Everlasting Melody

６.

「おじゃまします。額賀さん、あの……」
「これはこれは秋原様、いらっしゃいませ。……おや？　今日は練習は？」

笑顔全開で迎え出てくれた額賀に、「練習は昨日が最後だったんです」と返す。すると額賀は心なしか淋しそうに目を細め、「左様でございますか」と小さく頷いた。

「あの、尭村さんの鞄を持ってきたんです。お部屋ですか？」
「おや、わざわざお持ちくださったのですか。ありがとうございます。お部屋にいらっしゃいますよ。さあどうぞ」

渡り廊下を抜けて、いつもの部屋へ。扉を控え目にノックするが、中からの応えはない。純は暫し迷った挙句、そおっと開けて中へ入った。

「あ……」

尭村はソファの上にいた。長身を優雅に横たえて、窓から吹き込む風を浴びつつ気持ち良さそうに目を閉じている。純は鞄を置いてとことこと近付き、上からじぃっと見下ろした。

シャワーを浴びたばかりなのか、仄かな石けんの香りが鼻孔を掠める。髪もまだ湿っており、長めの前髪が無造作に額にかかっている。

「もお……風邪ひいちゃいますよ………」

純は腰を屈め、顔を近付ける。そして耳を澄ますと、微かな寝息が規則正しいリズムを刻んでいるのが聞こえた。

「今日は……ありがと………」

綿毛のような囁きにありったけの感謝を込めて捧げると、さらに顔を近付けた。そう言えば、こんな風に寝顔をまじまじと眺める機会は余りなかった。

夜はいつも自分が先に意識を失い、優しい眼差しに包まれて目覚める。いつか寝顔をじっくり観察したいと思ってはいたものの、こうして見てみると何だかくすぐったくてどきどきする。

すっと通った鼻筋も、柳葉のように流麗な眉も、引き締まった口許も、研ぎ澄まされた美と共に仄かな色気をまとっていた。安易に触れたら怪我をする、でも、その魅力に否応なく惹き込まれる―――

「んっ……」

純は微かに唇を尖らせて、午睡に沈む愛しい恋人の唇と触れ合わせた。そして身体を起こして帰ろうとした瞬間―――

「ひゃっ………あ、あきむらさんっ」

ぬぅっと伸びてきた腕に腰を引き寄せられて、尭村の上に倒れ込んだ。

「まさかお前に、寝込みを襲われるとは思わなかった」

尭村は純の身体を拘束したまま、耳許で囁く。純はみるみるうちに首まで真っ赤に染まり、恥ずかしさを隠すためか尖った声で、

「寝たフリしてたのっ？」
「ああ、途中から。何をするかと思えば……まったく、油断もスキもねえな」
「ずるい、ずるいっ。ばかばかぁ……」

尭村の胸に顔を押し付けてじたばたする純の背中を、あやすように撫でさすり、

「嘘だ。純、すげえ嬉しかったんだぜ」
「な、なにがっ？」
「お前のキス。されるのがこんなに気持ちいいものだとは思わなかった。いつも俺の方から仕掛けるばかりだからな……」

そう言って身体を起こし、への字に曲がった純の唇に自分のそれを押し付ける。唇で優しく挟み込み、やわやわと食むうちに、への字の唇はとろりと蕩けて喘ぎの形に変わっていった。

「ふぁ……ぁ、ぁん………だ…めぇ…………」

純は胸に手を突いて押し戻そうとするが、キスの甘さに翻弄されて次第に抵抗力が弱まり、結局は腕を尭村の背中に回してぎゅぅっとしがみ付いた。

尭村はここぞとばかりに舌を挿し込み、熱くぬめる口腔を隈なく犯す。最後に、快感に悶えるようにひくひく震える可愛い舌を絡め取って吸い上げると、純は腰を揺らして尭村の股間にこすり付けた。

わざと唾液を弾かせて唇を離すと、純は「ふぅ…ん」と切なく鳴いてうっとりと見上げた。瞳をうっすらと覆う官能の涙は妖しく美しく、尭村の鳩尾に暴力的な性衝動を刻み込む。

腹の底に力を入れて大きく息を吐き、せめてその粗熱ぐらいは冷まそうと躍起になったが、どうやら我慢しているのは尭村だけではないようだった。純は背中に回した手をやんわりほどいて小さく首を振り、

「だめ……とまらなくなっちゃうから………」
「それは……俺の台詞だろ？」

尭村は甘く掠れた声で問い掛けると、耳許に唇を押し付けて、

「練習優先で、何日抱いてないと思ってんだよ………」

情欲混じりの囁きは、時に直接的な愛撫より性感を高めてしまう。耳から注がれた媚薬は緩い電流となって四肢を駆け巡り、純をあっという間に蕩かしてしまった。

それでも何とか自分を律して尭村の顔をじっと見据え、

「だから……僕だって我慢してるんだもん。ほんとは今にも………」

さすがに恥ずかしくなってきたのか、顔を隠すように俯いてしまう。尭村はその身体を抱き上げて、膝の上に座らせた。そして改めて抱き寄せる。純は大人しく身体を預け、温かく寛い胸にそっと頬を押し付けた。

「恥ずかしがることないんだぞ。求められて嬉しくないわけがねえ」

純はこくんと頷いて、頬を預けたまま、

「本当は今にも抱いて欲しいけど、でも明日まで我慢するの」
「そうだな。今ヤッたら明日の体力は保証できねえ」

口調は軽かったが、声の底にどろりと淀む暴力的な欲望を純は肌で感じた。背中がぞくりと慄えるのを抑えられなかったが、それは恐怖よりも寧ろ、激しい交わりへの甘美な予感がもたらす悦びの戦慄だった。

純はゆっくりと顔を上げ、危うい潤みを帯びた瞳を向けて、

「明日……巧く弾けたらご褒美くれる？」

尭村はにやりと笑って唇を舐め、

「ああ、嫌というほどやるよ。たっぷりな」

含蓄のある言葉を返して優しく唇を押し当てた。再びこのままディープキスへ雪崩れ込むかと思われたが、潔く唇を離して純の背中をさすり、

「大丈夫だ、純。必ずうまくいく。あれだけ練習したんだ。恐がることなんて何もない」

明日の演奏への不安などひと言も口にしていないのに、尭村はちゃんと感じていた。純の心の強張りを。

「アンサンブルを楽しめばいいんだ。鼻歌混じりで弾いてやれ」

そう言って不敵な笑みを見せる。純は尭村の顔を眩しそうに見上げ、「ありがと…」と呟いて自ら唇を押し付けたのだった。




「おい、浅倉の奴、バイオリン見つけちまったみたいだぜ。どうすんだよ」
「まあ待てよ。その代わり、伴奏者が誰か分かったじゃないか」
「え？　伴奏者って……」
「バイオリンがなくなって、浅倉はまず相澤へ知らせた。そして相澤は……真っ直ぐ秋原の許へ向かって事情を告げ、二人で捜索に向かったんだ。つまり―――」
「つまり伴奏者は秋原ということか！　なるほど、それなら尭村が絡んできた理由も分かるな」
「そういうことだ。これさえ分かればどうにでもなる。明日の選考会が始まる直前に―――」

三年の大井と飯倉は、額をつき合わせて明日の段取りを話し合った。




「純、いよいよだな、がんばれよ」

秀に背中を叩かれて、びくぅんと飛び上がる。そして振り向いた顔は、見るからに強張ってカチカチになっていた。すかさず直が顔を出し、

「ほらほら、緊張しないおまじない」
「う、うん」

手のひらに『人』と書いてぱくんと食べる。すると直は真面目な顔付きで、

「それって、観客の数だけやんないと効果がないんだってさ」
「ひぇぇ〜〜」

純は慌てて『人』→ぱくん、『人』→ぱくんと繰り返す。

「またお前はそういうでたらめを言う」

秀の小言に肩を竦めて「いいじゃん、緊張がほぐれてさ」と返し、ニカッと笑ってみせる。しかし純が悲愴な顔付きで『人』を食べ続けるのを見て罪悪感が湧いたのか、背中をさすって「もう大丈夫だよ〜」と必死で宥め始めた。

秀は気を紛らわせようと、「尭村さんはどうしたんだ？」と訊ねる。純はにっこり笑って、

「うん、客席から見ててくれるって。それで終わったら家でご馳走してくれるの。僕の好きなものばっかり作って待っててくれるって」
「そうか、良かったな。さすがは尭村さん。お前が食い物でがんばれることをよく分かってる」
「うう〜、なんか子供扱いされてるような……」

むぅっと口を尖らせつつも、先刻よりずっとリラックスした表情に戻ってきた。直も秀も純に気付かれないようほっと息をつく。

純はちらと時計を見ると、「あっ」と声を上げた。

「そろそろ控え室に行ってなきゃ」
「おお、そうだな。じゃ、俺たちも客席から見てるから」
「二人の演奏、楽しみにしてるからな〜」

純は笑顔を返し、楽譜を抱えて教室を出ていった。そして足早に、選考会が開かれる合同視聴覚教室へ向かう。

そこは大学の大教室並みの広さがある教室で、ピアノと簡易ステージも設置されていた。今回の選考会はこの教室で行われ、一般の生徒も観客として聴くことができた。

曲がクラシックということもあって、みなが挙って押しかけるというほどでもなかったが、音楽科の中の熾烈な争いを新聞部がセンセーショナルに報道したことで興味を煽られた生徒も多かったようで、選考会が始まると席は徐々に埋まっていった。

一方直と秀は、純を送ってからもまだ教室にいた。純たちの演奏は最後から二番目だったから、それに合わせて行くつもりだったのだ。

秀はともかく直はクラシック音楽が苦手で、最初から見ていたらきっと途中で眠りこけてしまうと分かっていたから。

「純の奴、今ごろ控え室でガチガチになってんじゃねえの」
「うんうん。また必死になって人を食べてるだろうなあ」

直と秀は顔を見合わせ、「そろそろ行くか」と同時に立ち上がった。その時、ばたばたと慌ただしい足音が廊下に響き、教室の戸が勢いよく開いた。

誰かと思えば他ならぬ浅倉が、蒼褪めた顔で息を切らせて立っていた。直と秀は同時に直感した。純に何かあったな、と。

「どうしたんだ、浅倉」

それでも秀は内心の騒擾を覚られないよう、落ち着いた声で質す。すると浅倉はこくんと喉を鳴らして呼吸を整え、

「純先輩は、ここへ戻ってきてはないですよね？」
「ああ、もちろん戻ってはいない。何かあったな？」

浅倉は重々しく頷いて、「どこにも見当たらないんです」と答えた。直は身を乗り出して「どうゆうことだよッ」と詰め寄る。

「どういうも何も。控え室でずっと待ってたんですけど、現れる気配がなくて。メールしても返事も来ませんし……」
「そんな……ずい分前に楽譜を持って出ていったぞっ」

この時点で、三人の頭にはある可能性が閃いていた。まさかどこかに閉じ込められて―――

「ここにいても仕方ない。探すんだ」

秀の号令に従って、三人は教室を飛び出した。

「お前たちの出番まであとどのくらいある？」
「俺が出てくる時には、３つ前の奏者が舞台に上がってました」
「くそっ。あまり時間がねえな……」

取り敢えず視聴覚教室に着いた三人は、この周辺を徹底的に探すことにした。無理やり連れ出して閉じ込めるにしても、そう遠くへは連れて行けないはずだ。

「純！　純ッ、どこにいるんだ！　返事をしろ！」

もしかしたら口を塞がれているかもしれない。それでも物音を出したりして、居場所を教えることはできるはずだ。

「純ッ、居場所を教えろ！」
「どこにいるんだよおっ」

声を張り上げながら近くの教室やトイレ、ロッカーなどを探す。その時、

「お前ら、何やってんだ」
「あ、尭村さん！」

演奏を聴きに来た尭村が、不審げにこちらを見ていた。直は一目散に駆け寄って、

「純がどこにもいないんですっ。教室を出てここへ向かったことは確かなんですが」

これだけで全てを察した尭村は、眉を険しく吊り上げて「探すぞ」と低い声で言い置いた。そして片っ端から声を掛ける。

「純、どこだ！」
「純っ」
「純先輩っ」

視聴覚教室を覗いたら、すでに浅倉たちの前の組が演奏を始めていた。浅倉はこの時点で覚悟した。もう間に合わないかもしれない―――

「……けて……たすけて………」

四人ははっと顔を見合わせた。

「あっちだ！」

直に続いて走り、声が聞こえてきた資料室の前へ。

「純っ、どこにいるんだ！」
「ここ、ここだよお……真っ暗で何にも見えない………」

資料室の中に入ると、映画研究会がフィルムなどを保管している大きなロッカーがあった。尭村はその扉をそっと叩き、

「純、ここだな？」
「あ、尭村さん……。はい、そうです」
「怪我は？」
「ちょっと肘や膝をすりむいたくらいです。それより早く―――」

尭村は分かったと言って扉に手を掛ける。しかし鍵が掛かっていて開かない。すると秀がすぐさま駆け出して、鍵を探しに行った。その間に、純を落ち着かせるため冷静に問い掛ける。

「今、鍵を取りに行ったから安心しろ。で、何があったんだ」
「は、はい……控え室になってる教室へ行こうとしたら、男の人が二人近付いてきて演奏者ですか？って。二人とも選考会実行委員の黄色い腕章をはめていたから、もう隠すこともないだろうと思って頷いたんです。そしたら、控え室が変更になったから案内します、って―――」
「そうか。それでここへ連れて来られたんだな」
「そうです。扉を開けたら真っ暗で、いきなり突き飛ばされて。それで口に布みたいなの巻かれて、この中へ押し込まれました。布は運良く途中で外れましたが」

動揺を抑えて落ち着こうと努力しているのだろう、尭村の問いに答える純の声は徐々に冷静さを取り戻していった。しかし―――

「駄目だっ。鍵が持ち去られていた。きっと奴らのうちの誰かが……」

戻ってきた秀が、悔しさをにじませつつ告げる。

「そんな……くっそお、扉をぶっ壊してでも開けるんだッ」

直がガンガン扉を叩き、さらに引っ張ってみるがびくともしない。合鍵を持っている警備員を探して頼めば開けてもらえるだろうが、今からではもう間に合わない。

「ごめ……ごめんね………浅倉くん……僕が……僕がしっかりしてなかったからっ………」

今は泣いている場合ではないと嗚咽を抑え込んでいるのだろう、震える声で謝罪の言葉を繰り返す純。しかし浅倉は首を振り、

「謝らないでください。先輩が悪いんじゃない。逆に、こんな危ない目に遭わせてしまって申し訳ないです。実行委員は音楽科の生徒がやっているので、先輩を騙したのも本物の実行委員だと思います」

そして深い溜め息をつき、ぽつりと続けた。

「たぶん……俺が間違ってたんです。皆さんに迷惑を掛けてまで出ようとするなんて……。本当にすみませんでした。俺、出場を辞退してきます」
「浅倉くぅん………」

そして浅倉はくるりと背中を向けて、部屋を出ようとした。その時、

「諦めるのはまだ早い」

尭村の力強い言葉に、誰もがハッと顔を上げた。

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