１１.
「成仁、アトリエに来てくれ。絵が完成した」
わざわざ部屋まで呼びに来たということは、よほどの大作ができたということなのだろうか。ごくたまにだが、貴仁は完成した作品を息子に見せることがあった。
尭村は、「面白れー構図だな」とか「あの影の描き方けっこう好きだな」などと、単純でありきたりな感想しか言わなかったが、そもそも、絵を見た時に湧き上がる感情を言葉で忠実に再現することなど不可能だという暗黙の了解が親子の間にあったので、それで十分だったし、貴仁も満足していたのだ。
「言葉で表せるんなら、わざわざ絵にする必要はねえんだよ」というのが、貴仁の考え方だった。
「で、何の絵ができたんだよ。そんなに入れ込んでるやつあったか？」
アトリエへ向かいながら訊ねる息子に、貴仁は複雑な表情で答えた。
「何のって、純の絵に決まってるだろうが」
尭村は一瞬固まった。しかし、
「あ、ああ。そうか」
ここまで来て、やっぱり見ない、などと言うわけにもいかない。二人の間がこじれていることは、貴仁も分かっているはずだ。それでも何も詮索せず平然と対応しているのだから、尭村も同様に応じるしかない。
―――絵を見るだけだ。それで適当な感想言ってやればいいんだろ
どうってことはない、尭村はそう自分に言い聞かせてアトリエに入った。そして絵の前へ。
「ほら、これだ。どうだ？」
貴仁は素っ気ないほど淡々と、感想を求めてきた。しかし絵を見た尭村は、ぞわり、と背筋が凍る感覚に襲われた。
「なっ、なんだよこれは……」
それほど大きな作品ではない。紙に、おそらく墨とグワッシュと水彩、そしてチョークを少し使っているようだ。
灰色の虚空に、黒くてか細い、今にも崩れそうな螺旋階段が屹立している。そのちょうど中央くらいの位置に、たった一人、身体を小さく丸めて座る人影が。突風に煽られまいと、自分の身体をぎゅっと抱いて必死に耐えている。
尭村は、我を忘れて貴仁に喰ってかかった。
「何だよこの絵は！ こんなのあいつじゃねえ！ てめえの画風に、あいつの個性を押し込めてるだけじゃねえかっ」
こんな、こんな純は見たくない。いつも綺麗で、笑顔を絶やさなくて、周りから愛されて、身体の内側から光を放っているような―――
尭村は荒い呼吸を抑えようともせず、ぎりぎりと貴仁を睨みつけた。今までなら、「生意気言うんじゃねえ」と一喝されて、喧嘩して、それでおしまいになるはずだった。しかし貴仁は僅かに眉をたわめて、
「……そうか。お前なら解かってくれると思ったんだが。残念だ」
淋しそうに微笑って、絵を仕舞い始めた。尭村はただ呆然と、父親の動きを目で追っていたが、
「親父……それが、本当の純なのか？」
「阿呆か。“本当の純”なんてものは存在しねえんだよ。これは俺の勝手な解釈に過ぎない。ただ、お前は俺と同じものを見てるんじゃないかって、そう思っただけだ。いや、悪かったな。自分の考えを押し付けちまって。……忘れてくれ」
貴仁は頭を下げた。そして、
「この絵は誰に見せるつもりもねえし、もちろん売る気もない。そうだな……いつか、純はもうこんな淋しい人間じゃないって俺が思えるようになったら、その時にはこれを純に見せて、一緒に笑い飛ばすとしよう。成仁、お前も一緒にな」
深く包み込むような声でそう言い置くと、貴仁はアトリエを出ていった。
“その時”、純の傍にいる資格が自分にあるとは思えない――尭村は刺し込むような胸の痛みを堪えながら、必死に自嘲をこしらえた。
純は幾分青さを増した芝生の上にそっと寝転がって、目を閉じた。旧図書館の裏、すでに思い出の場所となってしまったが、純は尭村が絶対に来ない時間帯を見計らって訪れては、うとうとと微睡んだ。
たまにみる夢はどれも幸せなものばかりで、目を覚ました時とのギャップに胸が痛むこともあったが、爽やかな風と柔らかな陽光のお陰で、何とかこらえることができた。
今日はどんな夢を見るだろうか。期待半分、不安半分のまま、純は微睡みの世界へ引き込まれていった―――
あの絵が頭から離れない。京極のことも気になる。かといって、自分にはどうすることもできない。尭村は苛立ちと不機嫌に疲れ始めていた。
「尭村、お前どこ行くんだあ？」
「気分わりい。ちょっと休んでくる」
尭村は上着だけを持って、教室を出た。
いつもの場所に着いた尭村は、思わず目を疑った。芝生の上で、あどけない寝顔を晒している純。初めて会った時のことを思い出さずにはいられない。甘くとろけそうな既視感。
尭村の困惑をよそに、純は幸せそうな笑顔すら浮かべてすやすやと眠っている。あの時もそうだった。そして目を覚ました純は、甘えるように、抱擁をねだるように手を差し伸べてこう言ったのだ。「まさと……」と。
尭村はゆっくり近づいた。
「うぅん……」
人の気配を察知したのか、純がぐずり始めた。そしてまぶたをゆっくりと開ける。まだ夢とうつつの境にいる純はゆらゆらと視線をさまよわせたが、目の前に立つ長身を見つけると、うっとりと微笑んで手を伸ばし、
「あきむらさぁん……」
「純……」
愛しさの余り、思わず駆け寄って抱こうとした。その時、
「なるひと、みーつけたっ」
純が見たことのない女性、この前一緒に歩いていたのとは別の女性が、背後から飛び出して尭村に抱きついてきた。
純は一気に目を覚まして、飛び起きた。
「あっ、僕……えと………」
尭村に抱きついた女は、そのままの姿勢で純を見下ろすと、
「あら、あなた、なんでここにいるの？」
純は見るに忍びないほどうろたえて、
「ご、ごめんなさい。この時間なら尭村さん来ないと思って。邪魔をするつもりは……」
「十分邪魔なんだけど」
純は素早く立ち上がり、黙って頭を下げると走り去った。あっという間に小さくなっていった純の後ろ姿を呆然と見送った尭村は、漸く我に返った。
「お前……何でここにいるんだよ」
女は、低い声で凄む尭村に妖艶な笑みを返して、
「何でって、一緒にサボろうと思っただけよ。それにしてもホントに綺麗な子ね。成仁が惑わされるのも無理ないわ。でもれっきとした男の子よ。成仁、あなた男に興味ないって言ってたわよね？ 忘れたの？」
「忘れた」
「はっ、都合のいい脳みそだこと。でも、あの子が京極君に可愛がられちゃったのは、まさか忘れてないわよね」
尭村は、力任せに女の肩を掴んで揺すぶった。
「貴様……それ以上言ったら―――」
「痛い！ 離してよっ。何よ、好きなら好きって、はっきりそう言えばいいじゃない。らしくないわよっ。成仁、これ以上あたしを、あたし達を振り回すのはやめて！」
尭村は肩を離し、冷静に訊き返した。
「振り回す？」
「そうよ、あんたがそんなだから、こっちだってまだ望みはあるかもって期待しちゃうんじゃない。いい男はみんな男のコとくっついちゃうんだもん！ あたし達だって必死なんだからっ！」
妖艶な笑みを崩して叫ぶ女を、尭村は笑うことができなかった。
―――ここは二人だけの場所だからな
笑いながらそう言ってくれたのは、いつのことだったか。思い出そうとする気力も起こらない。
純は、すっかり暗くなった帰途、急ぐ様子もなくとぼとぼと歩いていた。こんな時間まで何をしていたのかと問われても、別に……と答えるしかない。図書館で、ぼーっとしていたのだ。
―――あんまり遅くなったら、環お姉ちゃんが心配するな
少し急ごうと歩調を速めた時だった、曲がり角から自転車が飛び出してきて、純は軽く跳ね飛ばされた。
「すっ、すみません。君っ、大丈夫か？」
男はあたふたと自転車から降りると、純の傍に駆け寄ってきた。歳はまだ若い。大学生くらいだろうか。
「大丈夫です。ちょっと手を擦りむいたくらいで……っつ」
立ち上がろうとすると、足首に鈍い痛みが生じた。思わず手でさする。
「そこが痛むのかい？ ちょっと待って……ああ、少し熱を持ってるね。ひねったかも知れないな。君、家はここから遠いのかな？」
「歩いて……１５分はかかります」
「そうか、それは辛いな。この近くに北山病院っていうのがあって、僕はそこの当直医なんだけど、どうかな、手当てさせてくれないかな？ 家までは車を呼んであげるから」
純はちょっと考えた。確かに、この足で歩いて帰るのは辛そうだ。北山病院なら名前も知っているし、近いから寄って帰ってもそう遅くはならないだろう。
「では……お願いできますか？」
「もちろん。さあ、掴まって」
男は純を抱き上げると、自転車の後部席に座らせた。その時、街灯が照らした純の顔を見た男は、目を見開いたまま固まった。
「きみ……綺麗だね………いや、暗くて気付かなかったよ」
男は暫しうっとりと純を眺めた。急に居心地が悪くなった純は、座席の上でもぞもぞと身体を動かした。
夜の病院というのは、こんなにも静かなものなのか。時々、遠くでひたひたと足音が鳴るだけで、人の話し声も聞こえない。空調のぶーんというモーター音だけが、やけに耳につく。
純は男の腕に掴まりながら、ゆっくりと長い廊下を歩いていた。急に無口になった男の横顔をちらと見る。どこかで見たことがあるような気がするのは、薄闇のいたずらだろうか。
「この部屋だよ」
案内された部屋には、仮眠用のベッドや小さな台所まであった。
「湿布薬とか持ってくるから、ちょっと待っててね。そうだ、今のうちに自宅に電話しておくといい。ご家族が心配されるといけないから」
「分かりました」
純は素直に頷いて、携帯を取り出した。それを確認すると、男は部屋を出て薬を取りに行こうとした。が、
「おっと、忘れるところだった」
部屋の扉に、名前が書かれたプレートを差し込んだ。
―――本日の宿直医「京極直樹」
そして浮かれた足取りで再び薬を取りに行った。
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