Nothing To Lose
＜闘争＞・３７
雅人もアルバートの妻レベッカも、どうすれば純を救い出すことができるか必死に頭を巡らせているアルバートを息を詰めて見守っていた。
しかし、停滞は長く続かなかった。アルバートはがばと立ち上がると、奥の部屋に飛び込んでどこかへ電話を掛けた。
どのくらい経っただろうか、雅人には気の遠くなるくらい長い時間に感じられたが、恐らく１５分程度だったに違いない。部屋から出てきたアルバートは、雅人に向かって親指をくいっと上げて、満足そうに笑ってみせた。そして、
「雅人くん、今日はもう寝なさい。明日、一番の列車でロンドンへ行く。分かったね」
「明日……」
明日、明日で間に合うのだろうか。もしかしたら、この僅かなタイムロスが取り返しのつかない事態を招いてしまうのではなかろうか―――
「焦っちゃだめ。あなたには休息が必要だわ」
雅人の憂慮を察したのか、レベッカがそっと言葉を挟んだ。雅人ははっと息を呑み、彼らしくもないぎこちない動作でのろのろと彼女の方を見る。
「救い出した後、傷付いた彼を癒すのはあなたの役目。なのにそんな打ちひしがれ、消耗を晒していては、逆に彼に心配を掛けてしまうわ。でしょう？ 全速力で走り続けることができる人なんていない。今は気力を養って、明日に備えなさい」
雅人は目を閉じて深く息を吸い込み、彼女の言葉を心身に浸透させた。そして神妙に頷く。
「ありがとうございます。俺は色々なものを見失いかけていました。あなたの仰る通りです。俺には大事な明日がある」
再び目を開けた雅人の黒瞳には、先刻までの焦点を失った荒々しい輝きに代わって、雄々しく真っ直ぐな意志の鼓動が息づいていた。レベッカは嬉しそうに微笑んで、
「ああ、今日初めて会ったのに私には分かるわ。これが本当のあなただ、って」
そして同意を求めるように夫を見つめる。
「そう、サムライはいついかなる時も平常心を失わないものさ」
アルバートは真剣な表情で答えると、雅人を勇気付けるようににぃっと笑ってみせた。
「ぅぅ………………」
雅人は苦悶の呻きを漏らしつつ、身体をゆっくり起こした。時刻は分からない。が、床に入ってから大した時間は経っていないだろう。
「くっ、くくくく…………」
額を押さえ、昏い自嘲で肩を震わせる。明日に備え、何とか眠ろうとしていた自分が可笑しくてならない。
「眠れるわけ……ねえよな………」
疲労の極致にある身体に、柔らかく清潔な寝床。そして神経を優しく慰撫するこの静けさ。安眠を誘う条件は全て揃っていたが、純があの男の手の中にいるという現実の脅威には何の効果もなかった。
今ごろあの男にどんな行為を強いられているか、どんな言葉で絶望を植え込まれているかと思うと、血管という血管、神経という神経が灼き切られそうなほどの激痛に苛まれる。
そう、それは紛れもなく痛みだった。悲しいとか苦しいとか辛いとかそんな感傷的なものではなく、冷や汗を吹き出させ、眩暈を誘発し、吐き気を催させる明瞭な痛み。
雅人は、自分の身体が膿み爛れていくような感覚に襲われた。
「純……純…………」
雅人は肩で息をして痛みに耐えながら純の名を繰り返し、ひたすら夜が明けるのを待った。
雅人にとって生涯で最も長い夜。いや、雅人だけではない。純にとっても長く、苦悩に満ちた夜だった―――
「ぅ…ぁ……ぁ…………」
「どうした？ そんな苦しそうな声を出して。お前は昔からこれが大好きだったろう？」
すでに幾度となくラルフレッドの濁った精を浴びせられていた純の肢体は、ぬめった体液で淫らな艶を帯び、間接照明が作り出す秘密めいた空間の中で妖しいほどの存在感を放っていた。
ラルフレッドも平静を装った言葉で攻めてはいるものの、純の肢体に釘付けとなった眼は異常なまでの輝きを放って、ほとんど瞬きをしていない。今や情欲と狂気がおぞましい結合を果たさんとしていた。
寝台の上で四つん這いの姿勢を強要されている純は、薄い腹をひくひくと蠕動させ、苦しげな中にも快楽への媚びを窺わせる掠れた喘ぎをシーツに染み込ませて、ラルフレッドの視線による陵辱に耐える。
執拗に掻き回され、もはや爛熟の極みにあった蜜壷の奥には異物が埋め込まれ、それがもたらす機械的な振動によって絶え間ない快感の虜囚となった純は、ラルフレッドに向かって尻を振る正真正銘の犬と成り下がっていた。
「ぁ………はぁん……もっと、もっと奥ぅ……………」
「なんだ？ 私に命令する気か？ 欲しいのなら自分でしなさい。手は自由だろう？」
純は思考能力が半ば壊死しかけているのか、暫しそのまま喘ぎをこぼして腰を揺らすばかりだったが、やがてのろのろと腕を伸ばして股間を探り、蕾に自ら指を突き刺して尻の中の異物をさらに奥へ押し込んだ。
「きゃあん、あ、ああっ………イイ、イイッ………………ああぁん………」
途端に喉を反らして腰を上下に振り、甲高い嬌声を上げる。その動きに合わせて、純の奥深くからたぷ、たぷ、と粘度の高い水音が漏れ聞こえた。
「ああッ、イクッ、イクぅ…………」
甘ったるい喘ぎと共に、純はシーツにしがみついて射精を遂げた。とはいえ、先端からぴゅっぴゅっと吹き出した液体は微かに白く濁っているだけ。純の精は疾うに尽き果てていたのだ。
しかし媚薬と性具の効果は絶大で、たった今放ったばかりなのに再びぴくぴくと勃ち上がり始めていた。ラルフレッドは「大したお姫さまだ」と吐き棄てると、純の尻たぶを両手でわし掴みにし、目一杯開いてみせた。
熟して弾け、果汁を滴らせる柘榴の実にも似たその部分は、ピンク色のコードをはみ出させてクチャクチャと喘いでいる。度重なる陵辱の故か、むっちりと腫れ上がった襞に舌を這わせて強くこすり上げると、蠕動が激しくなった。
「ぅぁ……ふぁぁん…………もっといじめて……いじめてぇ…………」
「はは……はははは………そんなに虐めて欲しいのか？ え？」
愉しそうに問い詰めながら、コードを掴んで力任せに引っ張った。するとぐじゅ、という汁音と共にさっき注ぎ込んだ種たちが溢れ、純の内股をだらだらと滑り落ちた。
「ああっ、ん、いやああぁ………奥、奥を掻き回してよぉぉ…………」
ラルフレッドは奥へ戻したり引き抜いたりと暫く愉しんでいたが、さすがに下半身の催促を無視できなくなってきた。
コードを持って完全に引きずり出すと、余韻を味わうかのようにひくひくと悶える蕾に、まさに鬼気迫るといった勢いで勃ち上がった自身を押し込んだ。
「ヒィッ………ぃ…ァ……ァ………ぅぁ…………」
余りの圧迫感、重量感に純は言葉を失い、喉の奥で悲鳴にならない悲鳴を上げる。
「うぅ……すごいなこれは………。純、そんなに嬉しいか、私に犯されて…………」
突き入れた自身をびくびくと締め付ける襞の蠢き、それがもたらす快楽の烈しさに、ラルフレッドは怒りすら覚えた。虐めて虐め抜いて狂わせてやりたいのに、下手をすればこちらが狂ってしまう。余りの快楽に。
「この淫売め………」
ラルフレッドは低い呪詛を吐き出しながらガツガツと奥を穿ち、悦びの痙攣を繰り返す柔肉に包まれながら絶頂を迎えた。
グッ、グッ、と喉を鳴らして放出し、腰を揺らして最後の一滴まで注ぎ込むと、そのまま純の背中に覆いかぶさって耳許で囁いた。
「純、愛しているよ。何があっても、お前は私だけのものだ。それを忘れるな………」
これは、目の前で犯されているという極限の状態の中、雅人が純に捧げた誓いの言葉。それをラルフレッドはそっくりそのまま真似て、純に叩き付けたのだ。
「ぅ……ぅぁ………ぁぁぁぁ……………」
「どうした？ 純。何を泣いているのだ。さっきまではあんなに気持ち良さそうに、行為を愉しんでいたではないか」
この余りに残酷な仕打ちに、ぎりぎりのバランスを保っていた純の心は―――
「ぁぁぁぁ…………」
―――脆くも砕け散った。
翌朝、ようやく空が白み始めた頃、雅人とアルバートはすでに駅のホームにいた。無言のまま列車に乗り込み、席に腰を落ち着ける。
「ロンドンに着くまで眠っているといい。ゆうべは眠れていないのだろう？」
アルバートの言葉に、雅人は素直に頷いた。微細な血管が走った昏い瞳、額を覆う翳、そして何より、身体から発せられる痛々しいほど尖った気が、心身ともきりきりに張り詰めた今の状態を如実に表していた。
「休息して気力を養うべきだという、奥様のご忠告は尤もだと思ったのですが……できませんでした。自己統御できるほど、俺は大人ではありません」
「君だけじゃないさ。ゆうべは僕も彼女も眠れなかった。言うは易し、行うは難し、さ」
雅人は薄く笑って頷くと、窓の外を流れる牧歌的な風景を目で追い続けた。眠気は一向に訪れず、ロンドンに近付いているという意識が余計に神経を昂ぶらせたが、視界を覆う緑や草を食む羊たちは僅かな慰めになった。
アルバートにどんな勝算があるのか、雅人は何も聞いていない。自分が知っていた方がいいのであれば率先して話してくれるだろうし、何も言わないということは、知らない方がことが円滑に運ぶという考えだからだろう。
気にならないと言えば嘘になるが、雅人は自制心を発揮して何も問わず、黙ってアルバートに従った。
そしてそんな雅人に、アルバートは深い畏敬の念を抱かずにはいられなかった。余計な詮索はせず、興奮したり騒いだりもせず、その時に備えてじっと気力を溜め込む。
見境なくキャンキャン吠えたてる小型犬のような若者が多い中、強い意志力に裏打ちされたこの静けさは、アルバートの心を揺さぶった。そして改めて固く誓う。何があっても、彼の許に純を返さねばならないと。
二人の強い想いを乗せたまま、列車は１時間半後に終着駅に着いた。ホームに降りたアルバートは誰かを探しているようだったが、それはすぐに見つかった。
夢見がちな少女のように儚く愛らしい容姿。しかしそのジェード・グリーンの瞳には、凛乎たる意志とプライドが息づいている。
彼女はアルバートに近付くと、握手する間も惜しんで「さあ、参りましょう」と促した。そして駅の外に待たせてあった車に乗り込む。行き先は言うまでもない。あのホテルである。
「休暇中にわざわざお出でいただいて、恐れ入ります」
「とんでもありませんわ。寧ろ感謝しています。私を頼りにしてくださって。それで、彼が―――」
向かい合わせの席に座った雅人をじっと見つめる。雅人も目を逸らさず、苦悩と不安を抑え込んだ強い眼差しを返した。
「そうです。純の学友で相楽雅人くんと言います。日本からの留学生で―――」
婦人はちらと肩を竦めて、少し冷ややかに遮った。
「アルバート先生、そういう紹介の仕方はいけません。彼に失礼です。恋人なのに友人だなんて」
「いや……そ、それは………」
「もし私に配慮した上での言葉だというのなら、その思い遣りは彼に向けてあげてください。大事な恋人を暴力的な手段で奪われたのですよ」
雅人は奥歯を噛み締めて、鳩尾を抉る痛みに耐えた。婦人は一瞬、痛ましげに目を細めたが、すぐに甘い感傷を払って毅然たる表情に戻った。
アルバートは率直に詫びた。
「失礼いたしました。しかしよくお分かりになりましたね」
「殿方たちは、女の直感力というものを軽視しすぎなのです。彼の瞳に閉じ込められた苦悩の深さに気付けないような女には、恋をする資格はありませんわ」
婦人は「それはさておき」と言葉を繋げて、
「私のことは彼に話してあるのですか？」
「いいえ、まだ何も。僕の口を介すより、ご自身から説明いただいた方が好ましいと考えましたので」
「そう……分かりました」
座席に浅く座り直して、雅人により身体を近づける。そして高貴な、としか形容しようのない微笑みを送った。
「改めて自己紹介しますね。私はキャロライン・バーリントン。バーリントン公爵の妻です。きっとあなたにとっては爵位なんてどうでもいい、貴族階級なんて寧ろ軽侮すべきものに違いありません。そのお気持ちは解ります。でも今はこれこそが必要なの。だからどうか我慢して、私を頼ってください」
この言葉で雅人は多くを理解した。一般庶民は足を踏み入れることのできないあのホテルに近付くには、彼女の力、階級の力が必要なのだ。
雅人は丁寧に頭を下げて、
「どうか力をお貸しください。俺はこれまで、自分一人の力で純を守り抜こうと必死でした。でもそれは……今になって思えば、子供じみた所有欲の裏面であったと認めざるを得ません。他者を排して、この腕の中だけに閉じ込めて………その結果がこの有様です」
膝の上で固く握り締めた拳をじっと見つめ、雅人は血を吐く思いで自らの過ちを告白した。
「誰も信じない、誰にも頼らない。二人きりで外の世界を遮断し、ただ互いの存在だけを拠り所にする―――その閉じた世界の心地よさ、安易なヒロイズムに浸りきって、俺は………俺は………」
「雅人、自分を責めるのはおやめなさい。それは純も望んではいないわ。それに、あなたのしたことは間違っていなかったと私は思います。あなたが与えてくれた閉じた世界の中で、彼は初めて愛されることを知ったに違いないのだから。よくお聞きなさい」
公爵夫人は手を伸ばして、雅人の震える拳をそっと包み込んだ。言葉だけでなく、温もりからも想いが伝わるように。
「私がこれからやろうとしていることは、あなたにはできない。でも、取り戻した彼を愛情で潤して笑顔を蘇らせることは、あなたにしかできないのですよ。俯いてはなりません。強くなりなさい」
雅人はゆっくり顔を上げて、純粋な驚きをそのまま口にした。
「貴女は一体……。何故それほどまでに―――」
公爵夫人は頷いて、雅人の手をそっと離した。そして思い出を透かし見るように目を細めて微笑むと、
「簡単な昔話をいたしましょうか。と言っても私はね、あの子に、純に会ったのはたった一度きりなの。あの………グレイフィールド・ハウスで」
「グレイフィールド・ハウスで………」
額を曇らせて、その忌々しい名をなぞる雅人。夫人も同様に険しい表情で頷きを返し、
「あの屋敷であの子がどんな扱いを受けてきたかはご存知ね。私はね、それを目の当たりにしたの。たった一度だったけれど、それは余りに強烈な光景だった。継母の気に障るまいと、呼吸をするにも細心の注意を払って怯える純。そんな彼を憎悪に撓んだ眼差しで監視するアグネス―――」
雅人は思わず顔を背けた。彼女のようにその場面を見たわけでもないのに、肩をすぼめて震える純の姿がありありと浮かんでくる。きっとその頃から純は、自分の存在に罪悪感を抱いていたに違いない。
継母の顔色を窺いながら、小さく小さくちぢこまって、いっそこのまま滅えてなくなってしまえばいい、と。
「なのにあの子は決してひねくれておらず、優しく素直な、そしてとても美しい子供だった。私はどうしても彼のことが忘れられず、その後も幾度か一人であの屋敷を訪ねました。そしてそのたびに純を呼んで下さいと懇願したけれど、会わせてもらうことは結局できませんでした」
「もし、貴女に会えていたら……純の中で何かが変わっていたかもしれないのに………」
雅人の呟きを肯定も否定もせず、ただ淋しそうな笑みを漂わせて、
「それから何年後かしら、私の息子の家庭教師をこちらのアルバート先生にお願いすることになったの。少し前までグレイフィールド・ハウスに勤めていたと耳にして、早速純のことを訊ねてみました」
アルバートは強張った顔のまま、小さく頷いた。
「初めは、訊いても余り答えてくれませんでした。私は、ただの好奇心からではないこと、以前あの子に会って強い印象を受けたことなどを懇々と説明して、そしてようやく聞き出すことができたの」
「僕はあの頃、精神的に不安定な状態で、誰かに話を聞いてもらうことが必要だった。かといって、街のカウンセラーやセラピストはどうも信用できない。悩んだ挙句、夫人に打ち明けたんだ。そう、今の妻も夫人の紹介なんだよ」
雅人はアルバートをじっと見つめた。恐らくこの人も、自分を責めたに違いない。純を守りきることができなかったと。
内へ向かう刃の鋭さ、それがもたらす激しい疼痛を、この人も知っているのだ。
「聞き終わった後の率直な感想はね、聞かなければよかったというものでした。余りの……現実に言葉もなかった。
いけないと知りながら、先生を責めたこともありました。何故もっと身体を張って助けようとしなかったの、と。でもそれは全て、部外者の生温い戯言。そう言う私は、何もしてあげられなかったのですから。しかし―――」
バーリントン公爵夫人は、すっと背筋を伸ばした。その瞬間、車内に漂う空気の肌理が引き締まった。雅人も思わず、四肢に力をこめる。
「それは全て過去のこと。今は違う」
車が停まった。窓から外を見れば、微かに見覚えのある外観。公爵夫人は運転手がドアを開けるより先に自分で開けて車を降り、二人を促した。
「さあ行きましょう。そして、檻など疾うに壊れていることを、あの男に思い知らせるのです」
３人は正面玄関から堂々と中へ入っていった。
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