Nothing To Lose
＜闘争＞・３９
「本当にありがとうございました。他に…言葉が見つかりません」
深く頭を下げたまま、顔を上げようとしない雅人。その肩をそっと抱いて、
「お礼を言うのは私たちの方です。あなたに会えてよかった。あなたのような人が純の傍にいることが分かって………」
バーリントン夫人は感慨を込めてそう告げると、肩を押して顔を上げさせた。
「雅人くん、これからが大変だぞ」
アルバートも雅人の肩に手を置き、ぐっと力を込める。雅人は重々しく頷いて、無言のまま決意を伝えた。
「では、私たちはこれで……。あの男のことは心配しないで。もう二度と純の前に姿を現すことはないでしょう」
「はい…」
３人は握手の代わりに澄んだ眼差しを交わして、その場で別れた。素っ気ない別れではあったが、そこには生きた紐帯が確かに息づいていた。
雅人は遠ざかる二人の背中を見つめながら、複雑な感慨に囚われた。これで終わったのだという想いと、これから始まるのだという想い。それらを抱えたまま、夫人が用意してくれた車に乗り込んだ。
―――純……愛しているよ…………
雅人、雅人なの？ 怪我はへいき？ 痛くない？
―――誰にも……渡さない………お前は…………
僕は、僕は雅人だけのものだよ。
だから離さないで、ずぅっとそばにいて…………
―――お前は………私のものだ。私のペットだ。それを忘れるな………
あ………ああああああああ―――――――
「いッ、いやあああああああああッ」
「純ッ、純、大丈夫だ、もう大丈夫だっ」
「いやいやいやいやッ、ゆるしてっ、ゆるしてぇぇ…………」
ほとんど狂乱の態で叫び哀願し、四つん這いになって逃げようとする。上から押さえ付けてはますます恐がらせるだけだと分かってはいたが、他に方法がなかった。
雅人は苦悩に顔を歪めつつ、純の上に覆いかぶさってその身体を押さえ込む。そして耳許に口を寄せ、何度も何度も「大丈夫だ」と囁いた。
「純、純……俺は誰だ？」
「い……やあああ…………」
「俺は誰だ？ なあ、純、分かるだろ……？」
うつ伏せのまま震える純の耳許で繰り返す。俺は誰だ？と。
「あ……あああああ…………」
「俺は誰だ？ ここはどこだ？ 純、答えてくれ、頼む……」
雅人は純の上からどいて、押さえ付けていた手も離した。すると純は世界を拒絶するかのように身体を小さく小さく丸めて、言葉にならぬ苦悩の呻きを漏らした。
雅人の脳裡に胸に、絶望の翳がよぎる。しかし必死にそれを払って、尚も問いを続けた。
「純、一緒に飼ってる犬の名前、覚えてるか？ お前が付けたんだったよな。賢くなるように名探偵の名前をもらって。そう、それから、お前が大好きなストロベリーシャーベットの名前も。デザートだ、っつてんのにいつも食事前に食って俺に叱られてたよな。それから―――」
雅人は乱暴に目をこすった。涙が溢れて止まらない。今は泣いている時ではないのに。
「それから……寝る前に歌を聞かせてくれたこともあったよな……お前恥ずかしがってあんまり歌ってくれなかったけど……でも………あの少し眠そうな歌声が可愛くて………俺は大好きだった………」
「う………うぅぁ……ぁぁ…………」
純は呻きつつも、身体の硬直を徐々に解き、おそるおそる顔を上げた。
「じゅん……俺は……誰だ？ お前を愛し、ずっと傍にいると誓った俺は………」
「ま…さ……と………」
雅人は叫び出しそうになるのをこらえて、もう一度訊ねる。
「聞こえないぞ……さあ純。もう一度。俺は誰だ？ お前の傍にいるのは―――」
「まさ…と………まさと………雅人ぉッ」
喉を嗄らして絶叫する純の身体を、雅人はきつく抱き締めた。
「そうだ、俺だ………純、よく思い出したな、えらいぞ…………」
「ふぇっ、ぇっ、ぇぇっ………まさと……まさと…………」
胸に顔をうずめてしゃくり上げながらも、必死に名前を呼び続ける純に、雅人は飽きることなく答え続けた。俺だ、雅人だ、ずっと傍にいるよ、と。
それから雅人の、懸命の介抱が始まった。純がいつでも、どこにいても安心していられるように部屋の扉は全て開け放しにして、自分の気配を遮断しないようにした。
必ずお前を守ってみせると豪語した舌の根も乾かぬうちに純を連れ去られ、挙句あんな目に遭わせてしまった罪悪感の枷は重く、押し潰されそうになる時もあった。
特に純が深い眠りにつく直前、苦しそうに眉根を寄せて呻き、ゆるして…と声に出さず唇を震わせる時などは、自分への怒りの余り頭を激しく打ち据えたくなる。それでも雅人はぐっとこらえ、優しく温かい手のひらで純の額を撫で続けた。
そしてもうひとつ、雅人が心掛けたことがあった。それは、純が自分の身体を見ないようにすること。部屋にある鏡は全て外すか覆いで隠すかして、純の身体を映し出さぬようにした。玄関にある姿見も、洗面所や浴室の鏡も。
入浴の時には裸の純を大きなタオルでくるんで照明を落とした浴室に抱いて運び、そのまま浴槽に沈めて身体を洗ってやる。そして素早く身体を拭いて寝巻きを着せて、ベッドに運ぶのだった。
だがしかし、そんな誤魔化しが長続きするはずもなかった。体力も回復し自分で起き出せるようになった三日目、純は汗をかいたシャツを着替えるため、上半身だけ裸になってクローゼットの扉を開けた。
そして、その内側に据えられた姿見で自分の身体を見た。隙間なく捺された陵辱の刻印を、生々しい行為の軌跡を。
鏡の中の自分が無言のうちに宣告を下す。結局この身体は―――今でもあの男のものなのだ、と。
そう思った瞬間、純の中で何かが音をたてて弾けた。
「あ……あ……もう…いや…………」
その場にぺたんと座り込んで、身体中を埋め尽くす腐爛の華をむしり取ろうと爪を立てる。まだ閉じていない傷口には血がにじみ、打ち身のような鬱血痕はずきずき痛んだ。
けれどもちろん、それらが消えることはなく―――
「純ッ、何やってるんだ！」
部屋に飛び込んできた雅人に手を押さえられ、さらに強く抱き締められる。しかし純はいつものように胸に顔をうずめることをせず、力ない声でたったひとつの望みを繰り返し訴えた。
「もう………死にたい………ころして…………」
やめろと怒鳴りたい衝動を必死に呑み込む雅人。しかし純は尚も続ける。
「死にたい………こんな身体………いらない…………」
腕の中でだらりと弛緩した身体が、繰り返し死への逃避を訴える。雅人もまた、限界に近付きつつあった。
「生まれ……なおすの……もいっかい………きれいな……からだに……」
「分かった」
単なる宥めや時間稼ぎではなく、全てを受け入れた上での本気の承諾と分かる低い声でそう告げると、雅人は純を置いて隣の部屋に行った。しかしすぐに戻ってきた。手にナイフを持って。
雅人は何も言わず純の前に座り、そのナイフを純の両手に握らせ、さらに上から自身の手で包み込んだ。しかし刃先は雅人の方を向いている。
「先に俺を殺せ。それから自分でやれ」
「い……や………」
「俺は……お前を守りきることができなかった。この三日間、罪悪感や悔恨、自分へ向かう怒りに何度も潰されそうになった。純、死にたいのは俺も同じだ。だから―――」
ぬらりと銀色に閃く刃の切っ先を、自らの喉に当てる。そしてゆっくりと身体を前に倒し―――
「俺を……殺してくれ………」
「いッ、いやああァァ、やめてぇッ、手を離してっ」
「嫌だ」
ぷつ、と肉の裂ける小さな音がした。と同時に喰い込んだ刃先から真紅の珠が生まれ、とろとろと喉を伝って流れ始めた。
それでも雅人は手を離そうとしない。それどころかますます身体を傾けて、ナイフを深く突き刺そうとする。純は半ば恐慌をきたして涙を振りまき、絶叫した。
「血がッ、血が出てるよおっ、やめてやめてぇッ」
そしてついに号泣しつつ、自分の過ちを認めた。
「ごめっ…ごめんなさぁい………まさとっ、もうしません、死にたいなんて言いませんッ」
「………本当か？」
涙でぐしょぐしょの顔を必死で縦に振る純に、雅人は険しい表情のまま厳しく問いを重ねる。
「一緒に…死ぬこともできる。生きるより簡単だ。俺はどっちでもいいぞ。もう一度訊く。一緒に死ぬか？ それとも―――」
ナイフを握る両手にぐっと力を込める。そして妥協を許さぬ声で、
「一緒に生きるか？ どっちだッ」
「一緒にいきるっ。だからずっと傍にいてぇ………」
雅人は前傾させていた身体をゆっくり起こし、握っていた手を緩めた。ナイフに添えられた純の手は痛々しいほどの震えを見せていたが、やがてふっと指の強張りが解け、カランと音をたててナイフが滑り落ちた。
純はそれを忌々しげに遠くへ払うと、床に両手をついて立ち上がろうとする。しかしがくがくと膝が笑って、容易に立つことができない。
「純、無理はするな―――」
差し伸べられた手を取ろうともせず、純はぽたぽたと大粒の涙をこぼしながら、
「やだ……血が………血を……とめなくちゃ…………はやく…………」
救急箱を取りに行こうとしているのだろう、床を這って移動しようとする。確かに、雅人が自ら付けた傷は深さの割には出血が多かった。止まる気配も見せず流れ続け、シャツを染め始めていた。
雅人は自分で立ち上がって救急箱を取りに行こうとしたが、何を思ったかその場に留まり、
「純……頼む、傷の手当てを………この血を止めてくれ」
純は悲壮な顔つきでこくこく頷いて、何とか立ち上がった。そして覚束ない歩みながらも隣の部屋に行き、救急箱を持って戻ってきた。
中から脱脂綿を取り出して血をそっと拭い、消毒液を染み込ませたガーゼを当てる。そうするうちに手の震えは収まり、涙で曇っていた瞳にも透徹した輝きが戻ってきた。
「うう……消毒液がしみる………。じゅんー、それ取ってくれ」
「だめっ、ちゃんとお薬付けないと駄目なのっ」
「大丈夫だよ、もう血は止まってるだろお？」
純はキッと睨み付けて、
「止まってないもんっ。雅人は大人しくしてて。手当てしてるんだからっ」
そして真剣そのものの表情で傷口の具合を確かめる純を、雅人は温かな眼差しで見守りつつほっと安堵の息をついた。
翌日からはもう、身体を隠す必要はなくなった。純は自分でシャワーを浴び、身体を洗う。
肌に散る痕からは目を逸らしてしまうけど、これもいつかはきれいに消えてしまうのだと自分に言い聞かせることができた。だからもう、絶望や自虐の悪魔に囚われることはなかった。
「純………もう……寝ちまったか？」
石けんの香りを漂わせた雅人が寝室に入ってきた。純は「まぁだ」と甘えた声で答えて、自然な仕草で抱擁をねだる。しかしすぐに引っ込めて、申し訳なさそうに唇を噛み締めた。
雅人はその隣にするりと潜り込んで、
「どうしたんだ？ ん？」
「ううん……何でもないの………」
純が躊躇した理由が痛いほど解っている雅人は、問いつつもその身体の上に覆いかぶさって抱き締めようとした。が、
「だ……め………」
両手をつっぱねて、やんわりと拒絶される。そのためらいがちな仕草から立ちのぼる色香に、きっと本人は一生気付かないに違いない。
「何も……しねえよ。抱き締めるだけだ」
「そうじゃなくて……雅人、きもちわるくないの？ こんな……………ぁ、」
思わず漏れた小さな吐息は、雅人の唇がまぶたに触れたから。熱い唇はそのまま頬、耳、首筋へと移動して、心地よい湿り気、秘密めいた温もりを染み込ませてゆく。
強く吸われているわけではないのに、その部分がずくん、ずくんと疼き出して、純はたまらず喘ぎを漏らした。
「どうして……気持ち悪いなんて言うんだ？」
「だって……だって………」
いつの間にかシャツのボタンは全て外され、温かく微かに湿った手のひらが滑らかな胸を撫でさすっていた。芯をもってぷっくり勃ち上がった肉の実は余りに敏感で、雅人の指先がすっと掠めただけでちり、と電流に似た快感が走った。
純は「くふっ」とこもった喘ぎを喉の奥で転がして、股間から広がりつつある疼きをせき止めようとするかのように腰をひねった。
「こんなに……綺麗ですべすべして………気持ちのいい身体………」
雅人を熱を込めて囁きながら、唇で首筋をなぞり鎖骨を吸い、そして鴇色に潤む胸の果実にそっと口付けた。
「ぁっ………ぁぁ…ン………や…ん…………」
鼓膜も蕩かす喘ぎに酔い惑いつつも、口を開けて大胆に吸い付き、ふっくらした乳輪ごと唇で挟んではむはむした。もちろん、吸っていない方の乳首も指で捏ねながら。
「ふぁ……ぁっ………まさとぉ………もう…………」
「もう……なんだ？ もう、ぐしょぐしょか？」
笑いを含んだ嫌らしい問いかけを耳許で囁きながら、手を伸ばして股間をまさぐる。そこは予想通り、いや予想以上に熱くぬめって、軽く扱いただけでグチュグチュと濃厚な蜜音ととろける感触をもたらした。
「すげえ……どろどろだ………旨そうだな、コレ…………」
本気で食欲を催したのか、ちろと舌なめずりする雅人。そして手のひらの中でびくびくと悶える純の半身を、さらに激しく虐め始めた。
「純……前だけで達かせてやるからな、安心しろよ…………」
純の敏感な秘孔はまだ、ラルフレッドから受けた陵辱の恐怖を忘れられないに違いない。もしかしたら、再び雅人を受け入れられるようになるまでには、２年、３年とかかるかもしれない。
もちろん、それでも構わないと雅人は思っていた。再びこうして肌を重ねて、温もりを捧げ合うことができただけで十分だと。しかし、
「やん……前だけじゃなくて………後ろもきもちよくして…………」
そして誘うようにゆっくり足を開く純。その動きに合わせて、股間を滴り落ちた蜜がクチュ、と秘めやかな音をたてる。
「純、嫌だったらすぐに言うんだぞ………」
雅人は指を滑らせて奥を探り、たっぷりの愛液に濡れそぼった蕾の入口をぬるぬる撫で回した。そして絡み付く襞を掻き分けて、つぷつぷと埋め込んでゆく。純は微かに腰を揺らめかせて、悦びと快感を訴えた。
「んっ……もっとぉ………まさと…………」
可愛らしいおねだりに応えるべく、雅人は指を増やしていった。しかし純の求めているものがそれではないことは分かっていた。
「ひとつに……なるか？ 純………」
「ん……ひとつになる………なるの……きて…………」
動きが性急にならぬよう自分に言い聞かせながら、勃ち上がった自身の先端を純の潤みに宛がう。そこはじゅっと音をたてそうなほど熱く湿って、雅人の先端に吸い付いてきた。
「はっ………これだけでイキそうだ…………」
雅人は自嘲気味に呟くと、ゆっくり、ゆっくり腰を進めていった。熱とうねりと締め付けに、徐々に包み込まれてゆく。根元まで押し込んでもさらに腰を進め、股間をぎゅっと押し付けた。
もっと深く重なり合いたい、完全にひとつになってしまいたいという欲望が駆り立てる。
「あ…あ……ひとつに…なれた……ずぅっとこうして……いたい…………」
その呟きを裏付けるように、内壁がきゅっとすぼまって雅人自身に絡み付いた。
「そうだな……ずっとこうしているか…………」
この甘い身体を喰い荒らしたいという欲求を抑えて、雅人は穏やかに同意した。そして半開きの唇に吸い付いて舌を挿し込み、くちゅくちゅと口腔を掻き回すのと同じリズムでやんわりと腰を振り、繋がっているという幸福な事実を二人でじっくり味わい続けた。
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