＜成就＞・２５
「ただいま……」
やっとここに帰ってこれたという安堵感は、部屋の中の重苦しく淀んだ空気に一掃された。
まだ思うように動かない身体を叱咤して、奥の部屋へ進む。足許にじゃれついてきたヴァンスを抱き上げて、その温もりから得た勇気を胸に雅人のもとへ。
「まさと………ただいま」
黄昏色の部屋の中で電気も点けず、雅人はソファの上で丸まって頭を抱えている。まるで、世界を拒絶するかのように。自分の内側に沈み込むかのように。
純は、からからに渇いた舌を必死に動かして、もう一度呼びかけた。まさと、ただいま、と。しかし返ってきたのは非情なひと言だった。
「何しに来た」
「ぁ………」
言葉の刃に切り付けられた純は、立ち止まってすがるように雅人を見つめた。しかし雅人は険しい視線ではね返し、
「ここは俺の部屋だ」
「まさ…と………」
その静かな剣幕に気圧されて、純は一歩、二歩と後ずさる。そんな純に、雅人はさらなる追い討ちをかける。
「俺が邪魔だったなら、はっきりそう言えばいい。これから二人で楽しみたいから、どこかへ行っててくれ、とな」
「ちがう……ぼくは………」
「悪かったな、鈍くて。ちょっと好きだって言われたぐらいで舞い上がって。でも、まさかお前が…あんな……好きこのんで自分の叔父に抱かれるような奴だとは―――」
純は呼吸も瞬きも忘れて硬直した。一瞬だったが、全ての時間が止まった。やがてひくっ、ひくっ、と喉を鳴らして苦しげに息をしつつ、その奥からどろどろに凝った呪詛を吐き出した。
「だれが……だれが好きこのんで………あんな…………」
きりきりに張り詰めた感情の糸が、いつ切れてもおかしくない状態だった。しかし自分の怒りと悲しみにのめり込んでいる雅人には、気付くことができない。
「だれが………だれがあんな奴にッ…………あ、あ…………いやあああーーーッ」
「純っ？」
獣めいた声を上げていきなり駆け出した純に、雅人はようやく異変を感じ取った。慌てて追い駆けて捕まえようとしたが、その時にはすでに純はキッチンで、包丁を握っていた。
「純ッ」
「こないで……こないでよぉ………」
ぶるぶると震える鋭い切っ先がくるりと旋回して、握っている純の身体の方を向いた。
「何を……する気だ、お前は………」
「言った…はずだよ。もしまた失うようなことがあったら………僕は生きてられない、と」
確かに、確かに純はそう言った。その言葉に雅人はこう答えたのだ。「望むところだ、一緒に生きよう」と。
「思い出した、思い出したよ、純。確かにお前はそう言った」
雅人は穏やかな声であやすように囁きながら、ゆっくりと間を詰めていった。
「だから死ぬの、僕は。雅人を―――」
手の震えが止まった。そこにあるのは怯えではなく、悲壮な意志。
「失ってしまったからっ」
「やめろッ」
雅人は考える間もなくがむしゃらに飛び付いて、手の中の凶器を奪い取ろうとする。傷付けられても、血を流しても構わない。こんな絶望的な行為を思い留まらせるためなら―――
「いやっ、離せ、離せよぉっ。いやああああッ」
絶叫をまき散らしながら手を振り払おうとする純に、言葉での説得は通じないとみた雅人は、少し乱暴に純の身体を押さえ付けて動きを塞ごうとした。しかし思わぬ反撃に遭い、揉み合いになった挙句―――
「いっ、つ………」
「純っ、大丈夫かっ」
純の掌に亀裂が走り、鮮血が滴った。
「純っ。手を貸せっ」
雅人はシャツを脱いで傷口をきつく縛った。純も、痛みのお陰で正気を取り戻したのか、大人しく手当てを受ける。
「動くんじゃないぞ。そこに横になって、大人しくしてるんだ」
雅人は少し強い口調でそう言い付けると、純を傷つけた凶器を取り上げて大きなビニール袋でぐるぐるに包み、部屋の隅に投げ捨てた。そして医者を呼ぶために、近くの診療所に電話をかけた。
純はただ、忙しく立ち働く雅人をぼうっと眺めるだけだった。頭の中を支配するのは、“また死に損なっちゃったな…”という漠然とした感慨だけだった。
「大した傷ではないよ。血がたくさん出たから驚いただろうが。化膿する心配もない」
「そうですか……。ありがとうございました」
雅人は少しほっとしたものの、表情の強張りは容易に解けず、眉根を寄せたまま医師に向かって深く頭を下げた。
しかし医師は無言のままで暫し雅人を凝視していたが、やがて意を決したように口を開き、
「私も、大して真面目な学生ではなかったから余りえらそうなことは言えんが……。休暇中とはいえ、ちょっとふざけ過ぎではないのかね？ 学生の分際で、あんな―――」
雅人は再び頭を下げて、
「すみませんでした。彼も…ちょっと興奮していたようで。俺も落ち着いて対処できませんでした。とにかく今後は刃物の扱いには―――」
「そうじゃない。あんな傷は大したことないと言っただろう？ 私が言っているのは、面白半分でああいった薬に手を出すな、と………」
雅人は瞠目して、医師に詰め寄った。
「くすり、ですか……？ それは一体………」
今度は医師が目を見開いた。そして真摯な視線を雅人に向けて、正面から問い質す。
「君が、飲ませたのではないのかね？」
「し、知りません、俺は……。待ってくださいっ、何が………」
予想もしていなかった医師の言葉に、雅人の頭は混乱した。激しい困惑を晒す彼を落ち着かせるためか、医師は肩に手を置いて、ゆっくりと諭すように話した。
「そうか。確かに、君のような学生が容易に手に入れられる物ではないな。彼は、薬を飲まされているんだよ。強力な催淫剤をね」
「催淫剤……」
聞き慣れない言葉ではあったが、その意味するものが何なのかは分かる。混乱は鎮まりかけていたが、その代わりにある恐ろしい疑念が生じて雅人の頭を圧迫し始めていた。
医師は、自分の言葉が理解されたのを見計らって、再び口を開いた。
「荒く短い呼吸、四肢の微かな震え、眼球の充血などももちろんだが、何より接触に対する過敏な反応が、薬の後遺症を物語っていると言えよう。効果はもうかなり薄れてきているが、恐らく先刻までは自分の意志で身体を動かすのも難しかったはずだ」
「ま、待ってください。では、純はその薬を無理やり飲まされて身体の自由を奪われた上で………」
「当たり前だ。あんなものを自ら服用するなんて酔狂な真似、誰がするものか。いいかね、」
医師は雅人の両肩を強く掴んで揺すぶり、
「君の友だちは、そういった危険に巻き込まれやすいというのは分かるだろう？ あの危うい美しさ。それを踏みにじることに、性欲や支配欲の充実を感じる大人は後を絶たないはずだ。
だから呉々も気を付けてあげなさい。大人のどろどろした思惑に巻き込まれず、真っ直ぐ前に進んでゆけるように」
雅人は医師に礼を言おうとしたが、喉が震えて言葉が出てこなかった。ただ深く項垂れて、何度も何度も頷いた。
医師はそんな雅人の肩をぽんぽん、と軽く叩いて「君ならやれるよ」と言った。そしてゆっくり立ち上がり、見送りはいらないよと言ってそのまま帰っていった。
―――まだ、間に合うだろうか……許してもらえるだろうか………
突き付けられた事実の重みによろめきつつも、雅人は純が寝ている寝室へ向かった。
扉をそっと開けると、目を閉じて横たわる純の横顔が薄闇の中に浮かんで見えた。その蒼白さ、儚さに胸が詰まる。
―――なぜ……気付かなかったんだ、俺は………
そう、あの叔父との情交のさ中、自分と目が合った時の純はどんな表情をしていた？ どんな眼差しを送ってきた？
はっきり断言できる。あの時純は救いを、解放を求めてすがるようにこちらを見つめていたではないか！ なのに―――
「なのに、俺は………」
背中を向けて拒絶した。どれほどショックだったろうか。しかし純は、もう一度自分を信じてここへ帰ってきてくれたのだ。勇気を奮って。
「純……」
雅人はふらふらと歩み寄って、枕元に跪いた。そして祈るように固く両手を組んで、「許してくれ……」と囁く。すると、純がゆるゆると目を開けた。
「まさ……と………？」
雅人はおそるおそる手を伸ばして、包帯の巻かれた左手をそっと握った。
「純……許してくれ……何も知らぬままにお前を傷付けてしまった俺を………。そしてもう一度だけ、俺を信じて………」
雅人の懇願に応えるかのように、純の目尻から涙の雫が溢れて枕を濡らした。安堵と悲しみと苦悶と不安が混ざり合ってできた、甘くて苦い涙。
「ぼく……ホントに死のうと思ったの…………」
「ん……」
「苦しくて、つらくて……」
「分かってるよ」
きゅっと雅人の手を握り返し、震える唇で訴える。
「まさとぉ……、もう絶対に、絶対に離さないでね………」
「離さないっ……」
湧き上がる思いに押し潰されたのか、掠れた声で叫んで純の上に覆いかぶさった。そして唇を重ねようとする。しかし純は顔を背け、
「だめ……汚れてるから―――」
「関係ねえよ」
雅人は低い声で一蹴すると、少し乱暴に顔を向かせて唇に噛み付いた。そして歯列を割ってためらいがちな舌を荒々しく絡め取り、吸い上げる。
純は罪悪感に苛まれつつも、雅人の激しさに徐々に蕩かされていった。雅人はいったん唇を離し、荒い呼吸の奥から「汚れてなんかいねえよ」と言い放つと、再び吸い付いて舌を口腔を丹念に舐め尽くした。
いつの間にか、腕は互いの背中に回されてぎゅっと抱き合っていた。重ねた唇の隙間からとろとろと唾液がこぼれるのも構わず、ただひたすら、互いの想いを口移しで注ぎ合った―――
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