＜光明＞・２０
２カ月半の長期休暇に突入すると同時に、雅人と純は同居を始めた。部屋はどちらとは決めず、その日の気分によって行き来することにした。純の世話係は実家へ戻され、食事やその他の家事全般は雅人が全て引き受けた。
同居を始める前に、雅人は校医を訪ねて相談を持ちかけた。個人名は出さなかったものの、誰のことを話しているのかすぐに分かったようで、深く関わらない方がいいとの忠告を繰り返すばかりだった。
しかし雅人の熱心さに根負けしたのか、施設や病院に入院しなくても薬物依存を治療できる在宅プログラムがあることを教えて、懇意にしている診療所を紹介してくれたのだ。
雅人はすぐにそこを訪れて純の状況を説明し、治療プログラムを作ってもらった。
依存度がまだ低いということで、栄養価の高い食事、たっぷりの睡眠、規則正しい生活を守ることで薬との繋がりを断ち切ってゆくというセルフヘルプ型のプログラムを提示され、それを持ち帰って早速実行を始めた。
純の場合、昼間は比較的穏やかだった。しかし夜、辺りが暗闇に侵蝕され始めると落ち着かなくなり、雅人の胸に縋ってぶるぶる震えた。
特に幻聴、純は“あたまの中の声”と呼んでいたが、それが激しく詰り、責め、嗤い、酷い時には「死ね」と命令してくるようで、純は耳を押さえ、頭を抱えて啜り泣きながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と闇に向かって謝った。
そんな純を雅人は身体ごと包み込み、「大丈夫、怖くないよ」と繰り返しては優しくあやした。
やがて落ち着いた頃を見計らってそっと抱き上げ、寝室に連れていく。雅人は毎晩、純を抱いて眠った。まるで闇の侵蝕から守るかのように、縮こまった純の身体をすっぽりと抱き込んで、朝まで決して離さなかった。
純の幻聴―――それには過去のフラッシュバックも含まれているようで、怯えて震えていたかと思うと、突然「ママ、ママ」と叫んで泣き出すこともあった。
ジルアードに来る前の純に、何があったのかは分からない。しかし純が自分の生に強烈な罪悪感を持ち、自分が穢れた存在だと強く思い込んでいることは、その言動から窺い知ることができた。
何故そんな悲しい思い込みの虜囚になってしまったのか、お前はこんなに綺麗じゃないかと肩を揺さぶって叫びたかった。
恐がらず、顔を上げてよく見ろ。お前を愛している人間はたくさんいる。ほら、お前の目の前にも―――
しかし、雅人が雄弁なのは胸の裡でだけだった。自分にそんなことを言う資格があるのか。苦しんでいる純に対し、ただ頭を撫でて抱き締めてやることしかできない自分に。
それに―――夜、束の間の安らぎに微睡むあどけない寝顔に、明らかに欲情している浅ましい自分に。
純の必死の努力と雅人の文字通り献身的なサポートにより、退薬の反動である抑うつ状態や倦怠感、睡眠障害などの症状は徐々に軽減されていった。
ただ、体力の回復は想像以上に困難で、シャワーを浴びただけで激しい疲労感に襲われ、暫くソファでぐったりと横にならねばならぬほどだった。
しかし、“あたまの中の声”が鎮まって夜が本来の静寂を取り戻し始めたことが、純にとっては何よりの喜びだった。
静かで、そして少し蒸し暑い夜。二人は抱き合ってシャツ越しの温もりと肌の湿（しとり）を感じながら、色々なことを語り合った。
雅人は話しながら、少し湿った純の髪に指を差し込んで優しく梳いてやる。すると純は気持ち良さそうにうっとりと目を閉じて、唇から小さな溜め息を漏らすのだ。
秘めやかな闇に包まれた甘い時間。純が雅人におそるおそる訊ねたのも、そんな夜だった。
「ね、雅人の弟って、どんな人だったの……？」
突然の重い問い掛けに、雅人はぎゅっと唇を噛んで宙を見据えた。やっぱり訊いちゃいけなかったんだと純は震え、「ごめんなさい」と小声で詫びた。
しかし雅人は首を振ってふっと息を吐き、
「聞いてくれるか？ 純」
そして真剣な顔で頷く純の肩を抱き寄せて自分の胸に収めると、言葉を続けた。
「１つ下の弟、雅紀（まさき）は、俺が言うのも何だけどすげえ奴だった。絵を描いたり話を作ったりするのが巧くてさ、小さい頃から、よく自作の童話なんかを俺に語り聞かせてくれた。こいつ将来は大作家か画家になって名を馳せるに違いないって信じてたな」
雅人は一旦言葉を切り、僅かに額を曇らせた。
「けど、俺らの親ってのはそういうことに無関心でさ。親父は聖書学者で大学教授、母親は慈善団体の理事をやってるんだけど、二人とも自分のことに精一杯で家のことはほとんど顧みなかった。だから家事や弟の世話は俺がやらざるを得なかったんだ」
「そっか……だから雅人は何でもできるんだね」
「ま…な。俺と弟は家庭内捨て子も同然、そのせいか何をするにも一緒だった。互いがいてくれればそれでいい。親なんか要らない、そう言っては絆を確かめ合っていたんだ。でも―――」
雅人は口ごもった。眉間に刻まれた皺が痛々しくて、純はもういいよ、と言いそうになった。そんな辛そうな顔しないで、と。
しかし雅人は決然と口を開いた。
「でも、俺はその時嘘をついていたんだ。俺は、俺は親に認めて欲しかった。俺の方を向いて欲しかった。だから、学校に上がると必死に勉強するようになった。テストでいい点を取った時だけは、二人揃って俺の頭を撫でて、よくやった雅人、さすがは私たちの子だと褒めてもらえたから………」
雅人は恥じ入るように俯いて、言葉を続ける。
「そんな俺を、雅紀はしだいに敬遠するようになった。親に尻尾振ってご褒美をねだる、下らない人間に見えたのだろう。そして俺も、弟を避け始めた。都内随一のエリート校聖琳学院に合格するため、塾通いも始めた。
結果、見事合格して親は大喜び。俺は虚しさを感じつつ、周囲からの祝福を受け取ったよ。すごいわねえ、雅人くん。さすがは相楽先生の息子さんだわ……」
「でも、でも雅人は頑張ったんだ。一生懸命勉強して目標を達成したんだ。それを恥じる理由なんてないよっ」
頬を紅潮させて必死に言い募る純。雅人はこみ上げるものを押し込めつつ、純の髪を撫でた。
「そうだな、話がここで終わればまあ良かったのかもしれない。けど親たちは、同じ成果を弟にも求めたんだ。お兄ちゃんにできてお前にできないはずはない。私たちの子なら当然だ、と」
「それに…反発したんだね。雅紀くんは」
「そう。その頃から雅紀は本格的に絵を描き始めていた。小遣いを貯めて画材を買って。でも、親に見つかって全て処分されてしまった」
「ひどい……」
それは、彼の夢や希望が暴力的に潰されてしまった瞬間だったろう。そういった瞬間に幾度も立ち会ってきた純には、彼の悲しみややり場のない怒りがよく解る。
「ああ、ひどい。でももっとひどいのは俺だ。俺は見て見ぬふりをしていた。聖琳学院には優秀な奴らが集まっていたから、その中で上位をキープするためには弟のことに構っている余裕はなかったんだ」
「それで…雅紀くんはどうしたの？ 聖琳学院に―――」
「一応受験はしたけど落ちたよ。そして地元の公立中学に入学した。親は激怒さ。お前は我々の顔に泥を塗ったってね。
全く、プロテスタントの博愛精神が聞いて呆れる。母親なんか、未成年犯罪者の矯正施設を訪問して家庭の大事さを教える、なんて活動してんだぜ。自分の家庭がめちゃくちゃのくせによ」
いつも穏やかで深い輝きを湛えている黒い瞳に、険しい閃が走った。純は思わずぞくりと慄える。
「それからの雅紀はめちゃくちゃだったよ。絵ももう描かなくなった。やばい連中とつるんで、警察沙汰もしょっちゅう。そのたびに親の罵倒を浴びて。そして……とうとう薬に手を出した」
「ああ……」
純の哀しげな溜め息に、雅人は頷きを返して、
「中学生でも、その気になれば簡単に覚醒剤を買える社会って、一体何なんだろうな。雅紀は家から金を持ち出しては先輩づてに買って、飲っていた。どうしようもない閉塞感からの逃避、と言ってしまえばそれまでだけど、あいつをそこまで追い詰めた原因はこちら側に……いや、俺にある」
「雅人っ」
「たとえ親が無理解でも、俺が以前のように傍にいて、手を差し伸べてやればこんな…こんなことにはならなかった。なのに俺は自分のことばかりで―――」
違う、違うよ雅人―――純は心の奥で語りかけた。それは、自身の弱さ。偽物だと分かっていながら、手っ取り早い快楽を求めてしまうのだから。
でも、そんなえらそうなこと言う資格は自分にはない。純は黙って雅人の告白に耳を傾けた。
「そしてついに終わりが来た。薬を飲って飛んだ状態でバイクに乗った雅紀は、そのままトラックに正面から突っ込んで……」
純は思わず、雅人のシャツをぎゅっと掴んだ。その上からひと回り大きな手が重なる。
「即死じゃなかった。病院に搬送された時には、奇跡的に意識があった。偶然近くにいた俺は一番早く着いて、雅紀に会うことができた。俺を見つけたあいつは、血塗れの顔を歪めて“兄ちゃんごめん、こんな弟でごめん”って泣いて、謝った。何度も何度も―――」
雅人は、くっ、と喉を鳴らして込み上げるものを呑み込んだ。そして言葉を続ける。
「それから数分後に弟は息を引き取った。親は間に合わなかったが、それで良かった。事故の詳細を知った途端、あいつらがしたことと言えば、マスコミへの根回し、箝口令。
さすがに口に出して罵倒はしなかったけれど、こんな事故を起こした雅紀に腹を立てているのは明らかだった。俺はすーっと血の気が引いていったよ。今まで俺は、こんな奴らに認めてもらいたくて必死に勉強していたのか、と」
ぞっとするような自虐の笑みを浮かべる雅人。しかしそれは、純の目には痛々しいものに映った。
「耐えられなかった。あそこにいれば嫌でもあいつらと顔を合わせてしまう。それは、自分の愚かさや弟に対する罪悪感に向き合うことでもあるんだ。だから俺は“逃げた”。周囲の反対を押し切ってジルアードへの編入試験を受け、このイギリスに逃げてきたんだ………」
重ねられた手は震えていた。そこから伝わる痛みや悲しみで、純の手もじくじくと疼いた。雅人は血が出るほど唇を噛み締めてから、吐き捨てるように言った。
「俺は……最低だ」
その時、純の手がすっと伸びて雅人の頬を、目尻を撫でた。
「雅人、泣かないで」
「何…言ってんだ、純……」
雅人は瞠目して訊き返す。確かに、雅人は泣いてなどいなかった。今だけではなく、これまでも、そしてこれからも泣くことはないと。
しかし―――
「泣かないで……」
同情じゃない、慰めでもない。全ての過去、辛い記憶を包み込んで癒してくれるような、温かな慈愛に満ちた囁き。胸の奥でずっと凍ったままだった感情が、ゆるゆると融けてゆくのを感じる。と同時に、大きく見開いた黒瞳からすっと涙がこぼれて、頬を濡らした。
「ずっと……泣けなかった………」
「まさと……」
「涙は…痛みや苦しみを浄化させるためのものだ……。だから俺には泣く資格などないと………」
そのまま俯いて、純の身体を強く抱き締める。時折喉の奥からくっ、くっ、と嗚咽を押し込めるような音が聞こえてくる。
純は腕を伸ばして雅人の首に回し、胸と胸をぴったりくっつけた。そして目の縁に、頬に唇を寄せて涙を吸い取る。いつか雅人がしてくれたように。
「純……」
そのまま二人は濡れた唇を深く重ねて舌を絡め、互いの熱を想いを味わった。
それから二日、三日と経つにつれて、雅人は後悔するようになった。純に弟の話をしたことではない。そのあとの深いキス。あれは決して、してはいけなかった。
あれのせいで、自分どれほど強く激しく純を、純の身体を求めているか気付いてしまったから。
柔らかくまろやかな舌の感触、甘い唾液、熱い口腔。全てがこれまでにない陶酔と、痺れるような疼きをもたらした。それは日が経つにつれて薄れるどころかより鮮やかさを増して、昼となく夜となく雅人を苦しめた。
愛してる―――その想いに嘘偽りはなかった。雅人は純との出逢いから冷静に振り返って、最初会った時から彼に惹かれていたことをはっきりと認めた。しかしそれを純に伝えてはいけないと感じていた。
純は心も身体もまだまだ弱っていて、自分に頼らざるを得ない状態だ。今告白するのは、そんな不安定な状況に付け込む卑怯な行為ではないのかという考えを捨てることができなかったのだ。
雅人はぐっと堪えて純の看護役に徹した。夜も今まで通り抱いて寝た。いつまでその状態で踏みとどまっていられるのか、自分でも分からなかったのだが。
生温かく湿った夜気は、人の原始的な欲望を刺激する。
「うう……」
寝台の上で、いつものように純の身体を抱き締めて眠りながら、雅人は低くうめいた。
夢とうつつの境。しかし目の前にぼんやり浮かび上がる白い肢体は夢と呼ぶには余りに生々しく、肌の微かな湿り気や甘く気だるい芳香など、五感に訴えるリアリティを誇示していた。
―――まさと……きて………
“彼”は甘えるように白い腕を差し出して抱擁をねだる。婀娜っぽくひねった細い腰、滑らかな胸に灯った二つの紅い実。それらは全て、今日床に入る前、雅人が実際に目にしたものだった。
純は就寝前の入浴時にバスルームで貧血を起こしてしまい、その場に倒れてしまった。もちろんすぐに雅人が気付いて抱き上げ、そのままソファに横たえた。
貧血は一時的なものですぐに良くなったのだが、水気を帯びてきらきら輝く柔肌を始め、初めて見た純の裸が網膜に刻み込んだ印象は余りに鮮烈で、欲望の芯に点いた焔は消えることなくそのまま就寝時間となったのだ。
―――まさと、抱いて……
いけないと知りつつも、思わず手を伸ばしてしまった。が、その瞬間雅人は目を覚まし、悩ましい夢魔は闇に融けた。
「夢か……よかった………」
本心からの呟き。ふと隣を見ると、純は雅人のシャツの裾を掴んで、くうくうと無邪気な寝息をたてていた。
「愛してる……だから…ごめん、純………」
雅人は純を起こさないようにそっとシャツを引き抜くと、ベッドを下りてリビングへ向かった。
翌朝目を覚ました純は、軽い恐慌に陥った。いつも隣にいてぎゅっと抱き締め、時には頭を撫で、時には額に唇を押し当てて「おはよう」と言ってくれる雅人がいないのだ。そっと指を這わせたシーツはよそよそしく冷たい。
「あ……あ……いや………」
さっと血の気が引いて、額や掌にいやな汗がにじみ出る。「雅人、どこ？」と叫びたいのに、舌が上顎にぺったり張り付いて微動だにしない。その時、寝室の扉が開いた。
「純っ、どうした」
慌てた様子で駆け寄る雅人の手をぺしぺしとはね付けて、
「いやッ、いやあ、なんで、どこに行ってたのっ」
「わ、悪かった」
「やだッ、やだやだやだあぁ……」
熱い涙を振りまいて暴れる純を、雅人は罪悪感に駆られながら宥めた。半ば予想していた反応なのだ。きっと純は、空っぽのベッドに激しい恐怖を覚えるに違いないと。
「純、ちょっとトイレに行ってただけなんだよ」
純は呆然とした。まさか雅人が、自分に嘘をつくなんて。しかしそれを追及する勇気はなかった。
純はがっくりと項垂れて「そうなんだ……」と力ない呟きを漏らした。雅人がほっと息を吐いたのが、気配で分かった。
「今、朝飯作るから。待ってろよ」
純は頷きを返して、自分の身体を抱き締めた。途絶えた温もりを再生させるかのように。
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