Nothing To Lose
＜予兆＞・４７
手のひらの中の紙切れは、冷たい汗を吸ってふやけていた。純は怒りと決意を込めてそれをくしゃりと握り潰し、植え込みに向かって投げ捨てた。
それは純が礼拝堂の前で倒れる寸前、ロムニーが渡してきた伝言。そろそろ君の最終決断を聞かせてもらおうか―――そのたったひと言とある場所が書かれた紙切れが、いつの間にか純のポケットに入っていたのだ。
最終決断、すでにそれは出ていた。あそこまで明確な害意を見せ付けられては、純に成す術はなかった。脅迫に屈する以外には。もう誰も、誰も自分のために傷付いては欲しくない。そのためなら―――
そこは敷地内にある川沿いに建つ、朽ち果てたボート小屋。純も噂でしか聞いたことはないが、その中では強姦や乱交など、鬱積した性欲を解放するための饗宴、淫行が再三行われているらしい。
純にとって噂に過ぎなかったものが、今や現実になろうとしているのだ。
小屋の入口は大きく開いていた。外からでも、複数の男が中にいることが分かる。純の足はさすがに竦んだが、もう後戻りはできない。
すると中から一人出てきて、この上なく濁った笑みを投げかけた。そして純に向かって恭しく一礼する。
「お待ちしておりましたよ、姫」
純は冷たく見返しただけで答えず、男が差し出した手を無視して堂々と中へ入っていった。
「答えは出たのかな？」
陽気なメフィストフェレスでも気取っているのか、蒼褪めた肌の男がへらへら笑いながら訊いてきた。
中にいるのは５人。この前純を拘束しようとしたのと同じ男たちだ。黒幕に徹するつもりなのか、ロムニーの姿はやはりそこにはなかった。
「ぉぉ………」
小屋の内部を、生臭い溜め息が埋め尽くした。純がシャツのボタンに手を掛けて、外し始めたのだ。そして片方の肩だけするりと落とし、誘うように腰をひねって艶めく視線を送る。
「は……高慢な天使はそうやって男を誘うのか…………」
「そうだよ。ね、よく聞いて。僕が欲しいのならあげる。好きにしていいから。でも＜スノー＞だけは嫌。あれだけは絶対にしない。＜スノー＞なしでなら、先輩たちの仲間に入ります」
「な……んだと…………」
最上級生の男がかちりと歯を鳴らして、凶暴な形相で近付こうとした。が、純はますます艶やかに笑い、
「悪い話じゃないでしょう？ 僕に回される分の＜スノー＞は全て先輩方のものになるのです。しかも先輩方は僕を好きに抱ける。言っておくけど、薬の力を借りなくてもあなた達を満足させられる自信はあります」
男たちの表情に、微妙な揺れが生じた。腐りきった頭の中で、損得勘定を巡らせているのだろう。やがて―――
「なるほどな……別に＜スノー＞にこだわる必要はないよな。俺たちと仲良くしてもらえればそれで―――」
その呟きが答えだった。それを合図に、全員が上着を脱いで口許をだらしなく緩め、純との距離を縮める。
予め順番が決められていたのか、それとも年の順なのか、最上級生が腕を伸ばして純の腰を抱き取った。そして首筋に吸い付く。
「久しぶりだな……この匂い、この味………唇が覚えてるぜ」
そのまま古ぼけた長椅子の上に押し倒し、唇を塞いですぐさま舌を挿し込んだ。
「んっ…ふ………ぅ、ぅん……………」
慎みに欠けた舌の動きで純の口腔を這い回り、ふっくらした舌を絡め取って吸い上げる。薬の副作用なのか男の舌は極端に乾いていて、純の滑らかな舌にぴったり付着した。思わず悪感が込み上げるが、何とか堪えて男の好きにさせた。
いつの間にかシャツのボタンは全て外され、あどけない果実は男の無骨な指に挟まれて、愛撫と呼ぶには余りに無神経な動きで弄ばれていた。
「は、は………やっぱり極上だ……………」
怪しげな呂律でうっとりと呟きながら、胸に脇腹に舌を這わせる。純はぎゅっと目をつぶって耐えていたが、今まさに“汚されている”という明瞭すぎる意識に身体中を切り刻まれ、痛みの余り呻きを漏らした。
もちろんそれは男たちにとって、快楽に阿る喘ぎとしか聞こえないのだが。
「ぅ………ぅぅ、ぁ……………」
耐えろ、耐えるんだ。もうこれしか方法はない。でも、でも―――
―――純、顔を上げろ、自分を卑しめるな。お前は汚れてなんかいない
「……ま…さと…………」
―――魂も身体も、何もかも全て愛してる。お前は俺の大事な………
「ぁ……ぁ……………」
そうだ、雅人がいつも優しく愛してくれる僕の身体。大事な大事な―――
「いッ…やぁ………やっぱりいやだぁぁぁぁ………………」
これまで従順だったのに、いきなり抵抗を始めた純に驚きつつ、男は力任せに押さえ付けて抵抗を封じた。
「いやッ、いやいやいやッ。やっぱりだめぇ！」
「こぉんの……大人しくしろっ」
「いやあッ」
業を煮やした男は、顔を上げてちらと目配せをした。すると悪魔のように蒼褪めた肌の男が小さな瓶を取り出して、中身を大判の布切れに振り掛けた。そして純に近付いてそれを口に当てようとする。
しかし純はめちゃくちゃに暴れて首を振り、声帯が千切れそうなほどの渾身の叫びで助けを呼んだ。
「やだああああッ、助けて、まさとぉッ！」
「純っ！」
次の瞬間、実際に何が起きたのか分かったのは数十秒後のことだった。その時は、目の前が急に明るくなったこと、そして身体が軽くなったこと、その感覚的な事実しか把握できなかった。
純の叫びに応えて雅人が現れ、のしかかっていた男を殴り飛ばしたとすぐに理解することはできなかった。
「ま…さと………」
純を庇うように立ち、男たちに対峙する雅人を純は半ば呆然と見上げる。するとふわりと上着が飛んできた。雅人が自分の上着を脱いで投げてきたのだ。
それを羽織ってきゅっと襟元を寄せると、愛しい匂いが立ちのぼって純の心身を包み込んだ。そしてようやく得心する。自分は雅人に助けられたのだ、と。
「はッは………ちょうどいい。お前も仲間に入れよ」
「そうそう、そんな恐い顔するなよ。愉しいぜえ」
緩みきった口調でふざけた誘いをかける彼らとは対照的に、雅人は張り詰めた空気をまとったまま無言を貫いていた。
こちらに背中を向けているから表情は判らない。しかしその結晶のような静けさから、研ぎ澄まされた怒りと攻撃への揺るぎない意志が伝わってくる。
純の皮膚は粟立った。そして雅人の勝利を確信した。畏れと悦びをもって。
「何だよ、黙ってちゃ分からないぜ。仲間に入る気がないのなら出ていけ。俺たちはこれから可愛い天使と愉しい時間を過ごすんだからな」
そう言って純の方へ伸ばされた手は、呆気なく捩じ上げられた。痛みに呻く男を冷たく見下ろして、「さっきのナイフの礼だ」と静かに言い置く。そして純の腕を取って小屋を出ようとした。
「いい気になってんじゃねえぞっ」
さっき雅人を傷付けたのと同じ型のナイフを振りかざして、蒼褪めた肌の男が飛び掛ってくた。見かけによらず素早い動き、身のこなし。しかしバシッという音と共にナイフは弾かれ、床に突き刺さってギシギシ音をたてた。
一瞬、何が起きたのか分からず、男は呆然と自分の手と床のナイフを見比べる。そして顔を上げると、細長い木の棒をこちらに向けて構える雅人の姿が。
「貴…様………」
雅人はふっと薄く笑って挑発し、純の腕を掴んだまま外に出た。
「お前は離れてろ」
低く囁いて純を突き放し、改めて木の棒を両手で持って構える。それは恐らく壊れたオールか何かに違いないが、雅人が持てば立派な武器になった。彼は剣道の有段者なのだ。
もちろん男たちはそんなことは知らず、各々の武器を取り出して襲い掛かる。その時―――
「おおーい、あそこだ、あそこでやってるぞお」
この場の空気には不似合いな浮かれた叫びが遠くから近付いてきた。と思ったら、あっという間に大勢の生徒たちが集まってきた。
「すっげえ、ホンモノのサムライだあ」
「うっわー、かっこいい〜〜」
「雅人せんぱーい、がんばってぇ〜〜」
どうやら先頭に立って煽っているのはエリックのようだ。彼は腕をぶんぶん振り回して、「雅人やれッ、やっちまいなッ」と叫んでいる。
雅人は苦笑を漏らしつつも、優雅な身のこなしで男たちのやけっぱちな攻撃を交わし、次々と急所に打ち込んでいった。
「良かった、無事のようだね」
成り行きに付いてゆけず、ぽかんと口を開けて傍観者のように眺めている純に、オスカーがそっと声を掛けた。
純はかくかくと頷きつつも、「どういう…こと？」と訊ねる。オスカーは肩を竦めて、
「彼らは詳しい事情について何も知らないからご安心を。ただの面白い余興、お祭り騒ぎとして見物しているだけだ。こうして証人をいっぱい作っておかないと、後になって雅人ひとりが咎められ、責任を負わされる可能性があるからね」
「それで……こんなにたくさん………」
確かにオスカーの言う通りだろう。彼らのことだ、自分たちの行状は棚に上げて、雅人ひとりに暴力の罪を着せようとするだろう。
「それに……ロムニーは理事長と繋がってるという噂も聞いたことがある。だから――――」
キ…ンと耳鳴りがして、オスカーの声が一瞬遠くなった。気が付いた時には膝を折って、その場に座り込んでいた。
「純っ？ 大丈夫かい？ 気分でも―――」
「う…ううん、平気。ちょっと……眩暈が…………」
しかし言葉を裏切って、純の膝はがくがくと震えていた。まさか、これは自分と雅人を引き離そうとするバージェズの企みのひとつでは―――
「やったぁ、雅人の勝利っ。みんな、我がジルアード学院のラストサムライに拍手ぅ〜〜」
エリックの陽気な声につられて、純は顔を上げた。すると、腹や手を押さえながらほうほうの体で逃げ去ってゆく男たちに、エリックを始め集まった野次馬学生らが手を振って嘲笑を浴びせていた。
「さあさあ、お祭りは終わりだよ。みんな各々の学棟へ戻るんだ。エリック、誘導頼んだよ」
「おう、任せとけっ」
雅人の活躍を見物できたことで満足したのか、集まった学生たちはオスカーの言葉に素直に従った。
座り込んだまま、遠ざかる複数の後ろ姿を見送っていた純は、すぐ傍に人の気配を感じて顔を上げた。
「雅人………」
「お前はこのまま帰すわけにはいかない。話がある。来い」
たった今５人の男と戦ったとは思えぬほど穏やかな口調、平静な表情。しかしその奥で爆ぜる怒りは、先刻男たちに見せたものにも劣らぬ、いや、寧ろそれを凌ぐほど険しく尖っていた。
純は引き寄せられるかのように立ち上がり、のろのろと雅人の後を付いていった。
「何度同じ過ちを繰り返せば気が済むんだ、お前は」
「ぼく……」
「あいつらの仲間になるのがどういうことか、嫌というほど分かっているはずだ。またあの深淵に、底無しの泥沼に飛び込むつもりなのかっ？」
純は必死に首を振った。何度も何度も。そしてもつれる舌を駆り立てて、自分のしようとしたことを説明する。
「く、薬だけは絶対に受け入れられない。絶対にいや。だ、だからその代わりに身体を……これを与えることで彼らを満足させてやれば、身体で繋ぎ留めておけば、そうすれば―――」
「な…んだと………」
徐々に黝（あおぐろ）い翳を帯びてゆく雅人の顔をこわごわ見上げて、純は言葉を続ける。
「そうすれば……ま、雅人を守ることができるかも、って。僕にはそうするしか―――」
パンッ、と乾いた音が響いた。と同時に、左の頬に火照りを帯びた疼痛が広がる。しかしその痛みはすぐに消えた。何故なら―――
「ま…さと………」
純の頬を張った手をぎゅっと握り締めて、雅人は泣いていた。嗚咽も漏らさず、ただ静かに涙を流す。濡れた瞳の奥で揺らめく悲しみの深さは、純の胸をぎりぎりと締め付けた。
「なぜ…なんだ、なぜお前はっ―――」
喉の奥から答えのない問いを絞り出して、苦しそうに絶句する雅人。純は腕を広げてその胸に抱き付き、謝罪を繰り返した。
「ごめっ……ごめんなさい、ごめんなさぁい………」
「身体で繋ぎ留めるなんて……そんなおぞましいこと言うな、頼むから…………」
雅人はようやく自らも腕を広げ、純の腰に回して強く抱き返した。そして赤く潤んだ耳たぶに口を寄せて、
「お前は俺の大事な大事な恋人なんだ。たったひとりの…………」
純はこくこく頷いて、抱き付いたまま顔を上げた。もう雅人は泣いていなかった。涙の余韻は黒瞳に美しい艶をもたらし、きらきら輝いている。じっと見詰められた純は、喉の奥に熱い疼きを覚えて思わず俯いた。
すると雅人はふわりと純を抱き上げ、柔らかな草の密生している場所に移動した。そして純を抱えたまま腰を下ろす。
「雅人ぉ……すごく……かっこよかったの…………」
雅人の膝の上で腰をひねり、首に腕を回して甘える。そして首筋に顔をうずめて、雅人の体温を、匂いをうっとりと味わう。
「はは、これで完全にサムライになっちまったな。これからはエリックに反論できない」
「ふふっ……でもサムライというより、騎士みたいだったよ」
雅人は額に唇を押し当てて、「惚れ直したか？」といたずらっぽく訊ねる。純はイーッと舌を出してみせたが、すぐに頬を染めて頷き、
「毎日毎日惚れ直してるよ。それでね、どんどん好きになっていくの。自分でも戸惑うくらいに………」
「俺もだ、純。もしお前を失ったらどうなってしまうか、自分でも想像つかねえよ……」
二人の顔はゆっくり近付き、そして重なった。合わさった唇の隙間から、時折熱い吐息や唾液の絡み合う音が漏れ聞こえてくる。
「まさ…と……ずぅっと……そばに…………」
二人の別れの時は、刻々と近付いていた―――
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