６.
教室が一瞬、ざわついた。耳から顔の下半分を白い包帯で覆った二人が、教室に入ってきたのだ。こそこそと背中を丸めてなるべく目立たないように気を遣っているようだが、気にするなという方が無理というもの。
環はクラス委員という責任感から、二人に近づいて声を掛けた。
「どうしたのよ、二人とも。その怪我……」
「あっ、……いや、ちょっと喧嘩を………」
包帯のせいで口がよく動かないらしく、くぐもった声で聞き取りにくい。しかし二人とも明らかに怯えていた。環の視線を避けるように首を縮めて、そそくさと自分の席に戻ったのだ。
「喧嘩、ねえ……」
環はそれ以上追及するのを止めた。そこまで心配するほど二人と親しいわけではない。親しいどころか、寧ろ嫌っていた。
二人とも新聞部員なのだが、日向のことが気に入らないらしく、よくあの野郎のやり方は気に食わないなどと嘯いていたのだ。それも、陰でこそこそと。日向に面と向かって進言する勇気もないくせに。
環は日向の崇拝者ではないが、そういった陰湿な反日向分子は大嫌いだった。
―――新聞部の内部抗争かしら。ま、あたしには関係ないことね
その時、校内放送がかかった。
『３−Ｂの弓月環さん、至急小会議室まで来てください。繰り返します―――』
「げっ、なんでぇ？」
環は思わず声を上げた。周りのクラスメート達も、何やらかしたんだぁ〜？と囃したてる。
「ちょっと環、可愛い純くんに心配かけるようなことしちゃ駄目よー」
「何もしてないって。もう」
環は、親友で＜純くんを毒牙から守る会＞会長（自称）の結城恵美を睨みつけると、教室を出た。
しかし、クラスメートが騒ぐのも無理はなかった。生徒が小会議室に呼び出されるなど滅多にあることではない。そこは大事なお客様、つまり大口の寄付者などを恭しくもてなす場所なのだから。
一体何の用事なのか。環は重苦しい気分でドアをノックした。
「……直、秀。なんであんた達がここに………」
呼び出された場所にいた意外な人物に、環は逆に不安を感じた。まさか純に何か……。その不安を裏付けるように、直が泣き出しそうな顔で環に訴えた。
「たま姉ちゃん……ごめん、ごめんねぇ……俺たち純を守れなかった………」
「なっ、何があったのよっ」
唇を噛み締めて俯いてしまった直の代わりに、秀が淡々と説明した。血の気が引く、とはまさにこういう感覚なのだろう、手足がすーっと冷たくなり、額に嫌な汗がぽつぽつと浮き出てくる。
「うっそ……純が、純が……」
無意識のうちに呟きながら、さっきこそこそと教室に戻ってきた二人のことを思い出した。環の視線を恐れたのは、当然といえば当然だった。
「あ……あいつらぁ………」
掌に爪が喰い込むのも構わず、ぎゅっと拳を固める。これで殴れるものなら殴ってやりたい。いや、その程度では、純が受けた痛みの償いにはならない。
環はふつふつと沸き上がる怒りを何とか抑えて冷静を保った。が、
「……それで、純は今どこに？ 保健室なの？」
「それが……尭村さんが連れて帰ったんで―――」
環の“冷静”はここで崩れた。
「なぁんですってぇ！ なんで、なんで尭村が連れてくのよっ、冗談じゃないわ！」
「たっ、たま姉ちゃん……」
「だいたいあの男は何なのよっ、純のこと散々振り回しておいてっ。ふざけんじゃないわよっ」
環はきっと前を見据え、校長に向かって怒鳴った。
「車っ、すぐ車を呼んで！ 純を連れて帰りますっ」
校長はかくかくと頷いて、慌てて受話器を取った。
鞄を取りに教室に戻った環は、話を聞こうと寄ってくるクラスメートを無視して、机に突っ伏して寝ている二人に近づいた。そして無言のまま見下ろす。
ただならぬ気配を察したのか、二人同時にのろのろと顔を上げ、そして眼前の環を見て硬直した。
環は手に持った鞄を振り上げて、包帯の巻かれた後頭部を思い切り殴りつけた。教室の空気は一瞬で凍りついたが、それは環の暴力に引いたからではなく、環の両目に溢れた涙に驚いたからだ。
彼女が、この女傑が泣くなんて―――
環は流れる涙を拭おうともせず、そのまま堂々たる歩みで教室を出た。
「ああ、貴女は確か秋原様の……」
「はい。純の“姉”です。こちらでお世話になっているそうで。すぐに連れて帰りますので」
環は有無を言わせぬ口調で告げて、目の前の男、額賀の隣に立つ貴仁を睨んだ。
「旦那様、どうされますか？」
「どうもこうもねえ。純だって家に帰るのが一番落ち着くだろう。こっちだ。案内するからついて来い」
貴仁はくるりと背を向けてすたすたと歩き出した。環は慌てて後を追う。すると肩越しに貴仁の声が。
「おい、そんな恐い顔してたら純が怯えるぜ。大丈夫だ、ちゃんと返すから」
環は拳でぐりぐりと顔をもみほぐした。
安定剤が効いているのか、純はまだ眠っている。しかし安らかな眠りではないらしく、時折眉をたわめて苦しそうに呻く。尭村はそっと手を伸ばし、額にかかった髪を払ってやった。
微かに汗ばんだ首筋、薄く開いた唇の隙間からちらちらと見え隠れするピンク色の舌、熱い吐息……全てが他の男に、あの京極に喰われたのかと思うと、どす黒い感情がむらむらと湧き上がって、胸を喉許を圧迫する。
尭村は、血が滲むのも構わず唇を噛んだ。痛みすら麻痺している。感じるのは燃えるような嫉妬心だけ。
「こんなことになるなら……」
尭村は、自分でもぞっとするほど剣呑な声で呟いた。
「……さっさとヤッちまえばよかったんだっ」
その声に煽られるように、尭村は手を伸ばして毛布を剥いだ。駄目だ駄目だと理性が叫んでいるが、どくどくと脈打つ嫉妬にかき消されてしまう。
「うぅん……」
純が苦しそうに腰をひねって寝返りをうった。そのしどけない寝姿に、すでに風前の灯火だった理性が消し飛んだ。
「はぁっ……あ、あきむらさん？」
息ができないほどの圧迫感に目を覚ました純は、自分の上に覆いかぶさっている尭村を不思議そうに見つめた。しかし尭村は構わず首筋に噛み付き、シャツをたくし上げて乳首を乱暴に引っかいた。
「いっ、いやあぁぁぁっ」
「うるせえっ！」
両手で押しのけようとする純を、よく響く低音で一喝すると、下着の中に手を差し込んだ。
「やめてやめてやめて……」
涙ながらの哀願に対し、嘲るような笑みで応え、
「まだこん中に京極のアレが残ってんじゃねえのか？ ほら、俺が掻き出してやるよ。さっさと脚開け。それとも指じゃ物足りねえか？」
「うっ、ううぅ……」
ショックで言葉も出ない純は、ただ嗚咽を漏らすしかできなかった。肩を震わせ、声を押し殺して泣くその姿を目の当たりにして、尭村はようやく純が受けた傷の深さを知る。
「っくしょう……ちくしょうっ」
たまらずその腕に純を抱こうとした時、入口のドアが開いて罵声が飛び込んできた。
「成仁！ てめえは何やってんだっ」
貴仁は、純に覆いかぶさっていた尭村の襟ぐりを掴み、力任せに引き剥がした。
「貴様はどこまでてめえ中心なんだ、この鬼畜がッ！」
貴仁について来た環は、余りの出来事に言葉を失い呆然としていたが、すぐに我を取り戻して純の許に駆け寄った。
「純、純っ。もう大丈夫よ。大丈夫だから」
「た、環お姉ちゃん……うっ、うぅ………」
乱されたシャツとズボンを直し、あやすように背中をさすりながら優しく抱きしめた。
「成仁、最低だな、お前は」
「……ぅるせえ」
環は純を抱いたまま二人を睨むと、
「帰らせていただきます。一秒でもこんな所にいたくない」
「はっ、えらそうなこと言いやがって」
「黙りなさいよ。だいたい、なんであんたが純を連れて帰るのよ。家族のあたしにまず伝えるべきでしょうがっ」
「“家族”だぁ？ ふざけたこと言うんじゃねえよ。こいつはただの居候だろ？」
尭村は軽く揶揄するような気持ちで言った言葉だったが、それは環の大事なものを踏みにじる言葉だった。
「あ…あんたなんかに………あんたなんかに何が分かんのよっ！ これ以上純に構わないでッ」
環は今日２度目の、怒りの涙を浮かべた。
誰もいない、がらんとした部屋で、尭村は環に投げつけられた言葉を反芻していた。
―――あんたなんかに何が分かんのよっ
―――お前なんかに何が分かるんだぁっ
手首の傷を詰った京極に直が叩きつけたのと同じ叫び。そうだ、俺は純のことなど何も分かっちゃいない。俺はあいつにとって京極と変わりない存在……
「……笑える」
尭村は肩を震わせて笑った。そして、
―――もう関係ねえ。俺はあいつとはもう……
繰り返し繰り返し、自分にそう言い聞かせた。
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