Nothing To Lose

＜新生＞・５７

「ねえ秀……何を食べたらそんなに大きくなれるの？」
「はあ…？」

純はむぅっと膨れて秀の顔を見上げ、

「だってだって……昔は同じくらいだったのに、秀ひとりでそんなおっきくなっちゃうんだもん。何か秘密があるんだっ」

直も大きく頷いて同意を示し、

「そうだそうだっ。何か秘密があるに違いないっ。さあ秀吐けっ、吐くんだぁ」
「いでっ、シャツ引っ張んなって」

じゃれつく直を引き剥がそうと、秀は直の肩に手を付いてぐいぐい押す。それに対抗してシャツにしがみつく直を見て、純はけらけら笑った。その時病室の扉が大きく開き、環の怒声が飛び込んできた。

「ここは病院よっ、お前ら静かにせんかぁ！」

そう言う環ねえちゃんの声が一番デカいじゃねーか、という文句を腹の底に押し込んで、直は「ふぁーい」と不貞腐れた返事を返した。

純の腕に繋がっている袋は徐々に減り、今はオレンジ色のがひとつだけになった。傷口が炎症を起すこともなく、あと二日程度で退院できる見通しだった。

純の入院中、直と秀は毎日学校帰りに病室を訪れ、昔の思い出を語り合い、純がじきに入学することになる蒼薇学園についての話を聞かせては、空白の時間を急速に埋めていった。

「ねえねえ直、お腹空かない？　この近くにおいしいパン屋見つけたの。ちょっと買い出しに行ってこない？」
「おおっ、行く行くぅ。環姉ちゃんの奢りだよな、なっ？」

環はチッと豪快な舌打ちをして、直を睨み付ける。直はわざとらしく目を逸らして「おっごり、おっごりぃ」と歌いつつ、くるくる回った。

「分かったわよ。じゃあ、秀はここにいてね。何かリクエストは？」
「……一番安いのでいいです。後が恐い」

秀は真面目な声で返して、純にちらと肩を竦めてみせた。純はくすりと笑って、「行ってらっしゃい」と声を掛ける。

「一応純の分も買ってくるわね。食べられなくてもちゃんと直のお腹に入るから、安心して」

環は早く、純に食欲を戻してあげたかった。食欲とは即ち生きようとする意欲である。今の純に一番足りないもの。

とはいえ、一人で病院食をもそもそ口に入れるのは辛いだろう。だから自分たちがいる間はなるべく病室で食事をして、純の食欲を促そうとしたのだ。

もちろん、そんな環の想いに直も秀も強く共感し、色々な食べ物を病室に持ち込んではわいわいやりながら食べた。その甲斐あってか、純も少しずつではあるが口に運ぶようになったのだ。

「直ってホント、昔っから食べ物のことになると必死だよね」

二人の背中を見送った純は、秀に向かって微笑みかける。しかし秀は黙って椅子を引き寄せて座り、純の頬を優しく撫で、

「純、無理してはしゃぐことないんだぞ」
「えっ……」

秀は微かに眉根を寄せて、

「夜、眠れてないんだろう？」

そんなことないよぉ、と笑って否定することはできなかった。闇に棲み、純の安眠を妨害する声たちは未だ健在で、耳を塞ぎ歯を喰いしばって夜が明けるのを待つしかなかったのだ。

お前は俺を裏切った、お前なんか死んでおしまいっ、お前は私のペットだ―――純の魂を切り刻む声が闇の中を駆け回り、苦しめるのだ。

「ぼく、ぼく………」
「俺たちはお前の顔が見たいから毎日来てるだけだ。疲れて休みたい時には、遠慮しないで追い返していいんだぞ」

しかし純はそっと首を振り、

「僕……自分のことばっかりで………二人の気持ちも考えず心配かけてばかり。だから、だから………」

秀は気付いていた。笑っていても、楽しそうに思い出話に頷いていても、純の瞳はいつも重く沈んでいることに。拭い去れぬ苦悩の澱が瞳の輝きを、感情の鼓動を押し潰しているのだ。

イギリスで一体何があったのか、何を見たら、見させられたらこんな哀しい瞳になるというのか、知りたくないと言えば嘘になる。

いや、寧ろ聞き出したい。肩を揺さぶって、声を荒げて問い質したい。お前を苦しめているものは何なんだ？と。

しかしそうすれば、傷口を広げることになると分かっている。よろけつつも何とか必死に生きようとし始めている純に、そんな残酷なことはできなかった。

「辛い時は、お互い様だ。そんな風に気を遣い合うような仲じゃねえだろ？」
「うん……でも、直のあんな顔はもう見たくないから…………」

涙で顔をぐしゃぐしゃにして、病床の純にすがり付いた直。いつも太陽のことしか考えていない向日葵のような少年に、あんな翳はもう背負わせたくなかった。

純の切なる想いを汲み取った秀は頷きを返し、

「分かった。なら、せめて俺と二人でいる時は無理をするな。苦しかったら苦しい顔をしていいし、悲しかったら悲しいと言っていい。俺は何も詮索しねえし――――」

秀ははっと息を詰めて口を閉ざした。純の手が伸びて、毛布の上に置かれた秀の手を掴んだのだ。

「純………」

握る力の強さに、純の苦しみが、切実な訴えが込められていた。

「しゅう………くるしいよぉ…………死にたいよぉ……………」

涙を浮かべ、生の苦悩をさらけ出す純に、ただ頭を撫でてやることしかできぬ自分が腹立たしくてならなかった。




退院して家に戻ったからといって、純の体調が劇的に快復するわけもなかった。まるで身体のご機嫌を窺うかのようにおそるおそる食事をし、少しでも無理をすると吐き出してしまう。

時折笑顔を見せはするものの、それが周りを心配させないがための渾身の演技であると、皆が気付くのに時間はかからなかった。

もどかしい、もどかしくて仕方がない。しかしそれを決して表てに出してはならぬことは、暗黙の了解として通っていた。誰よりも苦しくてもどかしい思いをしているのは、他ならぬ純なのだから。

それでも、このままでいいとは誰も思っていなかった。何かきっかけが必要だ。純が未来に希望を持ち、生きる意欲を起こさせるようなきっかけが―――



そんな停滞状態のまま、純が退院して五日が経った。試験も終わり、週末ということもあって、直と秀は早い時間に弓月家を訪れた。

「こんちはー。純はもう起きてますかあ？」

直の朗らかな声が玄関ホールに響き渡る。するとぱたぱたと音がして、環が興奮した面持ちで出てきた。

「あ、直、秀……」
「環さん、もしかしてお客様ですか？　ご迷惑なら出直してきますが」

玄関に見慣れぬ革靴が揃えられているのに気付いた秀が、気を利かせて訊ねる。環はほんのり赤らんだ顔を振って、

「ううん、いいの。お客様なのは確かなんだけど。二人にもぜひ会ってもらいたい人だから。さ、入って入って」

環の勢いに押されて、何がなんだか分からないながらもリビングへ。そこにいたのは―――

「あなたは……もしかして………」

すらりとした長身の、美しすぎる紳士。一分の隙もない完璧な立ち姿だったが、表情はどこか不安げだった。ふっと淡い笑みを浮かべ、

「君たちは……沖くんのご子息だね」
「はい、初めまして……」

紳士はまだ自己紹介していなかったが、誰なのかすぐに分かった。

秋原聡（そう）。純の父親だ。その堅実且つ強権的な経営手法には、崇拝者もいるが反発する者も多いと聞く。

しかし今二人の目の前にいる紳士に、そういったカリスマ性の影すら見受けられない。身の置き場もないと言わんばかりにおどおどと身体を動かし、やつれた溜め息で口許を汚していた。

「あの……純にはもうお会いになったのですか？」

聡は目線を逸らして力なく首を振る。

「これからよ。だって、二人が来る少し前に着いたんだから」

環が答えて、自ら率先してリビングの扉を開ける。何故こんなところでうだうだしているのか分からない。一刻も早く純に会いたいはずであろうに。しかし聡もそして父も、重苦しい顔付きで黙り込んだままだ。

「あの、純は上の部屋にいますから。私がご案内します。どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう………」

心ここにあらずといった風にぼんやり頷いて、のろのろと環の後に続く。直も秀も不審を覚えつつ、そっと後に付いていった。

「じゅんー、入るわよお。起きてる？」

たとえ眠っていてもすっきり目を覚ましそうな明るい声を掛けて、環は部屋に入った。

「うん、起きてるよ。お早う、環お姉ちゃん」

やつれた目許を細めて笑顔を拵え、純はゆっくり身体を起こした。

「おはよ。あのね、純にお客様よお、とびっきりの」

その瞬間、純の表情が固まった。しかし環はその変化に気付かず、脇によけて意気揚々と部屋の扉口を指差した。

「ほらっ、純。お父さんよ。純のことが心配でイギリスから―――」
「ぃ……ぃゃ……………」
「え……？」

純は瞬きもせず、大きく目を見開いたままぎこちなく首を振る。思いもかけぬ反応に遭って、環は狼狽した。

「ど、どうしたのよ、純。お父さんよ、会いたかったんじゃないの？」

その時、純はびくんと跳ね上がって息を止めた。聡がゆっくり近付いてきたのだ。

「純くん………僕は…………」
「来…るな………」

聡は苦しそうに呻いて、足を止めた。そして改めて息子の顔を見詰める。

「ああ………」

記憶からも現実からも遠ざけて背を向けていた息子は、想像していたよりずっと美しく、そして母親の面影を色濃く残していた。法悦の神秘を湛えた深い紫の瞳、僕の可愛いアメジスト―――

その時、純の双眸に険しい閃が走った。怯えたような表情は一掃され、代わりに純粋な怒りが顔を覆う。

言葉にならぬ呪詛が腹の底から湧き上がるが、それを奥歯で噛み砕いて呑み込み、そして真っ直ぐ腕を伸ばして扉を指差し、

「Get Away……Get Away！」

鋭く叫んで睨み据えた。聡は驚愕も露わに息を呑み、近付くことも退くこともできずその場に立ち往生する。しかし、直哉にそっと肩を叩かれて促され、ふらふらと覚束ない歩みで部屋を出ていった。

「純……どうして、なの……？」

予想もしなかった展開に、環は震える声で問い掛けることしかできない。しかしその問いから逃れるように純は布団をかぶって、苦しそうに嗚咽を漏らすばかりだった。

「環さん、いったん部屋を出ましょう……」

秀の言葉に弱々しく頷いて、ひとまず階下へ戻った。




「僕が……僕が悪いんだ…………」

聡はリビングのソファに頭を抱えて座り込み、不可視の十字架に懺悔するかのように繰り返し呟いていた。僕が悪いんだ、許してくれ、と。

しかし、そんな聡に向けられた直哉の視線は、労わりどころか攻撃の意志すら感じられるほど険しく尖っていた。環は思わず喉を鳴らす。こんな表情の父は初めて見る。

「それで、君はどうするつもりなんだ。ここでそうやってぶつぶつと自分を責めて終わりかい？」
「直哉君……」
「今、ちゃんと向き合わないで、どうやって修復しようというんだ」

環は直と秀の顔を見た。三人の視線が重なる。小さな頷きで互いの意志を確認すると、それを代弁するため環が口を開いた。

「あなたは何故、ずっと純を放っておいたのですか？　そして純は何故、あんな頑なな態度を取るのか………教えてください。私は、純の家族になりたい」

聡は身体を起こして環に向かい合った。そして視線を巡らせて直を、秀を見詰める。やがて深く息を吐き、

「僕は……あの子が憎くて憎くてたまらなかったんだ………」

衝撃的な言葉を前置きに、これまで自分が犯した過ちの全てを告白した。

愛する妻の死を純のせいにして、この子さえ生まれてこなければと呪った。母を喪って深い悲しみに囚われているはずの息子にどんな労わりも励ましも与えず、それどころか疎んじて自分の視界から退けた。
妻に生き写しの容姿、紫の瞳を直視することができなかったのだ。

やがて再婚するともうイギリスには寄り付かず、パリに引きこもって嘗ての思い出に浸り、愛しい面影を反芻するだけの廃人同様の生活を送る。
息子のことなど頭の中にはなく、その頃継母のもとでどんな苦境を強いられていたのか、知る由もなかった。

そして漸く、今になって知るに至った。純がイギリスの家にいる間、学校へも行かせてもらえず、屋敷の一室に閉じ込められて暴力的な折檻を繰り返し受けていたことを―――

「ひ…どい……ひどい、酷いわ！　純が何をしたっていうのよ！」

環は声を嗄らして叫んだ。

「純の家族はあなたしかいなかったのにッ！」

直と秀は無言のまま立ち尽くす。幼い頃、純はよく笑う元気な少年だった。共に手を取り合って公園を駆け回り、泥だらけになって遊んだあの頃が、純にとって最も幸せな時だったのだ―――

「ぅ……ぅぅっ………ぅぇ…ぇっ…………」

今さら泣いたってどうにもならない。それよりも、これから楽しい思い出をたくさん作って失われた時間を埋めてゆく方が純のためになる、そう分かってはいたが、直は涙をこらえることができなかった。

「……聡君、君たちの関係を修復するのは生易しいことではないと思う。お互いに傷付け合うこともあるだろう。どうする？」

直哉の真っ直ぐな問いかけに、聡は戸惑いしか返せない。

「どうする、とは……」
「半端な決意やその場限りの感傷だけで、純君に近付くのは止めて欲しい。もし少しでも重荷だと感じているのならば、彼には二度と会うな。僕たちが純の家族になる。血の繋がりばかりが絆ではないからね」

聡は瞬きを忘れて直哉を凝視する。対して直哉は厳しい表情で「どうする？」と畳み掛ける。すると聡は直哉の前で床に両手をつき、頭を深く下げて、

「純は僕の息子だ、僕の家族だ……奪わないでくれ………」
「……分かったよ」

直哉は安堵とも心残りともとれる溜め息をついて、環を呼んだ。

「ちょっと純君の様子を見てきてくれるかな。もし落ち着いているようなら、もう一度がんばってみよう。いいね？　聡君」
「もちろんだよ」

環はすぐ二階へ上がり、ノックをして純の部屋に入った。が―――

「パパ、パパっ、純がいないよぉ！」
「他の部屋は探したのかっ？」
「うん、トイレにも洗面所にも……どこにもいないっ」

そこにいる誰もが、背筋に冷たいものを感じた。最初に行動を起したのは秀だった。凄い勢いで部屋を飛び出て、そのまま表てへ駆け出す。

「僕たちも探そう。まだ遠くへは行っていないはずだ」

灰色の空からは、細かい雪がちらちら舞い降り始めていた。

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