＜熱情＞・３０
「風が気持ちいいね、ヴァンス」
二本足で立って窓枠に手を掛け、外を眺めていたヴァンスは、純の呼びかけに応えるように「くぅん…」と鼻を鳴らした。その頭をそっと撫でて、
「ごめんね、外に出たいよね……」
雅人とヴァンスと一緒に自転車に乗って公園に出かけ、はしゃぎ回ったのはいつだったろうか。もうずい分昔のことに思える。
しかし今は、ついに正体を現したラルフレッドから身を守るため、公園はもちろん、この部屋から一歩も出られない状態にあった。
「純も、外に出たいんだろ？」
ふと気付くと、後ろに雅人が立って苦しげにこちらを見ていた。純が答えるより早く、すっと目を逸らして力ない声で、
「ごめんな、こんな……守り方しかできなくて。俺がもっと強くなれれば――」
「そ、そんなことないっ」
純は叫ぶと同時に窓辺から離れ、雅人にすがり付き、
「僕は、外になんか行きたくない。雅人が…雅人がいてくれればいいの」
「純……」
「本当だよ。こうして―――」
純は雅人の両手を取り、自分の腰に回してぎゅっと密着させた。
「―――抱き締めてくれれば、ここが僕の“場所”になるのだから」
雅人は愛しさをそのまま表情に表わして腕に力を込め、
「俺の“場所”は―――」
純のお尻に指を伸ばして、その谷間をすっとなぞり、
「ここ、この奥だな」
純は弾かれたように身体を離して頬を紅潮させ、
「もおっ、雅人のえっち、エロおやじ！」
「ひでー。傷付く」
「だってホントだもん。エロ、エロおやじッ」
ヴァンスは溜め息をつくと、とことこと歩いて隣の部屋に移動した。犬も喰わない、ということだろう。
二人の愉しげな言い争いはじゃれ合いに変わり、そして最後は熱い抱擁に昇華されていった。
―――夜。夜はもう、純にとって残酷なものでも、忌むべきものでもなくなっていた。それは熱く狂おしいもの。剥き出しの情念と波濤の如き快楽に呑まれ、涙と喘ぎに溺れ、愛しい腕の中で果てる、ただそのためだけに夜はあった。
「んあっ、あっ、まさとぉ………おねがぁい、もう、イカせてぇ…………」
「まだ……だめだ。もっとお前を………味わいたい……………」
決定的なポイントをわざと避けて、浅く小刻みに抜き差しする。丹念に蕩かされた花びらはひくひくと悶えて、自分を犯す雄の象徴をもっと奥へ誘い込もうとするが、雅人は絶妙のタイミングで止めて引き抜いてしまう。
純はシーツにしがみつき、激しい羞恥に身を灼かれつつも、腰を振って深い注挿を求めずにはいられなかった。
「ああ……もっと、もっと………ふかく、突いてぇ…………」
とろんとした危うい眼差しを向け、白く滑らかな腹を波打たせて腰を跳ね上げる。その動きに合わせて、押し広げられた秘孔はクチャクチャと濡れた喘ぎをこぼしつつ雅人の陰茎を呑み込んだ。
「くっ……ぅ………もう少し…手加減してくれ……………」
しかし雅人の懇願が聞こえているのかいないのか、純は媚態を振りまいて深い交接をねだる。雅人は小さく首を振って“降参”の意を表すと、純の脚を抱え直して本格的な注挿の体勢に入った。
その瞬間、雅人の表情も一変する。愛しさに甘く緩んでいた頬や目尻はぎりぎりと険しく吊り上がり、本能的な飢えを剥き出しにした眼差しで蕩ける肢体を凝視した。
「いくぞ」と低く宣告した次の瞬間、グプッと生々しい音をたてて奥まで貫き、同じ勢いで引き抜く。そしてまた突き刺し、引きずり出す。
余りの激しさに、純の意識はハレーションを起こしかけた。しかし何とか踏みとどまり、四肢をびくびくと痙攣されて快感の大きさを伝える。
「ひぃッ………ぃぁ………ぁっ、ァ……ァ…………」
すでに言葉であることを放棄した喘ぎをとろとろとこぼし、雅人の劣情を全身で受け止める。熟れきった花びらは今やぐちゃぐちゃにもつれ、絡み合い、雅人の動きに翻弄されるばかりだった。
「ああっ、ああっ、うあッ、あ…………きゃあああああーーーーーッ」
「ぐっ……ぅぅっ……………」
喉を鳴らしつつの射精は、叩き付けるという表現が最も相応しいほどの勢いだった。広げた脚を押さえ付けて、腰を振りながら奥へじっくりと注ぎ込む。滾る情熱を、全身へ行き渡らせるかのように。
「……ぁ……ぁ…………」
純ももちろん、悲鳴と共に白濁をまき散らしていた。胸や首に、自身が吐き出した濃厚な液体が掛かってぬめぬめと光っている。
「んぁ…………あぁ、ん」
気が付けば、雅人が舌を這わせて丁寧に舐め取っている。恥ずかしさと嬉しさでどうしてよいか分からず、純はただぼぅっと雅人の動きを追っていた。
「ぜんぶ………舐めちゃったの？」
「もちろん」
雅人は顔を上げると、指先で純の目尻を拭った。そして付着した涙の雫を苦しそうに眺めて、
「たまに……思うんだ。俺はお前に酷いことをしているんじゃないかと」
「まさ……と？」
涙の雫を吸い取って、微かに湿った純の髪を優しく撫でる。突然の告白に戸惑う純に、雅人は胸の裡を明かした。
「セックスの最中、お前は涙をこぼして喘いで、必死に俺にしがみついてくる……。される方が身体の負担は大きいと分かってはいるし、この次からは抑えようと自分に言い聞かせても、その時になると………ごめんな」
純は黙って耳を傾けていたが、両腕を雅人の首に巻き付けてそっと身体を起こし、唇に自分のそれを重ねた。そしてふわりと微笑むと、
「言った……はずだよ。雅人に抱かれている時、僕がどれほどの幸せを感じているか。これまでは暴力と虐待のひとつでしかなかったセックスに、こんな悦びがあったなんて。そんな幸せをくれている雅人が罪悪感に苦しんでるなんて悲しいよ………」
「純………」
純の背中に腕を回して抱き起こし、二人は寝台の上で身も蕩けるほどの熱く固い抱擁を交わした。
「もっと、もっと愛して………壊しちゃってもいいから…………」
ほとんど喘ぐように囁く純を、雅人は優しく窘める。
「こら。壊していいわけないだろ。大事に、大事に愛してやるから、な……」
その言葉を実行するかのように、ふわふわのペニスに指を絡めて慈しむ。
「はぁ……ん………もっと……さわって…………」
腰を揺らしておねだりする純にちゅっとキスを落とすと、再び押し倒して脚を広げ、その中央でぷるぷると震える半勃ちの花芯を口に含んだ。
「あっ、あぁん………まさと、やだぁ………だめ………そんなの………」
しかし、先端を舌先でつつかれたり、強く吸い上げられたりするうちに、拒絶の言葉は消え失せて甘く湿った吐息だけが唇からこぼれるようになった。
それは徐々に嬌声へと高まり、涙混じりの啜り泣きへ変じる。純が雅人の口内に熱い甘露を放つのは、それからほんの数秒後のことだった―――
激しい交わりの後、身も心も心地よい倦怠の海に沈み込みながら、猶も身体は互いを求める。四肢を絡ませ、胸と胸をぴったり付けて、僅かな隙間も許さないとばかりに密着して微睡む。
すると、合わせた胸から心臓の鼓動がじかに伝わってきて、不思議な感覚に襲われた。まるで、二つの心臓が同調するかのような。自分の体内から、相手の心音が響いてくるかのような。幸せな錯覚。
「ん…ふ………っ、まさ…と………」
「純、もうちょっと寝てろ……」
甘い吐息と共にゆるゆる目を開けた純は、くすぐったそうに微笑んで、雅人の首筋にちゅっとキスを贈る。おはよう、の挨拶代わり。
雅人もお返しにまぶたをついばんで、耳許で「ゆうべはごちそうさま」と囁く。純はほんのり紅くなりながらも「こちらこそ」と返して、
「美味しかった？」
「ああ、この世にあんな旨いものがあるとは。素材が良すぎて、さすがの天才料理人も振り回されてしまった」
「嘘だあ。おいしく料理されちゃったもん」
睦言を囁き合いながらも、絡めた四肢をこすり合わせて互いの温もりを味わう。寝起きの時よりも、確実に体温は上昇していた。
「腹減っただろ？ 今なにか作ってくる―――」
ゆっくり身体を起こした雅人の腕をきゅっと掴み、ほんの少しむくれた表情で、
「や、いらない。もう少しここにいて」
雅人は内心の嬉しさを溜め息で隠して、
「お前は………どうなっても知らねえぞ」
再び純の上に覆いかぶさり、柔らかな身体を抱き締めた。
「んん………雅人のからだ、きもちいい………」
舌足らずな感想には無邪気さと艶めかしさが併存していて、愛しさの余り抱く腕に力がこもる。すると純はちょっと眉をしかめて、「雅人、くるしいよぉ」と甘えるように訴えた。
「悪い悪い」
雅人は力を抜いて純の身体を解放し、おでこや鼻の頭にいくつもキスを落とした。純はその柔らかな感触にうっとりと酔い惑いながら、雅人の目尻をそっとなぞり、
「雅人の瞳……キレイ…………曇りのない黒、艶やかな光沢………」
「そ、そうかぁ？ うーん………」
綺麗、などという評価に慣れていない雅人は、今いち納得のいかない風にうなる。純はいたずらっぽく笑って、
「下級生からは黒耀石のアドニス、って呼ばれてるんだよ。知らなかった？」
「うわっ、それやめてくれ。こっぱずかしいから」
純はくす、と笑って再び雅人の目に指を伸ばし、
「黒い瞳、羨ましい………」
「何言ってんだ。お前の深い紫の瞳、すごく綺麗だ。吸い込まれそうなくらい……」
そう言って、月並みな表現だけどな、と少し恥ずかしそうに付け加える。しかし純は哀しげに首を振り、
「紫色の眼は、昔から悪魔の象徴、忌まわしき邪眼と伝えられてきたんだよ。見つめられるだけで魂が穢れる、と………」
「純……」
純はふっと目を逸らし、
「だから、紫なんて大嫌い。僕も、雅人みたいに黒い瞳が良かった」
「それは、ちょっと違うな」
明るい声で否定する雅人。純は思わず顔を上げて、逸らした視線を雅人に戻した。
「何が？」
「紫ってのは、仏教では崇高な色とされているんだ。紫衣といって、紫色の袈裟や法衣は、徳の高い僧侶しかまとうことが許されない」
「ほんと？」
雅人は重々しく頷いて、続ける。
「それに、紫水晶には心の病を癒す力や、悪夢を払う力があると信じられていた。あるキリスト教神秘主義の団体では、紫水晶を愛、真理、希望の象徴としている」
雅人はにっこり笑い、
「ある特定の文化、地域においては邪悪なものとされていても、違う場所では神聖なものとして敬愛されているという例はいくらでもある。だから、一面だけを見て断定するのは間違ってると思うぞ」
純は素直に頷いた。自分は、幼い頃刷り込まれた価値観を、そのまま無批判に信じてきてしまったのだ。
「それに、お前の紫の瞳は母親からの贈り物だろ？ そこに、大好きな母さんの魂が宿っていると思えば、嫌いだなんて言えないはずだ」
「ん………」
雅人の言葉は、純の心の臆病で頑なな部分にもするする浸透して、柔らかく蕩かしていった。純は、涙が溢れ始めた瞳で雅人を見つめた。感謝を込めて。
「ここに……宿った母さんの魂が、悦んでいるのが分かるよ。僕、もう自分を卑しめたりしない。堂々と、顔を上げて生きていくから………だから雅人、傍にいてね………」
視界は涙で霞んでいたけれど、雅人が優しく微笑んで、頷きながら手を広げてくれたのは分かった。純は迷わずその中に飛び込んで、温かい胸に濡れた頬を押し付けた。
幸せすぎても泣けてしまうのだと、初めて気付いた。
「もう、諦めたのかな……」
純がぽつりと呟いた。嬉しいことのはずなのに神妙な声になってしまったのは、希望的観測にすがって油断しないよう、自分を戒めながらだったから。雅人も慎重に「そうかもな」と答えるにとどめた。
夜になるとアパートを訪れて、部屋の扉を叩いては純の不安と恐怖を煽るような脅しを繰り返していたラルフレッドが、三日前からぱたりと現れなくなったのだ。
「ニューヨークへ行ったのかもしれないね」
「その可能性はあるな。でも油断は禁物だ」
そして相変わらず雅人の部屋に閉じこもって生活していたが、それから二日経っても状況は同じだった。彼は影すら見せない。二人がふと気を緩めてしまったのも、仕方ないといえよう。
「………ピアノが、弾きたいなあ」
窓枠にそっと指を滑らせながら、純が溜め息混じりにこぼした。
「そういえばお前の弾くピアノ、聴いたことないな」
「うん………ね、だめかなあ、僕の部屋に行っちゃ」
「そう…だな。長居しなければいいだろう」
この時二人の頭の中では、ラルフレッドはすでに遠いニューヨークにいた。まさか油断して部屋から出てくるのを虎視眈々と窺っているなんて、思いもつかなかったのだ。
「ヴァンスは寝てるから、このままお留守番ね」
仰向けになって丸いお腹を晒し、至福の午睡を貪るヴァンスに笑いかけて、純はうきうきと立ち上がって窓を閉めた。もう、あいつはいないのだ。
「待て。俺が先に出て、辺りの様子を窺ってくる。お前が出るのはそれからだ」
「う、うん……」
雅人の慎重さ、警戒心を見せられて、純は浮かれた自分を叱った。しかし戻ってきた雅人が「大丈夫そうだ」と言って微笑みかけてくれたのを見て、ふっと身体が軽くなった。
もう怯えて生活しなくていいのだ。ヴァンスと一緒に散歩したり、公園で遊んだりもできる。
「ね、久しぶりだね、僕の部屋に行くの」
「そうだなあ。少し懐かしいな」
どちらからともなく手を繋いで、二人は部屋を出た。
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