Nothing To Lose
＜予兆＞・４６
「………雅人、心配かけてごめんね。ついお喋りに夢中になっちゃって」
へへ、と笑ってみせたが、雅人は笑顔を返すどころか眉を険しく寄せて、
「純、何があった？」
「えっ……な、何もないよ。だいいち、テリーが僕に嫌なことするはずない―――」
「そんなこと分かってる。お前に何かあって、心配したテリーが送ってくれたんだろ？」
純はすっと目を逸らして、「雅人、考えすぎだよ…」と囁くように答えた。雅人は溜め息をついて、
「あのなあ、お前が俺に嘘をつけると思ってるのか？」
「ほ、ほんとだもんっ！ 僕だって、クラスメートと遊んだりお喋りしたりするんだからっ」
真っ赤な顔で必死に言い募る純。雅人はもちろん信じたわけではなかったが、純がここまで頑なになるのは何か理由があるのだろうと思い、暫くは黙って様子を見ることにした。
「分かった。そうだよな、お前は……俺だけのものじゃねえもんな。でもな純、遅くなる時はひと言連絡してくれ。心配で心配で、俺としたことがフライパン焦がしちまった」
「あ………」
みるみるうちに、純の瞳に涙が溢れた。雅人は慌てて手を振り、
「い、いや、別に怒ってるわけじゃないぞ。焦がしたのは俺の責任だし。ただ―――」
言い終わるより早く、純が両手を広げて飛び付いてきた。胸に顔をうずめたまま震える声で、
「ぼく……僕は雅人だけのものだよ……ほんとだよ…………」
「純……」
「ごめんね……だいすき………」
泣いたら余計に疑われてしまうと分かってはいたけれど、涙腺は正直だった。嬉しさと苦しさの混じり合った涙が、雅人の匂いのするシャツに吸い込まれてゆく。
「純、何かあったら我慢せず、すぐ俺に言うんだぞ」
優しくあやしながら語りかけてくれる雅人に、純は答えることができなかった。
「おはよう、雅人。今日も不機嫌絶好調のようだね」
「………お陰さまで」
「否定しないところが実に君らしいねえ」
オスカーはくくっと含み笑いを漏らして、雅人の隣に腰を下ろした。
「良かったじゃないか。純にも同学年の友人ができて」
それは他ならぬオスカーの弟のことなのだが、まるで他人事のようにさらりと言う。雅人は情けない溜め息をついて額を押さえ、
「オスカーの言う通りだよ。まったく、自分がこんなに嫉妬深いとは思ってもいなかった」
純とテリーは最近、行動を共にすることが多かった。もちろん学内に限られてはいるが、純を家まで送ってくることもあったのだ。
「いいんじゃないのかい？ 君は完璧すぎるところがあるからね。そのくらいの人間臭さがあった方が、僕としては付き合いやすいよ」
「こんな欠陥だらけの人間掴まえて、何が完璧だよ。その台詞、そのまま返すよ」
オスカーは黙って肩を竦める。こんな風に嫉妬心を隠そうとしないところも、雅人という人間の魅力のひとつなのだ。もちろん本人は気付いていないだろうが。
「しかし……急にだよなあ………」
雅人の呟きを耳に入れつつ、オスカーは自分なりの考えを巡らせる。このまま彼らが諦めてくれるとは思えない。オスカーとテリーが二人の身辺に目を光らせているとはいえ、それには限界がある。
取り返しのつかないことが起きる前に、手を打たねばなるまい。そのためには、全てを雅人に伝えることが不可欠と思われた。
「オスカーは、何か聞いてないのか？」
この瞳、黒く透き通った―――と、矛盾を孕んだ表現しか当てはまらないような美しすぎる瞳に見据えられると、冷静沈着なオスカーでさえぞくりと慄えが走る。
しかしそんな感情の漣（さざなみ）を周到に隠して、オスカーは「残念ながら」と素っ気なく答えた。
「……そうか。まあ、いい友だちができてよかったと祝福するのが道義だよな」
「無理しない方がいいよ。本当は独り占めしたいんだろう？」
「………否定しません」
オスカーは笑いつつ、純は君のことしか考えてないよ、と胸の裡で呟いた。
「………っ」
自分の席に着くなり、純の表情が硬直した。テリーは慌てず、落ち着いた声で「どうしたんだい？」と訊ねる。すると純は黙って、引き出しの中を指差した。
そこには、ふざけた口調が不気味さを醸す脅迫文が、その存在を誇示するように置かれていた。
純の身の安全を脅かそうとする内容ならまだよかった。しかしそれは、雅人を傷付けようとするサディスティックな意志、否、情欲がぬらぬらと染み出るような文面だった。
「ぁ……ぁ………」
純はカチカチと奥歯を鳴らして震え始める。テリーはそっと脅迫文を取り上げて、自分のポケットに突っ込んだ。そして肩を優しく撫でつつ、
「大丈夫だよ、彼には僕の兄さんがついてる」
「でも、でも………」
「脅迫っていうのは、相手が屈しないと意味がないんだ。逆に言えば、君が屈した時点で彼らの企みは成功したことになる。いいかい？ 落ち着いて。奴らに隙を見せてはいけない」
テリーの冷静な宥めが功を奏したのか、純の震えは次第に収まっていった。しかし不安が消えることはなく、すがるようにテリーの顔を見上げる。
「大丈夫。さあ、ゆっくり立って。お勤めの時間だ。礼拝堂へ行こう」
純は言われた通りゆっくり立ち上がって、テリーの後に付いていった。
朝の礼拝が終わり、学生たちが我先にと溢れ出てきた。礼拝堂の扉口は狭き門で、早くこの辛気臭い場所から明るい中庭に飛び出したいと逸る生徒たちで、いつも大混雑になった。
純とテリーもぎゅうぎゅうに押されつつ何とか外に出て、ほう、と息をついた。軽やかに弾ける朝の光に目を細めつつ、意識せずともつい雅人の姿を探してしまう。
心配だからというよりも、あの優雅な長身、美しい黒髪が見たいという感覚的な欲求が優先していた。自分がどれほど彼に惹かれているか思い知らされる、甘美な瞬間だった。
「あ、いた………」
愛しい人の寛い背中はすぐに見つかった。オスカーと話しながら、ゆっくりと学棟へ向かう。純はその後ろ姿をうっとりと眺めていた。
その時、視界の端で何かがきらりと閃いた。澄み渡った朝の景色には不似合いな、物騒な意志を孕んだ険しい輝き。次の瞬間―――
「あぶないッ」
誰かの叫びがのどかな空気を切り裂いた。とほぼ同時に、雅人のすぐ傍らにあった樹に小振りのジャックナイフが突き刺さった。
一瞬、何が起きたのか誰も把握できず、中庭がしんと静まり返る。そして一拍おいて、絶叫やどよめきに埋め尽くされた。
「雅人っ、大丈夫かッ？」
オスカーもいつもの沈着な態度を捨てて蒼い顔で叫び、テリーも慌てて駆け付けた。最も冷静なのは、他ならぬ雅人本人だった。ナイフが刺さった角度から飛来した方角を推測し、そちらをじっと探る。
しかし礼拝堂の陰になっており、投げてすぐ逃げるのは容易と思われた。それから傷の具合を確かめる。深い傷ではないが、頬と耳が切れて血が滴っていた。
「ああ、大丈夫だ。大したことはない」
しかし中庭の騒ぎは収まらない。しかしその中でもう一人、冷静な人間がいた。
「おやおや、危ないねえ。一体彼はどんな怨みを買っているのやら………」
瞬きも呼吸も忘れ、愕然と立ち尽くす純のすぐ背後から、嗤いを含んだ囁きが届いた。振り向いて確かめるまでもない。それは紛れもなくエドワード・ロムニーの声。
「ぅ……ゃぁ、ぁ…………」
さらに言葉まで忘れた純は、獣のごとき呻きを漏らして震え始める。こめかみはがんがん鳴り、視界に白い霞がかかり、血の気がすっと引いてゆく。
そして―――
「だ、大丈夫かっ、おいっ」
純はその場に昏倒した。雅人にばかり気を取られていた学生たちは慌てて純を取り囲む。
「純ッ」
すぐに気付いた雅人は傷口を押さえたまま、純のもとに駆け寄った。
「どけっ、どいてくれ！」
雅人は取り囲む男たちを片手で押しのけて、倒れた純の傍に膝をついた。そして耳許でそっと名を呼ぶが、反応がないのを覚ると、傷口を押さえていた布を捨てて純の身体に腕を伸ばした。
「雅人、無茶だ。純のことは他の人間に任せて―――」
「嫌だ」
オスカーの尤もな宥めを迷わずはね付けて、だらりと弛緩した純の身体を抱き上げる。そして傷口から血が溢れるのも構わず、そのまま悠然と立ち去った。
余りに鮮やかな行動、毅然とした振る舞いに、集まった学生たちは口を挟むこともできず呆然と背中を見送った。
「参ったね、どうも」
オスカーは苦笑と共に呟くと、雅人の後を追った。
「待って、僕も行くよ」
テリーも慌ててそのあとに続く。二人が心配だったからというよりも、純を守るのは自分だという矜持に駆り立てられたからだ。
子供っぽい意地だとは分かっていたが、雅人の鮮やかな行動を見せつけられて、悔しさが込み上げてきたのも誤魔化しようのない事実だった。
「兄さん、投げた奴を見た？」
「まさか。後ろに目は付いてないよ。でも、仮に見たとしても何の意味もないね。それより、純が脅迫されていること、そろそろ雅人に教えた方が良さそうだね」
テリーは激しく首を振って、
「だ、駄目だよ。絶対に言わないって純と約束したんだから。僕と兄さん二人で守れるって―――」
オスカーはふと立ち止まり、必死に言い募る弟の顔を正面から射抜いた。普段は優しく潤っている瞳に、厳しい輝きが宿る。
「テリー、お前には無理だ。雅人の代わりにはなれないよ」
そして硬直した弟を置き去りにして、雅人のもとへ急いだ。
オスカーが医務室に入ると、ちょうど雅人が傷の手当てを受けているところだった。怪しげな臭いのする、校医ご自慢の万能薬を塗られて、困惑の表情を浮かべている。オスカーはにやりと笑って、
「ああよかった。先生のこの薬を塗ってもらったのならもう安心だ」
「おお、さすが監督生さん。よく分かっとるのぉ」
ふぉっ、ふぉっ、と豪快に笑う校医を胡乱な眼差しで見上げて、雅人ははあ、と溜め息をついた。
「ところで純は……」
「ああ、奥のベッドで―――」
その時、純が目を覚ましたのか微かな呻き声が聞こえてきた。雅人はすかさず立ち上がり、カーテンを払って奥へ行こうとする。
「あ、まだ手当ては済んどらん。待ちなさいっ」
校医の制止も聞き入れず、雅人は純のもとに駆け寄った。
「純、気付いたか？」
「ぁ………まさ…と……ぼく………」
不安げに揺れていた瞳は、雅人の姿を捉えると落ち着きを取り戻した。
「純、どこか痛いところ、苦しいところはないか？ お前は礼拝堂の前で倒れたんだよ」
「痛い……ところは………ぁ、ぁ……まさと……傷………いやぁ、ナイフがっ………」
倒れる直前の恐怖を思い出したのか、恐慌をきたして雅人にしがみつく。その背中をぽんぽんとあやすように叩いて、
「ほらほら、そんな死にそうな声出すな。俺はぴんぴんしてるだろ？ お前の方が心配だ。いきなり倒れたんだから」
「ぅぇっ……ぇっ………まさと、まさとぉ………」
必死に両腕を伸ばして雅人の首に巻き付け、涙で濡れた頬を胸に押し付ける。そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。
「馬鹿だな、なんでお前が謝るんだ？ ん？」
雅人はベッドの上に膝を着き、すがり付いてくる純の身体をきつく抱き返した。頭のてっぺん、柔らかな髪に何度も口付け、
「心配するな、俺はここにいる。お前の傍にいるから………」
ベッドの上で固く抱き合う二人に、校医もオスカーも、そして遅れて来たテリーも口を挟むことができず、ただぼぅっと眺めていた。
「これはどうも……参ったのぉ…………」
やがて、校医が年に似合わず頬を赤く染めて、照れ臭そうにぽりぽりと鼻の頭を掻いた。雅人ははっと我に返り、
「あ、すいません。えっと………」
「謝ることはないがね。ただ、目のやり場に困るというか………」
「見てる僕たちが悪いんじゃないですか？ 先生」
オスカーの指摘にごほごほと空咳を返して、背中を向ける。雅人は思わず微笑んで、「オスカーの言う通りだ」とからかい混じりで答えた。そして純の頭を優しく撫で、
「それじゃ、俺たちは学棟に戻る。お前はもう少しここで休んでろ。分かったな？」
「うん……」
不安を色濃くにじませた表情で頷くと、大人しくベッドに横になった。雅人は頷いて、「昼飯は一緒に食おうな」と言って出ていった。
「先生、お願いがあるのですが」
純の傍から離れた雅人の表情は一変していた。優しげな色合いは微塵もなく、冷たい意志が結晶したかのような清冽とした眼差しを向けた。校医は頷いて、
「分かっとるよ。暫く純はあそこに寝かせておく。おかしな奴らが来ても中には入れんから、安心なさい」
「ありがとうございます」
「礼には及ばんよ。それより、ちゃんと手当てをさせてくれ。まだ途中なんじゃ」
そう言って、特製の万能薬を再び取り出した。
「オスカー、テリー。隠さず教えてくれ。純は……脅迫されているんじゃないのか？」
「そうだよ」
オスカーは間髪入れず肯定する。そして頭を下げて謝った。
「すまない。すぐ君に教えるべきだった」
「いや……純に口止めされてたんだろ？ 俺には心配かけたくない、って。あいつはすぐ、自分で何とかしようとするからな。テリー、あの日だな？」
テリーはびくん、と肩を震わせて雅人を見上げた。しかし観念したのか素直に頷いた。
「すみませんでした。僕……あ、あなたの代わりに純を守るぞ、って……」
オスカーは弟の肩に手を置いて、視線で雅人に許しを乞うた。ああ、そうか。テリーは純のことを………
「ありがとう、テリー。これからも頼むよ。俺もずっとあいつの傍にいれるわけじゃないからな。変わらず守ってやってくれ」
雅人の言葉に、テリーは顔を真っ赤にして何度も頷いた。そして、「雅人の代わりにはなれないよ」と言った兄の言葉の正しさを噛み締める。
「それで、純を脅迫しているのは誰なんだ？」
テリーはあの日見た光景を雅人に伝えた。ロムニーの取り巻きたちに裏庭へ連れていかれ、そこでもう一度仲間になれと脅迫されたらしい、しかし純は断固として拒絶した―――
「エドワード・ロムニー……まさか…………」
雅人の顔色がさあっと蒼褪めた。オスカー達は知らないのだ。ロムニーの仲間になるというのが、どういうことかを。
しかし雅人は痛いほど知っている。彼らが嵌っている底無し沼の正体を。そこに再び純を引きずり込もうというのか―――
「許さねえ……絶対に………」
ぎりぎりと噛み締めた奥歯の隙間から、怒りと憎悪に撓んだ呪詛を吐き出す。テリーは思わず喉を鳴らして、一歩退いた。オスカーも、雅人の怒りの激しさに臆した様子で、そっと声を落として訊ねる。
「………雅人、どうするつもりなんだ」
「ロムニーに、直接掛け合う。そして、あいつから手を引くように頼む」
「素直に聞き入れるような相手とは思えないが」
「その時はその時さ」
もしかしたら、とオスカーは思った。雅人が真剣に掛け合えば、ロムニーは承諾するかもしれない。
誰もその頑なな殻を破ることができなかった純を、＜高慢な天使＞の呼び名の内側で引きこもっていた魂を、あそこまで変えることができたのだ。ならばロムニーも―――そう考えるのは、余りに楽観が過ぎるだろうか……
「とにかく、純と互いの安全について話し合うのが先だな。手を打つのはそれから―――」
その時、背後から雅人たちを呼ぶ声が。振り向くと、白髪の校医が巨体を震わせて駆け寄ってきた。
「どうしたんです、先生―――」
「すまん、純がいなくなった。どうやら窓から外へ抜け出たようだ」
「なっ……」
３人の脳裡に暗い閃が走る。まさか自ら、脅迫に応じるため―――
「どこだっ、どこへ行ったんだッ」
「わ、分からん。足跡は裏の林の方へ向かっていたが、その先は―――」
「雅人、急ごう！ 何としても探すんだ。先生も手伝ってください」
オスカーの言葉を聞くまでもなく、雅人は学棟を飛び出した。
BACK TOP NEXT