８.

―――ずいぶん遅いわねえ……

窓の外は土砂降りの逢魔が時。帰りは車で送ってもらえるだろうから、濡れる心配は要らないだろうけど、それにしても帰りが遅いのが気になる。日向の家でお茶を飲んでくるだけと言っていたはずなのに。

私って心配性かなあと思いながらも、純の携帯に電話してみた。しかし留守電のメッセージが流れるだけ。環は、日向の家に電話してみようか迷った。その時、

「たまきー、お電話よおー。尭村さんから」
「え、ええっ？」

何であの男が私に電話してくるわけ？　と不審を抱きつつも、慌てて階下の電話へ走った。

「もしもし……」
『よお、俺だ。確か一度会ったことあるよな』

この不遜な物言いはそっくりだが、声が微妙に違う。

「ああ、あなたは尭村の……」
『そう、クレイジーな親父だ』
「……で、何の御用でしょうか？」

不信感を思いっ切り滲ませた声で訊ねた。坊主憎けりゃ、ではないが、あの男の親父だと思うとむかっ腹が立って仕方がない。

あんたどんな教育してきたのよ、と嫌味の一発でもかまして電話を切ってやろうかと本気で考えかけたが、彼、貴仁は急に口調を改めて思いもかけないことを切り出してきたので、何も言えなかった。

『実は純が今家にいるんだが、ちょっと事情があってな、暫く俺が預かることにした』
「ええっ？　あ、預かるって、冗談じゃないわ、なんで尭村なんかに―――」
『おい、ちゃんと聞いてなかったのか？　俺が預かると言ったんだ。成仁は関係ねえ』
「……“事情”って一体なんですか？」
『悪いがそれは言えねえんだよ。お前の心配も当然だとは思う。けど、ここは俺を信用して任せてくれ。あのエロガキには指１本触れさせない』

環は迷った。迷っている自分が不思議だった。今までなら、すぐに純を返してくださいっ、と即行叫んでいるところだ。しかし何故か、今の尭村に対抗できるのはこの人しかいないように思えたのだ。

環が黙って考えている間、電話の向こうの貴仁は口を挟むことなくじっと答えを待っていた。そして、

「……分かりました。お任せします。うちの親には私がうまく説明しておきますので」
『お前が頭のいい女で助かった。じゃあな』

どういたしまして、と答えた時にはすでに、電話は切られていた。




「許可が得られたようでございますね」
「ん？　まあな。ああ、それから額賀、ちょっと」

貴仁は厳しい表情で、

「いいか、純が家にいることは、成仁には絶対に言うな。隠し通すんだぞ。あの馬鹿は、少し頭を冷やす必要がある。安易に仲直りさせようなんて考えるんじゃねえぞ」
「かしこまりました。意に背くようなことは断じて」
「大袈裟な奴だな。ま、頼んだぜ。じゃ、俺はちょっと純の様子を見てくる」

貴仁は軽食の用意を整えて、純を寝かしてある自分のベッドルームへ行った。


純は目を開けていた。そしてじっと天井を見つめていた。何を想って何を見ているのか、貴仁には分からない。詮索するつもりもない。しかしその視線自体が余りに虚ろで余りに無機質で、貴仁は軽い寒気を覚えた。
“あっち側”にいかせてはならない。貴仁は近寄ると、いつもの軽い調子で声をかけた。

「よ、純。目が覚めたんだな。ここがどこか分かるか？」
「あ……せん、せ………」
「そう、俺の部屋。ゆっくりしてていいぜ。家には連絡済みだ」
「でも、僕………」

貴仁はそうっと手を伸ばして額を優しく撫でた。しかし純はびくりと震えると、縋るように貴仁の顔を窺った。怯えている。無理もない。あんな扱いを受けた直後に、肌の触れ合いに脅威を感じるなという方が無茶というもの。
だが貴仁はすぐに手を引っ込めることはせず、ゆっくりと心を込めて純の額を、頬を撫で続けた。

「せんせい……」

純にも貴仁の想いが伝わったのか、怯えの翳は徐々に消えていった。その代わり、温かい涙がはらはらと両眼から溢れる。

「純……明日は休みだ。だから何も考えないで、ここで身体を休めるんだ。分かったな？」
「はい……」

何も考えないなんて無理だと分かっているはずなのに、素直に頷く純。

―――俺に心配かけまいとしているんだな。まったくお前は……

貴仁は、芸術家にしては無骨な指で純の涙をすくうと、自分の唇に押し当てた。その苦さはいつまでも彼の唇に残って、危険を察知しながら二人きりにしてしまった己れの失策を責め続けた。




その夜、貴仁はずっと扉の前に立ち尽くしていた。

部屋の中からは、嗚咽とも呻きともつかぬ潰れた声が聞こえてくる。「うう……」と時折喉を詰まらせ、苦しそうに咳き込む音がするたびに扉を開けそうになるが、貴仁はぐっとこらえた。駆けつけて、大丈夫か？　などと言ったら、心配かけまいと必死に押さえようとするに違いない。
余計な干渉はプレッシャーになるだけ。そうは分かっていてもやはり不安は拭えず、扉の前から容易に離れることはできなかった。




「純……また手を付けていないな」
「……すみません」
「俺に謝るな。自分の身体に謝れよ」

貴仁は苦笑混じりにそう言うと、ベッドサイドに腰かけた。
昨日とは打って変わって晴天の日曜。身体の傷は徐々によくなっているはずなのに、純は食事に一切手を付けようとしなかった。

「ちゃんと食わなきゃ、学校へ行けないぜ」

純は貴仁の顔を見上げた。わざと気安い口調で話しているが、とても心配してくれているのが分かる。食欲がないなんて我がままは言ってられないと純は奮起し、貴仁が運んでくれたランチプレートのオムレツと、ポテトサラダを口に押し込んだ。が―――

「う……ううっ………」
「どうした、純っ」

純は苦しそうに胸を押さえると、布団を跳ね除けてよろよろと起き上がり、トイレへ直行した。そして食べたものを全て吐き出してしまった。

「すみませ……先生が、せっかく………」
「んなこたどうでもいいっ。大丈夫なのか。俺が無理言ったから……」

純は洗面所に手を突いて、苦しそうに肩で息をしながら首を振った。

「いえ……食べようっていう気はあるんです。でも、身体が拒否してる。前にも同じことがありました。……身体が、死にたがっているんじゃないでしょうか」

淡々とした口調でそう告げると、儚げに笑ってみせた。




「……どうだ？　藤堂」
「ああ。俺が診た限りでは、身体に異常はない。多少衰弱はしているが、全くの健康体だ」
「そうか……」

純の診察を終えて部屋から出てきた男は、貴仁の旧友で内科医の藤堂。父親の代からの診療所を継いで細々とやっているが、医者としての見識と誠実さには誰よりも信用がおけた。
日曜だというのに、電話一本で駆けつけてくれたのだ。

「しかし、食べたものを全てもどしてしまうのは一体どういう……」
「本人はそれについて何か言ってたか？」
「ああ、前にも同じことがあった、と。身体が死にたがっているんじゃないかと言ってたな」

藤堂は納得したように頷くと、

「身体が死にたがってる、か。なるほど、言い得て妙だな」
「何だと？」

色めき立った貴仁をソファに促して、煙草に火をつける藤堂。そして、

「これは、特に感受性の強い子に見られる症例なんだが、潜在意識が身体に影響を与えるということがある。
身近な例を挙げると、登校拒否の子供が学校に行けと強要されると、それから逃れるために腹痛を起こしたり熱を出したり、ひどい場合は歩行困難に陥る場合もある。
これは仮病とは全く違う。実際に高熱が出るし、痛みも生じる。しかし親が学校に欠席の連絡を入れると、途端に症状は消えてしまうんだ」

藤堂は、俺の言いたいこと分かるか？　と言って煙草を揉み消した。

「似たような話はまだあるぞ。母親がレイプされた挙句殺されるのを目撃した子供が、突然目が見えなくなったとかな。つまり―――」
「つまり、純の潜在意識が死にたがっているから、身体が食いものを受け付けない、そういうことか？」
「それしか考えられないな。前にも同じことがあったということは、何ていうか、そういう境遇にあったんだろう。
これの厄介なところはな、尭村、本人の意志とは関係ないということなんだよ。食べたい、食べようと思っても、身体が受け付けない。根本の原因を取り除かない限り治癒は望めない」
「そう……そうか……」

何度も呟く貴仁を、藤堂は横目でちらと見て、

「で、原因に心当たりはあるのか？」
「お前のそういう嫌味なところ、変わってねえな。あの身体を見たんだろ？　言っとくが俺じゃねえからな」
「それを聞いて安心した。友人を警察に突き出すのはさすがに胸が痛む。で、どうするんだ、これから。入院させるか？」

貴仁はソファの上で大きく伸びをすると、きっぱりと答えた。

「いや、俺が看る。看護の腕も経験も、そこらへんのナース嬢より上だからな」
「確かに、な……」

藤堂は一瞬苦しそうに顔を歪めると、立ち上がって暇を告げた。が、玄関で振り返ると、

「なあ、あの子は何者なんだ？」
「俺の未来の伴侶」

藤堂は瞠目して友人の顔を凝視したが、

「お前が言うと冗談に聞こえないから恐い……お幸せに」

ありきたりな祝福の言葉を残して帰っていった。




「純、入るぞ」

貴仁はベッドに近寄ると、純の額を撫でた。もう怯えた表情は見せないものの、昨日より明らかにやつれていた。

「お前の許可も得ずいきなり医者を呼んで悪かったな」
「いえ、僕の方こそご迷惑を……。あのお医者さま、とっても面白い方でした。先生が残した数々の伝説、教えてもらっちゃった」
「伝説？　んなのあったかな。俺が学生の頃は校内暴力全盛期だったが、うちの学校は静かなもんだったぜ」

静かだったのではなく、貴仁が静かにさせたのだが、そんなこと本人は覚えちゃいない。

私立を嫌った彼は公立中学に入ったのだが、そこはスクールウォーズを地でいく荒廃した学校だった。それを区内随一の優良校に変えたのは、熱血泣き虫先生の熱血指導ではなく、「騒がしいのは嫌いなんだよ」という貴仁のひと言だった。

「“愛の大切さを教える”が口癖の道徳教師から、カミサン寝取ったことかな。それとも、ヤクザの息子がいるって喚いたＰＴＡのババアを、若いのに誘惑させて写真撮って、離婚させたことか。それとも―――」
「…………」

純が聞いた伝説は、そのどれでもなかった。黙り込んでしまった純に気付いた貴仁は、

「そんなのはどうでもいいんだ。それより純、聞かせてくれ。成仁がブチ切れたのは、コレのせいなんだろ？　相手は誰だ。同じ学校の奴か？」

貴仁はそう言って、純の首筋にぽつぽつと灯る朱痕を指した。黙る時は黙る、訊く時は言葉を濁さず訊く。それが、相手を苦しめる残酷な問いであっても。

貴仁のこうした言動には、尭村を彷彿とさせるものがある。ああ、やっぱりこの二人は親子なんだなあと、純は今さらながらの感慨を反芻した。

「……はい。同じ学校の人です。尭村先生、もうこれ以上は………」
「なるほど。で、お前はその男に惚れてるのか？　もしそうならそれでいい。成仁に操を立てる義理はねえんだからな。どうだ、純。愛しているのか？」

以前よりひと回り縮んでしまった純の身体を抱き締めて、貴仁は問いを重ねる。あの人と同じ温もり、同じ声、同じ匂いに包まれて、純はこれ以上強がることはできなかった。涸れ果ててしまったはずの涙で頬を濡らしながら、

「愛して……あげなくちゃいけないんです。でないと勇人さんは、勇人さんは……」

貴仁は厳しい表情で、

「愛してあげなくちゃいけないとは、聞き捨てならねえな。なんだよ、それ。その男は、親に捨てられたみなしごハッチか。今は誰もが愛情に飢えている。そんで愛情の欠乏を、てめえの歪みの原因にしようとする。その男も、そして純、お前もだ」

純は涙に濡れた顔を昂然と上げて、貴仁を睨んだ。

「せっ、先生は何も知らないからそんなことが言えるんだっ。勇人さんがどれだけ辛い経験を強いられてきたか。そのせいで、今もあの人は苦しんでいる。あの人は……愛される権利がある」
「それで純、お前が身体を犠牲にしてその“勇人さん”に与えたものは、愛情だったと断言できるのか？」
「それは……」
「はっきり言うぞ。その男が余程の阿呆じゃない限り、お前がくれたものは偽物だったとすぐに気付く。純……お前の優しさは、残酷だ」

純に浴びせる言葉は容赦ないのに、その眼差しは温かく、背中をあやすように撫でる仕草は眩暈がするほど優しい。
暫しの沈黙の後、貴仁は、今彼が純に与えんとしている温もりの全てを凝集させたような笑顔を浮かべると、

「……なんてな。今俺がえらそうに指摘したこと、お前は全部分かってんだよな。分かっててやった。お前はそういう奴だよ」
「うっ……うぅっ……せんせっ………」

純は激しく肩を上下させて嗚咽をこらえながら、貴仁の胸に縋りつく。遠慮がちに。申し訳なさそうに。
貴仁は初めて、苦しそうに顔を歪めた。お前はまだちゃんと泣けないんだな。

「純、成仁のこと好きだったら、全部ぶちまけてみろよ。親父が言うのもなんだが、あいつ結構しぶといぜ。案外、ちゃんと受け止めてくれるかもしれねえぞ」

しかし純は貴仁の胸に手を突いたまま、何度も首を振る。

「だめですっ、だって……それだけじゃないんだもん。僕……僕……ペットだったの。叔父様の。７つの時から、ずっと、セックスするためだけの………」

貴仁は何も言わない。ただ、背中を撫でる手に力を込めた。

「誰も、助けてくれない、泣いても叫んでも……叔父様は嬉しそうに笑って、もっと、もっと泣きなさい、って。泣いてた方が締まりがいいな、って。それで、わざと恐いことをたくさん言うの……お前の飼い主は私だ、お前は一生私から逃げられない、お前みたいな穢れた子供は見たことがない、お前のせいで母親が死んだ、お前のせいで父親は愛する女性を喪った、お前のような子は……お前のような子は…………生きてる価値がない！」

その言葉に従うかのように、純はベッドの上に倒れ伏した。

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