９.
「先生、相澤せんせいっ」
「なんだ、沖。どうした？」
月曜の朝、ＨＲが終了するのを待ち構えて、直は担任の相澤を掴まえた。
「あの、純は休みなんですか？」
「なんだ、お前が知らないなんて珍しいな。休みだよ。でも安心しろ、ちゃんと弓月から連絡があったから」
「たま姉ちゃんが……そうですか。それなら大丈夫か……」
直はとぼとぼと席に戻ったが、どこか腑に落ちないものを感じていた。何度携帯に電話しても繋がらないし、メールをしても返事が返ってこない。いつもなら、余計な心配をかけまいと“大丈夫だよ”とすぐに返してくれるのに………
「直」
いつの間にか秀が傍にいて、直の肩に手を置いていた。
「暫く様子を見よう。余り干渉し過ぎても重荷になるだけだから」
「うん……分かったよ、秀………」
しかしその翌日も状況は変わらなかった。純は登校してこないし、携帯も繋がらない。
「やっぱおかしいよ、秀っ。俺、たま姉ちゃんのとこ行ってくるっ」
「待て直。俺も行く」
二人で３−Ｂへ行って環を呼び出すと、ぎゅっと口を結んだ厳しい表情で出てきた。そして開口一番、「これから話すことは誰にも言わないで」と前置きすると、
「純は今、尭村の家にいるの」
「ええっ？ あの二人、仲直りしたの？」
「ううん、違う。精確に言うと、純は尭村のお父さんが預かってくれてるの。このことは、尭村本人も知らないことなのよ」
直は何がなんだか分からないという顔で、環の次の言葉を待っている。
「今回の、二人のケンカ、っていうか尭村が一方的にブチ切れてるだけなんだけど、どうやら純の過去に発端があるらしいの。でもね、尭村の親父さんが言うには、絶対に克服できるから、もう少し時間をくれって」
「もう少しって、どれくらいだよっ。そ、それに、純は今どんな状態なんだ？ まさか―――」
環は苦しそうに頷いた。
「ええ。全く食事を摂らない。食べてもすぐ吐き出してしまう、って」
「お、おんなじじゃないかっ、昔に戻っちゃったよぉ………」
悲痛な叫びは、３人共通のものだった。秀は一歩前へ出て、
「環さん、あなたはそれを承知したのか？」
「苦渋の選択よ。尭村に原因があるのは分かっているけど、あの男の今の情態、分かるでしょ？ 悔しいけど、親父さんに頼るしかないって思ったのよ。あの人には、純もずいぶん懐いてたし。
でも１週間よ、それ以上は待てない。１週間経っても今のままだったら、純をしかるべき病院に入院させて、尭村とは二度と会わせない。そう言ったら親父さん、分かったって。その時は、うちの馬鹿息子を退学させるから安心しろって」
直と秀は暫し考えたが、黙って頷くと、１週間だね？ と念押しして環の許を去った。が、
「……悪い、直。ちょっと先に帰っててくれ。用事を思い出したんだ」
秀は低い声でそう告げると、直の返事も聞かずさっさと行ってしまった。
１限の開始直前、ざわつく２−Ａの室内に、ずかずかと入り込んでくる男がいた。一番奥の一番後ろ、安眠確実の特等席に陣取る長身の許へ真っ直ぐ向かい、その傍らに立って見下ろす。
「……何だよ、沖秀。１年が勝手に入ってくんじゃねえ」
寝不足気味なのか、赤く血走った眼球で睨みつける尭村。が、秀は動じることなく、抑揚に乏しい低音で簡潔に質す。
「純に何をしたのですか？」
尭村は挑発するような、しかしどこか泣きそうな歪んだ表情で答える。
「無理やり犯した。アソコから血流して泣き叫んでたぜ」
二人の間の不穏な空気を察したクラスメートは、巻き添えを怖れてみな離れていた。そのため、尭村の言葉は傍にいた秀と森下にしか聞こえなかった。
その時、二人が示した反応は対照的。森下は「あ、尭村、お前っ」と声を荒げて机の上にばん、と両手をついた。しかし秀は静かに「そうですか……」と答えた、次の瞬間―――
ゴキッ、という鈍い音と共に尭村の身体が吹っ飛んだ。そして後ろのロッカーに叩きつけられる。その衝撃で、教室のロッカー全体がガシャガシャと揺れた。
もちろん尭村はすぐに体勢を立て直し、二度目の攻撃をかわして秀の頬に派手な一発を入れる。秀は切れた唇を拭うこともせず、飛びかかって身体ごと押さえ込み、上から拳を打ち込む。尭村は膝で鳩尾を蹴り上げると、今度は自分が上になって同様に殴打を浴びせる。
教室内は水を打ったように静まり返っている。悲鳴もあげる者も、もちろん止めに入る者もいない。ただ、荒く攻撃的な息遣いと、喉に詰まった血液がたてるがらがらという喘鳴、そして互いの頬や腹に拳を打ち込む鈍い音だけが支配している。
どのくらい、静かで激しい殴り合いが続いただろうか。漸く二人に消耗が訪れた。
秀は大きく腕を振り上げたが、力尽きたのかそのままがくりと床に手を突くと、初めて血塗れの口許を拭った。尭村は掠れた喘鳴を漏らしつつ床に仰向けに倒れた。
二人共に、端整な顔は血と汗で汚れきって、ところどころ腫れ上がっている。
「クッ……くっくっくく………」
尭村は寝転がったまま肩を震わせて笑った。
「お前……あいつに惚れてんだろ」
秀も両手を突いたまま、同様に肩を震わせて笑う。
「はっ、ははっ……は、何を今さら。俺が、惚れてないとでも思ってましたか？」
そして、ぴたりと笑いが止まった尭村の耳許に唇を寄せ、
「……いつか必ずあんたから奪い返してやる」
威嚇するように囁くと、よろめきつつ立ち上がって教室を出ていった。
「おお、そろそろ来る頃だと思っていたぞ。しかし派手にやったな。いい男が台無しだ」
「……俺は大丈夫だ、っつったんですけど、こいつがうるさくて」
厳しい表情で腕を組んで立っていた直が、さらに険しく眉をたわめて叫んだ。
「あったりまえじゃんか。この顔で教室戻ってきて、普通に席に着いて授業受けようとするなんて、我が弟ながらクレイジーだよっ。だいたい、あ、あんなことして何になるんだよ」
「何にもならない。ただ一度、あの人をぶっ飛ばしてみたかった。それだけだ」
「何だよ……ぶっ飛ばしたいのは俺も同じなのに………」
秀は薄く微笑って、
「分かってる。だからお前の分も殴っておいた」
宗一郎は、薬を塗る手を一瞬止めて、
「俺も……ぶっ飛ばされるべきかもな………」
そう呟くと、二人の詮索するような視線を無視して治療に専念した。
翌日―――日向は６限をすっぽかして純の家に向かっていた。
今日で純の欠席は３日目。同居している弓月環に純の具合を質しても、要領を得ない答えと、見舞いには来ないでくれという理不尽な要求しか返ってこない。携帯も繋がらない。業を煮やした日向は環の求めを無視して、直接純に会いに行くことにしたのだ。しかし―――
「あら、まあ。純はねえ、暫くお友だちのお家に行ってるの。お友だちのお母さんが旅行に行っちゃってご飯を作ってくれる人がいないから、純がお料理してあげるんですって」
応対に出た環の母親は、にこにこ笑いながら教えてくれた。この人が嘘を言っているとは思えない。本当に、純はここにはいないのだろう。では、一体どこに―――
「まさか………」
日向は車に戻ると、運転手に行き先を告げた。
『はい。どちら様でしょうか？』
「私は、成仁くんの同級生で日向と申しますが、あの―――」
『成仁様はまだ学校からお帰りになっておりませんが………え？……はい、かしこまりました………あ、日向様、失礼致しました。今門を開けますので』
応対に出た男の後ろで、誰かが日向を招き入れるよう指示したようだ。恐らくこの家の主だろう。
日向はふうっと息を吐くと、カラカラと自動的に開いた門をまたいで中へ入っていった。
「よお、上がれよ」
日向は玄関ホールで、挨拶も忘れて立ち尽くした。
「あ、あなたが尭村の………なるほど、よく似ていらっしゃる」
「よせよ。俺の方が５億万倍イイ男だ」
まさに尭村成仁が言いそうな台詞。日向は「遺伝子か……」と呟くと、軽く頭を下げて靴を脱いだ。そして貴仁の後についてリビングに通された。そこで貴仁はくるりと振り向くと、
「お前、生徒会長だろ。名前は？」
「日向です」
「下の名前」
「……勇人、です」
貴仁は口端を吊り上げて嗤った。威嚇、ではない。それは自分と対等か、或いは優位な存在に向けられるものだ。彼は今完全に日向を見下ろしている。
こんな扱いを受けるのは初めてだ。日向は唇をぎり、と噛んだ。貴仁はそんな日向を面白そうに観察すると、
「お前が“勇人さん”か。なるほど。お前、純に会いに来たんだろ？ いいぜ、会わせてやるよ。来い」
そう言って再び背中を向けると、すたすたと歩き出した。ここに純がいたとしても、そう簡単には会わせてもらえまいと覚悟していた日向は、些か拍子抜けしたのか、ふらふらと弛緩した歩き方で貴仁の背中を追った。
が、その緩んだ神経はすぐに極度の緊張を強いられることになる。貴仁が招き入れた部屋、そこには―――
「純……」
純はベッドに横たわり、目を閉じている。その腕には点滴の針が刺さり、管の先には薄いオレンジ色の液体で満たされた袋が繋がって、可動式のスタンドから吊るされていた。
「今は薬で眠っている。が、大きな声は出すなよ」
しかし日向は貴仁の言葉を無視して――いや、聞こえなかったのかもしれない、悲愴な声で叫んだ。
「なっ、何ですかこれは！ 純に……純に一体何がっ」
貴仁はちっと舌打ちすると、日向の耳許で、
「デカい声出すなっつっただろ、生徒会長。ちゃんと教えてやるから。
お前にヤられた後、純はここに来たんだよ。たぶん……覚悟の上だったろうな。で、案の定逆上した成仁にいきなり犯された。俺が駆けつけた時には、純は血で汚れた下半身を晒して気を失っていたよ」
「うっ………」
呻いたきり、言葉を失った日向。貴仁は、そんな彼を値踏みするような冴えた眼で見つめている。そして、先に口を開いたのは日向だった。
「彼の世話は……あなたがされているのですか？」
「ああ、そうだ。妻を病院から引き取って、在宅で看護した時の経験が役に立ったな。点滴薬の付け替えくらいならできる。そう、最期を看取ったのもこの部屋でだったな」
「そう……ですか……」
再び、黙り込んだ日向。貴仁はゆっくりとその正面に回り、
「で、これで満足か？ 生徒会長」
「な、なにを……」
「ん？ よほどの阿呆じゃない限り、純をヤったらどうなるかぐらい予測ができるだろう。こういう結果は想定内だったはずだ。今さら驚くんじゃねえよ。目的達成のためなら、多少の犠牲も止むなし、か」
日向は、自分を威圧するように立ちはだかる男を、鋼の視線で刺し抜いた。挑発には乗らない。さっきの貴仁のように、口端を吊り上げて嗤うと、
「あなたも純のことを愛しているのですね。なるほど、親子でとは純も大変だ」
「なんだ、それで俺を揺さぶろうって訳か？ クソ甘いガキだな」
貴仁はバカにしたように言い放った。そして間髪入れず日向の胸倉を掴み上げると、
「てめえ…俺の質問に答えろ。これで満足かと訊いたんだ」
腹の底を掻き回すような重低音。日向は戦慄した。この男の威圧感、尭村成仁の比ではない。冷たくざわつく意識野の片隅で、日向は以前耳にしたある噂を思い出した。
尭村家先代は、長男を差し置いて次男である貴仁を自らの後継者にしようとしたらしい。決断力、実行力、カリスマ性といった資質を、まだ中学生の貴仁の内に見抜いたのだ。が、それを察した当人は、面倒なお家騒動はご免だとばかりに家を出て、さっさと絵描きになってしまったという。
「わ、私は……彼にこんな痛みを負わせるつもりは……決して―――」
貴仁は、掴んでいた日向のシャツを離すと、
「ハッ、よくもまあそんなキレイごとを。自分の悲痛な過去を見せびらかして同情を引き、拒絶できない状況に追い込んで身体を奪ったくせに。純の優しさに付け込んでな」
「あなたは……何を言っ―――」
「お前のことを愛しているのかと純に訊いたら、こう答えたぜ。愛してあげなくてはならない、あの人は過去に辛い経験を強いられてきたのだから、と」
待て、待て、純は一体何を言ってるんだ。過去がどうしたって？ 私の過去など何も―――その瞬間、日向は激しい眩暈に襲われた。まさか、まさか……
「まさか……まさか……」
日向は壁に手を突いて呼吸を整えた。そして覚束ない足取りで部屋を出、そのままリビングを横切って外へ出た。貴仁は追わなかった。
―――あの男、知らなかったのか……
しかし、だからと言って許されるわけではない。貴仁は宙を見据えて、あと３日か……と呟いた。
日向は、尭村家の門に身体を凭せて考えていた。
―――まさか、宗一郎が……
そんなはずはないと心中で弱々しく否定しながらも、日向は携帯を取り出して震える指で番号を呼び出した。
『はい、聖ルチアの家、宮本です』
「ご無沙汰しております、日向ですが」
『まあ、勇人ぼっちゃんですか？』
「はい。お訊きしたいのですが、最近、宗一郎がそちらへ面会に伺ったことはありましたか？」
『ええ、先週お出でいただきましたよ』
日向はすうっと息を吸い込んだ。そして、
「……その時、宗一郎は一人でしたか？ それとも―――」
『あぁ……』
電話の向こうから漏れ聞こえた深い溜め息。それで全てが分かった。答えなど聞くまでもない。が、聞かねばならない。日向にはそうする義務がある。
『もう一人、麻子さんの遠縁だという方がご一緒で。何と申しましょうか、まるで天の祝福をお受けになったかのように美しい方で。後で伺いましたら、男の子ですって。本当に驚いて―――』
いつ電話を切ったのか覚えていない。気が付けば日向は走り出していた。
運転手が驚いて「どちらへ行かれるのですか！」と叫んだ時にはすでに、日向の背中は見えなくなっていた。
「ただいまー」
「あら環、お帰り。早かったのねえ」
「うん……何か身体がだるくて。早めに帰ってきちゃった」
早紀は心配そうに環の額に手を当てると、
「熱はないわね。あなた、寝不足じゃないの？ 試験勉強もほどほどにね。……あ、そうそう、さっきね、純の先輩がいらして下さったのよ。名前、なんて言ったかしら、えーと、この前も来て下さったのよね、髪が長めですごく綺麗な男の人―――」
「え？ 日向―――」
早紀は嬉しそうにぱん、と手を叩くと、そうそう、日向先輩、日向先輩、と繰り返した。
「純がお友だちの家にいるって言ったら、驚いてたわよ」
日向にばれてしまった。でも仕方がない。いつまでも隠し通せるとは環も思っていなかった。
環は「そうなんだ……」と適当に言葉を返して自分の部屋へ行こうとした。が、
「ねえ、環。純は尭村さんと別れちゃったの？ あの日向先輩と付き合うことにしたの？」
一瞬固まる環。目の前の母親は、心底心配そうな顔つきで環を見つめている。何言ってるの、純が男と付き合ってるわけないじゃん、などと誤魔化すことはできなかった。
「ママ……知ってたの？ 純が尭村と………」
「そりゃあ分かるわよ。尭村さんてば、純が風邪で休んでた時毎日お見舞いに来てくださったじゃない。それにね……ママ、見たんだもん」
「どえっ、ななななななにを？」
尭村の奴、まさか親がいるのに……いや、あの男ならやりかねない。刺激があって興奮するとか言いそうだ。
「タオルを変えようと純の部屋を覗いたの。そしたらあの子ってばお薬が効いたのか、尭村さんがいるのにくうくう寝ててね。で、その寝顔を尭村さんが、ベッドの端に頬杖ついてじーっと見てるのよ。
純が寝返り打って布団がずれたり肩が出たりしたら、そおっと掛け直してくれて。それでまたじーっと見てるの。何だかママ、嬉しくなっちゃって。ああ、純は幸せなんだな、って」
「ママ………」
「今日来て下さった日向さんもとても素敵な方だけど、ちょっと危うい感じがするわ。今の純には負担ではないかしら。
そう……例えば、たかーい所にのぼって下を見たら、ふらっと吸い込まれて落ちそうになるでしょ？ その時傍にいるのが日向さんだったら、一緒に落ちてしまうような気がする。でも尭村さんだったら……腕をぐっと掴んで引き戻してくれる、ママはそう思うんだなあ」
環は両手で顔を覆った。指の隙間から涙が溢れてこぼれ落ちる。
「まあまあ環、どうしたの？」
早紀はあやすようにそう言いながら、環の身体をぎゅっと抱き締めた。最近は触れることのなかった温もりと匂いに、環の緊張は一気に融かされた。
「あっ、あたし、あたしっ……また純のために何もしてあげられなかったぁっ……う、うぅ……うああぁぁぁん、あたしぃ………」
いつの間にか自分より背が伸びてしまった娘の頭を、手を伸ばして撫でながら、
「大丈夫。純には環の気持ち、ちゃんと届いているから」
早紀は、環の嘘をちゃんと見抜いていた。純のこと、どれほど心配しているだろう。それでも娘を信じて何も言わず、黙って見守っていてくれたのだ。そう思うと、情けなくて申し訳なくて―――
「ママ……ママぁ………」
早紀は微かに潤んだ目を細めて微笑んだ。
「ホントに、環はまだまだ子供なんだから………」
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