７.

何故こんな所を歩いているのだろう。日向の車から降りたところまでは覚えている。そのあと、どうやら家の前を素通りしてずっと歩き続けていたようだ。
どこへ向かっているのかは、自分に問うまでもない。問うべきは、今さらあそこへ行ってどうするのか、という根本的なこと。

―――尭村さんに…会いたいよぉ……

そう、それだけ。話を聞いてもらおうとか許してもらおうとか、そんな願いはもう捨てた。というより、今の自分に何を求める権利があるだろうか。過去の穢れだけではない。尭村を愛していながら、日向にも抱かれたこの自分に。
どんな理由があっても、それは許されることではないだろう。

徹底的に拒むことのできなかった弱さを優しさと混同できるほど、純は自分に寛大にはなれなかった。本当の優しさは甘やかすことでも同情することでもない。自分と日向はただ傷を舐め合っているだけなのだと、純は正しく理解していた。

「さ……むい……」

この季節にしては冷たい雨が、純の肩を濡らし始めた。小降りだった雨は徐々に激しさを増し、本降りを通り越して土砂降りになってきた。

それでも純はひたすら歩き続け、そして見慣れた門扉の前に辿り着いた。呼び鈴を押そうとしたが、手が震えて言うことをきかない。

―――会って、どうするの？

そんなの分かんない、ただ会いたいだけ。でも怖い、でも―――

ぼうっと熱を帯びた頭では何も結論を出せず、純はその場に座り込んだ。冷たい雨が頭を冷やしてくれるのを期待しつつ。




「うう……」

嗚咽とも呻きともとれぬ音が唇から漏れる。言葉にならない言葉。
もしかしたら自分は、人間からもっと低俗な獣に退化しようとしているのかもしれない。馬鹿らしい思い付きだが、あながち的外れとも言えまい。何よりも愛しい人を、嫉妬に狂って殴り倒してしまった自分に、僅かな理性の存在も認められない。

「く……そぉ………」

今日の帰り際、女が３人寄ってきて、親しげに声を掛けてきた。誰だよお前ら、と一喝して去ろうとしたが、３人がにやにや笑いながら告げた言葉に思わず身体が固まった。

―――私たち見ちゃったの。秋原くんがね、日向会長の車に乗って一緒に帰るところ

それがどうした、と軽くあしらうことはできなかった。それよりも、この情報を嬉しそうに伝えに来た女たちをぶちのめしたいという理不尽な衝動を抑えるのに精一杯だった。

どこで、何が間違ってしまったのだろうと、今さらながら考える。
きっかけを作ってしまったのは間違いなく自分だ。あの愚かな行為から、歯車が噛み合わなくなってしまった。そして日向の存在。そして―――

「痛え……」

右手が痛い。痛くてたまらない。純の頬を殴った手。もちろん殴られた方は、この何倍もの痛みと衝撃を記憶しているのだ。

しかし純は殴られた直後、少しでも自分を非難するような顔を見せただろうか？　否、断じて否。ふらふらとよろめいて頽れたが、まるで自らを責めるかのように俯くだけだった。殴られても仕方がない、と。

“僕が悪いんです”――純の口癖。本当は悪くないのに。いつもこう言って許しを乞う。僕が悪いんです、ごめんなさい、行かないで、一人にしないで、尭村さん大好き―――

尭村は立ち上がると、荒々しい勢いで部屋を出た。行ってどうなるのか分からないが、ともかく行くしかない。日向の家へ。




「……尭村、あなたが何故ここに……」

日向は、作り物めいた美貌に驚きの色を差して、目の前の尭村を見つめた。こいつも変わったな、と尭村は思う。以前は、こんなに容易く感情の変化を覚らせるようなことは決してなかった。

「よお……待たせてもらった。どこへ行ってたんだ？」

これは牽制。さっき家政婦から、高校の後輩を送りに行ったと教えられたばかり。さすがに日向もそれは察したようで、無言のまま柳眉を険しく歪めて尭村の正面に座った。

「で、何の用ですか？」

言ってから日向はくすりと笑った。

「化かし合いはやめましょう。時間の無駄です。純のことですね？」
「ああそうだ。お前、本当にあいつにさわれるのか」
「ええ、さわれます。頬を張り飛ばすことだってできますよ」

挑発には乗らない。

「そいつはおめでとう。俺は自己弁護するつもりはないが、あの状況を利用したお前も同罪だと思うが」
「仰る通りです。しかし純は私を許してくれた。受け入れてくれた」
「受け入れた？」

尭村はゆったりと足を組み替えて嗤う。

「思い込みの激しい奴だ。その他大勢のスタートラインに立てただけじゃねえか。お前にとっては大事件かもしれねえが、純にとっては―――」
「純はあなたのことを諦めると言っていた。そして私を受け入れた……どういう意味だか分かりますか？」

余裕を保っていた尭村の無表情が、徐々に尖っていった。鬼形を凝らす、とはまさにこのこと。

「てめえ……」
「あなたに睨まれる筋合いはない。私は彼を愛している。彼も私を受け入れてくれた。そして結ばれた。どこに歪みが、間違いがありますかっ」

日向は立ち上がり、尭村を上から睨みつけた。

「私はずっと我慢してきた。あなたの、彼に対する倣岸な振る舞い。愛情の名を騙った束縛。それでも純が幸せなら構わないと思い込もうとしました。しかしその必要はもうない。私が彼を幸せにします。不安も怯えも感じずに済むように、溺れんばかりの愛情を注ぎ込む」

尭村はゆっくりと立ち上がった。そして、嵐の前の凪を思わせる深く静かな声で、

「お前の麗しい台詞はもういい。俺の問いに簡潔に答えろ。お前は純を抱いたのか？」

日向はうっとりと瞳を潤ませて答えた。

「抱きました。何度も、何度も―――」
「……分かった」

問うたのと同じ凪いだ声でそう言うと、尭村は日向の許を静かに去った。嵐はいつ訪れるのか、それは尭村自身にも分からない―――




「……はい。左様でございますか、わざわざありがとうございます。それでは……」

額賀は受話器を持ったまま丁寧に頭を下げた。

「誰からだ？」
「はい。お向かいの奥様からで。お宅の門の所に、誰かが座っていますよ、と」
「なに？……いや、まさか………」

貴仁は慌てた様子で玄関を出て、土砂降りの雨をものともせず前庭を横切った。そして門を開ける。そこには―――

「純っ。お前、何をして――」

大きな雨粒が地面を叩く轟音に掻き消されて、貴仁の声は純には届かない。
貴仁は駆け寄って、門の下にうずくまって座っている純の肩を揺すぶった。

「あ………せ…んせ……」
「この馬鹿が！　来いっ」

肩を支えて立たせようとしたが無理だと分かると、腕を広げて正面から、まるで赤ん坊を抱くようにかかえ上げてそのまま家の中に入った。

玄関口では額賀がタオルを広げて待っていたが、全身ずぶ濡れでとてもタオル１枚では間に合わないと分かり、すぐ風呂場に連れて行って、芯まで冷え切った身体を温めてやった。




「せんせい……あの………」
「お、上がったか。今何か温かいものを持ってきてやるから。……どうした？」
「いえ、ご迷惑をおかけして……すみません」

貴仁は苦笑を隠さず、

「本当にそう思うなら、そんなとこに突っ立ってねえでこっちに座ってろ。ふらふら危なっかしくて見てられねえ」

そしてキッチンから、ブランデー入りのホットミルクを持ってきて純の両手に持たせ、「ゆっくり飲むんだぞ」と言って頭を撫でた。
純はこくん、と頷いて、言われた通り舐めるように少しずつ口に入れた。

「純、明日は休みだし、今日はゆっくりしていけよ」
「いえ、ぼくは……」

何も訊かずに優しく誘ってくれる、そんな貴仁の心遣いは、今の純には痛みしかもたらさなかった。用意してくれたぶかぶかのシャツの裾をぎゅっと掴み、その痛みをこらえる。
先生、ごめんなさい、僕にはそんな優しさを受け取る資格は―――

その時、足音が近づいて、リビングの大きな扉がゆっくり開いた。

「成仁、帰ったのか？　今、純が―――」

家に帰ったはずの純がここにいても、尭村は驚いた様子も見せない。いや、驚きだけではない。あらゆる感情が摩滅したかの如き無機質な相貌で純を見据え、同様に無機質な声で「純、来い……」と命令すると、そのままリビングを横切って出て行った。
純は魔物に魅入られたかのようにふらふらと、その後を追っていった。貴仁は無言でそれを見送ったが、

「……あいつ、かなりヤバい。額賀、悪いがあいつの部屋の前でちょっと張っててくれ。何かあったらすぐ俺を呼びに来い。分かったな」
「はい……承知いたしました」

額賀は答えると、うっすら鳥肌の立った二の腕を何度も擦った。




尭村の寝室で、二人は距離をおいて向かい合っていた。暫くそのままお互いを凝視していたが、やがて尭村が口を開いた。

「服を脱げ」

純は無言のままボタンを外してシャツをすとん、と落とし、ためらうことなくズボンに手をかけて下着ごと脱いだ。そして、身体中に散った情事のしるし、劣情が這い回った生々しい痕を尭村の眼に晒した。

「……弁明があるなら聞く。言ってみろ」
「あ……あ………」

―――あのね、勇人さんはお母さんにずっと辛い行為を強いられてきて、そのせいで人にさわれなくなっちゃったんです。だから唯一さわることのできる僕に拒まれたら、あの人は行き場をなくしてしまう。僕のしたことは間違っていたとは思うけれど、でも、自分を受け入れてくれという切実な訴えを撥ね付けることはできなくて……それで………僕………

「…………」

純は黙って小さく首を振った。弁明はありません。あるのはあの人と寝たという事実だけ―――

「あっ……」

いきなり腕を掴まれて、ベッドに投げ飛ばされた。

「面白え、お前、本当に面白え奴だよ。ここまで俺をバカにしてくれるとはな」

縮こまったペニスを袋ごとぎゅっと握られて、純は痛みに呻いた。尭村は馬鹿にしたように笑って、

「なんでそんな声出すんだよ、ああ？　気持ちいいんだろ。お前は男にこうされるのが好きなんだよな」
「うぅっ……痛いっ……痛いです、やめて……」
「そうやって嫌がるふりをして誘うのが、お前の常套手段だよな。ハッ」

尭村は乾いた笑いを漏らすと、純の耳許に口を寄せてねっとりと囁いた。

「７つん時レイプされたって言ったが、どうせお前の方から誘ったんだろ？　教えてくれよ、どうやって７つのガキが男をソノ気にさせたのか。どんなテク使ったのか……おら、言えっ」
「ひぃっ」

さらに力を込めて握り込まれ、とうとう純は悲鳴をあげて泣き出した。痛みと恐怖に同調して、ずっと閉じ込めていた記憶がぽろぽろと剥がれ落ちる。むせ返る花の香り、ねばついた空気、毒々しく肉厚な花弁―――ここは温室。ここで僕は……僕は………

―――な、なにするの？　叔父様。ぼくこわい……
―――黙って私の言う通りにしなさい。純、横になって脚を大きく開くんだ
―――や、やだよぉ。そんなの……恥ずかし……いっ、いやぁっ
―――そう……いい子だ。この家にお前の味方は私だけだ。そうだろう？
―――やぁぁっ、いたい、いたいよぉ……
―――純……可愛い純、お前の飼い主はこの私だ。逃れることなどできんぞ
―――やだあぁぁっ、いたいいたいっ、助けて、たすけてぇ……

「たすけ……て」

記憶に翻弄された純は、朦朧と呟いた―――決して言ってはならぬひと言を。

「たすけて……まさとぉ………」

尭村はびくりと肩を震わせて、掴んでいたものを離した。ぎりぎりと、奥歯が砕けるほど噛み締めて、

「てめえ……もう一回言ってみろ」

今自分が何を言ったのか、言ってしまったのか知らない純は、涙の靄を透かして尭村を見つめた。輪郭の曖昧な尭村は、表情は分からないものの、両腕を自分の方へ差し伸べてきた。純は思わずそれに縋ろうと手を伸ばす。が、それは乱暴に払われて、身体を引っ繰り返された。そして膝を突いた交合の姿勢をとらされる。何が何だか分からない。が、次の瞬間―――

「いぃっ、……やああああああぁぁぁっ」

突然の痛み。強張った後孔の入口に無理やりねじ込まれた太く硬い棒が、内部の柔らかな肉を引き攣らせつつ奥に侵入する。

「ひぃぃっ、いたい、いたいっ……」

純は四つん這いのまま逃げようとする。が、腰をがっちり掴まれているため、数センチも進むことができなかった。そして根元まで咥えさせられた次の瞬間、新たな激痛に襲われた。肉を裂いて突き入れたモノを、激しく打ちつけ始めたのだ。

「うあっ……あっ、あっ……ああぁっ……いたいいたいいたいよおっ」

尭村の一方的な制裁を受け、ぎちぎちと嫌な音をたてていた結合部分が僅かに滑らかになった―――血の潤滑油。しかし白い内股を伝う鮮血は、憐憫の情を起こさせるどころか、行為の激しさ残酷さに拍車をかけるだけだった。

「うぅ……ぐ………」

獣じみた呻きを漏らしつつ、嫉妬の狂気に侵された尭村は血塗れの蕾をぐちゃぐちゃに攻め続ける。純は悲鳴をあげる気力も失ったのか、ただがくがくと揺さぶられるだけ。だが、

「……っ、きゃあああああああぁぁっ」

絶頂を迎えつつあった尭村の激しい突き上げに耐えきれず、絶叫に近い悲鳴をあげるとそのまま気を失った。
ぐったりとした純の奥に苦い欲望を注ぎ込んだ尭村は、正真正銘の凶器となった己れの陰茎をぬるりと引き抜いた。すると、血と混じり合って濃いピンクに変色した精液がとろとろと溢れて流れ出し、白いシーツを染めていった―――




「だっ、旦那様、旦那様っ」

額賀が血相を変えてアトリエに飛び込んできた。ノックもせずに。もちろんそんなことを咎めるつもりは毛頭ないが。

「どうした」
「今、お部屋の奥の方から悲鳴が……」
「ちっ、額賀、鍵を出せ。俺が行く」

額賀から鍵を受け取った貴仁は、一瞬のためらいもなく扉を開けた。そこには、ソファの上で小さく丸まって頭を抱えている息子の姿が。

「成仁っ、どうした？　お前、何をした？」

が、尭村は答えない。貴仁は仕方なく、息子を放っておいて寝室へ行こうとした。その時、

「あいつを……俺は、俺は……あああ……」

肩が震えている。が、泣いているのか笑っているのか分からない。しかし今はそれを追究すべき時ではない。
貴仁はほとんど壊れかけた息子を放って今度こそ寝室へ入った。

「うっ……」

何があったのか考えるまでもない。血で汚れたシーツ。ぐったりと横たわる白い裸体。意識を失ってもまだ涙を流し続けるその顔を、貴仁はそっと撫でた。

「すまねえ……純、俺の手落ちだ。許してくれ………」

そしてシーツごとそおっと抱き上げると、未だ頭を抱えてうずくまっている尭村の前を通り抜けてバスルームへ直行した。
待ってろよ、今きれいに洗ってやるからな………

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