Nothing To Lose
＜闘争＞・３６
扉には、外から鍵が掛けられている。部屋の外には見張りの男もいるだろう。窓から見える景色から察するに、ここは恐らく３階か４階。大して広くはない中庭に面しているようだ。
どうやらここは、特定階級の顧客のみを相手にするホテルらしい。バカンスのシーズンだというのに、街の喧噪からは隔絶された僧院のような静寂の中にあった。
きっと純もどこかの部屋で、このどす黒い陰翳を帯びた静寂に必死で耐えているに違いない―――
「ぅ……っ………」
身体的なものか心神のものか判らぬ痛みに襲われて、雅人は低く呻く。駄目だ駄目だ、今は、今だけは純のことを忘れるんだ。
この与えられた部屋の中で大人しくして体力の回復を待つ。自分が為すべきことをひとつひとつ克服してようやく、純を救い出すという目的を達成できるのだから。
雅人は、ここに連れてこられた時のことを嗤笑と共に思い出す。また暴れ出すのではと警戒されていたのか、手枷を嵌められたまま黒服の男たちに抱えられてきたのだ。
―――そんな無駄な体力使うかよ
雅人はどんな屈辱的な扱いにも黙って耐えて言うなりになった。大人しくしていたのが良かったのか、部屋の中では手枷を外され、たっぷりの食事と傷口に塗る薬を与えられた。
食欲などあるはずもなかったが、無理やり口に詰め込んで呑み込み、自分で傷の手当てをしてじっと横たわった。そして、夜が訪れるのを待った。
「おい、あの坊やはどうしてる？」
「ああ、大人しくしてるぜ。寝てるんじゃねえの？ 飯もきれいに食っちまったし」
「ははっ、飯食っておねんねか。所詮ガキだな。見張りなんて必要ないだろ」
「一応ランカスター卿の命令だからな。いいじゃねえか。楽な仕事だろ」
廊下で交わされている会話を扉越しに聞き取って、雅人は今なら大丈夫だと決意を固めた。
そして男が挨拶を残して去り、見張りが一人になったのを耳で確認すると、扉を弱々しく叩いて
「すみません……あの、鎮痛剤をもらえませんか？」
「ああ？ 薬箱の中にねえのかよ」
「あるとは思うのですが、どれが鎮痛剤だかよく分からなくて……」
男は「面倒くせえなあ」とぶつぶつ言いながらも、扉を開けて部屋の中に入ってきた。
「俺が見るから薬箱を寄越せ」
「はい、すみません」
雅人は肩をすぼめて、大人しく薬箱を手渡す。男は蓋を開けて中を覗き込み、手を突っ込んでがさがさと探し始めた。
その隙に雅人は半歩後ろへ退がり、マントルピースの上に飾ってある真鍮製の燭台を手に取った。そしてためらうことなく、それを男の後頭部目がけて振り下ろす。
低く呻いて床に突っ伏した男の足と口を、予め破いておいたシーツで固く縛り上げると、雅人は振り返ることなく部屋を出た。足音をたてず、慎重に辺りの気配を窺いながら出口を目指す。
廊下に面した扉、この向こうにもしかしたら純がいるかもしれない―――雅人はぎりぎりと唇を噛んだ。この扉をひとつひとつ開け放って純を探したい、救い出したいという突き上げるような欲求を必死に抑えて、全ての扉を素通りした。
必ず助けに来るからな―――言葉を突き抜けて直接心に届くほどの強い呼びかけを、胸の裡で繰り返しながら。
「純、王子様は逃げ出したぞ。残念だったな」
大きな枕に沈んだ華奢な身体に覆いかぶさり、耳許でねっとりと囁く。純は天井に向けられたままの虚ろな瞳を僅かに動かして、ラルフレッドを見やった。
「あの男は、お前を置き去りにして自分だけ逃げた。見張りの男を背後から殴り倒してな。全く、大した王子様だ」
「………かった」
ラルフレッドに幾度も吸われたせいで紅く充血して今にも蕩けそうな純の唇が、微かに震えた。
ついに雅人からも見捨てられた純の絶望の呟きを味わおうと、ラルフレッドは耳を澄ませて「何だ？」と聞き返す。
「よかった………」
力ない声ながらもはっきりそう呟いて、純は秘めやかに微笑んだ。その瞬間だけ、生気の抜け落ちた双眸に輝きが灯った。
ラルフレッドは鼻に皺を寄せ、音をたてて歯噛みする。
―――それでいいの。雅人………もう、僕のことは忘れて………こんな汚い世界に……雅人はいちゃいけない………
「………離れていても想いは通じるはず、か？ 面白い。その虚勢がいつまで続くか……」
ラルフレッドは薄い毛布をめくり、純の裸身を露わにした。そこかしこに捺された劣情の刻印でさえ、芸術的な彩りを帯びてしまう天上の造形を視線で犯す。この涜聖の悦びこそが、選ばれた者の快楽なのだ。
「可愛い天使……さあ、夜はこれからだ。ここでたっぷり楽しんだ後は、二人でニューヨークへ向かう。分かったな？」
ラルフレッドは答えなど待たず、純の唇に喰らいついて舐め回すと、脚をＭ字に広げてその中心に顔をうずめた。そしてクチュクチュと音をたてて、度重なる陵辱で赤く腫れ上がった花びらを執拗に吸い上げる。
「ああ………」
純はほとんど条件反射的に喘ぎを漏らす。しかし紫色の瞳は、悲しみも怒りも嘆きも怯えも官能も、あらゆる感情の揺らぎを拒絶して微動だにしない。
そこにあるのは紫色の虚ろ、否、紫色の深淵だった。何も映さない、何も見ない。
「あ……う……ぅ…………」
硬く反り返ったラルフレッドが侵入してきた瞬間、純の目尻から涙がひと筋伝った。それは、生涯でたった一人、本当に愛した人へ送る、惜別の涙だった。
アパートのエントランスが見えた時、雅人の心を支配したのは喜びでも安堵感でもなく、胸をぎりぎりと締め上げる自責の念だった。
何故俺はここに一人で帰ってきたんだ、何故純も一緒ではないのだ、何故一人残してきたんだ、何故、何故、なぜ―――
「くっそおおおおぉぉぉ……………」
無人のアパートに響き渡る声で自分へ向けた呪詛を吐き、冷たい壁に拳を打ち付ける。しかし疾うに限界を超えていた身体は正直で、雅人はその場にがっくりと膝を突いた。
「ぅっ……純、待ってろよ、今……すぐ………」
肩で息をしながら立ち上がり、手摺りに掴まって螺旋階段を上る。すると、部屋の中からか細い悲鳴のような遠吠えが聞こえた。
「ヴァンス……ごめんな。だらしない飼い主で」
雅人は鍵を開けて部屋に入り、電気を点けた。普段なら短い尻尾を千切れんばかりに振って出迎えてくれるのに、奥からとことこと現れたヴァンスは尻尾を垂らして鼻をひくひくさせ、哀しみを訴えるような眼差しで雅人を見上げた。
雅人は手を伸ばして抱き上げ、
「腹減ったんだろ？ 今やるからな」
買い置きのドッグフードを皿にたっぷり盛って差し出す。ヴァンスはくんくんと嗅いで２、３度口を付けたものの、すぐにふいと顔を背けて雅人をじっと見上げた。
「分かってる……分かってるよ…………。お前が欲しいのは、純の温もりなんだろ……？」
雅人はヴァンスの傍に膝を突き、その頭をそっと撫でる。「くぅ…ん」と切ない声で同意すると、ヴァンスは短い足をばたつかせてソファに上り、脱いだまま放置してあった純のシャツにくるまって身体を丸めた。
「俺だって………同じだ…………」
そのままの姿勢でぴくりとも動かぬヴァンスの背中に、雅人はどうにもならない想いを、本音を打ち明ける。他には何も要らない、腕の１本ぐらいくれてやっても良かった、ただ、ただ………
「純……純………」
虚ろな呟きを漏らしながら、部屋をぐるりと見渡す。純のいない夜の空間はぞっとするほど冷たくよそよそしく、見慣れた光景、住み慣れた部屋の真ん中で雅人は自分の居場所を見失う。
「お前さえ……いてくれたら…………」
床にぽつぽつと落ちる透明の雫を、雅人は力を入れて忌々しげに拭き取った。こんな所でひとり、感傷に浸ってめそめそしている暇はない。
いったん安全な場所に戻ってきたのは、こうして純への想いを反芻するためではないのだ。雅人は感傷を排して理性を叩き起こした。
時間がないことは分かっていた。急がねばならない。あの男は恐らく、純をニューヨークへ連れて行くつもりだ。もしそんなことになったら、今度こそ確実に純は壊れてしまう。あの男の歪んだ世界で美しく虚ろな天使を演じる、ただの人形になってしまう。しかし―――
「どうすればいい……」
早く行動を起こさねばと気ばかり焦って、頭の方は空回りしてしまう。警察、あるいは公の相談所に飛び込んだところで、まともに相手をしてもらえないのは目に見えていた。
純が監禁され、自分が何とか逃げ出してきたあのホテルは、上流階級の会員しか宿泊できない特別な場所なのだろう。そういった特権階級の縄張に、公的な権力が積極的に介入するとは思えない。ここはイギリスなのだ。
ならば力づくでと今にも部屋を飛び出しそうになるが、自分一人ではどうしようもない。また掴まって、純を苦しめるための道具として使われるのが落ちだ。力を貸してくれる味方が必要だ。だが、
「味方なんて………いねえよ」
雅人は自嘲を込めて呟く。そう、いつだったか純が話していた。自分は幼い頃からずっと、「お前の周りに確かなものなどない、味方などいない」と言われ続けたきた。そのたびに、自分を取り囲む闇が深まってゆくような根源的な恐怖に襲われた、と。
純を苦しめた檻、＜グレイフィールド・ハウス＞。あの再現だけは何としても阻止しなければ―――
「あっ」
雅人は声を上げると同時に立ち上がった。ヴァンスも驚いて顔を上げ、じっと雅人を見つめる。
「そうだ、確か住所はまだ取ってあると………」
雅人は純の部屋へ移動して机の周辺を漁り、薄い手帳を探し出した。ぱらぱらとめくると、目当ての住所はちゃんと載っていた。
すぐに自室へ引き返し、血で汚れた服を着替えてあるだけの現金を引っ掴み、ヴァンスに留守を頼んで部屋を飛び出した。
―――この時間なら、まだまだ列車はあるはずだ
雅人は怪我の痛みも忘れて、駅に向かってひたすら走った。
玄関のノッカーがコツ、コツ、と鳴って、二人は顔を見合わせた。こんな時間に一体誰が……という共通の呟きを喉の奥にしまって、「僕が出るよ」とアルバートが立ち上がった。
自分たちは夜型人間だからまだ起きてはいるけれど、近隣の家々はすでに闇に包まれて夢の中だった。こんな時間に訪ねてくるような、都会的な習慣はないはずだけど……
「どちら様ですか？」
「夜分遅くに申し訳ありません。俺は、あなたが以前家庭教師をしていた秋原純の……友人で、相楽雅人と言います」
「純……の………」
アルバートの脳裡に、紫色の瞳を持ち、知的で向学心旺盛な、美しい少年の面影が鮮やかに蘇った。最後まで守り抜けなかったという苦い悔恨も一緒に。
「秋原純を、覚えておられますか？ ４年ほど前、グレイフィールド・ハウスと呼ばれた屋敷で―――」
訪問者の言葉が終わらぬうちに、アルバートは扉を開けた。そしてにっこりと笑い、
「もちろん覚えているよ。忘れるものか」
扉の向こうにいた黒髪黒瞳の、妖しくも美しい若者を中に招き入れた。
「さあ、これを飲みなさい。慌てず、ゆっくり……」
甘くてほろ苦いアイリッシュコーヒーを言い付け通りゆっくり口に含んで、喉を潤す。雅人はほぅ、と息をついて顔を上げ、労わるような眼差しで自分を見守ってくれている二人を見つめ返した。
アルバート・オブライエン。生き地獄にも等しい無慈悲な檻の中で、果敢に純を守ろうとしてくれた人。時に優しく時に厳しく、誇り高き知の先導者として純を教え導いてくれた人。
そしてその隣には、少女のような風貌の中に自立した知性を感じさせる、美しい女性が寄り添っていた。恐らくアルバートの妻であろう。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。
「落ち着いたかい？」
「はい……改めて、こんな時間に申し訳ありませんでした………」
アルバートは淡い笑みを浮かべて首を振り、「驚いただろう？ 近隣の家がみんな真っ暗で」と言って肩を竦めてみせた。
「私たちは夜型人間なの。この時間のお客さまは大歓迎よ」
彼女もそう言って優しく笑い、お腹をそっと撫でた。
「ほら、この子も喜んでるわ」
できることなら、雅人も微笑みを返したかった。しかし湧き上がる罪悪感、その重みに耐え切れず、がっくりと項垂れるしかできなかった。
自分は何てことをしてしまったのだろう。こんなに平和で幸せな人たちを巻き込もうだなんて。
この温かな日常の風景を目の前にして、雅人は今自分が対峙している世界がどれほど腐敗し歪んでいるかを思い知らされた。
この人を引きずり込んではならない。僅かな可能性に賭けて、自分一人の力で何とかしよう。雅人は自分に言い聞かせて、小さく頷いた。
「ありがとうございます………あなたにお会いできて嬉しかった。純も、あなたにとても感謝しています………」
立ち上がって礼を述べる雅人を、アルバートは無言で見詰める。
「俺は……これで帰ります。突然お邪魔した上、何も言わず帰る非礼をお許しください」
雅人は深く一礼すると、二人に背中を向けて去ろうとした。が、
「待ちなさい。君は、僕に助けを求めに来たのだろう？」
「…………」
「話してくれ。僕は、あの子を救ってやることができなかった。僕の初めての教え子、あの優しく繊細で、美しい魂を持った子が苦しめられ穢されるのを………黙って見ているしかできなかった………」
その呼びかけに促されて、雅人は振り向いた。その表情には、見る者の胸を締め付けるほどに深い苦悩の痕が刻まれていた。
アルバートもその妻も思わず息を呑む。ああ、彼は一体何を、どんな修羅を見てきたというのだろうか―――
「雅人くんと言ったね。話してくれ。純のことは妻にも話してある。純を見捨てる形で家庭教師を辞めた後、罪悪感に潰されて壊れそうになっていた僕を救ってくれたのが彼女なんだ。だから……」
雅人は迷った挙句口を開いた。妊娠している女性に余り刺激を与えないよう、慎重に言葉を選んで訥々と語った。
しかし内容まで穏当に変えることはできない。その余りの内容に、全てを聞き終えたアルバートは両手で顔を覆い、「何てことだ…」と苦しげに喘いだ。
対して妻の方は、泣くのをこらえようとしているのかきゅっと唇を噛み締めて、雅人の言葉をひとつも聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
「お願いです、力を貸してくださいとは言いません。知恵を貸してください。俺は何でもやります。純をあの檻から解放するためだったら、どうなろうと構わない。覚悟はできています」
アルバートはゆっくりと顔を上げ、その真摯な訴え以上に力のこもった黒い瞳を正面から見据えた。そして深く包み込むような声で
「君は……純を愛しているのかい？」
「え………」
雅人は虚を衝かれたように硬直して、宙を凝視した。こんな風に、面と向かって質されるのは初めてだったのだ。やがて唇だけでなく、身体中を震わせて、
「愛して……愛してる………俺は……あいつを…………」
自分の中では敢えて問うまでもない、余りにも当たり前のことだった。けれど今、改めて問われたことによって自分がどれだけ純を愛し、純を求めているか嫌というほど思い知らされたのだ。
「愛してる………純………俺の……俺だけの………なのに、なのにっ………………ちくしょぉぉぉぉ…………」
項垂れたまま自分の膝を幾度も幾度も叩いては、純への想いを吐き出す雅人を、アルバートはただ黙って抱き締めた。
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