＜安息＞・４０
「ううぅ〜〜〜」
何だかおっさん臭い唸り声を上げながら、机に向かっている雅人。そのすぐ傍らで、純はちょっぴり不貞腐れつつヴァンスをいじって遊んでいた。
雅人がちっとも構ってくれないから拗ねているのだが、そんな純に気付いているのかいないのか、雅人は必死に課題のレポートと格闘していた。
始まった頃には永遠に続くのではと思われた夏の休暇も、終わりに近付いていた。
余りに色々なことがあり過ぎて勉強どころではなく、はたと我に返ると全く手を付けていない課題の山が。純の身体も快復したということで、雅人は腰を据えて取り掛かり始めたのだが、辞書を片手のレポート執筆はなかなかの難物だった。
英語はもちろん問題ないのだが、ラテン語やフランス語となると手探り状態。対して純はどちらも堪能だったから、雅人のように時間をかけず楽々こなすことができたのだ。
「ヴァンス、寝ちゃったの………」
さっきまでは純の相手をしてくれてたヴァンスも、どうやら昼寝の時間なのか膝の上でぐて、と伸びてとろとろ夢の中。
純はそっと抱き上げて専用のベッドに寝かしてやると、雅人のところに戻った。そして机と椅子の間に身体をぐいぐいねじ込んで、雅人の膝の上にちゃっかり座り込んだ。
「おまえ〜〜、邪魔するな」
「邪魔しないもん」
そう言いつつ、雅人の胸にぴったり密着して抱き付く。思わずでろでろと鼻の下を伸ばして抱き返しそうになるが、ぶるぶると頭を振って多少のわざとらしさが残る厳しい声で「なら大人しくしてるんだぞ」と言い置いて、再びレポートに向かう。
純は暫く大人しくしていたものの、退屈を持て余したのか膝の上でもぞもぞ動き出し、首筋に頬をすりすりしたり、ちゅ、と吸い付いたり、とにかく雅人の集中を乱し始めた。
「じゅ〜ん〜〜」
雅人は額に翳を落として低い声でうなり、
「邪魔するなら膝から下りろ。俺は今日中にこれを片付けちまうつもりなんだから」
純の頬はみるみるうちに膨れて赤く染まり、そのままぱふ、と音をたてて破裂してもおかしくないような状態に。
無言のままするりと膝から下りると、「雅人なんかいいもんッ」と真っ赤な顔で叫んで、ぱたぱたと寝室へ駆け込んでいった。
雅人ははあ、と溜め息をついて、
「あ〜あ、これでやっと集中できる。ったくお子様なんだから、あいつは」
大きく伸びをして再び机に向かった。が―――
「――――――あああッ、ちくしょおっ」
いきなり叫んでがばと顔を上げ、時計を確認する。
「うっ……まだ５分しか経ってねえ…………マジかよ」
よろよろと立ち上がり、純のいる寝室へ向かう。たった５分なのに、傍にいないことが耐えられなかったのだ。
「純、俺だ……入るぞ」
そっと扉を開けて中に入ると、ベッドの上で枕を抱えて赤い顔をうずめていた。雅人は近付いて声を掛けようとしたが、それより先に純が口を開いた。
「ねえ、雅人……。雅人は５分間も、息止めていられる？」
雅人ははっと息を呑むと、思わず目を細めた。そしてあやすような甘い声で、
「いや、無理だな。苦しくて死んじまうよ」
「うん、僕も。僕も死んじゃう…………雅人ぉ」
枕を投げ捨ててすがるように腕を伸ばす。雅人は駆け寄ってその身体を優しく抱き留めた。
「ごめんね、もう邪魔しないから、大人しくしてるから………傍にいてもいい？」
「ああ、頼むよ。お前がいないと、息もできない」
純を抱き上げて再び机に戻ると、膝の上の温もりや柔らかな息遣いを感じつつレポートに集中した。
パチン、パチン、と乾いた音が小気味よく響く。と思ったら音が止まって、
「こら、動くな。危ないだろ」
「やん。だって雅人の息がくすぐったいんだもの」
純の定位置は相変わらず雅人の膝の上。背中を雅人の胸に凭せかけて後ろから抱き締められた姿勢で、爪を切ってもらっていた。
耳許にかかる雅人の吐息がくすぐったくて、腰をもぞもぞ動かしてしまう。怒られたにもかかわらずさらに身体をひねって後ろを向き、雅人の顎についばむようなキスを繰り返す。
「お前はぁ〜、大人しくしてろってのが―――」
「雅人、顔赤くなってるよ」
純の指摘通り、雅人の頬は微かに赤らんでいる。照れ隠しもあるのだろう、仏頂面のまま爪切りを放り出し、
「もうやめた。あとは自分でやれ。俺は知らん」
純はぷくっと膨れて手を突き出し、
「やっ、雅人がやって。雅人がやってくんなきゃいやっ」
丸い頬に甘えた仕草、甘えたおねだり。雅人は頬が緩みそうになるのを何とかこらえて、「じゃあじっとしてるんだぞ」と厳粛に言い付け、再び純の指を取る。
純は神妙な表情で言い付け通りじっと動かず、雅人の手に委ねる。
「あとはやすりで削った方がいいな」
そう言って、薄いピンク色のちっちゃな爪にやすりをかける。丁寧に、愛情込めて。
「純、痛くないか？」
「ううん、全然」
雅人の大きな手によって磨かれる自分の指を見ていると、胸の奥がじわん、と熱くなってくる。うまく言葉にできないけれど、とてもとても大事にされているんだということが伝わって、幸せすぎて泣き出したくなる。
「よし、できた。ざらざらしてるところはないか？ 自分の肌を引っ掻いて傷付けたり、危ないからな――――純、どうした？」
雅人の胸にいきなり顔を押し付けて、動こうとしない。
「何でも…ないの。すこしだけこうしてて………」
幸福感が頂点に達した時、深い奈落の存在が頭をもたげてくる。余りに漠然とした不安、曖昧な闇。なのに存在感だけは絶大で、こうして確かなものにすがっていないと引きずり込まれそうになってしまう。
「少しだけ、なんて言うなよ。俺はずっとこうしていたいよ」
こういう時の何気ない言葉にどれだけ救われているか、きっと雅人本人も分かっていないだろう。
純は不安の発作がすーっと鎮まるのを感じた。顔を上げて、
「だぁめ。ごはん作るんだもん」
「へえへえ。色気より食い気ですか。かしこまりました、お嬢様」
爪切りをしまってキッチン向かう。その時電話が鳴った。
「はい、相楽で………あ、うわー、お久しぶりです。ええ………えっ？ あ、ああ……もちろん構いませんが………はい…………」
明らかに戸惑っている風の雅人。純はそおっと近付いて、心配そうに見上げる。すると雅人の大きな手が頭の上に乗り、わしわしと撫でられた。大丈夫だ、心配するな―――
「はい、ではお待ちしてます。……いえ、こちらこそ。では」
かちゃん、と受話器を戻してふぅっと息を吐く。そしてまだ不安げな眼差しを送ってくる純に笑いかけ、
「そんな顔すんなって。大したことじゃねえよ。俺の………」
一瞬口ごもる雅人。が、精一杯何気ない口調で続ける。
「俺の叔父さんなんだけどさ、仕事の都合でこっちに来たとかで、俺が元気でやってるか見たいって。あとできれば泊めて欲しいってさ。なんか近くの展示場で国際的な見本市やってるとかで、ホテルが取れないらしいんだ。だから」
「そっか……ね、叔父さんってどんな人？」
雅人はそうだなあ、と記憶を掘り起こし、
「父親の一番下の弟なんだけど、ちょっと変わった人で、自家発電機とかゴミのリサイクルシステムとか、環境に配慮した機械を世界中で売り歩いてるんだ。絶滅が危惧される野性動物の保護団体も運営してて」
純も興味を引かれたようで、身を乗り出して聞き入る。
「親族の中でも異色の存在で、唯一キリスト教を拒絶した。雅紀が…弟が死んだ時も、たった一人心から悼んでくれた。あの傷付き易く繊細な魂を救えなかったのに、何がクリスチャンだ、何が救済だと親父に喰ってかかって………」
純はふっと視線を落として唇を自嘲の形に歪め、
「僕の……叔父さんとは全然違うね」
雅人は何も言わず抱き寄せた。温かな腕の中で純は項垂れて、
「ごめん……まさと………」
「謝らなくていい」
ぴったり合わせた胸の鼓動が同調する。とくん、とくん、と響き合うのを肌で感じていると、張り詰めた神経がゆるゆると和んでゆく。
「雅人ぉ、僕もおじさんに会ってもいいの？」
「ああ、もちろん。あの人も喜ぶと思うよ。ただ……その、友達としての紹介になるけれど………」
純の表情を窺うようにおそるおそる囁く雅人。純は唇を突き出してちゅっと吸い付き、
「じゃあ、こんなことはできないね。だからおじさんが来るまでいっぱい、いっぱいして」
雅人は笑って頷き、濡れた艶を帯びて誘う唇を上から塞いだ。暫し唾液の弾ける音が聞こえていたが、やがて純の湿った喘ぎに変わり、二人はそのまま寝室になだれ込んで、夜遅くまで濃厚な交わりに没頭した。
「いや……これは驚いたな………」
「な、なにがですか？」
待ち合わせをした駅で約２年ぶりに再会した叔父、相楽啓吾（さがら・けいご）は、挨拶もそこそこに目を見開いて雅人を見つめた。
職業はちょっと変わっているものの、外見は洗練されたビジネスマンで、麻のスーツを涼しげに着こなしていた。
「いや、僕のような中年とは違って、この年頃の子は成長が早いのだろうが、それにしてもちょっと見ない間にずい分大人びて………男の色気すら感じるねえ」
「は……いや、あの………」
再会していきなりこんなこと言われれば、誰だって面食らう。啓吾はまじまじと雅人を見詰めて、
「実際、もててもてて仕方ないだろう？ ん？」
「冗談はやめてくださいよ。さあ、行きましょう」
冗談ではないんだけどなあ、と呟きつつ、啓吾は大人しく従った。
「ところで叔父さん、今は何を売り歩いているのですか？」
「ああ、画期的なシステムさ。排泄物から天然のガスを抽出できるというもので―――」
「そ、そうですか……」
雅人は聞かなきゃよかったと後悔した。
「あとでパンフレット見せてあげるよ」
「いや、遠慮しときます。あ、あれです。俺の住んでるアパート」
雅人は紹介しつつ、通りを渡ってエントランスに入った。
「うわ…こりゃまたずい分贅沢な造りだねえ。この螺旋階段」
「ええ。俺も最初来た時には驚きました。無駄に豪華だなあと」
長年管理人の体重を支え続けてきたせいか、みしみし鳴く階段を上って部屋へ。呼び鈴を押し、
「おーい、純。俺だ。開けてくれ」
ぱたぱたと軽やかな足音がして、扉が開けられた。
「雅人、お帰りなさいっ」
僅かの迷いも躊躇も見せず、雅人に飛び付く純。が、その後ろに立つ紳士を見てはっと我に返り、慌てて身体を離した。雅人も思わず乾いた咳を漏らして、
「た、ただいま、純。紹介するよ、俺の叔父、相楽啓吾さんだ」
純はぺこりと頭を下げて、じぃっと見つめる。雅人は脇によけて叔父を中に入れ、
「こちらは秋原純。同じジルアード学院で部屋も隣、しかも昔日本で暮していたこともあって、仲良くしています―――」
雅人は思わず苦笑を漏らす。後でもう一回同じ紹介をしなければならないだろう。
啓吾はぽかんと口を開け、全神経が目に凝結したかのように瞳を輝かせて純に見入っていた。きっと自分も、純に初めて会った時はこんな表情をしていたのだろう。
「さあ、叔父さん、中へどうぞ。あ、靴は脱いでくださいね」
啓吾はかくかくと頷いて、言われるがまま靴を脱いだ。
「迷惑かけるね。ホテルが空き次第連絡が入ることになってるから。そうしたらすぐ移るよ」
「ご心配なく。夜はこいつの部屋に移動しますんで、気を使わずゆっくりしてください」
啓吾は深みのある声で「ありがとう」と返すと、にっこり笑った。そして、人見知りするのかさっきから神妙な表情で黙っている純の気持ちをほぐすため、自分がこれまで世界で体験してきた話を始めた。
シベリアを暖房設備のない列車で３日かけて横断して凍死しそうになった話、壁全体が人骨で埋め尽くされた地下墓地に閉じ込められてしまった話、スペインでマグロ漁船に乗ったら海賊に襲われそうになった話―――
その軽妙にして洒脱な語り口に純もぐいぐい引き込まれ、気がついた時には身を乗り出して話の先を促していた。
「やっぱ叔父さんには敵わねえなあ。こうして話を聞いてるだけで、一年分の社会勉強をさせてもらったような気持ちになる」
「はは、社会勉強だなんて大袈裟な。全部失敗談さ。雅人も純も、こんな大人になっちゃ駄目だぞ」
「なろうと思ったって、そう簡単にはなれませんよ。ところで夕食なんですが、俺が作るものでいいですか？ 俺ら、外食が苦手なんで」
啓吾は嬉しそうに頷いて、
「やあ、雅人の手料理が食べられるんだね。イギリスに来てやっと美味しい食事にありつける。頼むよ」
「そう言われるとヤル気が湧きますねー。任せといてください」
そう言って立ち上がる雅人に合わせて純も腰を上げ、「僕も手伝うー」と。しかし厳しい声で「お前はここにいろ」と言い付けられて、むぅっとふくれつつも大人しく従う。
確かにキッチンは雅人の領域で、自分がいても何の意味もないのは明らかだった。結局、いつも通りヴァンスとじゃれ合いつつも雅人が美味しいご飯を作ってくれるのを待つだけだった。
純は改めて、啓吾の顔をじっと見詰める。
―――雰囲気が、雅人に似てる………
顔立ちは雅人の方が整っていて、精悍な感じがする。しかし周りの人間を包み込むような押し付けがましくない優しさ、温かさはまさに純が愛する雅人の稟質そのものだった。
こうして二人きりでいるのに、気まずさや息苦しさを微塵も感じず寛いでいられるのは、純にとって驚くべきことだった。
「純くんには、お礼を言わなくてはならないね」
「えっ？」
いきなりの発言に驚いて、目をぱちぱちさせて見返す純。その愛らしい仕草に啓吾は思わず目を細める。
「正直、心配だったんだよ。親の反対を押し切ってひとりでこっちに来て、排他的な校風のジルアード学院に入学して……。まさかこんなに生き生きと、元気にやっているなんて嬉しい誤算だ。君のお陰だね、きっと」
「そんな……僕はなにも……。ただ、こうして傍にべったりくっ付いているだけで」
申し訳なさそうに項垂れる純に、啓吾は声を落として静かに語りかける。
「いや、君もきっと、以前の雅人を知っていたら僕の驚きが解るはずだ。親に押さえ付けられ、喘いでいた頃の雅人を―――」
「はい、聞きました。親の言いなりで、弟を見殺しにしてしまった、と」
啓吾は頷いて、言葉を続ける。
「最後に会ったのは雅紀くんの葬儀の時だ。心ない噂や中傷が飛び交う中、彼は何かに耐えるように唇を噛み締めて、雅紀くんの遺影をずっと見詰めていた。口には出さないが、激しく自分を責めていたに違いない。弟の苦しみを知りながら救えなかった自分を……」
「まさと……」
「そんな彼に、僕は何の言葉も掛けられなかった。君のせいじゃないと宥めれば、ますます彼を追い詰めることになっただろう。雅人はたった一人、全てを背負ってその重みに耐えねばならなかったんだ。
だから―――」
「ぅっ………ぅぇっ、ぇっ…………」
純の瞳に大粒の涙が溢れ、ぽろぽろとこぼれ落ちる。啓吾は慌てて立ち上がり、純の隣に腰を下ろして宥めようとする。
「じゅ、純くん、ごめんごめん、泣かないで、ね………」
肩を抱いて慰めようとしたが、ぷるぷる震える肩は余りに繊細で、触れるのに躊躇してしまう。
下手に触ったら壊してしまうかもしれない、と―――
「叔父さん、何か苦手な食べ物ってありましたっけ――――純ッ、どうした、大丈夫かっ？」
キッチンから顔を覗かせた雅人が凄い形相で駆け寄って純の肩を抱き、啓吾を睨み付けた。
「ち、ちがうんだ、いや、僕が悪いことは確かなんだけど……」
額に浮き上がった汗をふきふき、必死の弁明。
「雅人のことを少し喋ったんだよ、そしたら―――」
「俺の…こと……？」
純の顔を覗き込み、頬を伝う涙をそっと指ですくう。
「馬鹿だな……俺のことでそんな泣くんじゃねえよ………」
「でも、でも………っく、ぇっ、ぇっ…………」
啓吾は静かに立ち上がり、「鍋をかけてるんだろ？ 僕が見てくるよ」と言ってキッチンへ向かった。それを確認した雅人は、純の顎に手を掛けて上を向かせる。
「まさと………つらかったでしょ？ 雅人もひとりぼっちだったんだね……」
「昔の…ことだよ。今はお前がいる。お前が傍でにこにこしてくれたらそれだけで―――」
雅人の言葉を受けて、純は涙をこらえて笑おうとした。しかし無理やり拵えた表情は長続きせず、顔の筋肉がひくひくして崩れてしまう。
「ふぇ……にこにこできないよぉ…………」
雅人はたまらずぎゅっと抱き締めて、掠れた声で「ありがとう」と囁く。
キッチンにいる啓吾の存在が半ば忘れ去られていたが、当の啓吾はキッチンで黙々と鍋を揺らしていた。口許に嬉しいような困ったような笑みを浮かべて。
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