２.
月曜の４限、お決まりの“課外授業”の時間を、純は不安とともに過ごした。
―――尭村さん、来てくれるかなぁ……
持ってきた本も開いたものの全然頭に入らず、諦めて閉じた。そしてひざを抱えたまま、ころん、と横になった。
「いたっ…」
指先にずきん、と疼く痛みを感じて、思わず顔をしかめた。自分の周りで一体何が起きているのだろう。さすがの純も、色々と不穏な空気を察して心細くなっていた。でも、
―――いけないいけない。僕はすぐ誰かに頼ろうとする
自分に言い聞かせたものの、尭村を待ち焦がれる気持ちを抑えることはできなかった。何もすることがなく、芝生の上でころころしながら尭村のことを考えていると、背後に人の気配を感じた。慌てて振り向くと、そこには会いたかった人の優雅なシルエットが。
「あきむらさんっ」
純はあたふたと立ち上がって、何かを考えるより先に抱きついた。尭村は少し驚いたように一瞬固まったが、すぐに腕を回してぎゅっと抱き返した。
「尭村さん……良かったぁ、来てくれた………」
「あのなあ、ここは俺の場所だぞ。来るに決まってんだろ」
呆れたように言いながらも、尭村は抱きしめる腕にさらに力を込めた。そして、
「純、淋しかったか？」
純は抱きついたままこくこくと頷いた。
「俺に会いたかったか？」
「あ、会いたかった……すごく……僕………」
純が顔を上げると、尭村の優しい視線にぶつかった。すると、喉の奥から熱い固まりがこみ上げてきて、思わず嗚咽を漏らした。
「んんっ……っく……」
「純、俺も会いたかった。週末に呼ぼうかと思ったんだが、どうせまた親父に取られると思うと悔しくてな。だから我慢したんだ」
「尭村さん……」
もうだめだ、泣いてしまうと思った瞬間、荒々しく唇を塞がれた。純も、想いを伝えようと積極的に舌を挿し入れて尭村に応えた。交わった舌の感触と、くちゅくちゅと唾液が絡み合う音に煽られて、背中に回した手に力を入れる。すると、激しい痛みが指先を襲った。
「あっ、……っつ」
思わず手を離すと、尭村がすかさず訊いてきた。
「純、手をどうしたんだ？ 見せてみろ」
「あ、何でもないんです。大丈夫」
「いいから見せろっ」
腕を掴んでぐいと引き寄せる。行動自体は乱暴だが、微かに眉根を寄せた表情は心配そうだ。
「お前、これどうしたんだ」
白いテープが巻かれた指先をじっと睨んで、尭村は問い詰めた。
「いえ、カッター使ってたら手が滑ってしまって。それでぐさっと」
不器用でしょ？ と言って恥ずかしそうに笑ったが、もちろん尭村が信じるわけもない。どう手が滑ったら、利き手の指を４本も同時にカッターで傷つけることができるのか。その方がよっぽど器用だ。
しかし尭村はそれ以上詮索はせず、気をつけろよ、とだけ言い置いて傷ついた指にそっと唇を当てた。
放課後、担任への週番報告を済ませ教室に戻ってきた秀に、クラスメート二人が蒼ざめた顔で近づいてきた。
「お、おい、沖。先輩が話があるって……」
「ど、どうしよう…お前、行くのか？」
何をそんなに怯えてるのかと廊下を見れば、尭村が立っていた。秀は思わず苦笑を漏らす。内部生はもちろん、最近は外部生にも尭村のプロフィールが浸透してきたらしく、ただの男前、女たらしではないということが認識されているようだ。
「ああ。それじゃな」
あっさりと頷いて教室を出る秀を、二人はほとんど畏敬の眼差しで見送った。
「純の手の怪我、あれはどういうことだ？」
まるでお前の過失だと言わんばかりに、尭村は秀に詰め寄った。
「あれですか。靴箱の扉、指を掛ける取っ手の所に剃刀が仕込んであったんです。犯人が誰かなんて訊かないでくださいよ。あなたのファンか日向会長のファンかどちらかでしょうが、そんなこと分かったところで何の解決にもならない」
黙り込んでしまった尭村に、秀はさらに畳み掛ける。
「解決法はただひとつ。それをできる人もただ一人。その人にやる気がないのですから、俺にはどうすることもできない。取り返しのつかないことが起こらないよう、祈るばかりですね」
「お前、俺を脅迫する気か」
歩きながら話していた二人だったが、秀はぴたりと足を止めて尭村の顔を凝視した。
「尭村さん、純は自分のことを繋ぎだと思っていますよ。あなたが次の彼女を作るまでのね。だから公言せず、こそこそと裏庭で会うのだろうと。でも、それでもいいって」
相当ショックを受けたらしい尭村のうろたえぶりを目の当たりにして、秀はほんの少し口調を和らげた。
「尭村さん、あいつはそういう奴なんですよ。とことん自分に自信がなくて、差し出された好意にも、怯えながら、顔色を窺いながらおそるおそる手を伸ばすような。あなたが今まで付き合ってきた女とは全く違うんです。それを分かってください」
「沖秀、俺は――」
「あなたが真剣でないとは思いません。ただ、何かがすれ違っているような気がします。それを修正するには根気が要るだろうけど、できなくはない。だから俺も直も、黙ってあなたたちを見ているのです。それに何より、昼休みあなたと会ってきた後の純はとても幸せそうだから」
秀の瞳が一瞬苦しげに揺れる。しかしすぐにいつもの無機質な顔に戻り、秀は足早にその場を去っていった。
一人残された尭村は、ちょうど今日、薫に言われたことを思い出した。
『なあ尭村、最近さあ、純うちのクラスに来なくなったなぁ。なんかさびしー。来ても入口んとこで控え目に微笑ってるだけなのに、空気がぱあっと華やぐんだよなぁ』
確かにそうだった。きっと純は、二人の仲がばれないように気を遣って遠慮しているのだろう。
そりゃ自分だって、秋原純は俺のものだ、誰も手を出すなと言い触らしたい。人前だろうが何だろうが、抱きしめて口づけたい。でも純の中にはまだ、昔の恋人、雅人が住んでいるのだ。
初めて会ったあの時、自分に「まさと」と呼びかけて甘えようとしてきた表情が忘れられない。あれ以来、あんな表情を自分に向けてくれたことはない。
しかし代わりでいいと言った手前、純を責めることも、俺だけを見ていろと諭すこともできず、どくどくと脈打つ赤黒い想いを胸の奥に押し込めて、冷静を装うことしかできなかった。
「あっ、純だっ！ やっほー」
声を掛けられて振り向く間もなく、後ろからわしっと抱きつかれた。その途端、柑橘系の爽やかな芳香がふわりと漂う。
「薫先輩だっ」
純も嬉しそうな声を上げてにっこり笑う。
「うわー、純のえがおっ。久しぶりに見たような気がするー。最近来てくんないからさ、淋しかったんだよ〜。なんでなんで？ あっ、尭村に何か言われたとかっ。あいつ〜」
「わわ、違います。ただ、あんまり訪ねていったら迷惑じゃないかなぁって思って」
「そんなことあるわけないじゃん。あいつ無愛想だけど、純が来たらめっちゃ喜んでるんだって」
そうかなあ…と首を傾げる純に、薫は無駄に力を込めて宣言した。
「そうだよ！ 絶対そうだって。純はさ、もっとどーんと構えてていいと思うよ。少し高飛車なくらいにね。……と言ってもまあ、難しいか。それに、これが純なんだもんね。無理して変わることはないかな。っていうより、尭村が変わればいいんだよ。うん」
そーだそーだと勝手に納得している薫は、先輩だというのにひどく可愛く見えた。さすがは“姫”だなあと、純はひとごとのように頷く。
「うわー、ベストショットじゃん。二人でどこ行くの？ お供しましょうか」
男が二人、にやにや笑いながら近づいてきた。薫はきっと睨みつけて、
「うるせーな。いらねーよ。純、行こう」
「ちょっと待ってよ。まだそちらのお姫様の返事聞いてないんだけど」
そう言うと、純の肩に手を伸ばした。
「お前らふざけんなよっ。純に触んな！」
「こっちのお姫様はイキがいいねえ。これはこれでいいかもな」
「ああっ、薫さん！ だめ、やめてくださいっ」
薫を壁に押し付けようとした男に、純は縋りついた。途端に男は相好を崩して純を抱こうとしたが、背後から腕をねじ上げられて、かすれた悲鳴を上げた。
「おっそいぞ、圭祐！」
「あのなあ……」
微かに頬を膨らませて文句を垂れる薫を、片瀬は呆れたと言わんばかりに半目で睨んだ。そして、
「おい、お前ら。俺が尭村じゃなくてよかったな。俺は加減することを知ってるから。命が惜しかったらこいつには手ぇ出さない方がいいぞ。もちろん薫にもな」
もう一度腕を締め上げると、「行け」と鋭く吐き捨てた。
「片瀬さん、ありがとうございました」
「いや」
片瀬は薫を指して、
「こいつが悪いんだから気にするな」
「なあんでだよっ」
「こんな所に二人でいたら、襲ってくださいと言ってるようなものだ。先輩のお前がしっかりしなくてどうする」
「大丈夫だよっ。俺だって、純の一人や二人、ちゃぁんと守れるって」
頬を紅潮させて必死に訴える薫は、頭をよしよしと撫でたくなるほど可愛い。しかし片瀬は厳しい表情を崩さず、
「そういう中途半端な自信が一番危険なんだ。もし秋原に何かあったら、お前はどう責任を取るつもりなんだ」
薫は「う……」と詰まって黙り込んでしまった。純は慌てて、
「あのっ、僕のことは気にしないでください。自分のことは自分で守ります、ってあまり説得力ないかもしれませんが」
ちらと浮かべた笑みに片瀬は何を感じたのか、神妙な声で訊ねた。
「尭村はどうした。うまくいってねえのか？」
「いえ、僕たちはそういう関係ではないので……」
思わず顔を見合わせる片瀬と薫。先に口を開いたのは薫だった。
「あのさあ、何か事情があるのかもしれないけど、バレバレだよ。二人が付き合ってるの」
だよね、と片瀬に同意を求めると、さらに続けて
「俺さ、中等部ん時から尭村と一緒だけど、この一カ月の間でこれまで見たこともないようなあいつの表情、何度も目撃してるんだぜ。ああ、こいつ本気で好きな奴ができたらこんな顔するんだ、ってちょっとほろりとしちゃったり」
片瀬は黙っていた。こういうのは薫の方が適役だと分かっているのだ。
「だからさ、あいつって我がままで俺サマな奴だけど、頼むよ純、あいつを捨てないでやって」
「捨てる？ 僕が、尭村さんを……」
思ってもみなかった言葉に、純は狼狽した。
「そうだよ。どんなことされても、信じてあげて欲しいんだ。たぶんあいつも、どうしていいか分からないっていうのがあると思う。何てったって、初めての恋なんだからね」
「お前、よくそういう恥ずかしい台詞が吐けるな」
「うるさいよっ、圭祐はっ」
ぼすっと腹に一発入れると、片瀬はうっとうめいて大袈裟に身体を折った。
「純、もう圭祐なんてほっといて、行こ行こ」
さりげなく肩を抱いてくれる薫の優しさと、後ろからそっとついて来る片瀬の配慮に、純は心から感謝した。
しかし深い愛情に裏打ちされた二人の関係を見せ付けられて、余計に今の自分の立場が惨めに思えてきたのもまた、事実だった。
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