Nothing To Lose

＜新生＞・５８

「くそっ………雪か………」

どんよりとした鉛色の空から、細かい雪が降ってきた。東京の雪は白ではなく、何故か灰色に見える。秀は苛立たしげに肩を払って、目的の場所に急いだ。

純がそこにいるという確証などない。けれど「純がいない」という環の叫びを耳にした瞬間、あの公園の植え込みの蔭で小さく丸まって泣いている純の姿が頭をよぎったのだ。

闇雲に探し回るくらいなら、自分の直観に頼ってみよう、秀はそう言い聞かせて家を飛び出したのだった。

思い出の公園。純と初めてキスを交わした場所。そんな少女めいた記憶をずっと大事にしているなんて、直には口が裂けても言えなかったし、照れ臭さももちろんあったが、それでもこの場所は秀にとって特別な光沢を帯びていた。

ようやく辿り着いた公園は、さすがに誰もいない。灰色の空を背にした木立は緑の潤いもなく、風が吹き抜けると裸枝がカラカラと侘しく鳴った。

純の心象風景もこんな感じなのだろうかと思うと苦しくて切なくて声を上げそうになるが、今はそんな感傷に拘わっている時ではない。秀は足を速めて植え込みの蔭をひとつひとつ覗き込み、純の姿を探した。すると―――

「純………」

背の低い植え込みの根元に身を潜めるようにして、純が小刻みに震えていた。パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの姿。有無を言わさず抱き締めたい衝動を何とか堪えて、秀は優しく呼びかけた。

「純、探したぞ……」

しかし、純は顔を上げようとしない。秀は驚かさないようそおっと正面に回り、膝を曲げて屈んだ。そして同じ目線から、もう一度声を掛ける。

「純、寒いだろう？　家に戻ろう」
「さむ…い…よぅ………しゅう…………」
「ああ、寒いな……だから純、温かい家に帰ろう」

想いのこもった秀の宥めに、しかし純は首を振って、

「帰れないよ……だって、家にはあの人が…………」

そして顔を上げ、怯えた眼差しを秀に向けて切実な問いを発した。

「あの人……僕を…いじめるために来たんでしょ？　こわいよぉ……」
「純……」
「僕が、僕がまだ生きてるから許せないんだ、きっと。ママを殺した僕がまだ生きてるから―――」

寒さゆえではなく、心神の萎縮によりかたかたと震える純を目の当たりにした秀は、聡に対する激烈な怒りの余り眩暈を覚えた。

純は自分の生に対する罪悪感を抱えたまま、これまで生きてきたに違いない。何度も何度も自分に問いかけながら―――いいの？　僕は生きていてもいいの……？

「でも……僕だって生きたくて生きてるわけじゃ―――」
「純っ、頼むからそんなこと言わないでくれ……」
「―――何も……ないもの。イギリスで全てを失った……たった一人の大事な人も……僕にはもう……失うものは…………」

涙をこぼし、白い息を吐きながら純は悲壮な面持ちではっきり言い切った。

「失うものは何もない」

秀に何が言えただろうか。俺のために生きてくれ？　そんな安っぽい言葉など、降り続くこの細雪ほどの価値もない。秀はただ苦しげに首を振り、震える純の身体を強く抱き締めた。

その時、背後から切羽詰った声が近付いてきた。純の名を何度も何度も叫ぶ。秀は純を抱き上げて植え込みから出て、その声の主、秋原聡と対峙した。

「純くんっ………ああ、よかった…………」

聡はほっと表情を緩めて二人の許に近付こうとする。しかし秀は純を抱いたまま一歩、二歩と後退して近付けまいとする。
驚いて立ち止まった聡に、秀は険しい口調で噛み付いた。

「近寄るな。純はあなたを恐がっている」
「そん…な………」
「母親を“殺した”自分がまだ生き長らえていることが許せないに違いない、純はそう思っている」

足下を支えている地面がぐらりと揺れた。聡は一瞬よろめいたが、何とかこらえて秀の腕の中の純を見詰めた。

「まさ…か………純くん、君は…………」

秀の温もり以外の全てを拒絶するかのように、純は黙って胸に顔をうずめている。込み上げる愛しさを力に変えて、秀は厳しい声で告げた。

「幼い頃からこいつは、あなたに憎まれていることを知っていた。そして母親の死は自分のせいであると思い込み、生きていることに対する罪悪感に苦しめられてきたんだ」

聡はこの時初めて、純の心を蝕む闇の深さに気付いた。父親らしいことを何ひとつせず、ずっと放っておいた自分をきっと怨んでいるだろう、父親失格だと嘲っているのだろうとこれまでは思っていたのだ。しかし純は―――

「僕を恐れ、自分を責めていた………」
「そうだ、俺は今でも覚えている。純が俺たちの家に預けられていた時、悲しそうにこう言った。母親は自分のせいで病気だから、一緒にいては駄目なんだ、と」

聡は力なく頽れてその場に膝をつくと、地面に手をついた。

「許してくれ……僕は、僕は妻を愛するがゆえに―――」
「愛情は決して美しいものでも善きものでもないと、俺は父親に教えられた。誰かを愛することは、その人間を傲慢にする。この愛は全てに勝る、これを持ち出せば何もかも許されると思い込む。……今のあなたのように」

聡ははっと顔を上げた。秀の核心を衝く言葉が、胸に突き刺さる。

「あなたは許しを乞うために来たのか？！　自分が楽になるために来たのか？！………答えろっ」

秀は次々と溢れる涙の向こうから聡を睨め付けて、腹の底から叫ぶ。

「答えろッ！」
「僕……は…………」

聡はゆっくり立ち上がった。英国紳士の象徴とも言える高級素材の背広は泥塗れだったが、それを拭うことなくふらふらと歩み寄り、

「僕は、ただ、純くんに会いたかった………会って、もう二度と自殺なんて考えないでくれと伝えたかった………そして…………」

純はまだ頑なに顔を背け、秀の胸にすがり付いている。しかし聡はためらうことなく言葉を続けた。

「そして、生まれてきてくれてありがとうと………お礼が言いたかったんだ…………」

秀は唇を噛み締めて小さく頷いた。そして「生意気なこと言ってすみませんでした」と詫びて、腕の中の純をそっと差し出した。

「あ……いや…………」

聡はどうしてよいか分からず、ただおろおろするばかり。しかし秀の促しを受けて、おそるおそる手を伸ばす。が―――

「あっ、ちょっ、ちょっと待ってくれっ。服が泥だらけだ。純くんが汚れてしまう」

慌てた様子で必死に泥を払う。そして再び手を伸ばした。

「純……親父さんに抱いて帰ってもらうぞ。いいな？」

純はいいとも嫌とも言わず、ぎゅっと掴んでいた秀のセーターから黙って手を離した。秀は腕の中の華奢な身体を渡し、

「見かけより案外重いですよ。落とさないでくださいね」

聡は頷いて恭しく受け取る。腕に乗った重みに思わず目を細め、

「本当だ……いつの間にかこんなに大きくなったんだね…………」

感慨を込めて呟いた。




「純っ、純っ」

家に戻ると、環と直が飛んできた。公園で純を見つけたと連絡を入れておいたから、先に戻っていたのだ。

「秀が見つけてくれたのね？　ありがとう」

環の礼に淡い笑みで応えて、

「それより、ずっと雪に当たっていたようです。早く着替えを……」
「うん、分かってる。じゃあ秀、悪いけどこれを純の部屋に持っていってくれる？」

渡されたシャツと温かそうなパジャマを持って、秀は純の部屋に入った。

「純、ちゃんと頭を拭いたか？　さあ、これに着替えて―――」

しかし、純はベッドの上にぽつんと座って虚ろな視線を彷徨わせている。

「まだ髪が濡れてるじゃねえか、まったくお前は………」

素早くタオルを手に取って、純の濡れた髪を優しく拭く。そして指先で髪を撫でて、もう濡れていないか確かめる。

「しゅう……ぼく…………」

震えているのは冷え切った身体のせいばかりではないと気付いた秀は、温かな手のひらで頬を包み込んでやり、

「大丈夫だ、純。何も恐がることはない。さっき聞いただろう？　親父さんはお前と仲直りがしたくてここまで来たんだ」
「うん………」

純が心から納得していないことは明らかだったが、秀はそれ以上踏み込むことはせず、純の着替えを手伝うことにした。

「ほら、シャツまで濡れちまっただろ？　今風邪をひいたら大変だ。全部脱げ」
「やっ……寒いからやだもん…………」

頬を膨らませ、甘えた口調で抗議する。秀は思わず緩みそうになった口許を引き締め、「こら」と額を小突いて無理やり濡れたパジャマを脱がせる。純も不貞腐れつつもそれ以上は抵抗せず、大人しく身体を委ねた。

「こんなに冷え切って……」

秀は素早くシャツの裾に手をかけて、すぽん、と脱がせた。そしてすぐに新しいシャツを被せようとしたが、腕の中で小さく震える裸身の輝きに目を細めて見入ってしまう。

「しゅう…？」

急に動きの止まった秀を不思議そうに見上げ、小首を傾げる純。寒い外から温かい室内に入ったせいで肌に血色が戻り、その頬はもちろん、耳たぶや首筋、肩も淡い薔薇色に潤んでいる。滑らかな胸に灯った紅い実は、外気に晒されてきゅんと勃ち上がった。

愛らしい細部に釘付けとなった秀の目は、妖しくぬめり始める。しかしそんな変化に気付かぬ純はぷるんと震えて、秀の胸にしがみ付いた。

「早く着せて……さむいよ…………」
「あ、ああ……悪かった………」

秀は朦朧と答えてシャツを手に取ったが、次の瞬間には投げ捨てて桜色の裸身をきつく抱き締めた。

「しゅうっ………」

純は驚いて絶句するばかりだったが、誰より驚いたのは他ならぬ秀自身だった。自己を制御する能力に長けているはずが、我を忘れてこんな行動に出てしまうなんて………

「純………」

早く拘束を解いて、シャツを着せてやらねばならない―――頭で分かっていても、身体が言うことを聞き入れない。

この甘やかな肌を自分の温もりで蕩かしてしまいたい、そんな熱っぽい欲求に突き上げられ、秀の息は乱れ始めた。

「秀、ありがと………あったかくなってきたよ…………」

腕の中の純が掠れた声で囁く。秀はようやく我に返って、腕の力を緩めた。純は顔を上げて「ぽかぽかしてる」と言って、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうか、良かった………さあ、これに着替えて」

純はこくんと頷いて、秀の腕の中でもそもそと着替えた。そして手を伸ばして秀の髪に触れ、

「秀も濡れちゃったでしょ？　へいき…？」
「ああ、大丈夫だ。お前よりずっと頑丈にできてる」

髪を撫でる指先をそっと掴んで、唇に押し当てる。

「まだ冷たいな……」

両手で包み込んで温めてやりながら、額の奥で瞬く眩い残像を必死で払う。しかし努力も虚しく、純の素肌、その光沢や造形、匂いまで克明に灼き付いてしまった。


―――落ち着け、まだ大丈夫だ。まだ抑えられる………


しかし、自ら嵌めた理性の枷が弾け飛ぶのは、そう遠くないことのように思えた。




純の部屋で、改めて二人は対面した。

「ますます彼女に似てきたね。驚いたよ……」

聡の熱っぽい感嘆は、純の「ちっとも似てなんかない」という否定で一気に冷まされた。聡は途端に肩をすぼめて、消え入りそうな声で詫びた。

「そうか、そうだね………ごめん………」

息子の視線が痛くて、どうしても俯きがちになってしまう。しかしちゃんと言うべきことは言わねばならぬ。聡は顔を上げて純の目を、最愛の女性と同じ紫の瞳を見据えて告げた。

「君が、僕を怨むのは当然だと思う。僕は自分の哀しみに囚われてばかりで、君が独りでどんな境遇に置かれているか考えようともしなかった。でもね……」

聡は純の手首に巻かれた包帯を見て苦しそうに目を細め、

「でもヴィヴィアンは、君のママは命を賭して君を生んだんだ。だからどうか自分を大事にして欲しい。僕が憎いなら、生きてずっと憎み続けてくれ。その代わり、もう二度とこんなことはしないと誓っ―――」
「何も分かっていない」

聡の真摯な訴えを、純は苛立たしげに遮った。聡は震える声で「何がだい…？」と訊ねるのが精一杯だった。

「あなたは何も分かっていない。僕がママに似てる？　冗談じゃない。僕みたいな、僕みたいな穢れた人間がママに似ているなんてっ―――」
「純くん……」
「そんなことあるはずがないッ」

純の剣幕に、聡は返す言葉を失う。たった一つ分かったこと、それは、純は母親と似ていると言われることに嫌悪感ではなく罪悪感を抱いているということ。

「ちっとも似てなんかない」という険しい否定には、そういう感情が込められていたのだ。聡は何度も首を振り、

「純くん……君が穢れているなんて、そんな、そんなのは思い込みだよ。確かに僕は君を遠ざけていたけれど、でもそれは僕の心の弱さのせいなんだ。君に原因があるのではない。現に、君はこんなに綺麗じゃないか」

何も知らないからとはいえ、父の無邪気すぎる言葉は純の神経を逆撫でした。むらむらと攻撃的な願望が湧き上がる。何もかも全て叩き付けてやりたい、と。

本当はずっと黙っているつもりだった。今さら打ち明けたところでどうにもならないし、自分の罪を晒すだけだから。

しかし、この事実で父を打ちのめしてやりたいという残酷な欲望に駆り立てられて、ついに純は口を開いた。

「僕が綺麗？　ふーん、そう。僕がこれまでどんな扱いを受けてきたか、何人の男と寝たか知ってもそう言える？」
「な…んだって……？」

純はふふっ、と愉しそうに笑い、

「あのグレイフィールド・ハウスで、そしてそこを出てからも、僕はずっとペットだったんだ。ただセックスするためだけの」
「ま…さか………」
「嘘だって言うの？　ふふっ、嘘だったらどんなに幸せか、どんなに…救われるか………僕は、僕は…………」

強気な表情は長くもたなかった。純はくしゃりと顔を歪めて泣き叫ぶ。

「ラルフレッド・ランカスター、あいつにずっと犯され続けてきたんだッ！」

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