２.

「秀くん、さっきはごめんね。せっかく……３人でいたのに」

湖へ向かう涼しげな小道を歩きながら、美紅はぽつりと呟いた。秀にとって、ああやってじゃれ合っているのが何よりも大切で、何よりも幸せな時間だと分かっていたから。しかし、

「そんなこと言うな。俺の方こそ悪かった。お前の方から誘わせちまって」

秀は少し怒ったような口調でそう言うと、手を伸ばして美紅の髪をさらりと撫でた。まだ多少のぎこちなさはあるものの、それは泣きたくなるほど優しい仕草で、美紅は思わず瞳を潤ませた。

「あ、見て。ボート乗り場だって」

女々しい奴だと思われたくなくて、美紅は殊更はしゃいだ声をあげた。

「本当だ。行ってみるか」
「うんっ」

看板の矢印に従って湖畔を歩いていくと、ぼうぼうに伸びた野草の向こうにさびれたボート乗り場が見えてきた。

「うわ……何かすげえな、あれ」
「うん……乗った途端に沈みそう」

二人は思わず顔を見合わせる。ボートが３艘ほど浮かんでいるものの、塗装は剥げ落ち、２艘はオールが１本しかなかった。しかし美紅は目を輝かせて、

「でもちょっとわくわくする。ね、乗ってみようよ」
「途中で沈んだらどうするんだ？」
「もちろん、泳ぐ！」

秀は苦笑を浮かべて「マジかよ」と呟く。

「じゃあ、先に秀くん乗ってみて。それで大丈夫そうだったら私も乗るから」
「ひでえ女。俺が乗って平気でも、お前が乗ったら沈むかもしれないぜ」
「何よ、それぇ。傷つくー」

二人は笑いながら、崩れかけたボートハウスへ向かった。その時、中から複数の男の声が聞こえてきた。

「あれ？　先客かしら」
「いや、そんな感じじゃないな……高階、ちょっとここで待っ―――」

言うより早く、美紅は草を掻き分けてボートハウスへ向かった。どうやら、好奇心旺盛な女子らしい。秀も慌てて後を追った。

近付くにつれて、中から聞こえてくるのはボート遊びをしに来た男の子たちの声などではなく、もっと物騒で暴力的なものだというのが判ってきた。

入口の扉は外れているため、中の様子を覗くことができる。草の蔭に身を潜めてそっと覗いてみると―――

「なっ、何よ、あれ」
「いじめ、じゃない。もっと酷い。リンチだな」

秀の言う通りだった。他校の、恐らく運動部の合宿に来ている連中だろうが、比較的がっしりした体型の３人が、床にうずくまる一人の少年を蹴り回していた。

少年は両手で頭を防御してのたうち回っていたが、一人がライターを取り出して火を点け、そのまま顔へ近づけると、か細い悲鳴を上げて許してくれと懇願した。

秀はどうすべきか素早く頭を巡らせた。自分はここに残って彼女だけ帰らせ、教師に知らせてもらうか、これほどの暴力なら警察に通報するべきか。ならば、少し離れたところから携帯で―――

「あんたち、何やってんのよっ」

また、美紅に先を越された。しかし今度は、苦笑いでは済まされない。秀は本気で頭を抱えた。
当の美紅は肩をいからせて、揺るぎない歩みで彼らの元へ近付く。

「ケンカでも何でも、限度ってものがあるでしょ？　その子死んじゃうわよっ」

男たちは驚いて一瞬手を止めたが、馬鹿にしたように嗤うと、

「なんだお前。頭オカシイんじゃねえの？」
「こいつ、蒼薇のお嬢ちゃんだろ。世間知らずにも程があるぜ」

３人は、顔を紫色に腫れ上がらせて這いつくばっている男よりも、美紅の方へ関心を向け始めたようだ。唇を舐めながらゆっくりボートハウスを出て、美紅に近付く。

「な、なによ。他校の女に暴力振るったなんて知れたら、あんたたちのクラブ活動できなくなるんじゃないのっ」
「恥ずかしくて告げ口できねえようなことしてやるよ。なあ？」

この時、秀はすでに男たちの背後に回っていた。そして最も背が高い、といっても秀よりは低いのだが、リーダー格の男に攻撃の照準を合わせた。

「なあなあお嬢ちゃん、輪姦とか野姦て言葉知ってるぅ？」

そんなの知ってるわよ、蒼薇学園をなめんじゃないわよッ、といささか見当外れの啖呵を切ろうとした時、秀の重い蹴りが男の背中に入った。

「ぐわっ」

そしてみっともなくつんのめった身体を掴むと、頬と鳩尾に続けて拳を打ち込み、襟首を捕まえて湖に突き落とした。

「な、なんだこいつっ、いつのまに」

残る二人は慌てた様子で身構えたが、秀はちらと肩を竦めて、

「おい、湖に落ちたあいつ、助けてやらねえと溺死するぞ」
「え、えっ……おい、高橋っ。だ、大丈夫かっ」

二人は蒼褪めた顔でばしゃばしゃと水に入っていった。その間に秀は、ボートハウスの床に伸びている少年を担ぎ上げて、飄々と美紅の元へ戻ってきた。そして、

「帰るぞ」

美紅の無謀な行為を咎めることもなく、いつもの淡々とした表情で告げた。

「は、はいっ」

二人はまるで何事もなかったかのように、来た時と変わらぬのんびりした歩みで宿舎へ帰っていった。




秀と美紅が助けた少年は一年生で、少し前から先輩のいじめに遭っていたということだった。それも、先輩の彼女を取ったとか何とかで、部内でも公然の秘密だったらしい。

すぐに顧問の教師に連絡が入り、少年は病院へ搬送された。そして蒼薇の教師への謝罪と、秀たちへの感謝が伝えられた。

もちろん腹の底では、余計なことしてくれた、とムカついていただろうが。ことを荒立てたくないというのが、昨今の教師感情の趨勢なのだ。

ようやく騒ぎもひと段落ついて、秀と美紅はほっと息をついた。

「なんか疲れたな。冷たいものでも飲もうぜ」
「う、うん……あの、秀くんごめんね。私………」
「お前は、俺じゃなくまず自分に謝るべきだな」
「え……」

美紅はぽかんとして秀を見上げる。自分を見つめている真剣な表情に、思わず胸がどきりと波打つ。

「もし俺がいなかったら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。もっと自分を大事にしなくては駄目だぞ」
「……秀くんがいるからきっと何とかしてくれる、私の中にそういう甘えがあったとは思わないの？」
「それを甘えと呼ぶのか分からないが、お前は俺がいなくても同じことをしたんじゃないのか？」

秀は微かに口許を緩めてそう言うと、美紅の頭を撫でた。




夕食も終わり、大浴場で汗を流した美紅は、友だちの誘いを断って一人で星を見に来ていた。

テニスコートの向こうが小高い丘になっていて、夜空を見上げるには絶好の場所だった。本当は秀を誘いたかったのだが、今はそんな気にはなれなかった。

―――なんであんなに優しいんだろ

秀の人間性については、よく知っているつもりだった。けれどたった半日一緒にいただけで、自分が思っていた以上に温かく深い優しさを持っているのだと気付いた。なのに―――

―――あたしは、そんな秀くんの弱みに付け込んでいるんだ

痛い自覚。でも誤魔化すことはできない。あなたの気持ちは解っているわ、と同情めいたことを言いながら、心の隙間にするりと入り込もうとしているのだ。何て汚いんだろう。それに比べて………

「あ、あれ？　美紅ちゃん」
「あ……純くん」

純がひょっこりと顔を出した。驚いたように大きく瞬きしたが、すぐににっこり笑うと、

「美紅ちゃんも星を見に来たんだね。ここが一番よく見えるもんね」

美紅の隣に座って空を見上げた。そして、

「今日は大活躍だったね。あの男の子……気管に血の塊りが詰まってたって。あのままだったらどうなってたか……ホントに良かった、助けられて」
「私は何も……ただ後先考えず飛び出していっただけで。ね…秀くん、私のこと怒ってなかった？」

おそるおそる訊ねる美紅に、純はぶんぶん首を振って、

「ううん、全然。あんなに恐いもの知らずとは思わなかった、って笑ってたよ」
「そっか。よかったぁ」

心底安心した美紅は、ほぅっと息をついた。そして、

「秀くんてすごいケンカ強いんだね。私びっくりしちゃった。身体はがっしりしてるけど、どちらかと言うと文系のイメージだったから。何か習ったりしてるのかなあ」
「うーん。家庭教師でお兄さん代わりみたいな人がいるんだけどね、昔その人に護身術みたいなのは習ってたらしいよ。でも小さい頃は、直の方が強かったんだって。いつも俺が守ってやってたんだ、って言ってるけど……直の負け惜しみじゃないかなあ」

純は「直には内緒だよ」といたずらっぽく笑った。

「そう……」

美紅には分かった。たぶん秀は純を守るため、強くなろうとしたのだろう、と。

「み、美紅ちゃん、どうしたの？　大丈夫？」

自分の肩を抱いて俯いてしまった美紅を、純は心配そうに労わる。

「風が少し冷たくなってきたね。これ羽織って」

自分の上着を脱いで差し出す純を、美紅は唇を噛み締めて見つめる。駄目だ、絶対に無理。敵わないよ。こんな綺麗な人に………

「ううん。大丈夫。私、そろそろ戻るね」

月明かりを反射して澄んだ輝きを放つ純の瞳に、自分の濁った心を見透かされてしまうような気がして、美紅は堪らず立ち上がった。

「暗いから気をつけてね」

純が掛けてくれた言葉に返すこともできず、美紅はその場を逃げ出した。純は、その後ろ姿を心配そうに見送る。

「ちゃんと送っていくべきだったかなあ……」

そうだ、こんな外灯もなく、月明かりにしか頼るもののない暗闇を女の子一人で帰すなんて、配慮の足らないことをしてしまった。しかも秀の大事な恋人なのに……

その時、美紅が帰っていった方から微かな悲鳴が聞こえた。純は慌てて立ち上がると、その方角に駆け出した。




「なっ、なによあんた達っ」

美紅は３人の男たちに囲まれていた。宿舎はまだ遠い。大声で叫んでも、届く距離ではない。

「何だよ、もう忘れちまったのか？　今日お世話になったばかりなのに」
「あっ……」

暗くて顔の判別が難しかったが、あのボート乗り場で少年をリンチしていた男たちだった。一人は顔に大きな絆創膏を貼っている。

「昼の続きをやらせてもらおうと思ってさ。お前の行動をチェックしてたんだよ」
「一人でこんな暗いとこ歩いちゃって、襲ってくださいって言ってるようなものだぜ」

絆創膏の男は口を開けることができないらしく、黙ったまま「やれ」という風に顎をしゃくってみせた。と同時に二人は美紅に飛び付いて、草むらに押し倒した。

「やっ、やめて、やめてよぉ」

めちゃくちゃに暴れて拘束を解こうとしたが、やはり力では敵わないのか逃げることはできない。しかし、

「うわっ、なん―――」
「美紅ちゃんっ、逃げろっ」

突然拘束が解けたと思ったら、純の叫び声が聞こえてきた。美紅は何がなんだか分からないまま、四つん這いになって起き上がり、一目散に逃げ出した。

背後から罵声が飛んできたが、振り返ったら捕まるような気がして、ただ全速力で宿舎を目指した。


「こぉんの野郎……」

美紅を押さえ付けていた男たちに力任せに体当たりした純だったが、美紅を逃がすのに精一杯で、自分は拘束されてしまった。

胸倉を乱暴に掴まれ、揺さぶられる。純はぎゅっと歯を食いしばった。殴られたって構わない。それより酷い仕打ちに耐えてきたのだから。しかし、

「待てよ。こいつ……マジかよ。すげえ美人じゃん」
「はぁ？　お前何言ってんだよ。こいつ男だろ………って、うわ………」

月明かりに照破された純の顔を見た男たちは、一様に唾を呑み込む。傍観者だった絆創膏の男も近寄って純を眺めた。そして目だけで笑ってみせると、二人の手から純を奪い取って草むらに押し倒した。

「や、やるのか……？」

言葉で答える代わりに、男は純のシャツに手を掛けて引き裂いた。




「秀くん、秀くんっ！」

髪を振り乱し、必死の形相で秀たちの部屋に駆け込んできた美紅を見て、二人はぎょっとした。

「は、早く来てっ。純くんがっ」
「純がどうしたんだっ」
「昼のっ、リンチしてた男たちに襲われたところを、じゅ、純くんが助けてくれたのっ。でも捕まって―――きゃっ」

秀は美紅を突き飛ばして部屋から飛び出た。直は舌打ちをして、

「高階、場所はっ？」
「テ、テニスコートの向こうにある倉庫の裏……」

直は頷いて秀の後を追った。美紅も付いて行こうとしたが、足が竦んで動けない。

暫くがたがた震えていたが、落ち着くのよと自分に言い聞かせて、ようやく二人の後を追うことができた。




「秀！　このバカ秀！　場所も聞かないで飛び出してどうするんだよっ」
「どこだっ」
「あの倉庫の裏だっ」

しかしそこに、純も男たちもいなかった。よく考えてみれば、同じ場所にいるはずがないのだ。

「遠くへは行ってないはずだ。きっとこの周辺に……」

その時、倉庫の中から微かな物音が聞こえた。秀と直は中へ飛び込む。そこには、猿ぐつわを噛まされ、３人の男に押さえ付けられた純が。しかも、引き裂かれたシャツで腕をぐるぐるに縛られている。

微かに蒼みを帯びた白い肢体が、目に痛いほど艶かしい。秀は迷わず傍にあったバットを掴むと、獣じみたうなり声を上げて３人に飛び掛り、容赦なく叩き付けた。ゴキッ、という鈍い音と男たちの悲鳴が響く。

その間に直は純を助け出し、全ての拘束を解いて上着を着せた。

「純、純、大丈夫？」

純は必死に頷いて、大丈夫だと知らせる。そして掠れた声で「美紅ちゃんは……」と訊ねた。

「もちろん無事だよ。彼女が知らせてくれたんだから」

純が「良かった…」と呟くと同時に、当の美紅が駆け付けてきた。しかし秀の暴力の余りの激しさに、言葉を失って立ち尽くす。

自分が知っている、いや、知っていると思い込んでいたはずの秀とはかけ離れた荒々しさ。鼻血をまき散らして床に伸びた３人を、美紅は畏怖をもって見下ろした。

「もういいだろ、秀。出ようぜ」

引き際を察した直は、低い声で促した。美紅を含めた４人は倉庫を出ると、取り敢えず扉を閉めて誰かを呼びに行こうとした。その時、

「余計なことするんじゃねえッ」

夏の甘い夜気を一瞬で凍らせる秀の激しい怒声が、純に向けて投げ付けられた。

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