＜光明＞・２１
朝起きて、ベッドが空っぽだったらどうしよう。ううん、それよりも、夜中にふと目覚めた時、雅人がいるはずの場所にぽっかりと闇色の虚ろがあるばかりだったら………
―――やだ、やだ……こわい………
その夜から、純の安眠は再び奪われた。浅い眠りの合間、何かに急き立てられるかのようにはっと目覚め、隣を確認する。そして雅人がいることを確認してから目を閉じる。その繰り返しだった。
一度だけ、雅人が水を飲みに行っていないことがあった。その時の怯えぶりは錯乱と呼ぶにふさわしいもので、雅人は根気よくあやしながら、１時間かけて何とか落ち着かせることができたほどだった。
腕の中で小さく震えながら「どこにも行かないで」と哀願する純を、一人でベッドに残すなんて到底できるはずもない。
「どこにも行かないよ」と微笑んで、柔らかな身体を抱き締める。しかしそれでも純の安眠は遠く、再び夜中に目覚めて、雅人の温もりが消えていないか確かめずにはいられないのだった。
とはいえ、あの甘美な悪夢は未だ健在で、雅人は幾度かそれに悩まされた。しかし純を抱く腕をほどくことはできない。欲望との葛藤で、雅人も不眠の夜が続いた。
しかも昼間は純のために栄養を考えた食事を作り、その他の家事もこなす。慣れない土地での慣れない生活で心身の疲労は激しく、体力は限界に近付きつつあった。
それでも雅人は辛さを表てに出さず、純の前では朗らかに振る舞った。しかし純は気付いていた。雅人の額に疲労と苦悩の翳が差していることに。
このままでは雅人が倒れてしまう。早く解放してあげなくては―――その想いに嘘偽りはなかったが、差し伸べられる温かな手を自ら振り払うことはどうしてもできなかった。
そしてとうとう、恐れていたことが起きた。雅人が倒れてしまったのだ。
「それじゃ、買い出しに行ってくる。いい子でお留守番してるんだぞ」
「……はぁい」
子供扱いされてちょっとむくれつつも、純は素直に返事をして雅人を送り出した。
「今日は……蒸し暑いな……」
確かに、ロンドンの夏にしては湿気が多くてかなり暑かった。純は窓を大きく開けて風に当たり、雅人の帰りをぼおっと待っていた。しかしなかなか帰ってこない。
「……遅いなあ」
何だか嫌な感じがする。部屋を出る時微笑みかけてはくれたけれど、唇が青白かったのが気になる。
「どうしよう…迎えに行ってみようかな」
純は立ち上がって窓を閉め、玄関に向かった。その時、部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「は、はいっ。待ってて」
純はあたふたと指を絡ませて、扉に付けられた３つの鍵を開けた。しかしそこにいたのは人の良さそうな紳士だった。右手には買い物袋、左手では雅人を脇から抱えて支えていた。
「純、悪い……ちょっと横にならせてくれ」
力ない声で頼みながら、それでも微笑もうとする雅人。純は蒼褪めたまま何度も頷いて、ベッドを整えるため奥の寝室へ飛び込んだ。
「ご迷惑をお掛けしました……」
雅人は、眩暈を起こしてしゃがみこんだところを助けてくれた紳士に礼を言って、頭を下げた。
「いやいや、この程度のことはちっとも迷惑じゃない。それより、ちゃんと病院へ行った方がいい。ひどい顔色だ。友だちも心配そうだったぞ」
「はい、そうします……」
もちろん、病院へなど行く気はなかった。純を長時間一人にするのは避けたかったし、それにもしかしたら、２、３日入院しろなんて言われるかもしれない。そのくらい弱っているという自覚が、雅人にはあったのだ。だからこそ無理をしてでも、平気なふりをしなくてはならない。
雅人はもう一度紳士に礼を言うと、背筋をしゃんと伸ばして純の待つ寝室へ向かった。
「まさと、苦しいの……？」
ほとんど泣き出さんばかりに顔を歪めて枕元にすがってくる純に、雅人は今できる限りの笑顔を見せて首を振った。
「ちょっと気分が悪くなっただけだ。今日は特に蒸し暑いから。そんな心配そうな顔するな」
「でも……」
「昼飯はパン買ってあるから、悪いけどそれで済ませてくれ。夜はちゃんと作るから」
雅人がいないと食事さえもまともにできない、そんな自分の幼さ不甲斐なさを突き付けられて、純はきゅっと唇を噛み締めた。
「ごめん…ね……」
「何謝ってんだ。それより、純。俺がいない時に呼び鈴が鳴っても、さっきみたいに相手を確かめず鍵を開けては駄目だぞ。分かったな」
こんな状況でも自分のことを心配してくれる雅人に、純は嬉しさと申し訳なさを感じつつ黙って頷いた。
―――ずいぶん、眠ってたみたいだな……
雅人が目を覚ますと、部屋の中は黄昏のブルーグレイに沈んでいた。湿り気を帯びた暑気もかなり和らぎ、気分もすっかり良くなっていた。その時、どこからか甘い香りが漂ってきた。頭の芯が痺れるような……
「純……」
ベッドの横に座り込んで、枕元のすぐ傍らに突っ伏してくうくう寝ている純。あの甘い香りは、純の髪の匂いだった。きっと、心配で傍に付いているうちに眠り込んでしまったのだろう。
雅人は誘われるように顔を寄せて、純の寝顔を覗き込んだ。横向きに寝ているせいで、薔薇色の頬がぷくっとつぶれているのが見える。
半開きの唇からはすーすーとあどけない寝息がこぼれ、時折ふにふにと寝言だか寝息だか判らない音が漏れる。
雅人はさらに顔を近付け、鼻のてっぺんにちゅ、とキスを落とした。純はくすぐったかったのか、微かに眉をしかめたと思ったら、ふふ、と笑って「まさと…」と呟いた。
雅人は思わず叫び出しそうになる。かつてこれほどまでに、誰かを愛しいと感じたことがあっただろうか―――
「純、ありがとう……」
弟の死と共に一旦涸れてしまったはずの心に、再び温もりと潤いが戻り始めている。そんな自覚を噛み締めながら、雅人は無防備な寝顔にじっと見入っていた。
このささやかな幸せが、いつまでも続きますように―――
純が目覚めた時、ベッドの上に雅人の姿はなかった。慌てて立ち上がると、肩に掛けられていた薄い毛布がするりと落ちた。雅人が掛けてくれたものだろう。
「雅人っ」
「お、起きたか。腹減ってるだろ？ もうすぐできるから―――」
「い、いいんだよ、食事なんてっ。それより身体は？ もっと休んでないと」
「大丈夫だよ。誰かが心配して傍に付いててくれたお陰で、すっかり良くなった。ほら、皿とかコップとか並べて。少し早いけれど夕飯にしよう」
そう言って笑ってみせる雅人の顔は、やはり疲労で蒼く淀んでいた。しかし純は何も言えず、黙って雅人の言う通り食事の仕度を手伝うしかなかった。
だが純の不安は正しいものだった。雅人は余り食欲もないようで、夕食もいつもの３分の１程度しか食べなかった。
純に心配をかけまいと、「今日はさすがに食欲がねえなあ」などと笑ってみせたが、体調の悪さは容易に隠せるものではなかった。
純は決意を固めた。もう、雅人を解放してあげよう、と。
その夜、珍しく雅人が先にシャワーを浴びてベッドで寛いでいた。そして純が来るのを待っていた。
「まさ…と……」
音もなく開いた扉から姿を現した純はそのまま立ち止まり、悲愴な声で雅人の名を呼んだ。
ただならぬ気配を察した雅人は、ベッドの上で身体を起こして純を見詰める。
「どうしたんだ、純。ほら、こっちへ来いよ」
しかし純は小さく首を振って、
「雅人、もういいよ。もう十分」
「何が、だ……。純………」
苦しげに問いを返す雅人に、労わるような微笑みを送って、
「もう、償いはできてる。だから自由に、好きなことをやっていいんだよ」
雅人は思わずベッドから下り、純の方へ近付こうとした。が、
「来ないでっ！ お願いだから、これ以上優しくしないで………」
自分の身体を抱き締めて、防御の体勢に入った純を、雅人は信じられない思いで見据えた。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるものの、震える喉から出る声は険しく淀んでいた。
「どういうことだ……償いとは何のことだ」
純は顔を上げて、鋭い眼差しで雅人を射抜いた。僕が気付いていないとでも思っていたの？ と。
「雅人が……僕に優しくして、尽くしてくれるのは、弟への罪滅ぼしなんでしょう？」
「な…ん……」
「弟と同じ歳で、同じように一人ぼっちで、同じように薬に依存して……。そんな僕を助けることで、見殺しにしてしまった弟への償いをしようとした。僕を、弟の代わりにして………」
純は泣きたいのをこらえて、必死で笑顔をこしらえた。声も優しくたわめて、
「でも、もういいんだよ。雅人は苦しんだんだ。自分を責めて、悩んで……。雅紀くんだってきっと分かってるはず。だから―――」
純はくっ、と嗚咽を呑み込んだ。泣くのは後でいい。雅人が出て行ってから、一人で存分に泣けばいいのだ。
「だから、そんな身体を壊してまで僕に付き合う理由はもうないんだよ」
「違う！」
雅人の鋭い叫びは、闇を貫いてじかに純の胸に刺さった。その部分からじわじわと広がる疼きを抑えながら、
「何が、ちがうの………」
「お前が弟の代わりだなんて、そんなこと思ったことは一度もない。俺は、俺は……」
何かを伝えようと唇を震わせる雅人を淋しげに見詰めて、
「じゃあどうして？ どうしてこんなに一生懸命になってくれるの？」
「それは……好き……だから」
驚愕に目を見開く純。聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような気がした。しかし雅人はさらに続ける。
「愛してるから………お前を」
「あ……あ………」
決定的な告白を聞かされて、純は震えた―――恐怖の余り。
「いっ、いやああぁ、やだあ」
「純っ」
「そんなのいやあああ……」
明らかな怯えを含んだ拒絶の叫びを投げ付けられて、雅人は項垂れた。これで終わった。何もかも。友人としての資格さえも失ってしまったのだ。
「そう…だよな。ごめん、純。でも、これが本当の気持ちなんだ。だからこそ、こうしてお前と一緒にいることはもうできない………」
雅人は純を恐がらせないよう、ゆっくりと部屋を横切って出口に向かった。そして、
「いいか、俺はいつも隣の部屋にいるから、何か困ったことがあったらすぐ声を掛けるんだぞ。遠慮するな。分かったな？」
辛い気持ちを押し隠して、優しく語りかける。しかし手は扉にかかり、今にも寝室を出ようとしている。
―――いいのっ？ これで
純は自分に問い掛けて、次の瞬間激しく首を振った。が、
「それじゃ、純。おやすみ……」
扉の向こうに、あの寛い背中が消えてしまう―――
「やッ、やだやだやだやだ、行っちゃやだぁっ、まさとぉ」
「じゅ、純？」
突然の言葉に驚いた雅人は、慌てて部屋に戻って純の許へ。
「やだぁ……ぅっ、ぇ、ぇっ………行っちゃ、やだもん………そばにいてよぉぉっ」
そして、うあああーーんと声を張り上げて号泣する。雅人は頭を撫でてやったり背中をさすってやったりと、必死にあやして何とか落ち着かせようとする。
「ぅ…ぇっ……ぇっ……ぼく、ぼく………」
今度は純が、必死に何かを伝えようとしている。雅人は猶もあやしながら、涙で濡れた顔を覗き込んだ。
「これまでね……ぅ…ぇっ………ぼくのこと、本当に愛してくれたひと……すこししかいなかったけど………でもみんな、ぼくから離れていっちゃったの………」
純の脳裡を、優しい笑顔が掠めて消えてゆく―――アルバート先生、リズ、直、秀、そして……大好きだった母。
「だから……だからきっと雅人も、いつかいなくなっちゃう………」
それが恐かった。これ以上、愛する人の喪失を経験したら、きっと自分は壊れてしまう。しかし、
「純、俺はどこにも行かない。ずっとお前の傍にいる。約束する」
「ほん…と……？」
「どこにも行かない。いなくなったりしない」
再び溢れ始めた涙を拭いながら、
「もし…また失うようなことになったら……僕はたぶん生きてない。それでも？」
雅人は、紫色の瞳に映った自分に向かって力強く頷いた。
「望むところだ。純、一緒に…生きよう」
その答えに弾かれたように、純は雅人に飛び付いてぎゅっと抱き締めた。
「僕……僕は雅人のものだよ…………だいすき」
拙いけれど想いのこもった告白を、雅人はうっとりと反芻した。余りの歓喜に眩暈がする。その余韻に半ば朦朧としつつも、純の頬に手を添えてもう一度伝えた。
「純………愛してるよ」
その時、涙で濡れた純の顔がくしゃりと歪んだ。お世辞にも可憐な表情とは言えなかったが、雅人は湧き上がる愛しさに翻弄されて力任せに抱き締めた。
それが、純が初めて見せた笑顔だったのだ。
その翌朝、決して広いとは言えない寝台の上で、身体を寄せ合って幸せな眠りに沈み込む二人を、冷たい無表情で見下ろす男がいた。
男はやがて、にぃっと口端を吊り上げて酷薄な笑みを浮かべると、黙ってその場を去った。
自分が帰ってきたという事実を知らしめるため、ピアノの上にジャケットをふわりと掛けて。
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