＜光明＞・１６
今ごろクラスメートたちは大騒ぎだろうなと、半ば他人事のように想像しながら、雅人は自分が少なからず浮かれているのに気付いていた。純が、自分から出向いてくれた。それだけのことがやけに嬉しい。
しかし雅人は、その嬉しさの原因を深く追究はしなかった。純が自分のことを友人として認め、信頼してくれたことが嬉しいのだと単純に思い込んで、疑わなかった。
だが、後になって雅人は認めざるを得なくなる。自分は既にこの時……純に惹かれ始めていたということを。
「昼飯とかどうする？ 宿舎の食堂って、確か寄宿生以外も使えるんだよな。それともどこか外で―――」
「嫌。外では食べたくない……」
消え入りそうな声でそう言って俯いてしまった純を見て、雅人は自分の浅薄な思いつきを反省した。
学内でも外でも、絶えず視線に晒されてしまうのだ。そんな中でゆっくり食事なんてできるはずがない。
「分かった。なら部屋でゆっくり食事しようぜ。俺が作るよ」
「え……？ 雅人が？」
純はびっくりして雅人の顔を凝視する。思わず苦笑を浮かべて、
「そんな顔するなよ。大丈夫。ちゃんと食えるもの作るから。純、嫌いな物は？」
「特に…ないよ」
「おお、えらいな。じゃあ好きな物は？」
純はちょっと首を傾げて考えた挙句、
「んと…いちご」
「ぶっ」
雅人はお腹を押さえて「くくく……」と低い笑いを漏らす。
「なっ、なんで笑うんだよっ。悪い？」
「い、いや、ごめん……つうか、お前可愛い………」
それは雅人の本心だった。年の割りに老成した空気をまとい、はしゃぐ同級生たちを遠巻きに眺める瞳は大人びていたから、その純の口からこんな可愛い好物が飛び出てくるとは思っていなかったのだ。
しかし純はからかわれたと思ったのか、顔を真っ赤にして、
「なんだよ、可愛いって。雅人のばかっ」
「ごめんごめん、悪かった。お前がいちごみたいになってるぞ」
雅人はまだ笑いながらポケットを探り、鍵を取り出した。それを純に渡して、
「俺は材料を買いに寄っていくから、お前は先に戻って待っててくれ」
純は震える手で鍵を受け取った。
「勝手に…入ってもいいの？」
「ん？ もちろん構わないよ。何なら、部屋の片付けしててくれてもいいぞ」
純は信じられないという風に思い詰めた表情で雅人を見つめ、
「ぼく…僕なんかが雅人の場所を汚してもいいの？」
今度は雅人が驚く番だった。しかし驚きはすぐに深い納得へ転じた。クラスメート達が言っていた“高慢な天使”という呼称が思い出される。
純は、他人の空間に割り込むことでそこを“汚して”しまうのを恐れているのだ。だから自分から身を引いて壁を作る。そんな態度が、周囲から高慢とかお高くとまっているなどと見えてしまうのだろう。
無理もない。これほどの美貌に恵まれながらそこまで自らを貶めているなんて、誰が想像できるだろうか。
「純……」
雅人は苦しくてたまらなかった。何故純が、ここまで自分を卑下するのか分からない。けれど、縋るように必死に見上げてくる瞳の奥には、真摯な苦悩が確かに揺らいでいる。どうしたら、それを取り除いてやることができるのか―――
雅人は、鍵が乗った掌を両手で優しく包み込み、深い想いを込めて告げた。
「俺の場所は、お前の場所でもあるんだ」
そしてその言葉を浸透させるように、じっと手を握り続けた。
―――ここが、雅人の部屋……
自分の部屋と同じ間取り、同じ壁紙。なのに何もかもが違う。雅人は昨日越してきたばかりだというのに、ここには人が生活している温もりが確かに存在していた。そしてそれは、自分の部屋に欠けているものだった。
純はその温もりを散らさないように、おそるおそる部屋をうろつく。日本から送られた荷物がそこかしこに置かれていた。
まだ封のされたままの箱、整理途中の箱、探し物をしていたのか、中身がぶちまけられた箱。全てが雅人の持ち物、日本で生活を共にしてきた物なのかと思うと愛しさが込み上げてきて、純はそんな自分に戸惑いを覚えた。
「これ、は……」
まだ整理途中で、何をどこへ収納するか決まっていない混沌とした状態の中、写真立てだけはきれいに磨かれて、キャビネットの上に飾られていた。
純は思わず手に取って眺める。写真には、二人の少年が笑顔全開で写っていた。一人は雅人だろうが、もう一人は誰だろう。黒髪に黒瞳、端整な顔立ち。雅人によく似ている。ということは、彼は―――
「たっだいまー。純、鍵開けてくれー」
朗らかな声に弾かれて、純はぱたぱたと玄関へ向かう。
「あそこのスーパーすげえな。何でも揃うぜ」
大きな袋を二つ抱えた雅人は、嬉しそうににっこり笑った。
「もちろんイチゴもあったよ。ただしこれはデザート。ちゃんと飯食ってからでないとあげません」
そう言いながら、袋の中身をてきぱきと冷蔵庫に詰める。そして上着を脱いで腕まくりをし、
「純、腹減っただろ？ 今日のランチは和風オムライスだっ」
純は思わずぱちぱちと拍手する。雅人は満足そうにうんうんと頷くと、
「純も手伝ってくれるか？」
「ぼく…何もできないけど……」
「卵混ぜるぐらいならできるだろ？」
「うん…」
自信なさそうに頷く純の頭を撫でて、雅人は料理に取り掛かった。
「雅人って、すごい………」
ふんわりと卵でくるまれたオムライスは見栄えも味も一級品だった。和風というだけあって、中身は醤油と少量のオイスターソースで味付けられたきのこ入りの炒めご飯だったが、それが卵とよく合った。
「旨いか？」
「うん。すごく美味しい」
その言葉通り、次々と口へ運ぶ純を、雅人は目を細めて眺めている。
「雅人は食べないの？」
「ああ、食うよ」
空腹であることは間違いないのに、こうして夢中でぱくぱく食べる純を見ているだけで、鳩尾の奥が熱くなって空腹を忘れてしまう。
「ふわ……おみそ汁、懐かしい、おいしい………」
「おお、やっぱりお前も日本人だな。うんうん」
何と雅人は、日本から味噌まで持ってきていた。まさかこんな風に、いきなり友人に振る舞うことになるとは思っていなかったけれど。
「雅人って、何でもできるんだね」
屈託ない尊敬の眼差しを向けられて、思わずうろたえる。
「い、いや、何でもって……。ただ俺ん家は父親も母親も外に出てることが多かったから、家事やったり弟に飯作ったりせざるを得なかったというか」
「弟って……もしかしてあの写真の………」
「ああ、見たのか？」
純はびくんと跳ね上がって、罰を待つように俯いたまま「ごめん、勝手に…」と呟く。雅人は苦笑を浮かべてそっと寄り添い、
「見てくれて嬉しいよ。俺の…大事な弟なんだ。年はひとつ下だから、純と同じか」
純はおそるおそる上を向いて、
「雅人にそっくりだね」
「よく言われる。でも俺よりずっと繊細で、優しくて、脆くて………」
雅人はくっと喉を鳴らして何かを呑み込んだ。恐らく、嗚咽を。
「ずっと、綺麗な子なんだ………」
純は再び俯いた。そんな綺麗な兄弟の思い出の写真に、自分のような者が無遠慮に触れてしまったという罪悪感に囚われて。
その日以来、二人は一緒に登校して一緒に帰った。その頃にはすでに、天使のハートを射止めたサムライの噂は学院中余すところなく浸透して、知らぬ者はいなかった。
しかし、エリックを始めとするクラスメートたちのように「すごいすごい」と無邪気に騒ぎ回っているだけならまだよかったが、純に恋心と欲望を抱きながらも全く相手にされない上級生たちは、雅人への嫉妬と怨みを隠そうとはしなかった。
これまで純は、決まった相手を持たなかった。だから振られても相手にされなくても、仕方がないと諦めることができた。
しかし突然現れた東洋人に奪われたとなっては、黙って見ているわけにはいかないだろう。事態は、オスカーの不安通りに進んでいたのだ。
「ったく、何で一緒に登校しただけで恋人になっちまうんだよ。だいたい、純だって可哀想だ。これじゃ友だちも作れないじゃないか」
エリックはまあまあ、と半笑いで宥める。しかし僅かに顔を引き締めて、
「でもさ、雅人にも非はあると思うよ」
「何でだよ。俺が何をした」
「カッコよすぎる」
「……はあ？」
思わず間延びした声で聞き返す。しかしエリックはびし、と指を突き出して、
「ほら、そんなマヌケな顔したってカッコいいじゃないか。雅人、下級生から何て呼ばれてるか知ってるか？ 黒耀石のアドニス、黒い髪のアポロン、てな」
「ぶっ、なんじゃそりゃ」
「容姿だけじゃないぜ、昨日の構文テストだっていきなり２位だし。文武両道、才色兼備。憧れの的ってわけさ。周りもさ、純と一緒にいるのがどーしよーもないぶちゃむくれだったらここまで騒がないと思うよ。だから雅人が悪い」
「ぶちゃむくれって……。あのなあ」
反論する気も失せたのか、肩を落として溜め息をつく雅人を、オスカーは苦笑をこらえつつ慰めた。
「まあ雅人が悪いわけじゃないけどね。君にも騒がれる要因はあるってことさ。ほら、早速お出ましだよ」
廊下の隅で固まって話していた３人の元に、一人の可愛らしい少年がおずおずと近付いてきた。
下級生だろう、幼さの残る丸い頬を紅く染めて、潤んだ眼で雅人を見上げている。
「あの……相楽雅人、さん。僕は一年のトーマス・エリオットと言います。ひとつ訊いてもいいですか？」
「あ、ああ。もちろん。何かな？」
「あなたが秋原純のアミだというのは、本当ですか？」
雅人は溜め息を何とか押さえて、穏やかな声で否定した。すると少年はきらきらと瞳を輝かせて、
「それじゃ、あの…あの…ぼく……僕をあなたの………」
しかし最後まで言えず、雅人の視線から逃れるように俯いて小さな声で「これを…あなたに。受け取ってください」と告げると、胸のリボンをしゅるっとほどいて雅人の手に押し付け、走り去っていった。
それは、この学院で伝統とされている愛の告白法だった。
「…………」
雅人は訳が分からず、手の中のリボンをぼうっと見つめる。オスカーは苦笑を深めて、
「どうだい？ 雅人。愛の告白をされた気分は」
「あの子、けっこう上級生の人気が高いんだぜぇ。確かにそこそこ可愛いよな」
雅人は漸く我に返り、「ちょっと待てっ」と叫んだ。
「俺は男だぞ」
「見れば分かる」
「今の子も男だ」
「そのようだね」
オスカーはふっと息を吐き、
「雅人は同性愛なんて許せない？ 男と寝るなんて冗談じゃない、って感じかな」
「それはっ……そんな、ことは―――」
そういった偏見は持っていないつもりだった。
いや、それどころか寧ろ―――
―――静かに揺蕩う紫色の瞳。時折潤んで、何かを切々と訴えるように輝いて……
「なっ…ん………」
何であいつを思い出すんだよっ、と自分に厳しく突っ込んでみたものの、一度現れてしまった美しすぎる幻影は脳裡に棲みついて、容易に消し去ることができない。
「うあぁぁぁぁ」
雅人は怪しげなうなり声を上げて、頭をぶんぶん振り回した。突然壊れた友人を前に、
「雅人……面白い………」
オスカーとエリックは思わず本音を漏らした。その時、背後から物騒な気配が近付いてきた。
何だろうと振り向いて確かめるより先に、威嚇するような太い声が掛けられた。
「おい、そこの日本人、ちょっと話がある」
著しく礼を欠く呼びかけに、雅人は礼儀正しく応対した。
「何でしょうか」
リボンの色から最上級生と判る。しかし身長は雅人とそれほど変わらない。伝統と歴史に裏打ちされた制服でも、中身の腐敗や頽廃は誤魔化せないという見本のような男だった。妙に紅い唇を吊り上げて、
「話があると言ってるんだ。俺に付いてこい」
雅人は一瞬迷った。愉快な話でないことは明白。しかし友人二人を巻き込むことは避けたかったから、大人しく従うことにした。
「分かりました」
「まっ、雅人！」
蒼い顔をして引き留めようとするエリックに「大丈夫」と微笑みかけて、雅人は後に付いて行った。
「ど、どうする？ オスカー」
「……当事者に知らせよう」
「え？ 当事者って、まさか純に？」
オスカーは頷いて、すたすた歩き出す。
「待てよ！ 学棟長か舎監の先生に知らせた方が―――」
オスカーは分かっていた。そういう連中に知らせたところで、被害者が雅人だと知れば何もしない、それどころか知らぬふりを決め込んで揉み消そうとするに違いないと。
彼らの腐った頭には、日本から来た奨学生を平等に扱うという行動原理はインプットされていない。それに―――
「純にも、少し分かっておいてもらった方がいい。雅人が今どんな目で見られ、どんな状態に置かれているのかを」
「それは……そうかもな」
二人は純のいる学棟へ急いだ。
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