ぼそぼそと囁きを交わしている。対してごく一部の顧客、神原貴志が正真正銘貴仁の実子で、十六歳の時の子供だと知っている顧客らは一様に口を噤んでいた。
「驚かれたでしょう？」
親子三人の微妙なやり取りを遠巻きに眺めていた純に、宗像がそっと声を掛けた。純は頷きを返し、
「はい。尭村さんにお兄さんがいることは知っていたのですが、こうして実際にお会いするとやっぱり……」
「ああ、ご存知だったのですね。それなら変に気を遣う必要もないか。そう、あちらの青年は神原貴志君。弱冠二十歳で現在はドイツの国立デュッセルドルフ芸術アカデミーの学生ながら、すでに幾つかの有名ギャラリーが作品を購入しているほどの実力を持つアーティストです」
「すご…い……。才能はちゃんと受け継がれているのですね」
宗像は「そのようですね」と肯定しながらも、ちらと肩を竦め、
「まあ、気質や性格などは受け継がれていないようですね。ご覧の通り、彼は到って穏やかな紳士ですから。遺伝子もいい仕事しますよね」
宗像の真面目くさった論評が可笑しくて、純はぷっと吹き出した。
「確かに、とても理智的な感じがします。僕も最初、画家というより理系の研究者みたいだなと思いました」
「うんうん。白衣と試験管が似合いそうですね」
二人で額を突き合わせてそんな話をしていると、
「おおい、宗像！ そんなとこで俺の純を独り占めしてんじゃねえよ！」
こちらに向かって声を張り上げる貴仁に、宗像は軽く一礼して、
「さ、秋原さん。遺伝子の総元締がお呼びですよ。これ以上放っておいたら機嫌が悪くなるので、傍に行ってあげてください」
純はくすぐったそうに首を縮めて苦笑を浮かべ、「分かりました」と返してぱたぱたと貴仁の元に駆け戻った。
「おおお、帰ってきたなマイハニー。さあ、俺の胸においで」
そう言って純の手を掴もうとする貴仁を、すかさず尭村がブロックする。貴仁は「チッ」と聞こえよがしに舌打ちしたが、ともかく居住いを改めて、
「純、紹介するぜ。こいつは俺の息子で、神原貴志つうんだ。つまり、成仁の腹違いの兄ってことになるな。で、」
今度は貴志の方を向いて、
「こいつは秋原純。どーだ、キレーだろ？ 存在自体が芸術作品みたいなもんだからなあ。ちなみに純は俺の未来の伴侶で―――」
「言うと思ったよ、阿呆親父。こいつは俺の恋人だ」
貴仁の言葉を問答無用で遮って、純の肩を抱く手に力を込める。純は赤くなりつつもぺこりと頭を下げて、
「は、はじめましてっ。いつも尭村さんや先生にはお世話になっております」
すると貴志は口許を緩やかに綻ばせて、
「こちらこそ。父と弟がいつもご迷惑を掛けているようですね」
「い、いえっ、そんな……」
「それにしても、本当に美しい人だ。思わず見入ってしまいます。確かに、神が創り賜うた芸術作品ですね」
そう言って真直ぐ純の顔を見つめる。眼鏡の奥で煌めく黒瞳にはやはり、先刻純を戦慄させた冷たい焔の宿りはなかった。
―――やっぱり……思い違いだったんだ……
ほぅっと安堵の息を吐く純。その肩を抱く尭村の表情が、険しく強張っていることに気付くはずもなかった。
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