＜暗転＞・５０
―――考えが…甘かった………
アパートまでの道のり、純は自分を責め、嗤うことに費やした。いや、それ以外何も頭に浮かばないというのが事実だった。
理事長室を後にした純は、そのまま覚束ない歩みで教室に戻った。しかしとても授業を受ける気になれず、テリーに気分が悪いから早退すると伝えて、学棟を出たのだった。
考えれば考えるほど、自分の甘さが身に沁みる。バージェズが、あそこまでやるとは思っていなかったのだ。
―――また、バージェズの個人授業を受ければ、そうすれば………
選択肢は、ひとつしかないも同然だった。雅人がどんな想いを抱えて日本を出たか、何を捨てて何を求めてここへ来たか知っている純には、バージェズを受け入れる以外の道など考えられなかった。
それに、脅迫されていることを雅人に打ち明けることもできない。そうすればきっと、雅人は自分を犠牲にして純の身体を守ろうとするだろう。そんなことは絶対にさせられない。
これは―――報いなのだ。自分を律することもせず、不条理な要求をはね付けることもせず、周囲に翻弄されるまま身体を与え、その場限りの快楽に耽ってきた。バージェズの言う通り、ランディ・アシュトンを陥れ、放校に追いやったのも他ならぬ自分だ。
そういった罪深い行為の報いが、今になって降りかかってきただけのこと。しかし雅人には何の関係もない。この報いは全て……自分が受け入れるべきものなのだ。
「でも……でも………」
アパートに着いた純は、ぶつぶつと呟きつつ螺旋階段を上った。そして半ば無意識のうちに自室の鍵を開け、中に入る。
しかし帰ってきたという安心感のせいか、糸がぷつりと切れたかのようにその場に座り込み、呆然と視線を彷徨わせた。
「でも……いや………」
わなわなと震える二の腕を自ら抱き締めて、純は魂の根底から湧き上がる感情を言葉にした。
「もう……いやだぁ…………」
雅人が全身全霊をかけて守り、愛してくれた大事な身体。それをバージェズのような男に与えるのはもう嫌だった。バージェズだけではない、もう、もう二度と、愛してもいない男に抱かれるのは嫌だ、絶対に嫌だ―――
「雅人……まさとぉ…………」
どうしたらいいのか分からない。いや、すべきことは分かっている。もうこれ以上雅人を巻き込むことはできない。でも―――
その時、涙で曇った純の目に一通の手紙が映った。何日か前、ポストに入っていたけれど見もしないで置きっ放しにしてあったものだ。
ほとんど条件反射的にのろのろ手を伸ばし、差出人を見る。自分に手紙を出してくれる人に心当たりなんてない。差出人の名前は空白だった。
純は迷った挙句封を切って、中身を取り出した。そして数行読んだところで、頭の芯が音をたてて凍りつく感覚に襲われた。差出人は―――
『親愛なる純、僕の息子へ―――
いきなりこんな手紙を送り付けられて、驚くと共に不愉快な気持ちになったことでしょう。許してください。でも、書かずにはいられなかった。僕は―――』
「今さら何をっ………」
純は低く掠れた声で吐き棄てて、便箋をぐしゃりと握り潰した。しかし最後の方に書かれていた“日本”の文字に興味を引かれて、険しく眉根を寄せつつも読み始めた。
純の父、秋原聡（そう）からの手紙。もちろん、彼から手紙をもらうなど初めてのことだった。父親の存在は、純の中ですでに滅えかかっていた。
しかしそれも無理あるまい。もう１０年も音沙汰なく、ずっとパリ暮らしだったのだ。彼は、妻ヴィヴィアンが早世したのは純を生んだせいであるとして、母親に瓜二つの純を疎んじ避けていた。そして純もまた、自分が憎まれていることを知っていたのだ。
手紙にはまず、これまで放っておいたことに対する謝罪の言葉が書き連ねてあった。
君の母親を余りに愛していたから、その死を受け入れることができなかった。そして彼女の面影を色濃く留めている君に会うのが恐かった。あらゆる現実から逃避して、過去の美しい思い出にすがることで、何とか生き続けることができたのだ、と。
『―――しかし今、パリからここイギリスに、グレイフィールド・ハウスに戻って初めて、自分が犯した大いなる過ちを覚った。
君がアグネスから受けた余りに残酷な仕打ち、ヒステリックな暴力について屋敷のメイド達から知らされ、僕は目の前が真っ暗に―――』
「……ふざけるな、何も、何も知らないくせに……僕があの屋敷で受けた本当の屈辱が何かも知らないくせにっ…………」
純は便箋に綴られた麗しい謝罪の言葉たちに向かって、どろどろの呪詛を叩き付けた。
悔しくて悔しくて涙が出てくる。こんな手紙一枚で済まされるなんて―――
『ほとんど厄介払いの形でジルアード学院に送られた挙句、アパートで一人住まいさせられていると聞いた僕は、驚きと怒りと申し訳なさで胸が張り裂けんばかりに―――』
余りにぬるく、見当違いの罪悪感を見せられて、歪んだ笑みすらこぼれる。
きっと彼は、僕がずっと閉じ込められていた檻のおぞましさに、一生気付けないに違いない―――
『もし君が今、孤独と淋しさに必死に耐えているのなら、日本へ行ってみてはどうだろうか。
君が日本で過ごした楽しい思い出についてよく話していたということを、メイドから聞いた。必要な手続きは全てこちらでやる。君は何も心配しなくていい。厳格で息苦しいジルアードではなく、もっと自由な校風の―――』
純は手紙から顔を上げて、あるひとつの考えを頭の中で幾度も反芻した。そうだ、僕がここからいなくなれば、そうすれば―――
「日本、へ………」
本当に自分がそれを望んでいるのか確信が持てないまま、純はぽつりと呟いた。日本へ行こう、と。
「純、純っ、大丈夫かっ」
帰宅した雅人は純の名を呼びながら、部屋の中に飛び込んできた。
「純………」
すでに黄昏が覆い始めた部屋、ソファの隅っこで、純は膝を抱えて小さく丸まり、じっと虚空を凝視していた。が、雅人の姿を見とめると「おかえり…」と囁いて淡く微笑んだ。
「大…丈夫なのか？ 具合が悪くて早退したと聞いて………」
「ん、へいき。ちょっと頭が痛かったから帰ってきちゃったけど、少し横になったらもう全然」
「そうか……」
確かに身体の調子は余り悪そうではない。しかしこちらに向けられた笑顔の形に、雅人は戦慄を覚えた。
一瞬だったが、エドワード・ロムニーののっぺりとした笑顔と重なる。全てを諦め、虚無に沈んだ虚ろな笑顔。しかし―――
「ま、まさとっ。その手、どうしたの？ 怪我したのっ？」
雅人の手に巻かれた包帯を見つけた純は、蒼褪めた顔で飛び付いてきた。心配そうな表情、瞳の真摯な輝き。それはいつもの純だった。雅人は思わずほっと息をつく。そして微笑みを返し、
「サッカーやってたら思いっ切りすっこけてさ、手ぇついて転んじまった。すっげえカッコ悪いだろ？」
「そ、そうなんだ……もぉ、あんまり張り切りすぎるから………」
純はそう言いながら、雅人の手を取って包帯の上からそっと唇を押し当てた。早く治りますように、との願いを込めて。
その想いは心地よい温もりと共に包帯を通して伝わり、さっき純の笑顔に感じた不安や戦慄をあっという間に融かしてしまった。
雅人は怪我をしていない方の手で純の頬を撫で、上を向かせると、ゆったりと唇を重ねた。その甘さに惑わされた雅人は、その時純の唇が何かに耐えるように小刻みに震えていることに、気付くことができなかった。
「それじゃ、純。また帰りにな」
「うん、じゃあね、また……」
精一杯の笑顔を拵えて手を振る純に、雅人は何か声を掛けようとした。しかしそのまま黙って別れる。
数日前から様子がおかしいのは分かっていたが、何かあったのかと訊いても首を振るばかり。
純宛てに差出人の名前がない手紙が来ていたのは知っていたから、恐らくそれが関係しているのだろうと予測はついた。しかもその手紙には、グレイフィールド・ハウスがある地域の消印が捺されていた。
どんな内容だったのかは気になるが、こちらからしつこく詮索するわけにもいかない。いずれきっと話してくれるだろうと自分に言い聞かせて、何も問わずにいたのだった。
「雅人、おっはよー」
元気いっぱい、明るい声の主は確かめるまでもない、エリックだ。雅人は軽く手を上げて応える。エリックはぱたぱたと駆け寄って、
「雅人、手はどうだい？ 大丈夫か？」
「ん、ああ。痛みもずい分ひいたよ」
エリックは眉間にらしくない深い皺を刻んで、
「ったく、こういう卑劣なことやる奴がまだいるなんてっ。許せないよ」
「まあ、俺もぼーっとしてたから。これからは気を付けるよ。敵はロムニーだけじゃなかったってことだ」
怪我をした当人に宥められては、エリックも怒りを抑えるしかない。はあ、と息を吐いて雅人を見上げ、
「なあ、本当に屋外授業に参加しないのか？」
雅人は苦笑を浮かべて、
「ああ。ごめんな。やっぱり純を一人にしておくのは不安なんだよ」
「でも、だった二泊だよ」
来月、雅人たちの学年を対象に、学院が保有する広大な保養地で屋外授業が行われるのだ。
団体行動によって規律や協調性を養おうという名目だったが、やることといえば釣りにボート遊びにバーベキュー。遊びの延長のようなものだった。生徒たちは毎年楽しみにしていたのだが、それに雅人は不参加を表明していたのだ。
エリックは不満げに、「一緒に行けるって楽しみにしてたのに…」と呟く。雅人はその肩をぽんぽんと叩いて、「土産話楽しみにしてるよ」と穏やかに言い置いた。
「分かったよ。雅人の分まで楽しんできてやるっ」
赤い顔をして叫ぶエリックに微笑みかけ、二人はそこで別れた。雅人は今日は当番だったから、授業の準備を手伝いに行かねばならないのだ。
一人になったエリックははぁ、と溜め息をついて教室へ向かおうとした。その時、背後から小さな声で呼び掛けられた。
振り向くとそこには他でもない純の姿が。蒼褪めた顔付きで、深刻な眼差しを送ってくる。
「や、やあ。純じゃないか。どうしたんだ？ そんなところで」
「雅人の手の怪我………サッカーやってて転んだんじゃないんだね」
エリックはぐっと喉を詰まらせる。今の会話、どうやら全部聞かれていたようだ。視線を泳がせて、わざとらしい空咳をしつつ、
「い、いや。サッカー中に人とぶつかったんだよ。不可抗力というか―――」
「エリック、本当のことを言って。誰かに……傷付けられたんだね。それも、僕のせいで」
雅人のことを心から想っていることが伝わる真摯な訴えに遭って、エリックはこれ以上白を切ることができなかった。
もともと彼は嘘をつくのが苦手だった。苦しくて、すぐ変な汗をかいてしまうのだ。エリックは心の中で“雅人、ごめんっ”と詫びながら頷いた。
「うん…。机の引き出しのところに、剃刀みたいなのが仕込んであったんだ。それに気付かずに………」
「ぁぁ………」
両手で顔を覆い、細い肩を震わせる純に、エリックは掛ける言葉を失う。どうしてよいか分からず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
やがて純はゆっくり顔を上げ、
「それで……脅迫は？」
「ん、ああ……君と別れろ、って紙が……。ロムニーの取り巻き連中とは別みたいだ。単に君に横恋慕してる男だろう、って雅人が………」
純は螺子の緩んだ機械人形のようにかくかくと虚ろに頷き、覚束ない歩みでその場を去ろうとした。エリックは慌てて追いかけて、
「純、大丈夫かい？ 教室まで送っていくよ」
しかし純は首を振り、「一人になりたいの…」とはっきり告げて去っていった。その儚い後ろ姿を見送りながらエリックは、何としても嘘をつき通して真実を隠すべきだったと激しく後悔した。
「ねえ雅人、来月早々、屋外授業があるんでしょ？」
「え？ あ、ああ。知ってたのか」
「うん。だってみんな浮かれてるもん。いいなあ。気を付けて行ってきてね」
雅人の温かな腕の中。純は真意を覚られないよう必死に声を繕って、何気ない風にそう告げた。対して雅人は強張った声で、
「いや、俺は行かないつもりだ」
「どうして？ 行かないと単位にも影響するんでしょ？ もしかして……僕を一人にするのが心配だとか」
「そうじゃないよ。俺が……俺が淋しいんだ。お前と離れるのが。我ながら情けねーし女々しいけど、事実だから仕方がない」
純は鳩尾に力を込めて、くっと嗚咽を呑み込んだ。僕もだよ、僕も離れたくない、別れたくない、ずっとずっとずっと傍にいたいっ―――魂が打ち震えるような叫びが身体中を駆け巡る。しかし―――
「もお。駄目だよ雅人。僕だって淋しいけど、がんばって帰りを待ってるから。だからちゃんと行ってきて。ね？」
雅人は暫く思案していたようだったが、やがて「分かったよ」と答えて腕の中の身体をぎゅっと抱き締めた。
「依存し合うばかりの関係じゃ、前に進めないもんな。やるべきことはきちんとやらねえと。ああ、まさかお前に諭される日が来るとは」
「それどういう意味？」
「はは。悪い悪い」
少し掠れた甘い笑い声。優しさと愛情に潤った黒瞳。
そしてこの……温もり…………
「まさと……抱いてっ………」
純は狂おしいほどの情熱を込めて抱擁をねだった。そうしないとこの胸を間断なく襲う痛みの余り、声を上げて泣き叫んでしまいそうだったから。
「純、愛してる……」
「僕も愛してる、雅人………」
―――だから僕は、あなたから離れます………
心の奥に秘めた決意を反芻しつつ、純はゆっくりと唇を押し付けた。
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