１０.
「あきむら、あきむらっ、待てよっ」
立ち止まって振り返ると、薫が息を切らして駆け寄ってきた。
「はあっ、お前歩くの早いんだもん……」
「何だよ」
最近の尭村は最高に機嫌が悪い。今も、整った鼻梁に微かなしわを寄せて、猛獣が威嚇するように訊き返してきた。相手が薫でなかったら、「何でもありません、失礼しましたぁ〜」とへこへこ頭を下げて逃げ出すに違いない。
しかし薫は臆することなく、尭村の顔を正面から見据えて核心を衝く問いを発した。
「お前、純をふ、振ったってホントなのかっ？」
対して尭村も平然と、薫の目を見て答える。
「振ったも何もねえよ。別に付き合ってたわけじゃねえし」
「う、嘘だろ？ お前、本気でそんなこと言ってるんじゃないよな。何か訳があって……」
「あのなあ、俺が男を相手にするわけねえだろ。しかもあんな、簡単に他の男にヤられちまっ―――」
言い終わらぬうちに、薫の手が尭村の頬を張った。「ぶゎしっ」と鈍い音がしたから、相当の勢いと力がこもっていたのだろう。
薫の掌も真っ赤に腫れていたが、怒りの余り感覚が麻痺してしまったのか、痛みも何も感じない。
「あきむら……最低だ。お前とはもう絶交だっ、口もききたくねえ！」
尭村はフン、と鼻で笑い、
「絶交するほど、お前と仲が良かったか？」
「うるせえ！ お前なんか、女に刺されて死んじまえ！」
威勢のいい罵倒とは裏腹に、薫は涙を浮かべて叫ぶと逃げるように走り去っていった。
「ったくどいつもこいつも……」
尭村は地を這う低音で呟くと、ぎり、と唇を噛んだ。早く純のことを忘れたいのに、忘れなくてはならないのに、周りがそれを許してくれない。
もちろん周囲のせいばかりではない。尭村はほとんど毎日純の夢をみる。そっと微笑みかけてきたり、静かに涙を流していたり、キスをねだるように目を閉じていたり。どの純も言葉は発しなかったが、言葉以上に雄弁に語りかけていた。
夢の中で尭村は、我慢できた時もあったが、思わず引き寄せて抱きしめ、その身体を荒々しく蹂躙したこともたびたびあった。そんな夢をみた朝は決まって、自己嫌悪と喪失感と、吐き出し切れなかった欲望の残滓に悩まされるのだが。
「あっ」
尭村は思わず声をあげた。遠くに見えるのは紛れもなく、忘れられない愛しい人。その隣を行くのは、見たこともない男。
“関係ねえ”と呪文のように繰り返しながら、その後を追ってしまう自分をどうすることもできなかった。
「あなたを呼び出したのは、はっきりお伝えするためです。僕は誰ともお付き合いするつもりはないので、もうこういうお手紙は書かないで下さい、と」
純ははっきりそう告げると、目の前の男に強い視線を送った。しかし男はそれ以上に熱い眼差しで純を見つめ、
「俺は誓うよ。君のことを大事にするし、絶対に泣かせたりしない。愛してるんだ、秋原……。尭村に裏切られたんだろ？ でも俺は違う。俺はあいつみたいないい加減なことはしない。俺は―――」
「あ、尭村さんのこと悪く言わないでください！」
「秋原……お前そんなにあいつのことを……」
「違います、そんなんじゃありません。ただ僕は―――」
男の顔つきが変わった。本性を現したということか。
「何だよお前、男にマワされて、ビデオまで撮られたくせに、誰ともお付き合いしません、なんて清楚ぶっちゃってよ。どうせ尭村ともヤリまくったんだろ？ それで飽きられたってわけか。だから俺が慰めてやるっつってんだよ」
男は純の肩を壁に押し付け、腰をぐいぐいとこすり付ける。
「やめてくださいっ……」
男は薄笑いを浮かべて、
「なあ、俺も楽しませてくれよ。お前に本気なのは嘘じゃないんだ。あの事件を聞いた時、頭の中が真っ白になったよ。俺の純が、あんな奴らに……」
脂ぎった顔を近づけて唇を奪おうとする男を、純は必死で押しのけた。
「いやあっ」
「純っ！」
陰で怒りを抑えながら二人の会話を聞いていた尭村が飛び出すより一瞬早く、秀が現れた。そして、あっという間に男をねじ伏せると、夜叉の形相で男の耳に何かを吹き込んだ。途端に男はわなわなと震え出し、何かを呟くとあたふたと去っていった。
秀は、言葉をかけるのももどかしく、純を引き寄せてふわりと抱いた。
「しゅう……うっ、うぅ………」
「大丈夫だ、純………」
「秀……僕もうやだ……尭村さんに振られてからこんなことばっかり……。本当に、あの人に守られてたんだね。なのに、冷たいとかつれないとか淋しいとか、ぼく、勝手なことばかり言って……。今頃になって気付くなんて………こんなんじゃ、嫌われて当然……っうぅ……」
秀は、自分の胸の中で泣きじゃくる純の頭を、ずっと、ずっと撫で続けた。すぐ近くに、純を振った張本人が行き場のない感情を抱えて立ち尽くしているのも気付かずに。
試験も終わって、のんびりとした明るい初夏の空気が教室内に漂っている……はずだった。
しかし２−Ａの教室はたった一人の男のせいで、冷たく乾いた風がからからと吹きすさぶ、真冬の曇天を思わせる重い雰囲気に沈んでいた。
そして今日も、女のヒステリックな金切り声で２−Ａの一日は始まった。
「なるひとっ、酷いじゃない、またすっぽかして！ これで３度目よっ」
新学期になって何人目になるか分からないが、ともかく“彼女”らしき豊満な美女がずかずかと教室に乗り込んで、読書中だった尭村を上から睨みつけた。しかし尭村は一瞬本から目を逸らしただけで、
「うるせえ。邪魔だ。気が散る」
「なっ、なによ、謝罪の言葉とかないわけ？」
この程度のことで尭村が謝罪などするはずもないことを、“彼女”という地位が絶対のものだと思い込んでいる女には分からない。尭村は本をバタン、と閉じると、それを思い切り机に叩きつけた。
「ひっ」
これまで威勢のよかった女は、さすがに怯えた表情で後ずさる。尭村はすかさず立ち上がり、女の自慢の髪を掴み上げて、
「ぎゃあぎゃあうるせえんだよ。二度と俺の前に現れるな。さっさと他の男探せ。ガードル外したぶよぶよの身体に喜んで喰いつく男をな」
そう吐き捨てると、女を突き飛ばしてそのまま教室を出て行った。
「……あいつ、ひでえな」
「ああ、ひどい。っつーか、完全に昔に戻っちまった」
森下と片瀬が話している傍で、薫はそっぽを向いて本を読んでいる。尭村の話題になど、加わりたくもないのだろう。
「そうか、昔に戻ったんだな。最近、比較的まともだったから忘れかけてたぜ」
片瀬は、中等部の頃の、尭村に関する数々の“伝説”を思い出した。
教育実習に来た女子大生が尭村にめろめろになり、しつこく言い寄って付き合うことになった。しかし彼女が学園を去る時になると、当然のように別れを告げられ、逆上した挙げ句屋上から飛び降りてやるっと脅して実際に屋上にのぼったが、その下を尭村は、他の女の肩を抱いて平然と通り過ぎた、とか。
また、蒼星高校の二年生８人に「生意気だ」などと言われて待ち伏せされ、ボコボコにされた時も、その復讐として８人全員の彼女を奪って本気にさせ、散々弄んだ挙句、最後に事実を明かしてあっさり捨てた。
しかも、それをたった一カ月でやったというのだから。
片瀬は、久々に思い出して頭痛がしてきた。眉根を寄せてこめかみを押すと、隣で森下がうんうんと頷いた。片瀬が何を思い出していたか、訊かなくても分かる。
「……でもな、駄目なんだよ、昔に戻ったら。あいつはきっと………」
森下がぽつり、と漏らした。片瀬はそれ以上詮索しようとはしなかった。森下の呟きには深い友情がこもっており、それは自分が共有できないものだと知っていたから。
「おい、たまには一緒に帰ろうぜ」
微笑いながら声をかけてきた友人を、尭村は胡散臭そうに眺めた。そして嘲るように鋭く息を吐くと、
「ったく、お前まで説教する気かよ」
「なんだ？ お前説教されるようなことやらかしたわけ？」
森下は堂々と白を切ると、尭村に並んで歩き出そうとした。しかし、
「森下、言いたいことがあるなら今ここで言え。ずっと付いてこられて、傍でうだうだ言われちゃあ、うざくてやってらんねえ」
お前の言いたいことは分かってる、との皮肉を込めて、尭村は言い放った。森下は、そんな尭村の顔をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……お前さ、今自分がどんな顔してるか知ってるか？」
意外な問いかけに、尭村は完全に虚を衝かれた。てっきり、純とはどうなったんだ、と詰問されると思っていたのに。
「なっ、なんだよ……」
うろたえる尭村に、森下ははーっと溜め息をついて自ら答える。
「やっぱり分かってねえか。お前さ、今にも泣き出しそうな顔してるぜ」
尭村は、何を馬鹿なことを、と笑い飛ばそうとしたが、できなかった。
「お前は気持ち悪いとかうざいとか言うかもしれないけどな、俺はお前のことが好きだし、大事な友人だと思ってる。だからさ……何て言うか、見てらんねえんだよ、お前のその辛そうな顔」
「俺は……別に辛くなんかねえ」
尭村はようやく反論した。しかしその声は掠れ、彼の普段からは想像もつかないほど弱々しかった。森下はますます顔を歪め、真摯な声で語りかける。
「なあナル、」
その懐かしい呼び名に、尭村は思わずはっと顔を上げた。小学生の頃まで、森下にはこう呼ばれていたのだ。その後「名前で呼ぶな」と厳しく禁じたせいで、他の友人と同様に「尭村」と呼ぶようになった。
しかし久しぶりに耳にする昔の呼び名は、とても温かく、硬直しきっていた尭村の心を僅かだが融かした。
「お前さあ、人生に一度ぐらいはみっともねえ真似してみてもいいんじゃねーの？ 俺を捨てないでくれっ、てさ。そうする価値は十分にあると思うぜ」
「……うるせぇ、余計な口出しすんじゃねえよ」
いつもの尭村の言葉だが、いつもの勢いはない。しかし森下はしつこく食い下がることはせず、
「ああ、そうだな。余計なこと言っちまった。悪い。忘れてくれ」
申し訳なさそうに笑うと、「じゃあ帰るわ」と言って軽く手を挙げ、去ろうとした。が、すぐに振り向いて恐ろしく真剣な顔つきで、
「今言ったことは忘れていい。だがこれから言うことは大事なことだ。尭村、京極の野郎が二日前に退院したらしいが、それ以来行方が分からないそうだ。あいつは執念深い奴だ。お前への復讐を企んでいるかもしれねえ。だからといってお前に直接ぶつかっていくとは思えない。お前を痛めつけるにはどうするのが最も効果的か……」
森下はそう告げると、今度は挨拶もせずにそのまま立ち去った。
残された尭村は、京極の能面のような顔を、精気の抜け落ちた双眸を思い出し、背筋に冷たい戦慄を覚えた。
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