２.
清々しい初夏の朝、２−Ａの教室内に微かなざわめきが走った。３年の弓月環が険しい表情でずかずかと室内に入り込んできたからだ。
しかし環は周囲の戸惑いなど寄せ付けず、一番奥の一番後ろ、最も安らかな睡眠が保証される特等席へ真っ直ぐ向かう。そして、
「尭村、あんた今度は何してくれたのよ？」
“今度は”にアクセントをつけて強調してみせたのは、軽いジャブのようなもの。返答次第では容赦しないとの意気込みを、ぐっと固めた拳で表して、環は尭村を睨みつけた。
「昨日、あんたんとこから帰ってから、ずっと様子がおかしいのよ。食事にもほとんど手をつけないし。今朝だってちゃんと寝れてないみたいでふらふらだったから、今日は休んだらって言っても、大丈夫、の一点張りで」
尭村は黙って環の話に耳を傾けている。いつもなら、うるせえとかお前には関係ないとか言って早々に追い払おうとするのに。
環は、尭村の真摯な反応に困惑しながらも、言葉を続けた。ともかく言うべきことは言わなくては。
「そしたら案の定、ガッコに着くなり貧血よ。ホントに、無理するから―――」
「で、あいつは今どこに？」
「保健室よ。決まってるじゃない。秀が付いててくれてるわ」
「そうか、分かった」
尭村は立ち上がると、環を正面から見据え、
「弓月、悪かった。全て俺のせいだ。だから俺が何とかする」
そう言って頭を下げると、早足に教室を出て行った。今までに聞いたことのない、潔い謝罪。そこに込められた尭村の誠意は、環を喜ばせるどころか、逆に不安を煽った。
彼がこのような態度を見せるということは、純の不安定がただの痴話喧嘩によるものではなく、もっと深刻な危機を反映したものだと考えられるから。環は、行き場を失った拳で自分の太ももをぼすっと殴った。
「あ……」
ちょうど保健室から出てきた二人を見つけて、尭村は足を止めた。そしてゆっくりと近づく。その姿に気付いた純は、怯えたように眉を歪めて、
「尭村さん……」
「純、身体はもういいのか？ 休んでなくて……」
純は、隣に立つ秀の腕に縋るように掴まると、目を逸らしたまま小さく頷いた。
「はい、もう平気です。ご心配をおかけしました……」
今にも消え入りそうなか細い声で答えて、秀に掴まったまま尭村の横を通り抜けた。尭村は何故か割り込めないものを感じ、追うこともせずその場に立ち尽くした。
腕を掴んでいる指先から、微かな震えが伝わってくる。何か、強い感情を必死でこらえているかのような純の表情を、秀は見て見ぬ振りをすることができなかった。二人のことにはなるべく干渉せず、黙って見守ろうという内律に背いて。
「純、尭村さんと何かあったのか？」
嘘をついても、秀相手ではすぐにばれるだけ。純は正直に答えた。
「うん……でも、僕が悪いんだ……」
純の“僕が悪い”が当てにならないとは、重々承知済み。秀は「そうか」と一旦肯定してから、
「でも純、お前に素通りされて、あの人ずい分傷付いたような顔してたぞ」
秀が、適当な言葉で安易に慰めようとするような人間でないことを知っている純は、思わず顔を上げてその端整な顔をじっと見つめた。
「嘘じゃないぞ。何があったかは知らないが、自分が悪いと思うのなら、恐がらずに自分から歩み寄るべきじゃないのか？ お前は何かあった時、尭村さんが“仕方ないな”と言って許してくれるのをいつも待っている、違うか？」
違う、とは言い切れなかった。再び俯いて黙り込んでしまった純の頭をぽんぽん、とあやすように撫でて、秀は「余計なこと言ったな」と優しく宥めてくれた。
もう一度だけ縋ってみようか、と純は思った。昼休み、旧図書館裏のいつもの場所。あの場所に宿っている不思議な力に頼ってみようかと。
何故かは分からないが、前日に喧嘩をして気まずい思いを引きずっていても、あの場所で会えば全てが洗い流された。
大抵は尭村の方が先に来て、不機嫌そうに目を閉じて芝生の上に寝転がっている。純は恐る恐る近づいてその横にそうっと腰を下ろし、話しかけようかどうしようか思い悩んでいると、突然尭村の手がぬっと伸びてきて時には純の頭をわしわしと撫で、時には少し乱暴に腕を掴んで自分の方へ抱き寄せるのだ。
それでおしまい。それまでうだうだと悩んでいたのが嘘のように気持ちはすっきりと晴れ、何のためらいもなく尭村の胸に飛び込んでいくことができた。
―――また、いつもみたいに……
しかしそれが虫のいい願望であったことを、純はすぐに思い知らされることになる。
昼休み、そこにいるはずの尭村は影すら見えず、とぼとぼと校舎に戻ろうとする純の目に、３年の女子とキスを交わす尭村の姿が飛び込んできた。それは純の網膜にじりじりと灼きついて、溢れる涙ですら洗い流すことはできなかった。
―――我ながら情けねーよな……
尭村は、いちごプリン３個が入った袋を目の前に掲げると、苦い溜め息を漏らした。
別に食いもんで釣ろうって訳じゃねえけど、と胸の裡で言い訳を繰り返しつつも、やはり疚しさは拭えない。もちろん、こんなもので純に対する非道な行いの償いができるとは思っていないが、ただ、きっかけが欲しかったことは事実。
それに、好きなものをおいしそうに食べる純の可愛さは天下一品、唯一無二で、それを眺めたいという勝手な欲望も関係していた。
このいちごプリンは学食の超人気デザートで、月に２度、限定３０個というプレミアもあってか、すぐに売り切れてしまうのだ。
純は一度これが食べたくて仕方なかったのだが、のほほんとした性格のゆえか、或いはいちごプリン命、の女子生徒に気圧されてか、いつも買いそびれていた。
尭村はそれを知ってはいたけれど、群がる女子を蹴散らして買うのにはさすがに羞恥心が（彼にも一応羞恥心はあるのだ）邪魔をしてなかなか叶えてやることができなかったのだ。
「ったくあのクソ女ぁ……」
尭村は唇をがしがしと擦って吐き捨てた。
知り合いの、というか昔付き合ってた女に頼んで買ってきてもらったはいいが、渡す段になって「キスしてくれなきゃあげない」などと言い出したのだ。
思いっ切り眉を逆立てて睨みつけたものの、欲しいものは女の手の中にあるわけで、仕方なく突き出してきた頬に唇を寄せたのだ。その瞬間、女はふっと顔の向きを変えて自分の唇を尭村のそれに重ねた。
「こんのぉ……」と凄んでみても後の祭り。女はうっとりと瞳を潤ませて、「ホントに、相変わらずイヤんなっちゃうくらいイイ男」などと熱い感嘆を漏らすと、プリンの入った袋を差し出した。「あのお姫さまに飽きたら、私んとこ来てね」と捨て台詞も忘れずに。
しかし尭村は、自分の目論見が空振りに終わったことを思い知らされることになる。
昼休み、そこにいるはずの純は影すら見えず、こんなものでご機嫌をとろうとした浅薄さを見透かしたのか、結局その日、純は二度とその場に現れなかった。
―――あれは……
昼休み、こうして生徒会室の窓から外を眺めるのが習慣のようになってしまった。ここからだと、尭村と会うため、いつもの場所へ向かう純の姿を見ることができるのだ。
我ながら自虐が過ぎるな、と日向は思う。が、思わずその姿を目で追ってしまう自分をどうすることもできない。
しかし今日はいつもと様子が違う。そもそも、こんなに早く戻ってくるのはおかしい。尭村に会えなかったのだろうか。それとも、また独占欲と愛情を混交して押し付け、純を泣かせたのだろうか。そういえば今朝、軽い貧血で倒れたと聞いた。それも関係しているのだろうか。
いずれにせよ、目を真っ赤に潤ませてふらふらと歩いている純は危なっかしくて仕方がない。日向はたまらず生徒会室を飛び出して、純の許へ急いだ。
「勇人、さん……」
案の定、間近で見る純は余りに無防備で、嗜虐欲をそそる脆さをさらけ出していた。これでは、僕を嬲りものにしてください、と懇願しているも同然。
いくら尭村が防波堤になっているとはいえ、突発的な情欲の波濤はそれをやすやすと越え、あっという間に純をさらっていってしまうに違いない。
「よろしければ、久しぶりにお昼をご一緒しませんか？」
涙の理由には敢えて触れず、殊更朗らかな声で誘った。しかし純は首を振って、
「いえ……僕、余り食欲ないので」
「そうですか……私と一緒にいるのは嫌なんですね」
「そ、そんなことは。ぼく……」
日向は淋しそうに微笑んだ。こうすれば、純が自分を振り切れないのは承知の上で。とはいえ、これが演技だとは言い切れない。本当に淋しかったから。
表情と本心が重なるのは、日向にとっては稀なこと。宗一郎の前でさえ、“優雅な微笑み”の面を被っているのだから。
「付き合って……くれませんか？」
阿るように縋るように訴える。これも本心。純はこくん、と頷いて、日向の後に続いた。
「うわあ……すごい」
衒いのない感嘆の言葉に、日向は思わず目を細めた。
「こんな……こんな所に薔薇園があったなんて、僕知らなかった……」
「昔はね、これの数倍の規模だったそうですよ。蒼薇の名称は、薔薇（しょうび）に由来すると言われるほどですから」
「そうなんですか……でも、手入れがよく行き届いているし。花に対する愛情が感じられますね。誰が世話を？」
日向はいたずらっぽく笑って、
「宗一郎ですよ。あの無骨な大男が、笑ってしまうでしょう？ いずれ青い薔薇を栽培してひと儲けしてやるんだ、そのための実験場だ、なんて言ってますけど、まあ照れ隠しでしょうね」
「そうですね。きっと、大事に大事に育てているんだろうなあ……」
そう言うと、苦しそうに眉根を寄せて花から目を逸らした。
「純、ほらあの白い大輪の薔薇。有名な女優の名前で呼ばれているらしいですが、とてもふくよかな、甘い香りがします。もっと近づいていいんですよ」
しかし純は小さく首を振って、
「いえ、いいんです。こんな綺麗な……宗一郎せんせいが大事にしている花を僕なんかが……」
「純……月並みな言葉で恐縮ですが、あなたの美しさはこの花をも凌ぎます」
今度は激しく首を振って、
「違う！ あ、あなたは何も知らないからっ。僕が……僕が何をしてきたかを」
日向は僅かに声を低めて問い質した。
「私には、人の過去を詮索する趣味はありません。でも、今の悲しみには無頓着ではいられない。……純、あなたは何故泣いていたのですか？」
「な、泣いてなんか……僕………」
「尭村に、酷いことを言われた？」
「違います……尭村さんは悪くない。僕が……きたないから―――」
「あなたの、どこがきたないというのですか」
一体何が、彼を苦しめているのだろう。日向は遣り切れない思いに胸を詰まらせながら自問する。と共に、自らを嗤う。きたないのは私の方ではないか―――
「ひとつだけ分かったことがあります。尭村は、あなたを幸せにできていない」
「勇人さん、僕はそもそも、幸せになる資格なんかないんです。なのに、あの人があんまり優しいから、つい調子に乗って、自惚れて……でも、もう―――」
「…あぁ………」
日向は思わず溜め息を漏らす。同情の溜め息なのか感嘆の溜め息なのか分からない。ただ、目の前ではらはらと落ちる涙に誘われて―――
「ごめんなさい、ごめんなさい……泣いたりして。も……大丈夫です」
ごしごしと乱暴に目を擦って、無理に微笑もうとする。しかし涙腺は正直で、「大丈夫」と虚しく繰り返す口を無視して次々と涙の雫を送り出す。
純はなおもごしごしと擦って涙を堰き止めようとするが、止まらない涙に改めて悲しみの深さを思い知らされたのか、嗚咽は激しくなるばかりで、苦しそうに喉を詰まらせ、肩で息をしていた。
「純っ」
その瞬間の日向は、何も考えていなかった。何も考えないという精神状態が彼にも生じ得るというのが、一つ目の驚き。そして二つ目の驚きは―――
「勇人さんっ」
日向は純の腕を掴んで引き寄せ、その身体を抱き締めていた。髪から身体から漂う甘い香りに頭は痺れ、白く霞んだ意識野の隅で、もうどうなってもいいと叫ぶ。
発作の辛さ苦しさはこの身体に刻み込まれているが、それをも凌ぐ喜びに、同じ身体は震えているのだ。苦しみも喜びもない無感覚と、苦しみをその土壌とした刹那の歓喜。今の自分は迷わず後者を採る。これが生きるということなのだ。だが―――
「勇人さん、勇人さんっ、駄目です、さわっちゃだめ！ 僕は平気だからっ……ああ、どうしよう……」
純は日向の腕から逃れようともがいているが、抱き締める力は弱まる気配を見せない。いつだったか、直が言っていた言葉を思い出す。
“日向会長の発作、凄かったよ。胸を掻きむしって……”
―――どうしよう、僕がまた泣いたりしたから……
申し訳なくて情けなくて、余計に涙が出てくる。純は掠れた声で「勇人さぁん……ごめんなさい」と詫び続けた。その時、
「純、じっとして。そのまま。いいですね」
いつになく真剣な、切羽詰った日向の声。純が答える間もなく、日向はその掌で純の頬を撫でた。目のふちに溜まった涙をすくい、輪郭をなぞり、唇を優しくつまむ。そして顎に手をかけて上向かせると、ふっくらとした珊瑚色の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
純は驚きの余り、されるがままになっている。日向は重ねた唇の甘さに誘われるように舌を挿し込んで、縮こまった可愛い舌を絡め取った。ちゅ、ちゅ、と唾液が交わる音がしてようやく純は我に返り、どん、と日向の胸を突き飛ばした。
「はっ、はやとさん……身体、は………」
「純……純……」
熱い息と共に愛しい人の名を呟く日向。純を見つめる不動の瞳はきらきらと輝いているが、それは涙のせいではなかった。涙よりもっと熱い感情の渦。それが冷たく結晶していた日向の瞳を融かし始めているのだ。
「信じられない……私は………ああ―――」
最後の言葉は聞き取れない。恐らく日向自身も、何を言っているのか分からなかっただろう。再び純の身体を、さっきよりも荒々しく抱き寄せると、頬に首筋に顔をうずめて無我夢中に唇を押し付けた。
「勇人さんっ」
「さわれる……さわれるんです。身体は何ともない。……お願いです、もう少しこのまま………」
「勇人さん……ほんとに？ 大丈夫なんですか？」
日向は答える代わりに、純の耳たぶを優しく食（は）んだ。純はぴくん、と身体をふるわせて、掠れた溜め息を漏らす。
「あなたの身体は……何て甘いんだ。どこもかしこも甘くて柔らかくて温かくて……。人の肌がこんなに心地よいものだと初めて知りました。純……私は今幸せです。このまま死んでもいい―――」
純はそっと抱き返すと、
「せっかくさわれるようになったのに、そんなこと言っちゃだめ。勇人さん、あなたの身体も温かくて、とてもいい気持ち………」
震える背中を優しく撫で続けた。
BACK TOP NEXT