＜光明＞・１５
「うわ。無駄に豪華なアパートだな」
エントランスには、アールヌーボー調の豪奢な螺旋階段。そして奥にはエレベーターホール。ホテル業を営んでいる日系企業の所有というのも頷ける。雅人はまず管理人室を訪れて挨拶をし、鍵を受け取った。
でっぷり太った中年女性は、余り愛想がいいとは言えなかったけれど、遠い日本から来た雅人にさりげない労わりを見せた。
「あなたの隣の部屋の子も日本人で、ジルアードの学生なのよ。紹介してあげるわ」
「え、本当ですか？ ぜひお願いします」
管理人はちょっと肩を竦めて、
「混血らしいから、外見はいかにも東洋人、じゃないけれどね。少し変わった子だけど、友だちになれるといいわね」
そして大きなお尻を振りながら螺旋階段を上った。
「ダイエットのため、エレベーターは使わないことにしてるの」
「そ、そうですか……賢明な心がけで」
「嘘よ。エレベーター壊すのが恐いだけ」
「この階段もミシミシいってますが」
管理人はじろりと目を剥いて雅人を睨んだ。雅人はにやりと笑って「嘘ですよ」と返す。
「……面白い子ね。雅人、何か困ったことがあったらいつでも私に言いなさい」
「ありがとう、お母さん」
「そんな年じゃないわ」
「じゃあお姉さん」
「マダムと呼びなさい」
「かしこまりました。マダム」
そんな会話を交わしている間に、部屋の前に着いた。
「どうする？ 先に部屋に入るか、それとも隣の子に挨拶するか」
「荷物を広げていたら遅くなりそうなので、挨拶を先にします」
管理人は頷いて、ノッカーに手を掛けた。暫くして、扉が向こうから開いた。
「居てよかったわ。純、隣の部屋に今度新しく――――」
扉の隙間から顔を覗かせた少年を見た瞬間、管理人の言葉がすーっと遠のいて、全ての神経が目に集中した。
心の全て、魂の全てが“彼”の横顔に注がれて、他のものは何も、何も入ってこない。世界はただ、“彼”だけになった―――
「―――まさと、雅人、私は管理人室へ戻るから。彼は秋原純。仲良くしてちょうだい。それじゃね」
こういう反応は予想していたのだろう、呆然と立ち竦んで言葉も返さない雅人を不審に思うことなく、管理人は階下へ戻っていった。
「あ………」
彼、秋原純は真っ直ぐこちらを向いた。黄昏の湖面を思わせる静かな瞳、紫色の瞳に見据えられて、雅人の全身に甘い戦慄が走る。
何か言わねばならない。彼はきっと、こういう不躾な視線には辟易しているはずだ。ちゃんと挨拶をして、友人としての第一歩を踏み出さなくては―――
ぐうぅぅぅ……
「うわっ、たっ、たっ…やばっ……」
室内から漂ってきた美味しそうな匂いに、雅人の空っぽの胃が勝手に反応した。思わず腹を押さえて「情けねー」と日本語で呟く。
その様子を純はきょとん、とした表情で見つめていたが、身を乗り出して扉を大きく開けると、
「靴、脱いで入って」
中へ招き入れた。
―――１日半ぶりの日本語だ……
素っ気ない言葉ではあったが、久し振りに聞く日本語の響きは温かく、知らない土地で緊張を強いられていた雅人の心を優しく慰撫した。
「……お邪魔します」
と一応声を掛けたものの、中には純以外誰もいない。ダイニングテーブルにこれでもかと並べられた料理は、ほんの少ししか口を付けられていない。
「純……一人、なのか？ この料理は……」
「世話係のひとが持ってきてくれるの。こんなに沢山いらないって言っても、聞き入れてもらえなくて」
食べ盛りの男の子なら、多過ぎる量ではないだろう。しかししんと静まり返った部屋の中、たった一人で食卓についてこれだけのものを詰め込むのは苦行に等しいのではないか。
雅人は、この殺風景な部屋とテーブルの上の豪華な食事とのギャップに胸苦しさを覚えた。それを散らすためわざと大きな声で、
「ああ、腹減った。なあ、これ食ってもいいか？」
「うん。もちろん」
雅人は椅子に座って「食うぞ〜」と陽気な声で宣言すると、次々と皿に手を伸ばしていった。
「ほら、純も。一緒に食おうぜ。そっちに座れよ」
純はすでに食事を終えていたのだが、雅人の勢いに押されて頷いた。そしておずおずと皿に手を伸ばして、再び食べ始める。
「イギリスの食事は不味いって聞いていたけど、なかなかのものだな」
そう言いながら、雅人は向かいに座った純にふっと笑いかける。
純は、食事と共に不思議な感覚を反芻していた。
目の前に人が座って、一緒に食事をしている。しかも、和やかに会話を交わしながら。
「まさ…と……」
「ん？ なんだ？」
存在を確かめようとしたのか、そっと名前を呼ぶ。すると雅人は顔を上げて微笑みを返してくれた。
純はどうしてよいか分からず、俯いて「なんでもない」と答える。しかし雅人は深く追及することなく、
「ほら純。これ旨いぞ。食ってみろよ」
肉のパイ包みを切り分けて、皿に乗せてくれた。
「うん、ありがと」
この夜純はいつもの倍近い量食べて、久し振りに満腹感を覚えた。
「雅人、いいよそのまま置いといて」
「いや、ご馳走になったんだから、これぐらいしないとな」
慣れた手つきで、汚れた食器を洗う雅人。純はそれをじっと見ていたが、
「僕も…手伝う」
「そうか。じゃあ俺が洗うから、お前はそれで拭いてくれ。慌てなくていいからな」
そして１５分後、ピカピカになったキッチンを満足そうに眺めて、
「やっぱり二人でやると早いな、純」
「うん」
こっくりと頷く純に温かい視線を送って、雅人は時計を見た。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ部屋に戻るよ」
「………うん」
“もう戻っちゃうの？”という言葉が出かかったが、純は何とか呑み込んだ。また、一人の夜、恐ろしい夜が訪れる――――
「純、明日の朝迎えに来るから、学校まで一緒に行こうな」
「え？」
純は思わず顔を跳ね上げて、雅人を凝視した。
「駄目か？」
純は慌てて首を振り、
「う、ううん。一緒に…行こう……」
雅人はふわりと笑って、
「ああ、よかった。じゃあな、また明日。おやすみ」
「お…やすみなさい……」
そして、寛い背中は扉の向こうに消えた。純は暫しじっと立ち尽くして、その扉を見つめていた。
翌朝、雅人は約束通り純を迎えに部屋を訪れた。しかしその表情はやや暗い。純はいつもの癖で、やっぱり僕なんかと一緒に行くのが嫌なんだと落ち込みかけた。しかし、
「ああ……やっぱお前は似合うよな。うん。それに引き換え……酷えよな、これ。似合わねー」
雅人は、眉をひそめて制服の襟を引っ張った。
「そ、そんなことないよ……」
「嘘つけ。お前今、笑っただろ？」
純はぶんぶんと首を振って、雅人を真剣な表情で見つめた。もちろん嘘でもお世辞でもない。
本人はモスグリーンのリボンが気に入らないらしいが、身体にフィットする細身のジャケットを見事に着こなした長身は敏捷で優雅な獣のようで、純はいつだったか図鑑でうっとりと眺めた黒豹を思い出した。
必死に首を振って嘘ではないことを伝えようとする純に、雅人はそっと近付いた。そして肩に手を置き、
「お前がそこまで言ってくれるなら、自信が持てそうだよ……」
「ん、雅人、ホントに似合うよ……」
純は顔を上げて、自分に真っ直ぐ向けられた瞳を見返した。
―――なんて、綺麗な眼なんだろう……
黒は闇の色、黒は夜の色、黒は翳の色―――そう、それは純にとって不吉なもののはずだった。純を苦しめ、蝕むもの。
しかし雅人の黒い瞳は深く温かで、見つめられるだけで甘い安らぎを覚えた。夜がいつも冷淡で残酷だとは限らない。秘めやかで優しい夜だってある。
「そろそろ行くか」
「うん」
雅人の促しに素直に頷いて、純はそっと寄り添った。肩に乗っていた手の温もりを反芻しながら。
―――これは…参った……
学院に近付くにつれて、自分に集中する視線の量も険しさも確実に増してゆく。そして門をくぐった頃には、明らさまな舌打ちまで聞こえてくるようになった。
最初のうち雅人は、東洋人に対する好奇心とか不快感とか、そんなもののせいだろうと考えていた。
しかしこの視線に明らかな嫉妬が混じっているのを感じて初めて、自分が純と一緒にいるせいだと察した。
雅人にはまだ分からないかもしれないが、その嫉妬はある意味当然だといえよう。純が誰かと一緒に、肩を並べて登校するなんて初めてのことだったから。しかも―――
「ね、雅人。僕と二人でいる時は、日本語で話して」
「え？」
「だめ……？」
「いや、分かったよ。日本語で話そう」
そして二人は、周りの人間が全く理解できない日本語で会話した。それが余計に親密な、二人だけの空間を演出していることは間違いなく、周囲の嫉心をさらに煽り立てることになったのだ。
雅人は、できるだけ目立ちたくないと考えていた。日本からの久し振りの奨学生ということで、最初はどうしても注目を浴びてしまうだろうが、身体を縮め頭を低くしてそれをやり過ごし、平穏無事な学院生活を送りたいと望んでいたのだ。しかし―――
雅人は隣を歩く純を見た。嫌でも目立ってしまうこの容姿。しかし本人は、そんな自分を持て余し、周囲からの濃い視線に怯えや戸惑いを感じているように見える。
「雅人、どうしたの？」
自分に注がれる視線に気付いた純は、不思議そうに首を傾げて訊ねた。その愛らしい仕草に、雅人の胸はほんの一瞬だったが妖しく漣った。
「いや……純がいてくれて良かったよ。情けない話だけれど、やっぱり一人じゃ心細くてさ。お陰で何とかやっていけそうだ」
純は驚いた様子で立ち止まり、
「ぼく……のお陰？ 僕、何もしてないよ」
「ん？ こうして一緒にいてくれるだけですげえ安心するし。助かってるんだぜ」
純は僅かに頬を紅潮させて俯いた。雅人はごく自然な所作でその細い肩を抱き、「ありがとう」と囁いた。
そして掌に伝わる震えを感じながら、たとえ平穏無事な学院生活が送れなくても構わないから、この細い肩を突き放すことは決してすまいと心に誓った。
「それじゃ…僕はこっちだから………」
一学年下の純は、違う学棟だった。中庭で立ち止まって、少し淋しそうに告げる。その不安げな様子は雅人の胸を締め付けた。
「あのさ、今日って授業は午前で終わりだよな。そのあと一緒に帰ろうぜ」
純はぽかんと口を開けて、雅人を見上げるばかり。雅人は少し慌てて、
「あ、何か予定とかあるならいいんだ。悪い悪い」
「ないっ、予定なんて何もないよ……」
純もそれ以上に慌てた口調で答えて、「一緒に帰るっ」と怒ったように言い放った。
雅人は嬉しそうに頷いて「じゃあ、また後で」と手を振り、そのまま学棟の奥へ消えていった。
「おおっ、君があの“高慢な天使”のハートを射止めたサムライだね」
「……ちょっと待った。今の短い文章の中に間違いが３つもある」
雅人は額を押さえて、好奇心丸出しで迫ってくるクラスメートを睨んだ。
「３つ、というと？」
「純は“高慢”ではないし、ハートを射止めてはいないし、俺はサムライじゃない」
「なるほどなるほど」
クラスメートのエリック・バートンは一応頷いてみせたものの、「でもさぁ…」と反論しようとした。しかし、
「ほらエリック、ウィストン先生がお見えになるぞ」
監督生のオスカー・グレンが助け舟を出した。エリックは渋々といった感じで席に着いたが、まだ「サムライじゃないのかぁ」などとぶつぶつ言っている。雅人は思わず苦笑を漏らした。
「ごめんよ、雅人。エリックに悪気はないんだ。ちょっとお調子者なだけで」
「いや、分かってるよ、オスカー」
雅人は、真剣な表情で詫びてくるオスカーに笑って手を振った。事実、自分が編入することになったクラスの雰囲気はとても良く、好奇心の的にはされたけれど嫌な感じではなかった。
特にクラスの監督生であるオスカーは、物静かで控え目な中にも芯の強さを感じさせる少年で、クラスを見事に統率していた。
「暫くは注目を浴びて、嫌な思いをするかもしれない。それに君は…ただでさえ目立つからね。どうしても我慢できないようなことがあったら僕に言ってくれ。できる限りのことはする」
口調は淡々としていたが、真摯な思い遣りは伝わってきた。雅人が素直に礼を述べると、オスカーは「それが僕の仕事だからね」と言って肩を竦めて微笑んだ。
午前の授業が終わって帰り仕度をしていると、廊下から純がちょこっと顔を覗かせた。それだけでもう、クラス中は大騒ぎ。
エリックなどは「天使が降臨したぞぉ」とはしゃぎまくっている。しかし雅人は、そんな騒動を敢えて無視して落ち着いた態度で近付き、
「わざわざ来てくれたのか。ありがとう、純」
「ううん、あの…迷惑だった？」
「まさか。じゃあ、帰ろうか」
そして、息を詰めて成り行きを見守っているクラスメートの方を向いて「また明日」と挨拶すると、純の肩に手を添えて帰っていった。
「……すっげえ、一緒に帰るからって迎えに来たんだぜ〜。あの純が」
「やっぱりハート射止めたんじゃないかぁ」
興奮して口々に言い合う中、オスカーだけは不安げに眉をひそめていた。彼の嫌な予感は、この後すぐに的中することになるのだ。
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