５.
―――元気な子を生んで、いっぱい愛してあげてください……
「うるさいわね……つまんないこと言うんじゃないわよ………」
尭村家に戻った薔子は、与えられた部屋で一人、頭を抱えて座り込んでいた。
レイプされてできた子供だなんて、そこまで言うつもりはなかった。どうせ近いうちにバレることなのだ。
あなたの子供なのと言って、尭村を驚かして、困らせてやろう。この一途な想いに気付こうともせず、それどころかあっさり踏みにじって男なんかと付き合っている幼馴染へのちょっとした意趣返し、そのつもりだったのだ。
―――成仁の恋人ね、すっごいすっごい綺麗な男の子なの。もうめろめろのへろへろで、だらしなく鼻の下伸ばして……いやんなっちゃう
朱音との電話でその事実を知ったのは、ひと月半ほど前だろうか。その頃にはすでに妊娠は分かっていたから、夏に帰国した時に絶対この計画を実行してやろうと思った。
男を好きになるなんて、どんな気の迷いでも、軽いおふざけでも許せない。成仁のことだから、どうせ避妊せずに好きなだけセックスができるとか、そんな理由に決まってるだろうけど。
それにもしかしたら……子供ができたということで改心して、私のことを真剣に想い始めてくれるかも―――そんな甘い期待も抱きつつ。
しかし前に会ってから半年も経っていないというのに、尭村は変わっていた。
必要以上に棘のある鎧をまとって、周囲をいつもバカにしたように見下していたのに、そういった虚勢を捨て去って、一人の青年、必死に真剣に人を愛しているただの男として薔子の前に現れたのだ。
特別に優しくなったとか性格が丸くなったとか、そういう変化ではない。相変わらず無愛想だし、態度はえらそうで凶暴だし。
ただ、時折薔子を怯えさせた無感動に凍った瞳は、真摯な情熱に浸されて美しく輝いていた。それだけで薔子は悟った。ああ、彼は恋人のことを本気で愛しているのだ、と。
悔しくて悲しくて哭いた。
「お腹にあなたの子がいる」と告げた時も、そっと眉をひそめて苦しそうな顔をしたけれど、それは恋人を悲しませてしまうことが辛かったからに違いない。目の前にいる自分のことなど、意識の片隅に置き去りにされたままなのだ。
そして昨日、彼に会って心は決まった。童話の中の、純真無垢で穢れを知らないお姫さまのように美しい少年。
ただじっと運命に身を委ねているだけで、素敵な王子様に幸せにしてもらえる童話のプリンセスは、薔子をよく苛立たせたものだった。
ならば私はずる賢い魔女になって、二人を引き裂いてやろう。そのために自分自身が傷付いても構うものか。安っぽいハッピーエンドを阻止するためなら、何だってやってやる―――
その時、薔子の脳裡に子供の父親の顔が浮かんだが、素早く頭を振ってその残像を消した。
見慣れた門扉が視界に入ってきた途端、膝が震えて頽れそうになった。今からこんな調子でどうするんだ、と不甲斐ない自分を叱咤して、純は再び歩き出した。
そしてようやく尭村家の門に辿り着く。インターホンを押して額賀に来意を告げると、激しい動揺が伝わる声が返ってきた。
『あ、秋原様ですか……その、成仁様にはまだお会いできないので……』
「会わせてください。これが……最後ですから」
純が意味もなく感傷的な言葉を吐くわけはないと思った額賀は、少々お待ちくださいと言い置いて、貴仁に判断を仰いだ。
「なに、純が？ 暫く会うのは控えてくれと言ったのに」
「はい。しかし、理由もなく旦那様との約束を破るような方ではないと思うのですが……」
「確かにな。それじゃ、取り敢えず中に入れてくれ。俺が会おう。成仁には伝えるな」
「かしこまりました」
額賀は、平素の落ち着いた所作からは考えられぬほど慌ただしい歩みで、純を迎えに出た。
「どうしたんだ、純。お前らしくないぞ。決めたことを守らないなんて」
咎めるような口調だったが、貴仁の顔には労わりを含んだ優しげな笑みが浮かんでいた。
それもそのはず、リビングに現れた純は数日前会った時より確実にやつれており、目の縁は赤く腫れて微かに潤み、微細な空気の振動にも耐えきれず倒れてしまうのでは、と思わせるほどの不安定さを露わにしていた。
しかし純は、貴仁の労わりを無視して硬い声で用件を告げる。
「尭村さんに会わせてください。大事なお話があるんです」
「気持ちは分かるが、もう少し待ってくれ。今はまだ―――」
「僕は今まで、あの人の我がままに散々付き合わされてきました。一度くらい、僕の我がままを聞いてくれてもいいでしょう？」
「……純、俺の目を見て話せ」
純は一瞬びくりと震えたが、きっと顔を上げると貴仁を正面から見据えた。そして怯むことなく同じ言葉を繰り返す。
「尭村さんに会わせてください。これが最後ですから」
「“最後”の意味が俺には全く分からねえが、まあいい。その代わり、こういう中途半端な状況で会ったことによって、収まるはずだったものがおかしくなっちまっても、俺は責任を持たん」
「けっこうです。それじゃ、部屋ですね？ 行ってきます」
純は軽く一礼すると、さっさとリビングを出ていった。強硬な態度とは対照的な脆い後ろ姿に、貴仁は痛ましげな視線を投げかけた。
尭村は信じられない思いだった。目の前に、逢いたくてたまらなかった人がいるのだ。今すぐにでも抱き締めて温もりを確かめ、柔らかな唇に自分のそれを重ねたい。
しかしそういった甘い接触を拒む強い何かを、純は発していた。ぎこちなく頭を下げてソファに座るその様子だけで、痛いほど神経が張り詰めていることが分かる。
尭村は何も言えず、もちろん抱き締めることもできず、大人しく純の正面に腰を下ろした。
「いきなり訪ねてしまってすみません。先生には少し待つように言われたのですが、僕の結論が出てしまったので、それを早く伝えようと思って押し掛けてしまいました」
「……何だよ、結論って」
「あなたと別れます。別れたいんです」
全く予想していなかった言葉ではない。しかしここまではっきり、叩き付けられるように言われると、さすがに尭村もショックを隠せなかった。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「あれは俺の子じゃない」
はっきりそう告げる尭村に、純は鼻で笑って、
「どうして断言できるの？ 思い当たることはあるくせに」
「避妊した。面倒事はご免だからな」
「失敗することだってあるはずです。絶対大丈夫なんてあり得ない。まあ、僕が相手だったらその心配はなかったでしょうけど」
「……純、俺の目を見て話せ」
そう命令する自分の声には、剣呑な熱がくすぶっていた。尭村は瞬間的にヤバい、と思った。このままでは、自制がきかなくなる恐れがある。思わずぎり、と奥歯を噛み締める。すると、
「尭村さん、またこの前みたいに無理やり僕を犯しますか？ そうやって言うことを聞かせようとしますか？」
尭村ははっと顔を上げた。
―――こいつは、俺を怒らせようとしている……
そう分かった瞬間、尭村は急に落ち着きを取り戻した。
目の前の純はよく観察するまでもなく、今にも崩れ落ちそうなほどの激しい消耗を晒している。それを眼差しの力で隠そうと、ひたすら厳しく尭村を睨んでいるぎりぎりの虚勢は、余りに痛々しかった。
「分かった。お前がそう思うのは無理ないのかもしれない。でもな、子供が生まれれば判ることだ」
尭村の穏やかな返答に、純は面食らったようだった。しかしすぐに表情を引き締めて、
「何故そう言えるのですか？」
「調べれば判る。血液鑑定でも、ＤＮＡ鑑定でも―――」
言い終わらぬうちに、純は怒りを露わにして立ち上がった。
「そっ、そんな風にして調べられた子供の気持ちを、考えたことがあるんですかっ！」
「悪いが、俺はそこまで感傷的にはなれない。疑わしいから調べる、それだけのことだ」
「……最低です。あなたみたいないい加減な人がいるから、不幸な子供が増えるんだ。そんなあなたが、僕にはどうしても許せない」
「なら俺は、どうすればいいんだ？」
純は表情を和らげて、諭すように語りかける。
「愛してあげてください。彼女と、お腹にいる可愛い子供を。それが僕の―――」
「無理だ。俺が愛しているのはお前だけだ」
穏やかながらも深い確信に満ちた声が、純の張り詰めた神経にすっと浸透してゆく。その余りの心地よさに、一瞬よろめきそうになる。
「いいか、はっきり言うぞ。万が一、俺の子だったとしても、愛情を注ぐことはできない。責任は取る。が、それとこれとは別だ。俺は、お前以外は愛せない。今もこれからも」
―――やめて…尭村さん。もうこれ以上………
「ぼ、ぼくは……」
純はからからに渇いた喉から、罪深い言葉を絞り出した。尭村を傷付け、自分を欺くための言葉を。
「あなたのそういう自分勝手なところがだいっ嫌いなんですっ。自分さえよければ、他の誰が傷付いても構わない。もうたくさん。もう付き合いきれない……」
尭村さん、尭村さん、ごめんなさい―――純は胸の裡で何度も叫びながら、最後に言うべきことを口にした。
「これで終わりです。もう二度とここへは来ません。さようなら」
ちゃんと目を見て告げるつもりだったのに、純が見ていたのはぶるぶると震える自分の拳だった。そして、発した言葉の重みに必死で耐えるように、覚束ない歩みでふらつきながら尭村の部屋を立ち去った。
何度もキスを交わし、何度も抱き合った愛しい場所。もうここを訪れることはないであろう―――
「まったく……」
あのバカが、と心の中で続ける。
―――自分があんな豪快な嘘つけると思ってるのか……
あまりに辛そうで、あまりに痛々しくて、思わず何度も手を伸ばしそうになった。もういい、もう分かったから、そんな苦しげに顔を歪めて、血を吐くように嘘をつかなくていい。何もかも忘れて、俺の腕の中に帰ってこい―――
しかし尭村がそうしなかったのは、純の頑固さを知り尽くしていたから。悩んで悩んで出した結論に匹敵するほどの確かなものを差し出さないと、純の翻意は難しいだろう。
泣き虫で、淋しがりやで、いつも不安に苛まれているくせに、妙に一途なところがある。そういう不器用さも愛しくて、尭村は思わず声を上げそうになった。やり場のない想いが、身体中を駆け巡る。純を求めている。
―――嘘だと分かっていても、こんなにショックを受けるものなんだな
あなたと別れます、あなたなんて大嫌い……真情からかけ離れた口先だけの言葉の、思いもかけぬ威力。
尭村は、ずっと握り締めていた拳をゆっくり開いた。汗ばんだ掌には、喰い込んだ爪の痕が残ってじりじりと疼いていた。
「あ…今、空が鳴った……」
「そうか……確かに雲行きが怪しいな。早めに帰った方がいい」
「うん、そうだね……」
そう言ったきり、秀と美紅の会話は途絶えた。林間学校から帰って初めて逢ったのだが、その思い出には全く触れることなく、これからの休みの予定や近況についてぽつぽつと話すだけだった。
今度どこかへ遊びに行こうとか、そんな計画が提案されることもなく、急に灰色の雲で覆われ始めた空と同様、二人の間にもどんよりと重苦しい空気が横たわっていた。
触れてはいけない何かが、確かに存在している。こんなはずじゃなかったのに、と美紅は唇を噛んだ。
心に溜めているものを何でもぶちまけてもらって、少しでも気持ちを軽くしてもらいたい。そのつもりであの手紙を書いたのに。傍にいたいって思ったのに。
―――私の、思い上がりだったのかな……
どんどん気持ちが後ろ向きになっていく。その時、美紅の視界を無視できない人が横切った。
「あ、ねえねえ、あそこにいるの純くんじゃない？」
「え……あ、ああ。そうだな。ん？ あいつ……」
「な、泣いてるよ、ねえ………」
美紅の指摘通り、純は泣きながら歩いていた。まるで涙に支配され、動かされているかのように、意志の抜け落ちた覚束ない歩み。自分がどこへ行こうとしているのか分かっていない、いや、泣いていることすら気付いていないかもしれない。
その余りの危うさに、美紅の胸は締め付けられた。自分ですらこんな想いに囚われるのだから、秀にしてはいてもたってもいられないに違いない。
事実、秀は息を呑んで素早く一歩踏み出した。が、
「ああ……どうせまた尭村さんと喧嘩したとか、そんなことだろう。いちいち付き合ってたらキリがないからな。放っておけよ」
わざとらしく肩を竦めて、美紅の元に戻ってきた。視線だけは必死に純の姿を追っていたが。
「……嘘つき。本当は気になって気になって仕方ないくせに」
美紅は厳しい視線を秀の顔に注ぐ。秀は目を逸らして、
「俺は今、お前と一緒にいるんだ」
「私はっ、私はそんな風に純くんに冷たくして欲しいわけじゃない。無理して私だけを見てもらいたいわけじゃない。
大事な幼馴染が、あんな風に人目も憚らず泣いているのに、知らん振りして放っておくような、そんな秀くんは……私の好きな秀くんじゃない」
「高階……」
「ただの喧嘩だって、当事者は傷付くものよ。特に純くんみたいに繊細なものを抱えている人は、何気ないひと言に大きなショックを受けるんじゃないの？ そんな彼を秀くんはこれまで優しく守ってきてあげたんじゃないの？」
秀は迷っていた。そんな役目はもうたくさんだという思いと、それでもいいから傍にいたいという願いがせめぎ合う。
すると美紅は両手を突き出して、秀の背中を思い切りどん、と突き飛ばした。
「う、わっ」
「早く行きなさいよっ。純くんの姿が見えなくなっちゃったじゃないの」
「わ、分かった」
秀は駆け出しながら思った。きっと自分は、誰かがこういう風に背中を押してくれるのを待っていたのだと。そして、それが美紅でよかったと思った。
「私も……早く帰ろ」
美紅は遠ざかる背中を見送りながら、彼はもう二度と自分の許へ戻ることはないだろうと、予感より強い確信を反芻した。
寂しさはあったけれど、後悔はしていなかった。
