Bitter Simulation

２.

「お待ちしておりました、どうぞ」

３人を乗せた車が正面玄関前の車寄せに着くと、控えていたドアマンがすかさずドアを開けてくれる。おそるおそる外に出て辺りを見回した純は、眩暈のような既視感に囚われてふらついた。

ここは、本当に日本だろうか。バロック様式のファサードに飾り窓。そして広大なイングリッシュガーデン。

「純、行くぞ」
「あ、はい…」

きょろきょろしつつも尭村の後に続いた純は、屋敷の中に入ってさらに驚く。ホールの床には大理石が敷き詰められ、真っ白なロココ調の螺旋階段、壁には豪華なタペストリー、重厚なシャンデリア―――何もかもが現実離れした輝きをこれでもかと誇示している。

どうやら広間へ続いているらしい長い廊下は、ギャラリーのように大小さまざまな絵が飾られている。どれもこれも、ルネサンス、バロック時代のファインアート風のものだ。

「驚いただろ？　この悪趣味」

いつの間にか貴仁が隣を歩いていた。「目ぇ潰れそうだよな」と苦笑を漏らす。

「いえ、そんな……。ただ、先生の感性とは余り合わないでしょうね」
「ここに来ると、暫く絵が描けなくなる。悪趣味パワー恐るべし、だな」

貴仁は冗談めかしてそう言ったが、案外事実なのかもしれないなと純は思った。確かにこの過剰装飾は、何かを創造しようとする意気を殺ぐもののように思える。

過剰は頽廃を生み頽廃は倦怠を呼ぶ。幼い頃暮らしていたグレイフィールドハウスもごてごて飾り立てられていたが、そこで暮らし働く者はみな、疲れたように肩を落とし蒼褪めた肌をしていた。

「これはな、純、西欧コンプレックスの裏返しなんだ。婆さんは戦中派だから、自分たちをこてんぱんにやっつけた欧米に対して憧れ、恐れ、怨みと複雑な感情を抱え込んでいるのだろう。
笑えるよな。義理だ人情だ盃だって言いながら、いんちき鹿鳴館みたいなところに好んで住んでいるのだから」

貴仁はまるで屋敷全体を憐れむように目を細めてぐるりと見回し、

「まあ、庭だけはよく手入れがされていて気持ちがいい。あとでゆっくり散策しようぜ」

純は「はいっ」と元気よく頷いたが、前方を見ると大きく息を吐いた。廊下の突き当たりが見えてきたから。あの向こうに屋敷の女主人、尭村絹代（きぬよ）が、一行が到着するのを今か今かと待っているのだ。

もちろん、彼女が待っているのは貴仁、成仁の親子だけで、部外者の純など眼中にないのだが。

ごく簡単にだが、車中で彼女について聞いた。御歳８８才でさすがに足腰が弱り、２年前から車椅子を使ってはいるものの、今もかくしゃくとしており、親しい友人からは“絹お嬢”の愛称で呼ばれているとか。

終戦後、復員した夫と闇市での裏商いに奔走し、財力と裏社会における地位を着実に築いてきた。

戦時中、軍事や生産性向上のために広く使用された覚醒剤、通称「ヒロポン」が安価で民間に放出されるといち早くその販売ルートを押さえ、価格を操作して財を成した。

その頃はすでに仁龍会の前身である仁龍商会ができていたが、覚醒剤の法規制が強まるにつれてその勢力を広げていき、南関東一円をシメる大きな組織へと変貌を遂げていった―――

純にとっては別世界の話でリアリティに乏しく、小説でも読んでいるような気持ちになったが、ともかく凄い女性だということは分かった。

後部座席で恐縮してちぢこまる純に、貴仁は笑いながら「今はただの梅干しババアだからそんな緊張するな」と声を掛けた。

それでもやはり緊張は解けず、何も考えずほいほい付いてきた自分を今さらながら呪いつつ、車に揺られてやってきたのだった。

「さあて、適当に挨拶したら明日の祝宴までのんびりできるぞ」

扉の前で貴仁はそう言うと、真鍮の取っ手を掴んだ。重厚な扉は音もたてず開き、そして眩いばかりの大広間が眼前に現れた。

「ほら純、あそこにいるのが噂の梅干しババアだ」

さすがに小声で教えると、肩を抱いて奥へ進む。その後を尭村は如何にも不機嫌そうに付いていった。

車椅子の老婦人は枯れ木のように痩せており、皮膚も不健康に蒼褪めていたが、大きくせり出した眼球は澄んで鋭い輝きを放っている。

ゆったりとしたガウンを羽織っているにもかかわらず、車椅子の上でも姿勢をぴんと伸ばしていた。美しい白髪を丁寧に結い上げて、淡いピンクの口紅をひいている。

元極道の妻というよりも、厳格な寄宿学校のベテラン教師といった張り詰めた空気感をまとっていた。

しかし、何事にも動じない嘗ての女傑が、驚きも露わに目を見開いた。理由は言うまでもない。貴仁が連れてきた少年の、天与の美貌を目にしたからだ。

絹代の背後には、身の回りの世話をする女性が二人影のように張り付いていたが、彼女らも一様に顔の筋肉を緩めて純に見入っていた。

「久しぶりですね、貴仁」
「ああ、久しぶり」

しかし、さすが自分のペースを取り戻すのが早い。絹代は張りと威圧感に満ちた声でお決まりの挨拶をすると、

「ところで、その子は誰です」
「後でちゃんと紹介する。その前に成仁、挨拶しろ」

尭村は黙って一歩、二歩前に進んで頭を下げ、

「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。健やかなまま米寿を迎えられ、慶賀に堪えません」
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、長生きしていて良かったと思えますよ、成仁。欲を言えば、もう少し頻繁に会いに来て欲しいですね」
「申し訳ありません。何分学業の方が忙しく―――」

―――えっと………これは……誰？

純は半ば思考停止状態に陥りつつも、二人のやり取りを呆然と見つめる。神妙な態度で美しい敬語を使うのは……どこからどう見ても尭村だ。
………やっぱり尭村だ。

「ぶ……く、くくく…………」

反対側から押し殺した笑いが聞こえてきた。見れば貴仁が、自分の尻をつねりながら笑いをこらえている。

純はまだ信じられなかったが、どうやら唯一頭が上がらない人物だというのは事実のようだった。

そうしている間にも二人の和やかな挨拶は終わった。絹代は尭村に対するのより明らかに厳しい声で貴仁に呼びかけ、

「ところで貴仁、先ほどの続きです。あなたの隣にいる子は何ですか？」
「ああ、紹介するぜ。こいつは秋原純―――」

貴仁の紹介に合わせて純はぺこりと頭を下げた。値踏みするような視線が恐かったが、目を逸らしては失礼だと思い顔を上げた。貴仁はそんな純を愛おしげに見詰めて、

「俺の恋人だ。将来は結婚を考えている」

さらりと言い放って純の身体を抱き寄せた。

余りの発言に純はきょとんとした表情で、貴仁の腕の中に大人しく収まった。それとは対照的に尭村は額に険しい翳を落とし、眼殺しそうな勢いで貴仁を睨み付けた。

「な……んだと…………てめえ…………」

しかし貴仁は平然と受け流して言葉を続ける。

「今はまだ高校生だから、ちゃんと卒業してから籍を入れようと思っている。一応言っておくがこいつは男だ。だから籍を入れると言っても俺の養子にする形になるが、形式はどうあれともかく死ぬまで添い遂げるつもりだ」

どうやら貴仁の本気を覚ったらしい絹代は、膝の上の皺だらけの手を震わせている。叱責の言葉すら出てこないということだろう。

その場を支配する不穏な緊張を蹴破ったのは、怒り心頭の尭村だった。

「ふざけたこと言ってんじゃねえぞッ！　てめえの恋人だと？　誰が―――」
「成仁の言う通りですッ」

絹代の鋭い叫びで、尭村の勢いは殺がれた。絹代はきりきりと目を吊り上げ、車椅子の肘掛けに爪を立てて身を乗り出し、

「あなたという人は、どれだけおふざけをすれば気が済むのですかっ。少しは成仁を見習いなさい！」
「へえへえすいません。出来のいい息子を持ったバカ親父ですよ、俺は。とんびが鷹を生んだってね。だからまあ、諦めてほっといてくれ。そんな風に、再婚相手候補を連れて来ても無駄だからな」

貴仁は冷め切った声でそう言うと、無造作に顎をしゃくった。そう、広間には絹代たちの他にも妙齢の美しい女性が三人いて、このやり取りを息を詰めて見守っていたのだ。

図星だったのか、絹代は眉間に険しい皺を刻んで黙り込む。貴仁の読み通りだった。彼女は自分の老齢を理由に常々再婚を迫っていたのだが、この祝宴に乗じて無理やり結び付けてしまおうと考えていたのだ。

「あなたは……まさか本気でその少年と一緒になろうだなんて………」
「俺には、その場凌ぎのために惚れてもいない人間を連れて来るような真似はできねえ。それは貴女もよくお分かりのはずだ。こいつは成仁の後輩だが、俺はこいつに心底惚れてる。離したくねえ。だから一緒になるんだ」

貴仁は真情込めてそう告げると、純をさらに強く抱き締めた。

「お、男で……しかも年が幾つ離れてると思っているのですか………」
「はッ、関係ねえだろ、そんなの。これからガキをこさえようってわけでもねえし。俺にはもったいないほど優秀な息子がいるからな。
なあ、婆さん。こいつは綺麗なだけじゃねえ、泣けるほど優しくて純粋で、感性豊かで、頭がいい。婆さんが連れてきた極上の美女を何人束にしたって敵わねえよ」

絹代は何も答えず、不動の瞳で貴仁を見据える。嘗ては凶暴な三下連中を震え上がらせたという視線の刃を、貴仁は柔らかな笑みで跳ね返し、

「それじゃ、部屋に戻らせてもらう。明日の祝宴に出入り禁止ならそれで構わないぜ。純と二人、部屋で大人しくしてるからな。行くぞ、成仁」

呆然とする純を抱えたまま、怒りで言葉も出ない尭村を有無を言わさず引きずって出ていった。




「どういうつもりだッ！　何だよあの茶番は、ああッ？」

宿泊用として用意された部屋に入り、扉を閉めると同時に尭村が咆えた。貴仁に掴みかかり、拳を握り締める。返答によってはこいつをぶち込むぞという威嚇を込めて。
しかし貴仁は相変わらず淡々とした口調で、

「咆えるな。うるせえ」
「な…んだと………」
「お前の脳みそはミミズ並みか。何のために俺があんな茶番を仕組んだと思ってるんだよ」

貴仁はうざったそうに突き放して、ソファの隅に小さくなって震えている純の傍に腰を下ろした。

「いいか、あの婆さんは何が何でもてめえがあの世に行く前に俺を再婚させようと企んでいたんだよ。あの婆さんのことだ、俺に薬でも盛って女を宛がい、既成事実を作らせて再婚を強制するぐらいのことはやりかねない」

尭村は肯定も否定もせず、黙って貴仁を睨み続ける。

「だから先手を打ったまでのこと。お前、俺が再婚したらどうするんだよ。訳の分かんねえ女が母親づらしていつも家にいて、成仁ちゃぁん、フルーチェできたわよぅ〜って。耐えられるか？」

貴仁のイメージする母親像も正直よく分からないが、確かに素性の知れぬ女に母親づらして入り込まれ、生活を乱されるのは我慢ならなかった。しかし、

「なんで純なんだよ。誰か知り合いの女に頼んで恋人の振りでもしてもらえば済むことじゃねえか」
「なら訊くが、お前が俺の立場だったとして、お前の周りに恋人役を頼めるような女がいるか？　自慢じゃねえが、俺の周りにはそこまで信用できる女はいない。婆さんの側に寝返るか、これをネタに後々俺を強請ろうとするか、危なっかしくて仕方がない。けれど、」

貴仁はいったん言葉を切り、隣で相変わらずちぢこまっている純の髪に優しく指を滑り込ませた。ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえたが無視して純に微笑みかけ、

「純なら安心だ。誰より信用できる。それに、俺は見ての通り無器用な男でね。惚れてもいない女相手に優しくしたり、愛想振りまいたりできねえんだよ。下手に芝居でもしようものなら、婆さんにすぐに見抜かれちまう。本当に愛しいと思っている人間でないと駄目なんだ」

貴仁は純の方に向き直り、正面から顔を見据えた。

「こんな下らねえ騒動にお前を巻き込んじまって申し訳ない。けれどここはひとつ、頼まれてくれねえか？　ここにいる間だけ、俺の恋人の振りをしてくれ」
「あ、あの……ぼく………」

純は顔を上げて、尭村の顔をこわごわ見上げる。しかし尭村は腕を組んでじっと見返すだけで、何の答えも与えてくれない。

「成仁、純はお前の許可を待っている。ひとこと言ってやれ。でないと純が可哀想だ」

表情にこそ出さなかったが、尭村の内心は激しく波立っていた。たった三日間だとは思うのだが、どうしても「分かった」のひとことが出てこない。

たとえフリであっても、貴仁の再婚阻止のためであっても、僅か三日間であっても、純が他の男のものになるのは耐え難かったのだ。

今さらながら、自分に腹が立つ。純を連れて行こうと誘った貴仁の真意に気付けなかった、己れの間抜けさに。

「………勝手にしろ」

結局尭村は、最も卑怯な言葉を叩き付けた。貴仁は心底馬鹿にしたように鼻で笑い、「良かったな、純。お許しが出たぜ」と揶揄めかして答えた。

純は淋しさと安堵が混ざった複雑な溜め息をついて、

「でも……あの、恋人の振りなんてどうすれば………」
「何にも考えなくていい。俺がちゃんとリードしてやるから。お前はただ、いつも成仁にするように俺に甘えてくれればいいんだ」

そう言って、細い腰に腕を回して引き寄せた。

「おいっ、エロい抱き方すんじゃねえよ！」
「うるせえな。恋人同士に多少のエロ風味は付きものだろが」
「俺ら以外誰もいねえんだから、今は必要ないだろっ」

貴仁はやわやわとお尻を撫でつつ、

「俺も純も、誰かみたいに巧くスイッチ切り替えられるほど器用じゃなくてな。予め恋人モードでいねえと、ボロが出ちまう。つうか、お前も気を付けろよ。まあ、婆さんの前であれだけ見事に猫被れるんだから心配ないとは思うが。さて、」

貴仁は立ち上がって伸びをして、純に手を差し出す。

「疲れただろ？　純。テラスで冷たいものでも飲んでのんびりしようぜ。成仁、お前は自分の部屋に戻れよ」
「自分の部屋って、どういうことだよ」

貴仁はちらと横目で一瞥をくれ、

「どういうもこういうも。ここは俺と純の部屋だ。お前の部屋は隣。当然だろ？」

ブチ切れ５秒前の尭村は「ふざけんなッ」と声を張り上げる。しかし貴仁はうるさそうに払い、

「それはこっちの台詞だ。恋人同士の部屋に居座る気か？　勝手にしろと言ったのはお前だ。自分の言葉に責任持てよ」

尭村は怒りをこらえようとしているのか、暫し黙って俯いていた。が、

「はッ、精々バレないようにがんばれよ」

昏い声で捨て台詞を投げ付けると、荒々しい音をたてて部屋を出て行った。

BACK　　　　　　TOP　　　　　　NEXT